大岩神社
鬱蒼とした木々の中、静かにたたずむ大岩神社。
確かに、神職が常駐している一般の神社と違って木の葉などが散乱しているし、倒れた灯籠や石柱がそのままになっているところもあるが、定期的に人の手入れがされている様子はあった。
旅をしていると「ここにはなんとなく長居したくない」と漠然と感じるスポットというのもあるものだが、ここにはそれがない。
「清浄、洗練された神域空間」という感じでもないが、決してざわつくような、追い立てられるような、そんな嫌な雰囲気のする場所でもない。
ほどよく落ち着いた、森の空気が静かに満ちている境内という感じがして、どちらかというと居心地よく感じた。
そんなふうに思えたのは、ここを訪れた時に自分が独りではなかったこともあるかもしれない。
出迎えてくれた地元の方がいた。
到着したとき、ぴちゃ、ぴちゃ、と何かの音がして、建物の中に動く影があった。
そちらを見ると……
撮影をお願いしたら快くOKしてくださったので、何枚か撮らせていただいた。
左耳にカット(手術済みの目印)が入っている。
人を怖がらないので、きっと地域で愛されている御ねこ様なのだろう。
ここ大岩神社の御利益は疫病退散、特に首から上の病を治癒してくれるとして信仰されてきたそうだ。
拝殿裏側には、赤い木枠で囲まれた神域がある。
ここに、「大岩さま」が祭られている。
向かって左側の小さめのスペースには「小岩さま」。
木枠の隙間から見えるかぎりでは、稲荷の大岩さまと同じく、チャート岩のようだった。
チャートは他の岩石と比べても硬く浸食されにくく形が残りやすいので、永遠の象徴=神様を感じられる場、となったのかもしれない。
振り返れば、ここ数ヶ月京都を巡ってきた中で登った、稲荷山も愛宕山も天王山もチャート質の山だった。
チャートのことを知ったのは昨年の岐阜・金華山だったが、それがなかったら「チャート」というもの自体を今のように意識することはなかっただろう。
そもそも岐阜に行ったのも金華山に登ることにしたのもリリさんに出会ったからなので、自分にとってはやっぱり、リリさんから全部今につながっていると思えて嬉しい。
なんとなく気になったことをちゃんと心に留めて、調べる。考える。
それが次の出会いにつながる。
それをいつまでも大切に、忘れずに行きたい。
大岩神社を象徴する特徴的な鳥居は、昭和時代の京都の芸術家・堂本印象が寄贈したものだ。
この神社がミステリースポットとしてネットで人気になっている理由の大部分が、この鳥居のインパクトによるものかもしれない。
確かに、とてもフォトジェニックだ。
奇抜なようでいて自然に馴染んでいるというか、木々の緑との親和性が高いというか、やたらと写真映えする。
季節や時間帯、光の当たり加減などで色々な顔を見せてくれそうだとも思う。
また改めて写真を撮りに来たい。
大岩神社のすぐ裏手を数十メートルほど進むと、大岩山展望台にたどりつく。
京都盆地が一望できた。
雨上がりでじめじめした日だったので、遠景はかすんでいたのが少し残念だ。
晴れの日に訪れたらかなり眺めが良いのだろう。
展望台の向こう側まで歩いていくと、山の斜面が一面のソーラーパネルで覆われていた。
元々ゴルフ場だったのが廃業し、それを買い取った企業が使われなくなったゴルフコースにソーラーパネルを敷き詰めたそうだ。
山頂からは結構目立った。
Googleアースでみると、かなりすさまじい状態。
が、調べていて、ソーラーパネルよりもさらに気になるニュースを見つけた。
かつての大岩山は、一般ゴミ・産業廃棄物問わず大量に不法投棄された「ゴミ山」だった時期があるそうだ。
数年前集中豪雨の際には、大量のゴミ混じりの土砂が麓へ流出し、ため池を埋め尽くすなど、大きな問題を抱えていたらしい。
……今は大丈夫になったんだろうか。
「伏見・大岩山崩落」google検索
