それはまるで、田んぼのようになつかしくて、いつまでも色あせない心の震え。
日常の中から小さな感動をたくさん見つけ出せる母里ちありとの、日本のふるさと「岐阜」を舞台にした旅の話。
全5回予定で、自分が風雨来記4の感想を書くにあたり、一番書きたかったテーマについて思う存分掘り下げて書きます。
「リリと主人公の変化し続ける関係性」
これについて書くことが、自分にとって、風雨来記4に出会ってからずっと、一番の目標でした。
個人的な感想記録です。
今回の記事では、風雨来記4母里ちあり編の内容に深く触れます。
“ ”内のテキスト、及び画像は、ゲーム内からの引用です。
以下、ネタバレ注意。
第四回で語ること
なぜ彼女は田んぼに感動するのか
- 下呂温泉のイベントに『意味がない』理由
- ちあり編主人公の『目を閉じるくせ』について
- 旅の『余白』の埋め方の一例
- バンダナが言葉よりも正直に『素直な心』を語った場面
- 「感動を盛り上げる演出」が無い、ちあり編の謎
- 岐阜を舞台にした旅ゲーの「田んぼのような感動」という挑戦
- 坂折棚田でのリリさんの言動のひとつひとつがいかに愛おしいか
- 最後まで「選ばなかった」最初の旅
- 「今日の私が最高の私」を信じる
書きたいことが多すぎて、ものすごく長くなってしまいました。
「『お互いに変化し続ける』リリと主人公の関係性」について
第一回:「なぜ、リリの物語はあの選択で分岐したのか」について
「補足:成長と変化の違い」
第二回:「二人の間で起こっていた、変化の連鎖」の話
「過去作との対比で分かる、ちあり編のたったひとつの前代未聞」
第三回: 時系列でみる二人の変化(1)種蔵~國田家の芝桜
「『旅×お見合い』という革命」
「余白の考え方:ヒントは『会っていない時間』にある」
第四回: 時系列でみる二人の変化(2)下呂温泉(一周目)~種蔵
「日本の真ん中で田んぼに一番感動する彼女」の意味
「余白の考え方:テキストの外にどこまでも広がる旅の世界」
第五回: 時系列でみる二人の変化(3)下呂温泉(二周目)~橿森神社
「『面白い』が照らす、二人旅」
「母里ちあり編感想まとめ:平穏の中の最高の一枚」
母里ちあり
「キミはそのままでいい」
「一歩一歩、自分の道を進めばいい」
「憧れの背中に追いつかなくても、ずっとずっと追い続ければいい」
「そうして、いつか振り返った時」
「きっとそれはキミだけの道になってるよ」
前回から引き続き、主人公とリリ、ふたりがお互いに影響を与え合って生まれる変化について、考えたことを書いていきます。
④~未来への分水嶺~下呂温泉(一周目)
ふたりの旅にとって、最大の分岐点となる下呂温泉の噴泉池。
重要なスポットですが、今回はここについて語るのを一旦スキップします。
17日目、下呂温泉での再会は、ゲーム的にいえば隠しイベント的な扱い。
他のスポットと違ってわかりやすいヒントは一切ありません。
自力発見は難解ではあるものの、一度エンディングまで言ってしまえば、色々な情報から推察はできました。
・クリア後のアルバムモードで「芝桜」と「付知峡」の間に空白があること。
・空白の17~19日あたりにもイベントがあるはず、という推測。
・PS4版限定で、隠し実績「突発撮影会」の存在。
・『リリの旅のルートを線で結んだとき、芝桜と付知峡の中間地点』であること。
・馬籠での「最近は温泉も多いから、もっと幸せ」というリリの言葉。
ここで重要なことは、一周目の物語では、温泉で遭遇してもしなくても、記事を書いても書かなくても、その後の展開は何も変わることなく進むということです。可愛いリリさんの水着姿を見られて幸せになれるだけの
物語に影響を与えない、「意味がない」イベント。
ちなみに筆者は、初回の旅では温泉でリリさんと出会うことができませんでした。
一週間まったく会えないまま、すっかりあきらめてしまって、このままひとり岐阜の旅を終えるのか……と魂が抜けかけた状態で訪れた付知峡での、不意の再会。
あのときの驚きと喜びは、今でも忘れられません。
同時に、一度見失ったからこそ気付いたこともあります。
詳しくは、この次の付知峡の章で話します。
個人的体験はさておき、もう一度繰り返しますが、一周目の旅においては、下呂温泉では出会っても出会わなくても、リリと主人公、二人の関係はまったく変わりません。
ただふたりでのんびり写真を撮ったり、世間話をして過ごしたという「思い出の一ページ」に終始します。
これまで書いてきたような他のスポットで過ごした時間と違って、「お互いのその後の行動に大きな影響を与え合うようなきっかけにまで至れなかった=変化の連鎖が途切れた」のが、一周目における下呂温泉でのエピソードの位置づけだと思います。
リリさんが最後の一歩を踏み出すために必要なものは、互いに影響を与え合っているという実感だったと以前の記事で書きました。
自分が相手にとって意味のある存在で、自分にとってもそうだと実感できてこそ、相手から夢を奪うかもしれない選択をとる勇気たり得る。
変化の連鎖が途切れたことで、そんな実感も途切れてしまう。
この記事シリーズの最初で書いたように、自分が思う母里ちあり編の最大の魅力は「主人公とリリが互いに何度も繰り返し影響を与え合って、どこまでも変化し続けていく」こと。
噴泉池で、あと、ほんの少し。
リリから影響を受けた主人公が、
『普段の自分なら選ばないこと』にチャレンジしてみる。
次の変化の連鎖へとつづく一歩が「ある」か「ない」かで、さらに次の連鎖、その次と、その後のふたりの人生が怒濤のように変わっていく、「未来に続く無限の可能性」を秘めた大きな分岐点。
それが分かるのは、二周目以降の旅のことです。
下呂温泉(二周目以降)のイベントの意味については、最終回となる次回の記事(第5回目)であらためて掘り下げて考えていきます。
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ところでこれは完全に余談ですが、風雨来記1において、主人公の姉貴である「千歳」が、1の主人公・相馬轍とはじめて出会ったのは露天温泉でした。
温泉で偶然一緒になって、旅や仕事に迷う主人公の話を聞いた上で、モデルになってくれるというエピソード。
その後二人は、北海道の行く先々で「片手で数え切れないほど」、繰り返し出会うことになります。
風雨来記の舞台である西暦2000年当時の千歳の年齢は明言されていませんが、1994年にはすでに大型バイクに乗っていたベテランライダーであることや、北海道に長年通っているという話から20代後半と思われます。
もしかすると、今の弟と同じ、ちょうど26くらいだったかもしれません。
主人公である相馬轍の方は、今のちありと同じ20歳でした。
千歳との出会いで流れたBGMは、「時のワルツ」。
これは、時を経てリリさんとの旅でも重要な場所で使われています。
(風雨来記4おまけモード「音楽試聴」でも視聴できます)
⑤~目を閉じて感じるもの~付知峡
付知峡でのリリとの出会い。
ここでは、
「人の顔の区別がつかないリリにとって、
誰かとの不意の再会とはどんな感じなのか」
を、擬似的に体験できます。
顔で人の見分けがつかないリリさん。
背格好だけで判別出来ない場合は目印をたよりにしたり、あるいは匂いや声、仕草など、視覚以外の部分で相手を見分けてきました。
それが一体、どれくらい難しいことなのか。
その苦労の一端が垣間見えるのが、付知峡での再会です。
前提として、まず、ちあり編序盤から繰り返し描かれる、主人公のある行動について確認しておきましょう。
ある行動。それは、『目を閉じる』ことです。
「ちあり編の主人公」のクセ、とも言える部分。
訪れた場所で、立ち止まり、目を閉じて、その場所を文字通り体全体で感じるひととき。
それが、リリと出会う前には何度も何度も繰り返し描かれます。
ちあり編の付知峡では、ひとつのイベントの中で、休憩所で一回、滝で一回の「二度」にわたってこの描写があるくらい強調されています。
特に滝では、「味覚」にまで具体的に言及されています。
ある研究によれば、一般的な人間が外界の情報を手に入れるために普段使っている感覚の割合は、
視覚87%、聴覚7%、触覚3%、嗅覚2%、味覚1%
だと言われています。
情報源の9割近くを占める「視覚」を閉じることで、他の感覚を研ぎ澄ます。
日頃からそうして視覚情報以外の感覚の重要性を意識してきた『彼』だからこそ、月子さんから「リリの秘密」を聞いたときに、理解はできないまでも、想像し、歩み寄ることができたのかもしれません。
なお、「目を閉じる主人公」は最終的に、最初のエンディングのラストシーンへと繋がります。
さて、上述したように、付知峡でのリリさんとの再会シーンは、「リリにとっての不意の再会がどんなものなのか」を疑似体験できるエピソードになっています。
主人公はいつものくせを発揮し――――
ベンチで一休みし、目を閉じる主人公。
視覚以外の感覚で周囲を感じる。
しばらくして、誰かがやってくる気配。
ゆっくりと木の階段を登ってくる足音。
こちらに気がついたらしい動作。
音を立てないような気遣い。
そっと近くのベンチに腰を下ろす。
静かな時間。
やがて目を開ける主人公。
あなたはこの時点で、「リリだ」と認識できましたか?
