今回は、島根旅で感じた「火山」についての話。
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RPGやアドベンチャーゲームには、『フラグ』という要素がある。
フラグは直訳すると『旗』という意味で、電気が無かった時代、手旗信号で車や飛行機の進路を誘導したことが由来らしい。
現代でも、信号機が故障したり停電したときなどには警察官が手信号で誘導しているのを見る事がある。
そこから転じてゲームでのフラグは、作中展開の「分岐」を管理する要素のことを言う。
たとえば「ある町で『Aという場所に伝説の剣がある』という話を聞くことで『フラグ』が立ち、これまで行けなかったAに行けるようになる」――というような。
風雨来記4でも、特定の場所を訪れ、その記事を書くことでフラグが立って、新しいスポットへの取材が可能になったりした。
例:天生湿原の記事を書く → 池ヶ原湿原が探訪場所に追加される
で、これは自分の持論だけど、現実で旅をするときにも、この「フラグ」のようなものがあるんじゃないかと以前から思っていた。
ゲームのフラグはコンピューターが管理するもの。
現実の場合のそれは、旅をするその人の心の中で生じるものだと思う。
少しずつ興味を覚えてだんだん好きが増していく、というのとはまた違う心の動き。
それまで興味がなかった、意識することもなく目に入ってさえいなかった何かが、ある時、ある瞬間を境に自分にとって特別なものに『切り替わる』。
徐々にではなく、劇的にだ。
まるでゲームのフラグが立つように。
そしてそれは時に、現在や未来だけじゃなく、過去の意味さえ変えてしまう。
先日の島根旅でもそんな「フラグ」を体験したので、今回の記事ではこれについて少し書いてみようと思う。
隠岐諸島
きっかけは、島根旅のはじめに、「隠岐諸島」に行ったこと。
もし訪れていなかったら、あるいは訪れる順序が違ったなら、自分の今回の島根旅の全体像は全く別のものになっていたかもしれない。
隠岐諸島は、島根県の北に浮かぶ、フェリーで3時間ほどの島々だ。
実は出発数日前まで、隠岐諸島に渡る予定は全くなかった。
興味以前に「よく知らなかった」というのが正確なところで、「島根の離島」ということと、あとは京都の歴史の話調べてるとよく島流しで名前が出てくる島だよなぁ、というくらい。
たまたま直前になってネットで隠岐を巡るツーリング記事を見て、「行ってみたい!」と言う衝動が湧き上がった――いわば気まぐれがきっかけだった。
とはいえ、旅の二日目早朝、隠岐へ渡る七類港に到着し、フェリーを目の前にしたその時でも実はまだ渡航を迷っていた。
理由はふたつ。
ひとつは費用の問題。
人間だけなら一番安い客室で約3500円。
それに加えてバイク持ち込みで約4000円。
あわせて片道約7500円。
島をすべて回るとプラス5000円。
トータルで合計2万円くらいの船旅になる計算だ。
離島に渡るために決して高いとは思わないけど、ちょっと寄っていこうといった軽い気持ちで渡航するには安い金額でもない。
そしてもうひとつ、より重要だったのが「日程」だ。
隠岐へバイクごと渡る場合、フェリーで片道3時間程度かかる。
前後の準備や待ち時間なども考えると4時間ほどを見ておかなければならない。
つまり、本土と隠岐を往復するだけで8時間。
そして隠岐諸島は、島前(三つの大島が隣接している)、島後(一番大きい島)の、計4つの大島にわかれていて、それぞれの島がかなり大きく、広い。
せっかく隠岐にバイクを持ち込んで渡るならば、すべての島を巡ってみたいものだが、ひとつの島につき丸一日かけると考えれば、最低でも4日間以上かかる計算になる。
このとき、日本列島の南の方から台風が近づいていて、旅程後半の天気予報には雨マークが並んでいた。
隠岐にはもちろん行ってみたいけれど、島根には他にも行きたい場所が巡りきれないほどたくさんある。
最悪どっちも中途半端になるくらいなら、隠岐巡りはまた来年ということにして、今年は当初の予定通り本土を重点的に巡った方が満足いく旅になるんじゃないかとも思った。
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――――フェリーを前にして小一時間行ったり来たり近くの神社を参拝したりしながら色々考えた結果。
「一日だけ隠岐を巡ろう」と決めて、乗船手続きを行った。
朝に本土を発ち昼に隠岐へ着いて島を満喫する――翌朝には隠岐を発って昼に本土に戻り、旅を続行――というちょっとした強行軍だ。
「隠岐へ行っておけばよかった」という後悔よりも、「行けて良かった、けど一日じゃやっぱり足りなかった、もっと居たかった」という後悔の方がずっと前向きで、「また行こう」――次につながるんじゃないかと思えた。
だから今回は一日だけという縛りを設けて、その期間を全力で楽しんでみよう。
それが、一番自分の中で納得できる気がしたのだ。
そんな風に悩みに悩んだ隠岐渡航だったが、訪れて本当に良かったと思っている。
隠岐は、島根の中でも特に京都と繋がりの深い場所だった。
歴史の深さ(都との繋がり)や自然の豊かさを知る、という「知識面」でも非常に興味深い土地だったし、島の絶景がまた心震わせる素晴らしいものだった。