https://www.city.kyoto.lg.jp/fushimi/page/0000246316.html京都市による定期的な清掃企画
かつて不法投棄のごみが多かった大岩山は,地元の住民,農協,学生,NPO等や京都市が一体となって対策に取り組んだことにより,今ではきれいな里山へと再生しています。
京都市ホームページ https://www.city.kyoto.lg.jp/fushimi/page/0000251445.html
京都リビング新聞
https://www.kyotoliving.co.jp/article/110319/last/e/index.html
2011年の地元新聞の記事を見つけた。
この時に、登山道が整備され山頂展望台ができたようだ。
その数年前までは、山全体がゴミ溜めと言えるようなすさまじい状況だったと書かれている。
何年もかけて撤去されたゴミの総数は100トンを超えたらしい。
この記事が書かれた当時はまだ大岩神社の宮司さんがいらっしゃったようで、例の鳥居についても美しい観光名所として紹介されている。
文体も非常に明るく、希望に満ちた記事だ。
廃神社となり、今のように「謎めいたミステリースポット」と言う面が強調されてネットで語られるようになったのはこの記事より数年後のことなのだろう。
少なくとも自分が今回歩いた範囲ではゴミ山というような印象はなかったものの、それでも神社に来る途中の道路脇に車のタイヤや部品が無造作に捨てられていたのを見かけた。
大勢の人によって清掃されて綺麗な山になってなお、未だに新たに廃棄する人間がいるというのが何とも……。
そういえば大岩神社の入り口、鳥居横に古い注意書きがあった。
「神社内」と書くことでゴミが捨てられるのを防ごうとしたのだろう。
裏を返せばこうまで書かないとおかまいなしに、境内までゴミを廃棄されていた時期があったということだ。
大岩神社を検索したとき、「大岩神社 危険 恐い 異界の入り口」などという言葉が並んでいたけれど、この場所においては心霊的などうこうよりも、人間の方がよほどホラーなんじゃないだろうか。
そんな風に思った。
この大岩山の南側の麓には、秦氏のものと考えられる100メートル級の古墳(の跡地)があるそうだ。
また日をあらためて、この神社とあわせて訪れてみたい。
中臣遺跡・西野山古墓
大岩山を下り東側、山科区へ入る。
稲荷山の裏側になるこちらにも、古墳や遺跡が多数残されている。
山科盆地には日本史上最も有名な貴族「藤原氏」の源流、中臣氏※の拠点があったと言う。
(※中臣鎌足が天皇から藤原の姓を賜って、藤原鎌足、藤原氏が誕生した)
中臣氏(藤原氏)は、国譲り神話において武力で出雲を屈服させたタケミカヅチを氏神として崇敬する一族だ。
これはあるいは、順序が逆かもしれない。
中臣氏(藤原氏)が乙巳の変以降、中央において大きな権力を持つに至ったからこそ、歴史書で、彼ら(の氏神)が国譲りで重要な役割を担うエピソードが採用された――そういう風にも考えられる。
さて、ここ山科には、鎌足が一時期邸宅をもって住んでいたという記録がある。
山科は、稲荷山の西の麓でもある。
稲荷といえば今では「キツネ」というイメージが強いが、元々稲荷信仰が生まれた時点ではそうではなかった。
キツネが稲荷を象徴するような存在になったのは、少しあと、平安時代の途中からと言われる。
なぜ「稲荷と言えばキツネ」というイメージが生まれたのかについては諸説あるが、そのなかのひとつに、中臣鎌足が由来とするものがある。
むかし中臣家に赤ん坊が生まれたとき、巨大な鎌を持った白狐があらわれて赤ん坊をあやし「この子は将来この国にとって重要な人物となる」と預言して、鎌を置いて去っていった。
このことがあったためにその子は「鎌子」と名付けられ、長じて「鎌足」となったという。