自分の場合は、すでに書いた通り國田家の芝桜でのイベントを最後に一週間、リリさんと出会うことがありませんでしたから、
「どこか途中で再会できるスポットを見逃してしまったに違いない。もうきっとこの旅ではリリとは会えない……」
と、心の大部分をあきらめが占めていました。
それでもまだあきらめきれずに、彼女に会えるかもしれない付知峡をこの日も訪れました。
すると、イベントが始まり、見えない視界の向こうから、誰かがやってくる。
ものすごく希望と期待が湧き上がりました。
けれど、そこで、
「ごめんなさい、起こしちゃいましたね」
という他人行儀な言葉がかけられる。
あぁ、リリじゃないのか……、と思いました。
やっぱりどこかで選択を間違えたのかな……
もうリリは島根に帰ってしまったのかな……
なんて落胆していると、次の瞬間主人公が目を向けた先にいたのは、ずっと会いたかった母里ちあり、その人でした。
そのときの自分にわき起こった感情は――爆発的でした。
再会の喜び、驚きに加えて、一度、耳から入った情報で「あの子じゃないな」と認識したあとに、それが覆る体験の相乗効果。
吊り橋効果のように大きく揺れる心理効果。
そんな感情を揺さぶる嵐のような起伏も、自分がリリさんに惚れてしまった原因のひとつかもしれません。
(ちなみにここで、主人公よりちょっと早く『ああ、この子は顔を覚えられないんだ』と気づきました)
あらためて考えると、この章の最初に書いたように、それは「リリさんにとっての再会」を追体験させるエピソードなのかもしれないと思います。
情報を得て、思考し、ワンテンポ遅れて「認識」する。
「あ、目の前の人はあの人だ」あるいは「知らない人だ」と確認する。
リリが、バンダナで主人公を識別するように、主人公はこれまで、「視覚」でリリを見分けてきた。
その視覚を閉じると、彼もまた、リリを識別することはできなかった。
前回の記事で書いた、「主人公との旅の再会を、リリが面白いと感じ始めたきっかけ」と同質のもの。
顔を識別できなかったからこそ生まれた、特別なエピソード。
ひと味違った再会によって起こる、心の震え。
そんなニュアンスを含んだ『体験』が、繊細に表現された一幕でした。
もし、この時主人公がバンダナをつけていたら、きっと彼女の挙動も変わったでしょう。
同じ様に目を閉じたままでも「リリ」を認識できたかもしれません。
そんな想像も楽しいですね。
たとえば…
ベンチで一休みし、目を閉じる主人公。
視覚以外の感覚で周囲を感じる。
しばらくして、誰かがやってくる気配。
ゆっくりと木の階段を登ってくる足音。
こちらに気がついたらしい動作。
あまり音を立てないような、けれど弾むような靴音。
すぐ近くに腰を下ろした。
近い……なんか近すぎないか……?
気のせいかな……
静かな時間。
そういえばリリにこの場所教えたっけ。
もしかして……
目を開ける主人公。
となりでこちらをのぞきこんでいるリリの顔。
「じーっ」
「うわっ!」
「あらら。ごめんね、起こしちゃった。
……また会っちゃったね」
さて、前置きが長くなりましたが、本題はここからです。
付知峡で起こる物語上特に重要な要素は、大きく分けて二つ。
中心となるのは、バンダナを落としたことからはじまる二人のすれ違いですが、もうひとつ、『最初のエンディング』に関わるものとして、『夢と仕事』の話があります。
ここからはこの二点について語っていきます。
まずは、『夢と仕事』について。
⑥~夢と仕事と~付知峡
互いの「夢と仕事」に関する価値観の話題。
結婚を視野に入れた「お見合い」では、絶対欠かせない話題でもあります。
自分自身がやりたい仕事にうまく巡り合えなかったリリさんは、主人公の仕事についてはこれまで、
「キミはやりたいことを仕事にしてるんだもんね」
「いいなーいいなー、やりたいことを仕事にしてるって羨ましいなー!」
と、「夢を仕事にすること」のポジティブな面だけを見ていました。
これに対して、
「傍から見たら羨ましいかもしれないけど、好きを仕事にするからこそ、迷いがまったくないわけじゃない」
と主人公がはじめて、仕事に対するネガティブな心境をこぼすのが、ここ付知峡での会話です。
「この道で食べていくことに関してはもう迷いはないけど、
このままでいいのかなっていう気持ちはあるから」
じゃあ何に迷っているのか。
「んー……」
リリはまじめに考え込んで、好きなことがあって、それを仕事にして、『そのまま』じゃダメなのかと、ていねいに思考を整理しながら尋ねます。
これに対して主人公が語るのは、モネの池でリリに語った「憧れ」のつづきの話。
「その人に憧れる一心でこの業界に入ったけど、
まだまだ背中を追い続けるだけ、まったく近づける気がしない、
ずっとこのままでいいのかなって」
そうすると、リリは再び「んー……」と考え込んで、
「憧れて、追い続けて……それもダメなの?
