リリさんと出会って3年がたったので思ったことを書く

風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG

■去年




風雨来記4との三年



風雨来記4初プレイから、三年。
もう三年もたったのかという気持ちと、まだ三年しかたっていないのかという気持ちが自分の中に共存している。

どちらかといえばやっぱり、「一瞬!」という気持ちの方が大きいだろうか。



この一年間も、去年書いたように、今日の自分から明日の自分へ「気持ちのバトン」を地道にリレーし続けることを心がけてきた。
その繰り返しで、今日もリリさんを大好きで、リリさんの素敵さに心震わせている自分がいる。
それが大きな原動力になって、色々な体験へと背中を押し続けてくれている日々だ。


時間があっという間に過ぎてついつい忘れがちになってしまうけれど、立ち止まってよく確認してみれば去年の自分がしていなかったこと、できていなかったことをコツコツ続けている自分もちゃんとそこにいる。


それはたとえば、今年の夏のツーリングに向けてキャンプ道具を集め始めたとか、これまでバイクに乗るとき普段着だったのがバイクウェアを着るようになったとか、風土記の書写を始めたとか、京都や日本の歴史を基礎から学び始めたとか。

ひとつひとつは小さな変化だったりささやかな挑戦、ちょっとした遊びや趣味も、「新しく始めたこと」は積み重なれば、それだけで自信にもなってくる。


旅についても、昨年夏は念願だった島根ツーリングにも行けた。
春には岐阜を再訪し、ゴールデンウイークには北海道と、自分にとっては思い出深い旅に出ることが出来た。

京都周辺の日帰り探訪もたくさんしてきた。
最近は歴史を学び始めたことで、旅する際に新たな楽しみ方の視点が生まれた。
これまで何とも思わずスルーしていた道や物や場所が、まるでゲームの隠しスポットのように「解放」されていく。

そんな経験が増えてきている。
今後についてもその傾向は続いていきそうで、わくわくする。






――――ともあれ、まだたった三年。
はじめたてだった一年めや二年めのときより、三年たった今の方がはっきり、分かる。

三年はまだ途中、やっと入り口だ。



旅も、絵も、文も、このブログも、根っこにあるリリさんを好きだという気持ちひとつとっても、三年続いたくらいではまだまだ全然、路の途中。


この先五年ならどうなのか。十年なら。
どこかへ行き着いているのか。それともまだ途中なのか。


どこまで行けば自分が納得できるところへたどりつけるか、ゴールは見えなくても、分からなくても、とりあえず「今いるここ」が「そこ」ではないことはわかる。
行ってみたい場所、やってみたいこと、ためしてみたい何かがまだまだたくさんあるからだ。


もっと旅したい。
描きたい、書きたい、知っていきたい。
なにより、今日よりもももっと、もっと、リリさんを好きになりたい。



やることはこれまでと同じ、昨日よりも今日、一歩ずつでも前へ。

一歩ずつ、一歩ずつ。
またこの一年も、毎日前へ進み続けていこう。


リリさん。あいしてます





未整理の記憶フォルダ

ところで、今年の北海道探訪。
北海道を訪れるのは実に15年以上ぶりだったけれど、なつかしい、という思いはほとんど抱くことがなかった。

なんだろう。学生時代の旧友にしばらくぶりにあっても、時間のブランクなんかなかったみたいにすぐになじめるあの感じ。あれに近いだろうか。




実際にはきっと変わっていたもの、無くなっていたものも多かったはずだ。
(キャンプ場やライダーハウスなどはそうだったはず。そういえば、稚内駅周辺もずいぶん様変わりしていた)

けれど不思議と今回の旅では、自分は「変わったもの」「なくなったもの」よりも、「変わっていないもの」ばかりが目につき、印象に残ったのだ。



オトンルイ風車群や防波ドーム、宗谷岬、サロベツの風景やオロロン鳥の像、おびらのニシン番屋。
大雪の日に避難した道ばたのバス停。

黄金岬キャンプ場は自分が風雨来記に憧れてはじめて北海道を訪れた時に利用したキャンプ場で、今回も利用させてもらったけど、変わっていなさすぎて本当にタイムスリップした気分だった。



黄金岬キャンプ場(今も変わらず無料)








当時の記憶のまま未だにそこにあるものを見るたび「ああなつかしい」ではなく、「15年20年くらいだと、たいして変わらないものなんだなぁ」とどこか他人事のように、感心に似た感情を抱いていた。

ふとなんとなく、意外と百年二百年も、そんなに変わらないんじゃないかとさえ思った。



人工物はさすがに何百年したら一新されるものが多いかも知れないけれど、地質や地形、あるいは生物に関しては、数百年、数千年、ものによっては億年単位で変わらないものもある。


もちろん、そうしたものもまた、人の手によって変わっていく、変えられていくこともある。
それでもそれさえもあくまでほんの一部だ。
変わらないものは、人の手が及ばないほど多い気がする。