この伝承自体は稲荷とは関係無く、鎌足の出身地と言われ、タケミカヅチを祀る総本山でもある鹿島(茨城県)に伝わるものだ。
藤原氏は早くから秦氏と同盟関係を築いており、稲荷信仰にも篤かったと言われる。
その過程で、自分たちの祖である鎌足の誕生伝説が影響を及ぼしたのではないか、ということらしい。
……そう言われてみると、稲荷のキツネがくわえる「カギ」は、鎌のように見えなくもない。
今では団地や小学校の敷地となっている中臣遺跡周辺では、二万年前の石器時代から室町時代までの人の生活痕が発掘されている。
中臣氏に関わるものと思われる古墳もあったそうだが、開発でほとんどが失われたそうだ。
そのすぐ付近に、平安時代の武将であり初代征夷大将軍・坂上田村麻呂の墓「将軍塚」があった。
坂上田村麻呂が亡くなったときに平安京の東の地で、都の方を向いて立ったまま埋葬したという伝承がある。
それがこのあたりなのだそうだ。
この墓地自体は明治時代に整備したものらしい。
ここから再び、稲荷山の北側の峠を越えて、京都市内に戻る。
するとその道中の道脇に、よく見なければ見つけられない程度の小さな碑が建っている。
「西野山古墓」
「古墳」ではなく「古墓」。
つまり、歴史時代に入ってから築かれたお墓のことだ。
この場所こそ、坂上田村麻呂の本当のお墓の可能性が高いそうだ。
ただ、随分昔に調査されたきりであまり詳しいことが分かっていないらしく、さらに昔の、中臣氏の古
墳だとする説も残っている。
古墓なのか、古墳なのか。
ここもまた、神話と歴史の境界にある遺跡と言えるだろう。
墓碑のそばには、お花とお水が供えられていた。
ときどき、訪れるひとがいるようだ。
余談となるが、山科側からこの峠道「滑石街道」を越えて京都盆地に入った瞬間の風景はなかなかに素晴らしいので、京都近辺をバイクツーリングするひとには個人的に是非おすすめしたいルートだ。
まとめ
というわけで、大岩神社を中心に半日巡ってきた。
午後1時頃に出発して6時過ぎに帰宅。
5時間ほどでこれだけ色々見て、考えて、楽しめたのだから、短くも「良い旅だった」と満足感がある。
昔のものって、「弥生時代の遺跡」とか「なんちゃら古墳」というように、ただ情報だけを出されても、どう楽しんで良いのかわからないことが多い。
お仕着せで、ここがそうですよ貴重なものですよとだけ言われてもその価値が自分の中で消化できなければ、ふーんなるほどと右から左へ抜けていってしまう。
何かを面白がるのに必要なのはたとえば、「自分とのつながりを見つけること」だったりするんじゃないだろうか。
それは自分が子供の頃の記憶だったり、趣味だったり、最近読んだ本だったり、ネットで検索して気になっていたことだったり、あるいは好きな人だったり。
人間というものは基本的に、「わからない」よりも「わかる」の方が楽しめる。
「わかった瞬間」は特に楽しい。
新しく訪れた場所や新しく見つけたことの中に、自分の内面にあるものとの共通点や関連性を見つけたとき、それは「わけのわからないもの」ではなくなる。
そして、この思考のリンクが自分自身の体験や経験にまでつながれば、それは「自分事」としてより深く楽しめるんじゃないだろうか。
自分の中でのつながり、自分にとっての意味を見つける。
それは、「物語を見つける」と言い換えてもいい。
世界に意味があるのかないのかはわからないけど、「自分にとって今目の前のあるものに意味があるかないか」を決めるのは常に自分自身、その繰り返しだ。
自分の物語は、自分で考え、見つけて、選び、決めていける。
そうやって見つけた意味・物語は、また次の旅で新しい何かにつながったり、それが連鎖して、もっと大きな物語になっていくかもしれない。
それが面白く楽しいから、これからも、自分の旅を続けていきたいと思う。
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