私から見れば夢に一直線!って感じのキミでも、迷うことはあるんだね」
重要なのは、彼女が「考える」ことです。
ノリがよくて自由奔放なイメージや、「明日は明日の風が吹く」という座右の銘から、感性のままに動いている女性のように見えて、母里ちありの行動原理はその実、かなりの思考型、理詰めなところがあります。
『ま、いっか。明日は明日の風が吹く』と何度も口に出して自分に言い聞かせつつも、『理由』が見つからなければ前へ進めず、けっきょく種蔵に留まり続けてしまう。
中学時代で、すでに他人への理解(言い訳)をあきらめていたことや、結婚を考えるなら恋愛感情はそれほど重要じゃないと言う割り切った捉え方。
「残業をするなと言いながら始業15分前に来いというのは、時間厳守じゃない」という正論。
(二周目以降で)普段の自分なら選ばない方をあえて選んでみる(理屈から外れてみる)、なんて考えたこともなかったと打ち明けること。
こうした、会話や行動の端々に垣間見える彼女の理性的(すぎてしまう)内面に関しての、自分なりの思いは、以前の記事で書きました。
付知峡で話して、考えて、考えて、このときリリが出せなかった主人公への答えは、実際に彼の仕事の様子を見た上で、その数日後、
「私、今はわかるよ。キミは『そのまま』でいい」
最初のエンディングで、丁寧に一言一言、言葉を選びながら語ってくれることになります。
リリさんはこれまでもいつもそうやって考えて考えて――たとえばお見合いについてもそうです――、自分なりの答えを見つけ続けて来たのでしょう。
付知峡に話を戻しますが、主人公の側からもリリさんに、夢を訊ねます。
誰もがなりたいものになれるわけじゃありません。
「やりたいこと」と「得意なこと」が、一致する人はごく一握り。
仕事となればそこにさらに「求められること」という要素が加わります。
それらがどう重なるか。どう、重ねるか。
やりたいこと(興味・夢)
得意なこと(才能・経験)
求められること(需要)
「やりたいこと」と「得意なこと」という自分自身のことすらままならないのに、「需要」までがそこに完全一致する仕事なんて、巡り合えたら奇跡かもしれません。
それはまさに「天職」でしょう。
好きなことを地道にやり続けていく中で需要が生まれることもあれば、仕事はあくまでもお金を稼ぐ手段として割り切って、需要のみに注目して働いている人もたくさんいる。
働き方に決まった正解などはなく、人それぞれ、人の数だけのライフとワークのバランスがあります。
その意味でリリさんはかなり現実的で、
「やりたいこと」よりも、「自分の得意なこと」と「社会に求められること」を意識して、仕事――就職先を探していたことが語られます。
「國田家の芝桜」での会話では「家でやりたいことがたくさんある」と言っていたので、趣味レベルでは興味の幅は広いのでしょうが、「仕事は仕事」として切り分けて考えているようです。
一方で、
仕事にしろ何にしろ、行動は早め早めにするよう心がけている、という主人公に対しては、
「キミは好きなことを仕事にしてるんだもんね」
と理解を示します。
この言葉の意味を考えると、『好きでやっている仕事なら、時間に縛られないという気持ちは私にも分かる』ということでしょうし、『そんなに夢中になれる仕事を見つけられたキミがうらやましい』『自分もそんな仕事を見つけたかった』という本心もあるのかもしれません。
自分の得意を社会に活かしたい。
そんな想いで動物関係を含めて、いろいろと就職先を探すも結局は見つからず、「特にやりたいことではない仕事になんとなくで決めちゃった」ものの、半年もたずに(4月入社で5~7月で退社?)辞めるに至った。
リリさんの現状は、かつての主人公と似ています。
就職先が見つからないまま専門学校を卒業した20歳の頃の主人公は、自分が世の中から全否定されているような苦しみで就職浪人を経験し、数ヶ月苦しみもがいた末に、偶然、天職のような『ぐるり』の仕事を見つけました。
風雨来記3/Nippon Ichi Software, inc./FOG
「私達はまだまだこれからだよね」
それは過去に繋がり、そしてこれからの未来にも続く会話かもしれません。
⑦~ただ偶然出会っただけの関係~付知峡
ふたりのすれ違い。
リリは、下呂温泉での水着姿のとき以外では必ず、バンダナを身につけていました。
バンダナをつける、それは「再会の可能性を意識する」ことと同義です。
でなければ、そもそもつける意味がないですから。
彼女の旅の中で、主人公と似たような背丈の男を見るたび、
「あ、もしかして」と立ち止まっていたかもしれません。
そしてその腕にバンダナがないことを確認する。
今、自分は、安心したんだろうか。
それともがっかりしたんだろうか。
自分の手首に結んだバンダナを見ながら、自問自答を繰り返したことでしょう。
そんな末の、付知峡。
再会したとき、主人公がバンダナを身につけていなかったこと。
さらに、バンダナを落とした際の、
「取材も途中だし、バンダナならまた買い直すことだってできるしさ」
という衝撃的な言葉。
プレイヤーは主人公視点でモノローグを見ているため、「取材が途中だから」とか「買い直せばいい」というのはあくまでも方便で、本音は「リリを落とし物捜しに付き合わせるのが悪い」からだということを知っていますし、主人公が普段からバンダナを大切に身につけていて、付知峡ではたまたまつけていなかっただけということも把握できます。
(真鶴のイベントでも、彼がいつもリリのバンダナを腕に巻いて旅していることがわかります)
目の前にいるリリとの再会に浮かれていたせいで、あまり深く考えずに失言してしまったのでしょう。
それにしたって同情の余地がない、無神経すぎる一言ですが。
リリ視点で考えれば当然、彼がそのバンダナを肌身離さずつけていたことなんて分かりません。
事実だけをみれば、
芝桜(や下呂温泉)ではつけていたものの、今日はつけていなかった。
落としてもまた買い直せばいい、と言われた。
バンダナを探す私を、追いかけてきてはくれなかった。
という事実だけで、自分との関係性について「大事に思っていない」と不安になるのには、十分な材料です。
それから、そもそも、
なぜ自分はこんなにショックを受けているのか、という問題。
だって、「バンダナならまた買い直せばいい」。
そのはずだ。そのはず、なのに。
元々、あのバンダナは別に愛のこもったプレゼントではなく、「単なる目印」というだけで選んだもの。
再会したときに気まずくならないようにする、そのためだけの道具でした。
実用品に近い物です。
だったら、彼が言うとおり、見つからなければまた買えばいい。
理屈で言うなら、また似たようなものを買い直せば、それで何も問題ない、はず。
なのに、どうして自分はあんなに取り乱したのか。
どうして、今、自分はこんなに頑張ってバンダナを探しているのか。
そんなもやもやを、一人で何十分も抱えて。
そうしていると、彼が、追いかけてきてくれた。
気まずいのか会話がぎくしゃくしながらも一緒に探し歩いていると、突然前からやってきたカップルの男の人から声をかけられた。
「リリ?」
「えっ……あ……」
その腕には、赤いバンダナが巻かれていた。
じゃあ、自分が一緒に探していた男の人は、誰?
それに、彼の隣にいる女の人は。
後にこのときのことを、
「キミと他の男の人を間違えたこともショックだったけど」
「キミが他の女の人といるのを見て、頭が真っ白になっちゃった」
と述懐するリリさん。
人の顔を見分けられないリリにとっては、この岐阜の旅で再会を喜べるような相手は、いたとしても数少ないでしょう。
そのため、ひとつひとつの再会が良くも悪くも特別なもの。
けれど、彼にとってはそうではない。
ルポライターである彼にとっては、再会はただただ嬉しいもの。
私は、自分といるときの彼しか知らない。
読者の女の子と旅先でたまたま出会うことなんてあるのだろうか。
そうだとしたら、よっぽど熱心なファンじゃないのか。
私が思うよりもずっと、彼の仕事は多くの人に影響を与えているのかもしれない。
もしかしたら、彼にとっての私は、ものすごくちっぽけな存在なのかもしれない。
旅の中の、ほんの些細な、それこそ「偶然会った読者の女の子」と同じくらいのエピソードなんじゃないだろうか……。