そして、後述するように、この場所を訪れたことで自分の中に重要な「フラグ」が立った。
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今回訪れるのは特に行きたい場所が集中していた「島前」だけに絞った。
画像左下が島前、右上が島後。
島前は、三つの大きな島が「ところどころ欠けたりふくらんだ、いびつなドーナツ」のような弧を描いている。
ドーナツの内側は割と平坦な海岸だが、内側から外側へ向かう道(画像の黄色い部分)は、高低差百メートル以上をアップしたりダウンしたりの強烈な山道だ。
そして外側は断崖絶壁、切り立っている。
最初に訪れた西ノ島では、特にその様相が顕著だった。
見上げるような山と森があって緑も豊か。
体感的には、「島が海に浮かんでる」というより「海から山が生えてる」感じの、ワイルドな印象だった。
フェリーに乗る際、「費用節約のためにバイクを七類港に置いて自分だけ渡り、レンタサイクルで島内移動しようか」なんて考えたりもしていたのだが、バイクを持ち込んで大正解だったと鬼のようなアップダウンを走りながらつくづく思った。
島内の案内板によれば、屋久島よりも生息する動植物の種類の多い、非常に生態系豊かな島なのだそうだ。
「島根県の離島」と聞いてばくぜんと思い描いていた「静」のイメージとは真逆で、生命力溢れる「動」の印象が強い島だった。
山の裾野には田んぼもあるし、島のあちこちに広がる丘陵地では古代からたくさんの穀物や野菜が収穫できたそうだ。
港には猟師の船も多く停まっていた。
イカをモチーフにしたマンホールや「イカがめちゃくちゃたくさん獲れたこと」を神格化した神社があったり、イカはこの島の象徴らしかった。
鳥居の立つ浜辺では一晩で、たった2人で数万匹獲れたという記録もあるほどだ。
隠岐の島と聞くと「島流し」を連想する人は多いと思う。
自分もその一人だった。
特に京都の寺や神社、遺跡などを巡っていると「誰それが○○の戦いで敗れて隠岐へ流された」~的な話がよく出てくる。
たとえば今年の五月、京都と奈良の境にある笠置でキャンプしたのだが、このあたりでは隠岐の名前を頻繁に目にした。
元弘の乱。
今から700年ほど前、とある天皇がここの山に立てこもって鎌倉幕府と戦ったという。
この天皇が「後醍醐天皇」だ。
後醍醐天皇は45歳のとき、意見が対立する朝廷内勢力や幕府に反旗を翻して笠置山に立てこもって戦い、敗れ、隠岐へ流された。
だが、隠岐で暮らしながら再起を図り、翌年には島を脱出して、足利尊氏や新田義貞を味方につけ、鎌倉幕府を滅亡させている。
訪れてはじめて知ったことだが、島流しと一口に言っても色々あって、隠岐の場合は単なる罪人ではなく、『皇族や貴族、神官などの高貴な身分の人々のための流刑地』だったようだ。
歴史の中で、隠岐の名前がよく出てくるのはそのためなのだ。
特別な流刑地とされたのは、この島の「豊かさ」が理由らしい。
昔の人は、平将門や菅原道真の逸話のように、無念の内に死した者の『祟り』を非常に恐れていた。
身分の高い人ほど祟る力も強力だと考えられた。
だからこそ、島流しする方の心情としても、「祟られない程度」に島で満足して暮らして貰わなくてはいけない。
そんなわけで『食べるものが安定的にたくさん採れて豊か』かつ『本土から距離があって容易に脱出できない絶海の孤島』という条件を満たした隠岐が、貴人の遠流の地(都から最も遠い流刑地)として選ばれたのだそうだ。
島を使った「軟禁」というイメージが近いのかも知れない。
島の人の目線からすれば、後醍醐天皇や後鳥羽法皇をはじめとした政治的に敗れてしまった有名人・重要人物たちが文化をともなって引っ越してくる、という超特殊な環境とも言える。
国のトップが中央を追われてやってくる。
少し見方を変えれば、神話の中の、スサノオの英雄譚、オオクニヌシの国譲りなどにも似た構図だ。
高天原を追われて地上におり、出雲の地へやってきて英雄となったスサノオ。
中国地方から東海にかけて広がっていた巨大な国の王の座を大和勢力に譲って、出雲というひとつの国におさまったオオクニヌシ。
そのためだろうか、「絶海の流刑島」という言葉から連想されるような薄暗く閉鎖的なイメージは、隠岐には全然感じられなかった。
この島では、島流しをネガティブにはとらえていないというか……
「流されてくる高貴な人々によって都の文化がもたらされ続けた島」、「流刑から再び表舞台に舞い戻った、後醍醐天皇の再起を支えた島」と言うような、誇らしげでポジティブな雰囲気がそこかしこから漂っていた。
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「島の歴史」の話は、隠岐を巡る中で、遺跡や景勝地などあちこちに設置された案内板が教えてくれたものだ。
だが、それだけじゃない。
隠岐ではおなじくらい、いやそれ以上の熱量で、「自然」についての案内板も多かった。
それによって、自分はこの島々が「火山から出来た島」だということを知ったのだ。
本やネットで情報を読むのと違うのは、得た知識が、即その場で使えること。