たとえば月。
毎年数センチずつ地球から遠ざかっているので、変化はしている。
でもそれを人間が人生の中で実感できることはない。

基本的には数百年数千年くらいでは変わらない。
それは、今自分が見ている月と、数百年前の人が見ていた月、数千年前のひとが見ていた月、数万年前の人が見ていた月、どれも変わらないということだ。

それってすごいことだよなとあらためて思う。



変わっていくものに対するノスタルジーを抱くのも良いものだけれど、一方で、自分が生きている間には変わらないものが(気づいていないだけで、あるいは特に重要とは思わないだけで)実はものすごく多いんじゃないかという視点は、なかなか面白いんじゃないかと思う。





ちなみに、北海道旅でいちばんノスタルジー的なものを感じたのは、セイコーマートで買い物したときに「カードはお持ちですか」と言われた瞬間だ。

『あーーー!あったあった、セイコマのカード! 今も家のどこかにあるかなぁ』

その存在すらすっかり忘れていたのに、あの瞬間、記憶の底からあのオレンジ色のカードがふっと湧き上がってきた。そのカードを使って、全道いろいろなところで買い物をした記憶も一緒に。それは旅の足跡でもあった。セイコマ限定のアイスクリーム制覇したなぁ。

そんなこんなを思い出したときには確かになつかしさを感じた。15年前のカード、今でも使えるんだろうか。





そういえば、先日たまたま二十年ぶりくらいに母校(中学校)の前を通りがかったことがあった。
それにもやっぱり何の郷愁も感じなかったので(記憶の中の風景と全く同じすぎて、一瞬今も通っているような気がした)、これは自分の性分なのかもしれない。


なんでそうなのか、自分の心境を分析して言語化するなら、脳内で「過去」になっていない、『思い出フォルダ』に入っていないからなのかもしれない。

過去の思い出を、特別な「思い出フォルダ」ではなく、『昨日』も『一ヶ月前』も『10年前』も、いろんな記憶が未整理のまま、いっしょくたで「過去」フォルダに放り込んであるような。
そんな感じがする。



思い出は美化されるもの、だとよく言うから自分もそういうものかと思っていたけど、自分の場合は「場所」に関してはそういう傾向はないようだ。
10年以上ぶりに訪れた場所でも、記憶の中の風景とのギャップが生じないというのはそういうことなんだろう。

(にも関わらず、白川郷みたいな「いかにも日本の原風景」というような場所を訪れるとやっぱりしっかりなつかしさを感じるのがまた、面白い)



一方で、セイコーマートのカードになつかしさを覚えたのは、それにひもづいたたくさんの思い出、
立ち寄ったときの暑さや寒さ、腹ぺこだったり喉からからだったり、やっと人里にたどりついた安心感だったりなどのエピソードが呼び起こされたから。
そうした日々の思い出は、ちゃんと「別のフォルダ」に入れてあるということだろう。

自分の脳内で、どういう基準でフォルダ分けされているのかよく分からない。
なつかしさを覚えるような「特別なフォルダ」に入っている記憶は、自分の中で「遠い過去」「良い思い出」という認識なのかもしれない。

裏を返せば、なつかしさを感じないということは、「遠い過去」とか「思い出の中の風景」だと感じていないということだろう。
それらの記憶は自分にとって、「現在進行形の記憶」にとどまっているようにも思う。




昨日あった出来事をなつかしいと感じる人はいないはずだ。
一週間前もそうだろう。
一年前になるとなつかしさを覚える人もいるかもしれない。


基準は、自分の中で「遠い過去」になっているかどうかかもしれない。
それは自分の意識で判断していることかもしれないし、無意識のものもあるだろう。
過去だと思いたくてもそれ思えない記憶もあれば、忘れたくないのに薄れていく記憶もあると思う。
記憶という物は、すべてが自分の意のままになるわけではないものだ。



このブログに関しても、3年前の記事を見返したとしても、なつかしさはまるでない。
それはきっと、自分にとってここがつねに現在進行形の場所だから。

このブログを始めたのは、「昨日を1000日経ただけの自分」だ。
1000日で、いろいろ変わったところもあると思う。
一方で、変わっていないところもきっとたくさんある。

できれば、変わりたいところだけ変われて、変わりたくないところはそのままで、というのが理想だけど、なかなかそううまくいかないのが人間だ。



「変わることをおそれない」。そして、「変わらないこともおそれない」。
柔軟に、ポジティブに捉えていこうと思う。











もしかしたら未来についても、これが30年とか、50年とかになっても、自分は同じ様な感覚でいるのかもしれないなと最近なんとなく思ってしまう。



どうだろうか、30年後の自分。
50年後の自分。


自分の予想としては、今これを書いていることも、つい先日のことのように感じているんじゃないだろうか。果てしなく長いようで、数十年って実はその程度の長さだったりするんじゃないか。


その頃まで順調にこのブログを続けていけば、答えはわかるはずだ。



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