人と出会い、話すのが好きな彼には、たくさんの「再会の可能性」がある。
――――自分は、その「たくさん」の内のひとりに過ぎない。
そんな不安でいっぱいだったのでしょう。
複雑な感情は、二周目以降のエンディングでも吐露されています。
「恋愛感情かどうかはまだ分からないけど、キミを一人占めしたいとは思ったよ」
一方、主人公がリリへの恋愛感情をはっきり意識しはじめたのは、この一件。
見知らぬ男と一緒にいるリリを見て、胸がちくりとする。
自分は、自分といるときのリリしか知らない。
結婚やお見合いの話をして、「キミとなら結婚もオッケーかな」なんて言われて、自分はリリにとって他の人よりも少しばかり重要な人間なんじゃないかと思ったりもしたけれど、それはただの勘違いだったのかもしれない。
そんな不安からかつい、言いがかりめいた暴言を吐いてしまったのでしょう。
主人公のこの言葉は、期せずして、リリにかつての失敗を思い出させます。
はじめてのデートで、相手の顔を間違えたことからはじまった苦い思い出。
軽い女というレッテルを貼られた中学時代。
動揺したリリは、ここで思わず『嘘』をつきます。
「それでも私が探してたのはキミのためのキミのバンダナなんだよ?」
元々は、そうではありませんでした。
バンダナは、「リリが」見分けるために主人公にあげた「リリのための目印の」バンダナ。
それはリリ自身がよく分かっているはずです。
でも、一方で、動揺していたからこそ、これがこの時の本心だったとも思えます。
関係は変わっていった。
最初の経緯はどうあれ、今は、リリにとってのこのバンダナは、思い入れ深い、『キミのためのキミのバンダナ』になっていた。
だから、簡単に買い直すことが考えられなかった。
自分にとってはそうなのに、相手にとってはそうではなく、買い直せばいいといわれたのがショックだった。
お互いの視点で、お互いの立場で、見えるものが違う。
「これくらい当然分かってくれるだろう」に、ずれが生じる。
すれ違い。
ですが、後から振り返れば、それは二人の関係を育てていく上で避けては通れない、必要不可欠なすれ違いでした。
「そうだよねー、そうですよね。別に私とキミは彼氏彼女ってわけでもないし?お互いがいつどこで誰と何をしようが勝手だよね」
「確かに、俺とリリの関係はただ偶然会っただけの関係だからね、どこで何をしようと勝手だね」
まるで中学生の痴話げんかのような口論の中、売り言葉に買い言葉でお互いに、自分で『現実』を言葉にして、自分で『再確認』してしまった。
言葉にしてしまえば薄すぎる関係性。
一緒にいた女性は、俺の記事の読者で、偶然会っただけ。
俺とリリの関係も、ただ偶然会っただけ。
友達ではない。
恋人でもない。
まじてや夫婦でも家族でもない。
旅先で、ただ偶然会っただけ。
この一件は、それぞれにとって、
「相手にとって、自分という存在は、自分が相手を思うほどには特別ではないのかもしれない」
という不安を通して、ここまで曖昧なままでいた互いの関係性をはっきりと見つめ直すきっかけでした。
このすれ違いがない場合、つまり月子さんと出会わず、落としたバンダナを自分で見つけて、その場ですぐにリリと仲直りした場合、
「俺はリリのことを何も知らないんだな」という呟きを最後に、以降、彼女と岐阜で再会することはなくなります。
再会するたび、初対面みたいによそよそしい彼女。
再会は嬉しくない、というのはその通りなのだろうか。
今でも、自分との再会は嬉しくないんだろうか。
そんな疑問を残しながら。
一方で、主人公が種蔵でのリリとの出会いに影響を受けて彼女の記事を書き続け、また岐阜の魅力を記事を通して発信し続けて来ていれば、月子さんとの出会いを通して、リリとの旅の縁はさらに先へ続いていきます。
自分は相手をどう思っているのか。
相手は自分をどう思っているのか。
彼氏彼女ってわけではない。これはその通り。
たまたま旅先で偶然会っただけの関係。
これも、その通り。
それらは確かに事実だ。
事実ではあるけれど、すべてではない。
お見合いや結婚について深く話した。
普段は人に話さない、夢の話をした。
仕事の弱音や失敗も話した。
綺麗なものや素敵なものを見て、話して、価値観を重ね合った。
全くの偶然で、何度も何度も巡り会って、楽しい時間を過ごした。
すれ違ってしまったけれど、また会いたい。
もっと、知りたい。
⑧~余白というこころの旅~キャンプ
想像の余地を余白と呼ぶなら。
ちあり編には、常に「余白」があります。
1日目から28日目まで、イベントシーン以外の、すべてが余白と言ってもいい。
「イベント」だけではない、会えない時間、会わない時間も含めた28日間の岐阜の旅すべて含めて、自分にとっては「ちあり編」です。
あの子、どうしてるかな、とか。
今日は会えないかな、とか。
あるいは、リリのことを考えていないとき、素晴らしい景色や思わぬ出来事に感動したり、面白がったりすること、旅をめいっぱい楽しむこと。
岐阜を巡る旅が自分にとって豊かなものになればなるほどに、その中で出会ったリリとの旅も、唯一無二の素晴らしいものに感じられるのです。
だから自分は、このゲームをするときは決められたストーリーだけを追うことはせず、毎回めいっぱいのスポットをまわるし、上位入賞も狙うし、とにかく何か新しい発見をしようという姿勢で挑みます。
そうすることで、点と点が結ばれるように、一見関係ないと思っていた場所同士が意味を持ってつながったり、リリさんをより理解し、好きになる手がかりになったりしていきました。
そんな余白について、ここではもう少し深く、語っていきます。
風雨来記4の「余白」の話は、これまでにも何度か語りました。
この作品は、一から十まですべてを語ることはほとんどありません。
主人公を含めて、その人がなぜそういう行動をとったのかは作中ですべては説明されません。
物語の余白、たとえば「ゲーム内テキストで描かれていない旅の部分」は、ユーザーの脳内補完に委ねられています。
バイクでの移動中。
取材スポット以外での時間。
コンビニやスーパーでの買い物。
あるいは夜や休日のテキストで語られる以外の時間(余白)に、主人公が何を考え、どう行動しているか。
リリに関して言えば、リリがどんな旅をしてきたか(もしかしたら酷道制覇していたかもしれない)、とか、27日目の二人旅(坂折棚田以外のルート)などは最たるものですし、それ以外のリリとのイベント内では毎回、テキストとして表示されない会話が必ずと言っていいほど示唆されます。
「その後もひとしきり他愛のないことを話して」とか「とりとめのない会話をしばらく交わしてから」というような、一見さりげない余白。
このわずかな余白の描写ひとつで、『ゲーム外』が無限大に広がります。
ゲーム内でテキストとして表示されるのは、膨大な会話全体のうちの、「物語的に重要な部分」であって、「すべてではない」のです。
そうした「表示されない余白」について、前後の文脈や作品のテーマ、あるいはプレイヤー自身の経験や価値観などと照らし会わせて想像し補完することで、その人だけの『旅』の足跡が、ゲームの中に形作られていくのだと自分は思っています。
話は少し変わりますが、自分がちあり編について「ちありルート」という言葉を使わないのは、ちあり編には自動で物語が進んでいく「固定ルート」が存在しないからです。
実際、PS4版では「○○ルートに固定された」という実績がちあり編にはありません。
ちありとの旅では、エンディングに入る27日目に至るまでは、物語が自動で進むことはない。
中継地点となるイベントスポットはあっても、ルートという決められた道筋はなくて、リリも主人公も自由にそれぞれの岐阜の旅をし続ける中で、その道が時折重なるに任せる。
会うも、会わないも、探すも、探さないも、最後までプレイヤー次第。
「固定ルート」がないために、ちあり編では、リリとのイベント以外の朝晩や各取材地でのテキストは、一人旅と同じ汎用テキスト。
ですから、付知峡での喧嘩別れとその夜のキャンプ以降は、「リリを探す」という主人公の明確な意志が「テキスト表示」されるわけではありません。
彼の感情は、余白の中にあります。
「作中で描かれているものだけ」を見るなら、普通に取材をして、普通に記事を書いて、最後まで今まで通りの旅が続いていくように見えます。