すぐ目の前に展開している風景の意味を理解し、受け止め、価値を測り識れるために役立つことだ。
上の写真は、西ノ島の「鬼舞展望台」から南東を眺めた風景だ。
案内板によれば、自分がいま立っている場所は火山が崩壊した後の外輪山だと言う。
この先は断崖になり、唐突に丘陵がとだえている。
奥に見えているのは隣の知夫里島だ。
ドーナツ状になっている島前の三つの大島は、かつてひとつの火山だった。
度重なる火山活動で中央部が陥没崩壊し、外輪と火口の一部だけが島として残った……
つまり、ここは巨大なカルデラなのだ。
阿蘇のような陸地のカルデラ地形やカルデラ湖は知っていたけれど、海のカルデラも日本にあったのだと自分はこのときはじめて認識した。
(後で調べたら、鹿児島や沖縄は海のカルデラがけっこうあるらしい)
これこそが、つまり旅の二日目の隠岐で「火山」というワードについて意識したことこそが、今回の島根旅の方向性をひとつ決定したように思う。
記事の最初に書いた「フラグ」という言葉を使うならば、自分の心の中に「島根旅・火山ルート」へのフラグが立ったのだ。
とはいえ、それは後から振り返るからこそ実感できることで、この時の自分はまったく意識していなかった。
この時点ではただ単に「隠岐は火山活動でできた島」という「単独の知識」を得た、という認識だけ。
「フラグ」が回収されるのは、それから出雲・石見を巡っていく中で、さらにいくつかの偶然が重なった結果によるものだ。
出雲の横見埋没林
旅も後半の8日目。
台風はやや西にずれたとは島根もそれなりに強い風と雨に見舞われていた。
そんな中で一休みした公園。
なんとなくそばにある看板をみると「埋没林公園」とあった。
埋没林ってなんだろう。素朴な疑問を感じて看板の説明を読んでみる。
七万年ほど前の三瓶山という火山の噴火で、森林まるごと大量の火山灰の中に埋もれてしまった樹木群……なのだそうだ。
普通は土に埋もれた樹木は微生物などに分解されるが、ここでは様々な要因から化石化して形を残し続けたらしい。
このあたりでは昔から、地面を掘ると樹木(根っこではなく上の方の幹)が立ったまま出てきて不思議がられていたようだ。
埋没林公園ではその復元模型や、保存処理を施された現物が展示されていた。
三瓶山にはこの日、これから登るつもりで向かっている途中だった。
そのため、
「へ-、興味深い。今から登る山、火山だったんだ」
と。
この時点ではただそれだけの印象だった。
――とはいえ、後から振り返ってみるとここを訪れていなかったら、その後の展開は無かった。
ここもまた、重要な「フラグ」が立った地点だ。
三瓶山
三瓶山と書いて「さんべさん」と読む。
今回の旅で訪れる予定の場所として、三瓶山はかなり初期から決めていた。
それは、「風土記の舞台としての三瓶山」に興味があったからだ。
出雲国風土記には最初に、「国引き神話」というエピソードの記述がある。
国引きは古事記や日本書紀にはない、出雲独自の神話だ。
最初出雲の土地は今より少なかった。
それを不服に思った「ヤツカミズオミツヌノミコト」という神が、新羅や北陸などから「綱」で国(陸地)の一部を引っ張ってきて、「杭」を打ち込んで留めて出雲の土地を造成した……
そんな話だ。
このとき、綱で引っ張ってきた陸地をつなぎ止めた2本の「杭」が、鳥取の「大山(火神岳)」と島根の「三瓶山(佐比売山)」であるとされている。
山の大きさだけで言えば大山の方がずっと大きいのだが、出雲から見るとこのふたつの山は似たような形に見える。
このふたつの山は、自分にとってもこの旅のはじまりに見た「象徴的」なものとして、心に強く残っている。
旅の初日、山陰自動車道を走っていると、島根に入る少し手前で一面の、緑に覆われた丘のような壁のような、不思議な造形の山々が目の前に飛び込んできた。
そしてその向こうには圧倒的な存在感の大山の威容がそびえたち、そして視線を少しずらせば、薄霞の海のような平野のはるか向こうに、三角形の山……三瓶山がまるで島のようにぽっかり浮かんで見えたのだ。
それはとても幻想的で、目に焼き付いて忘れられない、神秘的な光景だった。
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そんな三瓶山への登山はかねてより楽しみにしていた。
山頂からは出雲国風土記の舞台をぐるりと見渡せるという話で……
なのだが、今回は残念ながら、雨天によって一切まったく何にもこれっぽっちも見えなかった。
これは仕方ない。
また機会をあらためて登ろうと決意した。
ところが、自分の中で「三瓶山」の存在感はこれから語る事情によって、下山したあとにより増していくことになった。
小豆原・縄文の森
三瓶山を後にし、次は出雲市内を目指そうか……なんて思いながら走っていると、道ばたに「小豆原埋没林」という案内板が見えてきた。
埋没林というと、今朝も見かけた火山灰に木が埋もれたやつか。
あっちと同じようなものなのかな、などと思いつつ……
埋没林……火山……
ここで、自分の中のアンテナに何かひっかかるものを感じて道ばたで停車し、なんとなくネットで検索してみた。
「三瓶小豆原埋没林公園」。
「さんべ縄文の森ミュージアム」とも呼ばれているらしい。
縄文?