どうしてもリリに会いたい、仲直りしたい、という強い想いは「テキスト」からは見て取れません。
その腕にいま、バンダナが巻かれているのかどうかさえ、想像するしかありません。
けれど、テキストとして表示されるものがすべてではないというのは、ここまで語った通り。
たったひとつ、主人公の意志が感じられる朝の一コマがあります。
朝のメッセージにさりげなくまぎれた、ちあり編限定のテキスト。
なにげない一言に見える、今日の方針。
なぜ唐突に東濃なのか。
特に意味無くなんとなく思い浮かんだのかもしれませんが、これが汎用テキストではないことを考えれば、リリと影響を与え合った結果なのは間違いありません。
振り返ってみれば、リリの旅は多少蛇行しながらも、基本的に一筆書きの一本の線。
飛騨からモネの池で西に逸れた以降は南東に進んできているから、付知峡のあとならその南、東濃を巡っている可能性は高いと考えられるはずです。
当然、再会を意識していたでしょう。
それにしたって、東濃も広い。
偶然出会える可能性なんてゼロに近いだろうけれど。
東濃の方を巡ってみるのもいいかもな。
風光明媚(キラキラやばやばー)なところも多いし(リリに会えるかもしれない)。
それが無意識なのか、それとも強い意志を持った思考だったのかは、「余白」ですから、断言はできませんが――
何度か書いたように、リリにとってそうであるのと同じく、主人公にとってもバンダナを腕に巻く行為自体がリリとの再会への意識(期待)につながります。
付知峡以降では、「このバンダナはリリが自分を見分ける目印である」と認識が更新されたため、それがより顕著になったと思います。
馬籠でリリと再会したとき、主人公はいつ再会してもいいように、バンダナを身につけていました。
たとえばその日の朝、どんな思いで彼はこのバンダナを巻いたのだろう。
もし会えなかったから、その夜、どんな思いでバンダナをほどくのだろう。
そんな風にほんの少し「余白」を想像するだけで、「旅」の厚みは何倍にもふくらむのです。
⑨~バンダナはきもちを語る~馬籠
美味しいものを食べながら一人旅を満喫するリリさんに、声をかける主人公。
拍子抜けするくらい、一瞬であっさりと仲直りしてしまいます。
これは、リリさんにとって中学時代にはかなわなかったこと。
誤解から、自然消滅してしまった関係。
思わず「記念日」にしたいくらいに、嬉しい出来事だったのかもしれません。
今回は、月子さんが間に立ったことが大きかったでしょう。
彼女が主人公に「相貌失認」というキーワードを伝えたことが、関係の修復におおいに影響したことは間違いありません。
では「運良く」つながっただけの縁なのか、と言うと、これは決してそうではありません。
月子さんが岐阜にやってきたのは、主人公の記事に、「岐阜へ行ってみたい」と思わせる力があったから。
主人公の「仕事」が、人と人との縁……巡り巡って、彼とリリとの縁を結んだ、とも言えるでしょう。
同時に、主人公の心を動かして何度も記事を書かせた、リリ自身の魅力。
言葉や考え方など、リリ自身が歩み、培ってきた個性がつないだ縁でもあります。
それからもうひとつ、「テキストには書かれていない」重要なピースが、馬籠での再会時に、主人公も、リリも、ふたりともがバンダナを巻いていること。
モネの池で結んだ、おそろいのペアバンダナ。
「見分けるための目印」という確固たる役目を与えられた主人公のバンダナと違って、リリの方のバンダナの役目は、彼女の口からははっきりと語られていませんが……
最初は、「お揃い」、一緒に結び合うという形にすることで、主人公にバンダナを巻かせる理由付けにしたのかもしれませんが、今はそれだけではないかもしれません。
バンダナは、服に縫い付けてあれば別ですが、リリのように素肌に巻いている場合は、毎日何度か結んでほどいて、結んでまたほどいてを繰り返す必要のある装飾品です。
(たとえば下呂温泉ではほどいていましたね)
その都度のばして、たたんで、バランスを整えて、綺麗な形に結ぶ。
それなりに手間もかかります。
もう会えないだろうと諦めたり、もう会いたくないと拒否すれば、手間をかけてまでバンダナを巻く理由はなくなってしまいます。
仲直りしてから再び巻く、ではなく、再会時に巻き続けていたこと。
あんなひどい喧嘩別れをした後でも、
「それでも、また会いたい」
という二人の意志が、それぞれの腕にバンダナを巻き続けていることから見てとれます。
リリさん視点を想像してみてください。
口論して走り去ったあとのリリさん。
左手に巻いたバンダナを見るたびに、嫌なことを思い出してしまう。
もしかしたら、その場で外してしまったかもしれません。
勢いで外さなくても、一日の終わりにはどのみちほどく。
そして次の朝には、また結ぶかどうか、自分の心に向き合うことになります。
どんな想いだったでしょう。
どんな思いで、その腕に、今日も巻くことを決めたのでしょう。
(自分は馬籠で彼女を見つけたとき真っ先に、バンダナを巻いてくれているか確認してしまいました。それを見つけた瞬間、心からほっとしたのを覚えています。)
リリも、主人公も。
お互いが、相手の腕にしっかりと巻かれたバンダナを見て、それによって言葉に出すより確かな「また会いたい、仲直りしたい」という強い意思表示を見て取れたからこそ、より素直に謝り合えたのではないでしょうか。
「見分けるための目印」だったはずのバンダナが、お互いの素直な心を伝え合うアイテムになっていた。
「仲直り記念日」の余白の部分。
さりげないかもしれませんが、自分にとって強く印象に残るシーンです。
⑩~感動でも、奇跡でもない関係~馬籠
リリさんが人の顔を見分けられないことを知っている人は、そう多くはないでしょう。
親しくなるほどに言いづらい秘密。
相貌失認はリリ自身も知らなかったようにまだまだ一般的に知名度の低い症状ですし、知らない人にとっては「相手が自分の顔を覚えてくれていない」というのは理解しづらい、とてもショックなこと。
リリの症状について正確に把握しているのは、作中に名前が挙がる中では月子さんだけ。
その月子さんは、リリを置いて今は遠いところにいます。
お兄さんや両親は気付いているのかいないのか、作中の情報からは判断できません。
家族に関しては身近なぶん、顔以外で判別できる情報量が多く見分けやすいので、症状に気付かないまま普通に生活しているケースも多いそうです。
大人になって家を出て、しばらくぶりに家族に会ったときに見分けられず、そこで症状を自覚するのだとか。
もし、付知峡でのすれ違いがなければ、主人公に対してもずっと隠し続けていたままだったかもしれない。
風雨来記4
なんだろう、この気持ちは……
残念だとか、そういうのじゃない。
人の顔を見分けたり覚えたりする。
誰もが当たり前のようにできて、誰もが毎日気にもしないで日常的に行っていること。
それを自分なりに創意工夫を凝らして行わないとできないというリリの現状が、痛いほど心に染みてくる気がした。
風雨来記4全編を通して、自分が一番「怒り」の感情を感じるのが、リリさんのこの一言。
今でも見るたびにものすごく腹がたちます。
それは誰かに対してではなく、いつもポジティブで頭の回転も速いリリさんが、冗談めかして自分を卑下する、彼女にそうさせてしまう現状そのものに、とても腹が立ち悔しくなります。
だからこそその直後に、「リリはお馬鹿じゃない」と主人公が言葉にして完全否定してくれるので、胸がすくような気持ちになれるのです。
ときどき余計な一言を言ったり、大事なことを言わなかったりもする主人公ですが、本当に必要なときには必要な熱量で必要なことを言葉にしてくれる。
彼に対する絶大な信頼感が自分の中に生まれた場面でした。
「俺が言いたいのは、リリが人の顔を覚えられないのは、リリがお馬鹿だからってわけではなく、リリが悪いってわけでもなく……
そう、リリが悪いわけじゃない……だから、人の顔が覚えられなくても、リリは自分を責めなくていい……そういうこと。
俺の顔なんて覚えられなくても構わないし、そのことについて引け目を感じる必要もないから」
リリさんは幼少の頃から、相貌失認によって誰もが当たり前のようにできることができないせいで、他者から理解してもらえないことが多かった。