何が縄文なんだろう。
縄文遺跡があるとか?
さらに調べてみると、どうもそうではないようだ。
ここの地面下には今から3900年前、つまり縄文時代の樹木が立ったまま化石化したものが、ほぼそのままの姿で残っているのだという。
文字通りの「縄文の森」が、地中に。
検索で出てきた写真を見ると、ライトが当てられた巨大な木がいくつも並んでいた。
なんだかすごそうだが、写真だけではいまひとつどういう展示かわからない。
検索で出てきたスポット評価は480件中4.4。
レビュー内容は、
「ここを見ると出雲大社に巨大な柱が使われたルーツを想像できる」
「どこまでも下に下りていくのが面白く一見の価値がある」
「4000年前の木の香りが建物内に立ちこめている」
「小さな施設だと思ったら地下に想像を超える巨大な展示が広がっていて本当にびっくりした」
「見た目のしょぼさと中身のすごさのギャップが圧巻」
といった、実に熱のこもったコメントが溢れていた。
……これは訪れて体験してみるしかない。
このミュージアム、自分にとっては「この旅の中で感動したスポットベスト3」に入る、素晴らしい施設だった。
「知識・興味を満たしてくれる知的面白さ」と「童心に還ってワクワクできるスケールの大きさ」両方を「体験」できる、非常に面白い場所。
施設の概要をまとめてしまうと実にシンプルなものだ。
まず、自分が先ほど登った三瓶山は、中国地方で2カ所しかない「活火山」のひとつなのだという。
その三瓶山が約4000年前に噴火した際、この小豆原地域にあった巨大な森林がまるごと火山灰に埋もれた。
さらに、地形等の条件が奇跡的に組み合わさって水が流れ込まない地形となり、浸食されないまま土の中で現代まで残り続けた。
さんべ縄文の森ミュージアムはこの「発掘巨木群に保存処理を施して展示している施設」なのだ。
ある時、田んぼの下から、木の「頭」が出てきたのだそうだ。
不思議に思ってそれを深く深く掘り下げてみると、十数メートル下まで木の幹は続いていた……。
後日その写真を見た火山研究を趣味とする地元の高校教師がこれはすごい発見なんじゃないかと直感し、定年退職後に独自に調査を始めて紆余曲折の末、島根県、そして国の関わる一大事業となっていったのだそうだ。
4000年前当時の「森」は、現在の島根の「森」とは様相がかなり違ったらしい。
樹齢数百年、神社のご神木クラスの巨木が、文字通り「林立」していたのだという。
巨木が林立すると、どうなるか。
巨木の枝葉が森の上部を、天井のように覆ってしまう。
すると、地表にはほとんど光が届かない暗い森となる。
そうなると小さな樹木は育ちづらく、ますます一面巨木ばかりの森となっていく。
想像するとまるで別世界、自分達が知る日本の風景ではないみたいだ。
そんな巨木を「埋もれていたときの状態を活かして展示している」のが、このミュージアムの素晴らしいところだ。
貴重な木だから、野外にのざらしというわけにはいかない。
温度湿度を管理した施設内に保存しなければいけない。
巨大な木の保存と、鑑賞。
それを両立した施設とはいかなるものか。
そのひとつの答えを、この施設では体感することができる。
「地中から発掘したものを、建物の中に展示する」ではない。
「周辺一帯の地面を掘り抜いて、巨大な地下空間を作る」だ。
この「埋もれた森」の規模、スケール感がとにかくすごいのだが、写真では伝えにくいのが残念だ。
第一印象は「まるで秘密基地のよう」。
発掘現場をそのまままるごと保存施設に作り替えたような、巨大な空間だった。
普通は建物に入ると「上がっていく」が、この施設では入り口から「降りていく」ことになる。
地上から約20メートル、東京メトロの千代田線くらいの深さだ。
その空間には大木が2本。
底には、火砕流でなぎ倒された巨木が生きていたときのままの姿で無造作に積み重なり、横たわっている。
これでもごくごく一部。
周辺では立ったまま埋没した巨木が少なくとも30本以上見つかっているが、ここで保存展示しているのはそのうち2本のみだ。
つまりこの壁の向こうの土の中には、まだまだたくさんの巨木が4000年を経ていまも眠り続けている。
もし予算が無限にあったなら、さらに巨大な地下空間に立ち並ぶ巨木の森すら再現できていたかもしれない。
ここを体感したときの感動や面白さはなかなか一言では説明しづらい。
繰り返しになるが、知識や思考が刺激される快感と本能的なワクワク感が同時に作動している感じの面白さなのだ。
今から四千年前のこの場所には、巨木の森林があった。
そしてその森林は、自分が何も知らずにさきほどまで立っていた地面のずっと下に広がっていたし、今も広がっていて、その間を、自分がさきほど登ってきたばかりのあの三瓶山から溢れた火山灰や土砂が埋め尽くしている。
さらに、三瓶山火山からの土砂はこの辺り一帯だけにとどまらず川を伝ってはるか下流へ流れ、時に洪水を起こし、堆積し、丘を造り、短期間のうちに風景を大きく作り替えていった。
このときに、現在まで続く出雲平野ができたのだそうだ。
そしてそれから1000年がたった頃、その出雲平野で稲作が営まれ、国が生まれ、風土記で描かれる出雲世界につながっていく。
見方によっては、「出雲の国を造ったのは三瓶山」だとも言えるのかもしれない。
当時の島根に住んでいた人たちはその光景をどう感じただろうか。
天高くそびえる巨大な樹が無数に並ぶ森林、それが火山から溢れた燃えさかる灰や土砂に埋もれて消滅する様子。