だから、必死で創意工夫して、常に頭をフル回転させてカバーして、人と関わってきた。
そうした生き方をしてきたためのくせなのか、一を聞いて十を理解するというか、普通の人の理解よりも速く深く思考を展開して、即行動に移してしまう。
そのせいで、お馬鹿……天然に見られることもあったのでしょう。
(先の話ですが、橿森神社での『電話』などもその一端かもしれません)
そんな聡明で不器用なリリさん。
ある意味「風雨来記4」、そして「母里ちあり編」を象徴するような場面はここからです。
リリさんにとって、もちろん、あんな喧嘩をしたあとでも主人公が自分のことをあれこれ思案してくれたこと、理解して、受け入れてくれたことはとても嬉しかったでしょうが、第一声は――――
「そっか……でも、それを私に言って、キミはどうしたいのかな?」
受け入れてくれたことに感動するのでもなく、怒っているわけでもなく、ただ質問する。
なぜなら、彼女にとっては「そこ」はとっくに折り合いをつけて乗り越えたところ。
中学のときには「その頃にはもう、そこまでコンプレックスを感じなくなってた」と言うくらいに。
リリが見ているのは、その先のこと。
自分の理解者……自分を理解し、受け入れてくれた人は、いつも遠くに行ってしまう。
だから、リリさんは自分の「個性」のせいで傷ついたり、打ちのめされることがあっても、自分なりに考えて、答えを出して、一歩ずつ前に進み続けてきた。
大好きな兄さんも、親友の月子ちゃんも、自分を置いて東京へ出ました。
自分がその後を追うように東京に出たころには、ふたりとも海外です。
人には、それぞれの道がある。
そして、『キミ』も……
キミにも、仕事という自分の道がある。
岐阜で「ただ偶然会っただけの関係」。
この旅が終われば、キミもまた東京へ帰り、次の旅へ。
遠くへ行ってしまう。
自分の現状を理解してくれても、遠く離れるなら――
この先会うことがないなら、意味がない。
だからこそ聞くのです。
理解してくれたのは嬉しい。
でもその上で、キミは私と、どういう関係になりたいのか。
大事なのは、それだから。
「それを私に言って、キミはどうしたいのかな?」
『感動させない』から生まれる『感動』
風雨来記4というゲームを俯瞰して見た時に、「相貌失認」はちあり編の最大のキーワードです。
顔を見分けられない、という問題をきっかけに、主人公とリリの物語はつながっていきました。
王道的なストーリー構成ならば、それを主人公が知り、理解し、受け入れることによって起こる「悩み、コンプレックスの払拭、解消」は、物語の山場。
ここぞとばかりに演出を盛り込んで、感動させたくなる、そんな場面です。
しかし、リリはとっくの昔に、自力でそれを乗り越えていました。
だから、目に見えるようなわかりやすい反応は返ってきませんでした。
感動を盛り上げるために、プレイヤーの感情を動かす情緒的なBGMをかけたり、あるいは喜びの記号としての嬉し涙をこぼさせたりするのは、エンターテイメント的なドラマ作りの「定石」であり、「王道」です。
元から「乗り越えていない」設定にする選択だってあったでしょう。
音楽やビジュアルでそれをさらに盛り上げることで、心に残るエモいシーンに仕立てる演出にもできたはずです。
でも、ちあり編ではそうはしなかった。
ビジュアルにしろ音楽にしろ見せ方にしろ、あるいは設定にしろ、なぜ、「盛り上げるための演出を入れなかった」のか。
真相の発覚も、それを打ち明けるシーンも、もっと言えば種蔵での最初の出会いから、同じく種蔵での別れのシーンさえもずっと、ちあり編自体が終始『いつもと変わりなく』進行します。
使われるBGMも限られていて、明るいものか、のどかで落ち着いたものだけ。
イベントスチルだって、八割が隣に並んでの穏やかな会話シーン。
特に曲に関しては、ゲーム収録曲の中にいくらでも選択肢があります。
切なさを盛り上げる「いえなかったことば」や「月下の素顔」
別れのシーンなら「旅立つ君のために」「俺の最高の…」
エモいシーンなら「心委ねた笑顔」や「あの日の約束」、「ひとときの別れ」など。
過去作の感動シーンでも使われてきた、そんな楽曲の数々。
最初はただ不思議でした。
なんで、曲がたくさんあるのに、使わなかったんだろうと。
意図的に、使わなかった理由。
あえて盛り上げなかった理由。
そもそもリリが、一人で乗り越えていた理由。
「エンターテイメント」を求めるゲームユーザーから、「演出が地味」とか「盛り上がりに欠ける」とか「恋愛要素が薄い」というふうに評されることも、おそらく覚悟の上で、あえて「感動させようとしない」理由。
作品を通して自分なりに考えたその理由を、ふたつ挙げます。
ひとつは「岐阜」を舞台にした風雨来記4という作品、そして母里ちあり編の根底に、「ふるさと」「遠くても、日常と地続きの場所」「『いつも通り』の中にある一瞬のきらめき」というようなテーマがあるから。
音楽や視覚による「感動的な演出」は、ダイレクトに心を揺さぶる反面、表現の機微や本当に伝えたいことを覆い隠してしまうこともある。
あえて盛り上げないこと自体に、「日常を表現する」という意味があるんじゃないか。
例を挙げるなら……
「『キラキラやばやばー』で、エモい場所!」をたくさん巡ってきたリリさんが、なにより一番喜んだのは「田んぼ」でした。
「感動させるための演出」とは無縁の、食べものを作るという目的の為にそこにある田んぼ。
それを見て、自然と心が動く。
自分自身の心の中にある思い出や感性を呼び起こし、感情が静かに湧き上がって、しみじみ嬉しくなる。
そんな、そういう感動を、ちあり編では表現したかったのではないでしょうか。
それはきっと、多くの日本人にとって「海の向こうの遠い観光地」という感覚の強い北海道や沖縄を舞台にしては表現できない、日常と地続きな「日本の真ん中」岐阜の旅だからこそ感じられる旅の喜びです。
後述しますが、「棚田の美しい風景」以上に、「近くで見る田んぼ」にリリさんは大喜びしています。
生まれ育った故郷の風景を重ねてみているのかもしれませんね。
ついでにいうと、もともと「風雨来記」の「感動曲」は、永遠の別れや、天涯孤独である初代主人公の心情をモチーフにしたものが多く、「いつも通り」のテーマの中で使うには表現が過剰すぎるように思います。
悩みを一人で乗り越えてしまう、根っこの属性がポジティブな母里ちありのイメージにはそういう曲は合わなかった、だから使わなかった(使えなかった)のかもしれません……。
特に根拠があるわけではない、単なる想像ですが。
「(別れるときも、)特別なことはせずに、いつも通りで」は、馬籠でのリリの記事に出てくる記述。
「今日はリリと約束した日。そして、最後の取材だ。ちょっとだけ厳粛な気持ちになる。……が、『いつもと変わりなく』」は、最終日のテキスト。
こうしたテーマについては、次回(5回目)にさらに詳しく触れます。
ひとつここで言っておきたいのは、「感動を盛り上げるための特別な演出がない母里ちあり編」に「自分はこれまでの人生でもっとも深く心が動かされて、しかもその熱は1年たった今も色あせることなくずっと続いている」ということです。
見飽きることのない、田んぼの風景のように。
話を元に戻して、今回掘り下げるのは、「感動させる演出がない理由」の、もうひとつの考察です。
それは、ちあり編ではドラマ的な感動よりも優先して、「風雨来記」というシリーズにおいての新しい答え=「二人旅という選択」に挑戦したから、というものです。
そのために、ヒロインが主人公とは無関係に、自分の力でコンプレックスを乗り越えられる強さを持っていることが必要だった。
「ヒロイン」という枠におさまらず、「自分自身の旅を進み、自らこの物語の行く末を選択することができる」、もうひとりの主人公。
そのせいか、ちあり編では、最後の選択は主人公からリリへと委ねられます。
リリがプロポーズするか、しないか。
主人公ではなく、彼女の選択で、二人の旅の行く先が決まるのです。
小学生のとき、親友の力を借りて吹っ切れて、他人の輪の中に飛び込んで。
中学、高校、短大、社会人――人生の中でとっくの昔に折り合いをつけて「どうしようもないこと」を乗り越えてきたリリさん。
…どうしようもない、と割り切っていなければつらいこと、大変なことが多かったでしょう。