あるいは、土地が削れ、あるいは隆起し、水が乾き、あるいは溢れ、見慣れた風景が一変していく様子。
それを見て、いったい何を思ったのだろう。
子や孫に、何を伝えただろう。
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そんなふうに考えたり、想像しつつ、感じる。調べる。
自分にとって、それがとても楽しい場所だった。
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ところで、このミュージアムでは三瓶山以外に、付近にあるもうひとつの火山について紹介されていた。
「大江高山火山」という山だ。
この火山の活動こそが世界遺産「石見銀山」の銀鉱脈を生んだという。
確かに、全く意識していなかったが、何もないところから銀脈は生まれない。
銀が採れるということはそうなるに至った原因があるのだ。
このときついに自分の中で、ここまでの旅が何かの形を成したような気がした。
まるで形の異なるブロックがうまく組み合わさるように。
「火山」というキーワードによってだ。
火山。
隠岐は、火山島だった。
巨大な、海のカルデラ。
島根ではやたらあちこちで温泉を見かけたけど、あれもつまり、島根が火山の国だからなのだ。
それに、金屋子。
たたら製鉄の神様。
出雲でたたら製鉄が盛んだった理由は砂鉄が豊富だからだ。
たたら製鉄は、砂鉄を使う。
砂鉄とは、溶岩が冷えて固まったものが、時間をかけて細かく砕けたもの。
つまり、火山による恩恵だ。
島根にやたら多い巨石や奇岩も、その多くは火山の影響によるものだろう。
たとえば、「イザナミのお墓」のある出雲の比婆山。
道路を走りながらいきなり見えてきて「なんだありゃ、すごい!」と興奮してしまった「巨大な壁」――高さ100メートル以上、一面の「柱状節理」。
柱状節理は火山のマグマが冷え固まったものだ。
この山の山頂には、イザナミの墓がある。
イザナミが火の神カグツチを出産した際の火傷で亡くなって紆余曲折あった末にここに葬られた、と伝承されている場所。
日本神話ではこのときイザナミの遺体や排泄物から、鉱山の神や鉱物の神、土壌の神などが産まれている。
妻を喪ったことで怒り狂ったイザナギによって斬られたカグツチの死体からもまた、タケミカヅチを始めとする剣や武具の神々が産まれた他、カグツチ自身も地域によっては温泉の神として信仰されている。
火山活動の恐ろしさと、火山による恩恵。
神話伝承が語る、古代の人が火山に対して抱いていた印象の二面性。
さらによくよく思い返し、そしてあらためて調べてみれば、島根に入るときに印象的だった大山だって火山だし、鳥取と島根をつなぐ「べた踏み坂(正式名称・江島大橋)」のかかる江島もまた、火山島なのだという。
今回の自分の島根旅は、そのときは知らなかっただけで実は火山からスタートしていたことになる。
「火山」というキーワードを踏まえた上でならば、これまで自分の中に「世界遺産の銀山」としてしか知識のなかった――――言い方を変えれば、訪れたとしても「自分はどういう視点で楽しめばいいのか」今ひとつ分かっていなかった石見銀山について、自分なりの楽しみ方を見つけられる気がした。
グリーンタフ、静之窟、龍巌山
火山というテーマを意識し始めてからは、行く先々で出会うものも、その見え方、感じ方も少しずつ変化した。
大田市仁摩のグリーンタフ。
グリーンタフは直訳すると緑色凝灰岩。
凝灰岩とは文字の通り、火山灰が凝固して出来た岩のことなのだそうだ。
本当に綺麗なエメラルドグリーンだった。
ここの地質は日本列島が大陸から離れ始めた頃の、海底火山由来のものだそうだ。
綺麗な翠の岩や石が海岸を覆っていた。
オオクニヌシとスクナヒコナが国作りを行う際に仮宿にしたという伝承のある洞窟「静之窟」。
中は2階建ての家が建てられるくらい巨大かつ天井の高いスペースが広がっていて、古代には多くの人の暮らしの場だった。
この洞窟を形成している岩盤そのものも、火山の噴出物で出来ているのだそうだ。
石見銀山の「玄関口」にあるランドマーク「龍巌山」。
天に向かって雄叫びをあげているようなこの岩山も、火山岩の一種だという。
マグマが大地から溢れ出して上へ上へ登ったまま冷え固まった、流紋岩というそうだ。
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今後、地質とか岩石に関しても知識とか見る目がつけば、今まで見過ごしてきたような道ばたの岩肌や山腹の巨岩などをさらに楽しめるようになるに違いない。
少しずつ学んでいきたいと思った。
石見銀山
そんなこんなで遂に石見銀山へやってきた。
石見銀山が世界遺産になったのは2007年。
沖縄のグスク、紀伊山地の霊場、北海道の知床に次いで、日本では14カ所め。
アジアでは初めて世界遺産となった鉱山遺跡でもある。
「世界遺産」=「世界のトップクラスの人気観光地」あるいは「各国の代表的観光地」というイメージが先行していると個人的に思う。
だからというか、そんな世界遺産に石見銀山が選ばれたことを知ったとき「なぜ?」という疑問を抱いた人は自分も含め少なくないんじゃないだろうか。
否定ではなく、不思議の「なぜ?」だ。
当時は富士山も世界遺産になっていなかったし、鉱山遺跡としてなら佐渡金山の方が知名度は上。
日本には他にも有名観光地、歴史のある土地はまだまだたくさんあるのにそれを差し置いて、なぜ石見銀山なの?どこがそんなにすごいの?
世界遺産になってからはじめて名前を知った、とか、そもそも何県にあるの?とか。
当時、地元住民でさえ一部で「あんな穴に何の価値があるんだ」と困惑の声が上がっていたという話も残っているくらいだ。
もちろん、石見銀山が世界遺産になったのにはちゃんと「理由」がある。
世界遺産としての石見銀山を全力で楽しむためにはまずこの「理由を知ること」、その上で「その理由を面白いと感じられること」が大事かもしれない。
面白がるためのハードルが、世界遺産の中でも高いほうだと思う。
少なくとも、予備知識なしただそこに行くだけでなんとなくすごさが分かる、理由は解らないが感動する……というタイプのスポットではないのは確かだ。
その分、そこをクリアした人には響く場所であることもまた間違いない。
では、石見銀山が世界遺産に選ばれた理由とはなにか。
そのヒントは「石見銀山は観光地としては現在も不便」ということだ。
たとえば石見銀山の遺跡群は深い山の中一帯に点在する。
だが、周辺では通行制限されている道路が多く、基本的に観光客は世界遺産センターのある大駐車場に車を停め、銀山内の移動は徒歩かレンタサイクル、バス代わりの電動カートなどを使うことになる。
普通、有名観光地であればメインの観光スポットまでの交通の便は整備されているし、観光客向けにタクシーも走っているのが当たり前だが、ここでは徒歩かレンタサイクルが基本。
たとえば、石見銀山に訪れたひとが十中八九訪れる最も有名な坑道跡「龍源寺間歩」でさえ、駐車場から徒歩片道45分だ。
間歩は坑道のことで、「石見銀山」と呼ばれる一帯の山間には発見されているだけで数百か所の間歩が今なお手つかずの状態で点在している。
中にはちょっとした軽登山レベルの山歩きが必要になるスポットも少なくない。
よりディープに銀山の全体像を楽しもうとすると必然的にある程度のバイタリティが必要となる。
これを「有名観光地なのに不便すぎる」と考える人もいるだろう。
だが、観光客向け整備……言い換えれば「開発」が必要最低限しかされていないことの見方を少し変えると、石見銀山世界遺産になった理由が見えてくる。
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2007年、日本政府は石見銀山を世界遺産にするために「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」と積極的に推していた。
だが最初、世界遺産の審査会の反応はかんばしくなく、一度は登録を却下(登録延期)されている。
地元も世論もあきらめムードだった中で、しかし、日本政府代表部は110ページにも及ぶ「石見銀山が世界遺産に値する理由」を挙げて各国の専門家などに石見銀山の価値を猛烈アピール。
このとき特に大きな説得材料になったのが、「通常なら大量の木々の伐採、つまり大規模な環境破壊が起こる銀鉱山であるにもかかわらず、今も深い森が残っていること」だった。
石見銀山では、山体を崩さず穴を掘り、必要に応じて樹を切ったときも先を見据えて計画的な植林も行っていた。
つまり、「単なる歴史ある鉱山」というだけでない……
「利益だけを追求したその場限りの産業ではない、21世紀の我々が必要としている『未来の環境に配慮した持続可能な事業』を何百年も前にすでに行っていた貴重な産業遺跡である」
という見事な言いくるめ…いや、説得力。
この主張が大反響を呼んで、却下から二か月足らずで一転、満場一致の世界遺産登録が決まったという。
このときの関係者は後に、「銀山周辺に残っていた自然」こそが最終的に世界遺産登録の決め手になったと講演で語ったそうだ。
「自然」の要素が重要な「文化遺産」。
こうしたいきさつもあって、石見銀山周辺では他の観光地以上に大規模な整備・開発が難しいのだと思う。
(海外では、イギリスやドイツなどで、環境を変えたために世界遺産登録を取り消されたケースがある)
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ところで、石見銀山が世界遺産に選ばれたもうひとつの大きな理由として、「世界経済に影響を与えたこと」があるそうだ。
16世紀、石見銀山の銀は、そのほとんどが海外との貿易に使われていた。
特にポルトガルの商人がこの銀を使って中国と取り引きして大きな利益を挙げており、彼らは日本を「銀山の王国」と呼んだらしい。1500年代後半では、全世界に流通していた銀のうち10%~30%が石見銀山から産出したものだと考えられている。
残念ながらその数十年後には江戸幕府による「鎖国」が行われて、以降貿易は大きく制限されることになる。
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火山が産んだ銀の山。
石見銀山の銀鉱脈の形成過程は、調べてみると非常にシンプルだ。
地下深くにあるマグマが地下水を温め、高熱水となって地上へ噴出してくる。