「折り合い」を、物心ついたときからずっと、ひとつひとつ積み重ねてきたからこそ、「今の母里ちあり」の強さがある。
その言葉は、単なる強がりではなく、本当に大丈夫なのです。
実際に乗り越えているからこそ、「個性」が原因で主人公と喧嘩別れした後に悔やみはしても、必要以上に落ち込んだり自暴自棄になったりすることなく、美味しいものを食べて、温泉も楽しんで、いつ再会してもいいようにバンダナを巻いて、旅を続けてこられたわけです。
自分と向き合い続けてきたから、わだかまりをすぐに捨てて、主人公と仲直りすることができたのです。
この夜、主人公が自分の記事で書くように、
『リリさんは強い女性です』
自分なりに答えを出して、創意工夫をして、自分の力で自分の悩みを乗り越えられる。
そういう強さを持った人間だからこそ、素直な反面、頑固で偏屈なところもある主人公と強く影響を与え合えたのだと思います。
もし仮にこれが、「主人公によってずっと抱えてきた悩みを救われる」展開だったならば、どんなルートを通ったとしても、「主人公から仕事を奪う覚悟」につながることはあり得なかったでしょう。
救われた側には、感謝と、負い目が生まれてしまうから。
自分が助けて貰ったぶんを、自分も相手に返してあげたいと思ってしまうから。
これ以上助けて貰うわけにはいかないと思ってしまうから。
「あなたのおかげで私は前に進むことができた。
わたしの時間が動き出した。
だから、今度は私があなたの背中を押す番」
そう言って別れを選んだヒロインが、かつての「風雨来記」にいたように。
主人公と母里ちありの関係性は、岐阜に来てからずっと、常に対等でした。
だって、『ただ偶然出会っただけ』を、ひたすら繰り返してきた「だけ」の関係ですから。
リリは主人公を「キミ」と呼び、主人公もことさら彼女を年下扱いすることなく、救った、救われた関係でもなく、『ただ偶然出会い続ける』中で、それぞれの考え方を尊敬したり尊重したり、互いに悩みを打ち明け合って、互いに影響を与え合ってきた――
自分一人では考えつかない答えを、一緒に過ごす中で見つけ合える関係。
そうであるからこそ、ここから先の将来の話を、「自分が理解してあげたい」とか「もらった恩を返さないと」みたいな憐憫や負い目など余計な感情抜きの、ただ「もっと知りたい」と言う素直な気持ちのまま、前向きに話し合うことができたのだと思います。
「自分の気持ちに素直に問いかけてみると、俺はリリと上辺だけの付き合いをしたくない……んだと思う。
顔が見分けられないのと取り繕ったりしない、自然体のリリと話したい……
もっとリリのことを知りたい……」
『奇跡』からの脱却
ここまでずっと、偶然を重ねてきたふたり。
リアリストな主人公をして、運命という言葉を思考に浮かべてしまうくらいに。
だからこそ、どちらにとっても、「約束をして会おう」と切り出すのは、ある意味でものすごく勇気の必要な提案だったと思います。
「ただ偶然会っただけの関係」=「奇跡のような確率で、運命的な再会をし続けてきた特別な(非常にロマンティックな)関係性」を、一度壊す、ということになるからです。
「約束をして、デートする」
それは、「約束もしていないのに偶然再会してしまう」のと比べて、どこにでもあるありふれた関係性への変化。
変化はこわいもの。
自分が変化を望んでも、相手がそれを望むかどうかも、別問題。
だから、
「あのさ」
「もしよければだけど」
「~もらえないかな?」
と、(仕事で岐阜を旅している主人公への気遣いも込みで)やたら遠慮がちというか、予防線を張ったような言い方になってしまったのでしょう。
「俺としてもお互いの意思で会えるのは嬉しい」――
なら、キミからも誘えよとも思いましたが、この日の仲直りでは主人公の方が声をかけて先に謝ったので、今度はリリから、という形なのかもしれませんね。
この夜のルポ『リリさんと別れと』は、自分にとって風雨来記4の100を超える記事の中で一番印象深いものです。
設定上はこの後にも最終日に向けて記事のアップは続くのですが、実質的には、ちあり編の旅をしめくくる内容。
記事の選択肢は、色々なことを語り合ったリリさんとの別離が迫る中、自分はどんな風な別れ方をしたいか、というもの。
出会いがあれば、同じ数の別れもある。
別れは、新しいスタート。
いつかまた、巡り会う日のために。
特別なことはせず、自然に、さりげなく別れたいのか。
それとも、笑顔で別れたいのか。
以前にも語ったように、それは人生という旅での永遠の別離についても重ねているかもしれません。
それはさておき、この旅の中での「答え」はこの数日後、28日目の種蔵で出ることになります。
⑪~『選ばない』という選択~坂折棚田(一周目)
何度も言うように、余白が非常に豊富なことも、風雨来記4の、そしてちあり編の大きな魅力のひとつ。
27日目は、まさに余白の海。
リリさんとの旅を、無限に想像できる宝箱です。
真剣に考察するならば、一周目は、翌朝に種蔵を訪れるため、この日のうちにここから北上したと考えられます。
もしかしたら、ゲーム内では訪れられなかった白川郷にも足を伸ばしていたかも……
二周目ならば、翌朝に岐阜市内の橿森神社を訪れるために西へ移動するはず………
琵琶峠で和宮について語ったり、苗木城に登ったり、農村景観日本一展望台に立ち寄ったりしたかもしれない。
新旅足橋で日本一のバンジージャンプに挑戦したかもしれないし、39度の多治見で庭園を歩いたかも知れない。まさかの深沢峡やキングオブ酷道を駆け抜けた可能性もないとはいえません。
はたまた、通りがかりのお土産物屋さんや、道の駅の直売所をのぞいたり、たまたま見つけた名前もない道ばたの絶景ポイントを二人占めしたり。
漠然としていてもいい、そうした余白が「ある」ことを意識するだけで、ちあり編――リリさんとの旅がもっともっと広がりのある、豊かなものになると……個人的に思っています。
雄大な棚田に感動し、故郷に似た里山の空気にしみじみするリリさん。
しかしそんな棚田以上に、
近づいて見た「田んぼ」に、大はしゃぎします。
田んぼでこんなにテンションをあげて喜ぶリリさんが愛おしい。
正直言って、坂折棚田でのリリさんとの会話は、彼女が一言しゃべるたびに愛おしさが膨らむ一方でした。
写真を撮ってとねだるリリさんを皮切りに、
すぐそばの地面に腰をおろすリリ。
自然の中で遊び回った思い出を話してくれるリリ。
種蔵ではキミが誰か分からなかったと打ち明けるリリ。
大好きな兄さんや大切な親友とのエピソードを語るリリ。
中学時代の哀しい思い出を語ってくれるリリ。
どこか寂しげに微笑むリリ。
遠くを見つめる横顔のリリ。
リリさんの一挙手一投足が、ただただ愛おしい。
そして、リリの初恋の相手である兄さんに心の奥底から渦巻くくらいに嫉妬してしまう主人公もまた、愛おしいのです。
ここでの会話(過去話)にまつわるあれこれは、過去の記事で語っているので今回は詳しくは触れません。
「リリさんとふるさとの話」
「コンプレックスの話」
決断をしないという選択
最初は奇妙な再会と、兄に似ている親近感から興味を持って。
なんとなく、将来を考えるパートナー候補として意識し始めて。
共感して、喧嘩して、嫌なところも知って。
リリさんはいつからか、兄さんと似ている、という話はしなくなりました。
たぶん、知るほどに(主人公曰く神格化された理想の)兄さんとは「違う部分」が増えていったからではないでしょうか。
せっかくあげたバンダナを「買い直せばいい」なんてデリカシーのないこと言うし、中学時代の心の傷をえぐるような発言もしたし、それこそ中学生同士の痴話げんかみたいなひどいすれ違いもした。
年齢よりも落ち着いていると思っていたけど、意外と子供っぽいところも見えてくる。
もしかしたら、今のリリさんにきけば、「キミと兄さんはあんまり似てない」と答えるかもしれません。
だから、意識せずに、兄との思い出話をしたのかもしれませんね。
主人公が嫉妬していることにも気付かずに。
(気付いたら思い切りからかったことでしょう)
主人公に「この旅はリリなしでは語れない」とまで思わせたリリさん。
こんな時間が長く続けば幸せですが、時間は有限です。
「キミの取材は充実してた?」