それが岩の割れ目や断層に流れ込み、熱水に含まれる鉱物と周囲の岩とが「高温と圧力」で化学変化を起こして、銀を含んだ石になる。
なるほど、だからまるでアリの巣のような鉱脈ができるのか。
銀山周辺では、岩壁があれば穴があるというくらい、至るところに路頭掘り(表面を削った後)や間部(奥深く掘った跡、トンネル)など採掘の形跡があった。
間部の場合は穴ごとに番号がふられている。
数十センチ。
数メートル。
あるいは数十、数百メートルと、硬い岩盤を人力で掘って掘って、掘り続けて、銀鉱脈を追い求めた痕跡。
きっとそのひとつひとつにたくさんのドラマがあったのだ。
「食うには困らないほど稼げる」一方で、朝から晩まで暗い坑内で鉱物を吸い込み労働するため、石見銀山の鉱夫の平均寿命は30歳だったらしい。
そしてそんな彼らの気の遠くなるような手作業によって、わずか数百年で主たる鉱脈の銀はほぼ掘り尽くされた。
今回は、4時間ほどの滞在だったけれど、全然足りなかった。
石見銀山の5%くらいしか味わえた気がしない。
ここは範囲も広く歴史も長いために、個人ではせっかく訪れた場所でも「そこに行って、見て終わり」になりがちだと感じる。もったいない。
世界遺産センターで申し込めるガイドツアー以外でも、500円~で現地ガイドさんに案内してもらうこともできるそうだ。
より深く楽しむには、やはり一度は、現地に詳しいガイドさんと一緒に巡るのがベストだろう。
普段どこでも一人で巡るのが好きな自分がここに関してはガイドさんの必要を感じた理由としては、次のような実体験によるものだ。
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銀山を歩いていると特定の場所でなぜかいきなり白い霧が吹き出してきた。
この白い霧、ものすごく冷気を帯びている。
物理的にめちゃくちゃ冷たい。
周辺の温度は30度を超えているのに、この霧の中に入ると――――
14度。
寒い!
鍾乳洞の中は一年中温度が一定、みたいな話はよく聞くけど、洞窟の外、それも周辺の広範囲まで冷たくなるってどういう原理なんだろう……
疑問に思っていると、たまたま居合わせたガイドの人から教えて貰った。
これは、アリの巣の様に縦横無尽に伸びた坑道内を空気が通り抜けることによって気化熱で冷えて出てきたもの。
出入り口が山の反対側など複数あること、それぞれの穴が空いている場所の気圧差、温度差などによって空気の流れが生まれ、起こる現象。
だという。
聞けばなるほどと思えるが、廃坑の入り口あたりではゴオンゴオンと低くうなりのような音が響いていることと相まって、知識がなければ怪奇現象と間違えそうだった。
このうなりについてもガイドさんにたずねてみると、ポンプで坑道内の水を排出している音だという。
坑道内には常に水がしみ出したり湧き出したりするので排出は必須で、その水はそのまま周辺に流しているそうだ。
そしてこの「排出した水をそのまま流せること」こそ、石見銀山が栄えた理由のひとつらしい。
普通の鉱山では、排出した水はしかるべき処理をする必要がある場合が多い。
鉱山では、ヒ素など火山由来の毒がつきものだからだ。
ヒ素はそのまま流せば自然環境に多大な悪影響を及ぼす。
ところが、石見銀山では鉱山内にヒ素が含まれておらす、「坑道からしみ出る水がそのまま飲めるほど綺麗」なのだそうだ。
なので、鉱山周辺の川にもたくさんの生物が生息している。
水の排出処理が簡便なこと、ヒ素による人的被害がなかったこと。
この点からも、石見銀山は優れた鉱山だったといえるわけだ。
――――これも、わずかな間だったが、ガイドさんから教えて貰ったことだ。
日御碕
島根旅も最終日が近づき、出雲で火山の恵み「温泉」を味わったあとで向かったのは夕日の名所、日御碕。
よく見ると、このあたりの海岸は柱状節理だらけ。
旅の中でも何度か見た、溶岩が冷えて固まって出来た地質だ。
調べてみるとこの島根半島自体が、海底火山の活動と地上火山の噴出物の堆積、両方の影響を受け続けて出来た土地なのだそうだ。
ここも火山なのか。
あらためて、最初から最後まで火山と切っても切り離せない旅になったな、と実感する。
黄泉の穴・猪目洞窟
日御碕のあと、そのまま島根半島の北端を走った。
訪れたのは「猪目洞窟」。
島根の伝承や考古学などを調べているとよく名前が出てくる、自分がかねてより訪れたいと思っていた場所だ。
出雲国風土記において磯の窟と呼ばれる場所。
「夢で磯の窟を訪れれば、必ず死ぬ。そのため、古来から今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と呼ばれている」
それが猪目洞窟だ。
今回の旅では様々な自然洞窟に訪れたが、ここ猪目洞窟は別格に巨大かつ深い洞窟だった。
縄文時代から古墳時代まで数千年にかけて住居として使われていた痕跡があり、これまで人骨や土器などたくさんの遺物が出土している。
雨風をしのげて、海のそばかつ背後にはすぐ山という食べ物に困らない立地。
おまけに広い。
古代の人々にとって最高の住居だっただろう。
付け加えるなら、地元漁師さん達の道具置き場として現役で使われているのが個人的には素晴らしいと思う。
2000年、3000年前もここで漁をしながら生活していた先人がいたことを考えれば、今も近い用途で使われていることにロマンを感じられる。
色々な遺跡を巡っていても、なかなかこういうケースはない。
洞窟の岩壁は緑色。
つまり、巨大なグリーンタフの裂け目。
それがこの洞窟の正体なのだ。
グリーンタフはすでに書いた通り、海底火山から噴出した火山灰が、同じく海底火山によって熱せられた海水と反応して凝固・変化して出来た岩。
この洞窟もやっぱり、火山によって生まれたものなのだ。
写真では伝わりにくいが、この裂け目の幅は大人でも普通に入っていけるくらい大きい。
おまけに、どこまで続いているか、100メートル以上先まで照らせる夜間登山用ライトの光が届かないくらい深い。
これを一人で入るにはさすがに勇気がいる。
ホラーやスピリチュアル的な怖さというより、サバイバル的なというか、物理的な意味で恐かった。
もしこれが、無人島漂流の冒険譚なら、ロープとライトを準備して危険を承知で数人がかりで探検するような、そんなゾクゾクとワクワクの入り交じった感情を思い起こさせてくれる洞窟だった。
まとめ:火山はいつもそこに、はじめから
そんなこんなで、途中から「火山」が旅の大きなテーマになっていった今回の島根旅だった。
たぶん、気付けていないだけで、火山由来の場所や火山に関わる何かはもっとたくさんあっただろう。
きっと、この「火山という興味のフラグ」はこの旅限定のものではない。
これからも、自分の中の面白センサーのひとつとして機能していくはずだ。
なせかといえば、日本は世界有数の火山国だ。
世界の火山の7%が、日本に存在するという。
47都道府県どこにいっても、完全に火山と無縁の土地など存在しないだろう。
新しく訪れる場所。
いや、住み慣れた場所、あるいはすでに訪れた場所でも、きっと何か発見ができるはず――――
自分が旅を好きになったルーツ、はじめての一人旅をした北海道。
いちばん最初に訪れた摩周湖が、そもそも火山湖だった。
初キャンプした屈斜路湖もそう。
和琴半島の地熱が高いのも、浜の砂を掘ったら温泉が出るのも火山の影響だ。
そばには硫黄山という活火山があった。
阿寒湖周辺、オンネトー、支笏湖、知床、カムイワッカ、函館……
地球岬、神威岬、大雪山、羊蹄山………
それに、道内至るところにあった、たくさんの温泉。
あらためて考えてみると自分にとって印象的なスポットの多くが火山に関係するスポットや火山そのものだった。
火山だらけだ。
もちろん、もちろん当時だってそれぞれが火山活動の恩恵によるものだ、と認識はしていた。
温泉が多いんだから、火山も多い土地だ、という認識もあった。
でも、うまく言えないけれど……それらは常に個別で見ていて、「つなげて考えた」ことがなかったのだ。
つなげて考えてはじめて今、自分の旅はいつも火山を巡る旅でもあったんだなぁと思えた。
自分だけじゃない、きっとこの日本を旅をすること自体が、「火山の大地を巡る」ということなのかもしれない。
つなげて考えるか、考えないか。
気付くか、気付かないか。
意識するか、意識しないか。
意味を感じるか、感じないか。
面白がるか、そうでないか。
「フラグ」が人それぞれ、違うだけ。
そんな「新発見」と「再発見」に恵まれた、島根旅だった。
コメント
こんにちは。満月の夜に風雨来記のこと、樹のことを考えていたらここにたどりつきました。旅や風雨来記といったものは私のような不出来な人間でも受け入れてくれるような気がして、節目節目に思い返すものとなっているようです…
島根旅、とても有意義なものになったようでなによりです。島根県というと「田舎」というイメージと「リリさんの故郷」というしかなかったもので、先入観をなくすことの重要さを思い出し、写真の美しさに感動しました。
私が風雨来記を知ることができたのも「フラグ」によるものだと思うので「自分の面白いと思うもの」を探すアンテナを今一度意識して行動しようと思います。
私は今年はもう旅をする予定はありませんが、来年以降またどこかに向かうために情報収集をし、力を貯めておこうと思っています。今年は「満月の摩周湖」も見られましたからね(笑)
毎度のご挨拶になりますが、お互い壮健なまま日々を過ごせるように祈ってコメントの締めとさせていただきます。島根旅お疲れさまでした。
こんにちは。今回の旅は特に、自分の心の持ちようで旅先の面白さはこれほどに変わるものなのかと我ながら驚きました。
一気に寒くなってきました。今年も残すところはや二ヶ月です。
何かをやろうとか、何かを楽しもうとする心は自分自身でもはなかなか思う通りにならず、だからこそ、未来のために情報を集め、力を貯めておくことは大切だと思います。
また、よい旅を。
コメントありがとうございました。