「うん、リリとも出会えたし、あちこち巡れたし、すごく充実した毎日だったよ。
自分を見つめ直すこともできたし、いろいろな場所に自分の足跡を残せたと思う。
迷いも確かにあるけど、仕事についても見つめ直せたし、今回の旅もしっかり自分の胸に刻むことができた。
自分なりに自信もつけられたし、今回の旅は本当によかったと思う」
「充実してた?」と話を振られて、ここまで仕事について熱く語ってしまう男が、仕事よりも恋愛を選ぶ余地があるのか……当時の自分には全く想像できませんでした。
たぶん……リリさんにとってもそうだったんじゃないでしょうか。
「なんでもない」を一体どれだけみただろう…。
今も心えぐられます……
リリさんはあとで、「私には勇気がたりなかった」と表現します。
でも、それは裏を返せば、主人公に対する思いやりや優しさから生じた壁でもある。
主人公の持つ夢、仕事、生き甲斐。
知れば知るほどに、考えれば考えるほどに、踏み出す一歩が重くなるのは当然です。
以前、結婚の話を持ち出した頃のリリさんは――
「キミがあり得ないって言った展開……私がキミに見せてあげるよ」とか、「メロメロにして駆け落ち逃避行させてあげる」とまで宣言した時のリリさんはまだ、彼にとっての仕事の意味を深くは知らなかった。
知ってしまった以上、あの頃のように軽く切り出せないのは仕方ありません。
結局のところ、何がその人のためになるかなんて、当事者であっても分からないことが多いもの。
踏み出してみることで変わることだって、あるはずです。
20年前の北海道で、主人公の姉「千歳」が、こんな発言をしていました。
「轍君がもし誰かを追いかけるなら…転倒を恐れずに必死に追いすがるのよ。
風雨来記
そうすれば、きっと、転んでも自分で納得がいくから…
たとえ最悪の事態になったとしてもね…」
踏み出して、全力でぶつかって、それでもダメなことは、かなしくはあっても「全力でやったから」と自分に納得ができる。
踏み出さないことでダメになってしまうこと、あるいは踏み出さないことで、ダメかどうかすらうやむやにしてしまうことと比べれば、少なくとも「あの時勇気を出していたらよかった」と後悔することはないでしょう。
一方でそれは、自己中心的な行動、自己満足に過ぎないかもしれない。
追いすがって、転んで、自分は納得が出来ても、相手にとってはそのことが苦い傷として残ることだってあるのだから。
「絶対の正解」はない問題。けっきょく、答えは自分で出すしかありません。
そして、リリさんの選択は、「選ばない」ことでした。
主人公も同じく「選ばない」。
彼には、消去法的に「仕事」という選択肢のみが残る結果になりました。
一周目の旅では、ふたりともが、最後まで「選ばないまま」に旅の終わりを迎えます。
自分は……あくまで自分の考えですが、リリさんはこのとき、プロポーズして「断られること」はもちろん恐かったでしょうが、それよりはるかに、「受け入れられること=彼から仕事を奪ってしまうこと」の方がずっと恐かった、だから言いたいことをこらえたのだと思っています。
翌日の種蔵で、3位以内という厳しい条件を課したのも、『彼が上位入賞という結果を出すことで、プロポーズを断る可能性が高くなるから』なんじゃないか、と。
旅には慣れているつもりだ。
出会いがあれば、別れもある。
当たり前のことだ。
慣れて……慣れているはずなんだけどな。
⑫~今日の私が最高の私~種蔵(一周目ED)
27日目、坂折棚田を訪れた日の晩に、リリさんは主人公の記事をはじめて見たんじゃないか、と自分は想像しています。
タンデムでのバイク旅。
主人公の取材の様子を丸一日そばで見て、仕事に懸命にうちこむその姿にあらためて心うたれて、それでのひコンの記事を読んでみたんじゃないでしょうか。
それで余計に仕事を奪う勇気が出なくなり、「プロポーズ作戦」のハードルがさらに高くなってしまった…………
真実はわかりませんが。
「昨日は先延ばし、今日は厳しい条件をつけて。
私は最後まで逃げちゃった」
なぜ、厳しい条件をつけたのか。
普通に考えるならば、「プロポーズをする」というプレッシャーから逃れるため。
仕事に夢中な彼。
自分なんかよりもずっと仕事を大事にしていると感じた。
だから、プロポーズしても断られるとほぼ分かっている。
言葉にすることで、傷つく、関係が終わってしまうのが目に見えている告白。
それだったら、そんな告白はむしろしない方が、「あのとき勇気を出してプロポーズしていたら、違った展開があったかも」とささやかな可能性を胸に抱いて、「良い思い出」にして終われる。
人生には、AかBかがはっきりさせない、曖昧なままでおいた方が幸せなこともあるかもしれない。
でも、もし、万が一、万が一彼が受け入れてくれたら……
……その方が恐いかもしれない。
もし彼が3位以内という結果を残したとすれば、仕事がうまくいけばいくほど、私がプロポーズしたときに私ではなく仕事を選ぶ可能性はさらに上がるだろう。
きっと、間違いなく、断られる。
「断られるのは恐い」
「関係が終わってしまうのが恐い」
でも、
「受け入れられるのは、もしかしたらもっと恐い。
一人の人間から、人生をかけて懸命に打ち込んでいる仕事を奪うきっかけに、自分がなってしまうのはとても恐い」
「関係が終わるよりも、関係が変わってしまうのが恐い。
相手が、自分が、変わってしまうのが恐い」
矛盾でもなんでもなく、そんな両面での怖さ、種類の違う怖さが、リリさんの胸中で両立していたのではないかと思います。
リリさんと「神様」
神様。
本人は特に意識していないかもしれませんが、リリさんと神様というのは切っても切り離せない縁があるように思います。
ファンタジー的な意味というよりは、まず歴史・民族的な観点で。
彼女の生まれ育った島根は、毎年10月には全国の神様が集う出雲大社のある土地。
さらに「母里」という姓は、出雲国風土記における大穴持(大国主)の「自分が『守る』場所」という言葉が由来であり、伊邪那美命が眠る土地をもさす、由緒ある言葉です。
日本神話において国を生んだとされる夫婦神イザナギ・イザナミの伝承は、全国のいくつかの創世逸話を統合させたものとも言われます。
中でも特にイザナミと縁の深い土地のひとつが、島根です。
イザナギとの大げんかの末、夫婦別居を決めて最後を過ごしたとされる場所「比婆山」が、島根県安来市の母里という地域に比定されています。
また、それと同様に重要なのが、風雨来記4でも頻繁にその名前があらわれた北陸の「白山信仰」です。
山は、現実世界と天界の境界であり、そして生(イザナギ)と死(イザナミ)の境界でもありました。
「言葉」によってその境界をとりもつのが、ククリヒメという女神だと言われています。
(風雨来記4では、ちょうど月子さんがククリヒメの立ち位置でしたね)
白山信仰で祀られる「白山比咩大神」は、現代ではククリヒメ、イザナギ、イザナミの三柱をあわせた神と考えられることが多いのですが(4作中では、石徹白の「白山中居神社」がそう)、一方で「白山比咩大神=イザナミである」として単独で祀っている神社も存在します。
風雨来記4のDLCコンテンツで追加されたスポット「平泉寺白山神社」は、その代表例です。
北陸・東海地域は、古代から良質な黒曜石やヒスイの産出地で、火焔土器などの独創的な文化の発展していた場所。
もしかするとこの地域の「イザナミ(あるいはその元となった神様)」は、縄文時代からの山の神様だったのかもしれませんね。
(火焔型土器は新潟が特に有名ですが、岐阜の徳山ダム付近(旧徳山村)でも出土しています。
炎というより、豊かな清流を形取ったような非常に美しい土器です。
風雨来記4徳山ルートでも、徳山の縄文遺跡について触れられていました)
リリさんとの別れの地「種蔵」は、地域的にはほんの数キロ北側に行けばもう富山県。
位置的にはほとんど北陸というエリア。
白山も近いです。
島根と北陸。
出雲と高志。
遠く離れた場所ですが、同じ神様が神話の前後編みたいな形で祀られているのは、運命的なご縁を感じます。
モネの池での再会は、根道神社の前。
そもそもモネの池(仮称)自体が、この根道神社の神池。
根道神社は、古くからこの土地を守る「ここだけ」の地域神様です。
目の前には、板取川とのわずかな土地に、田んぼが広がっています。
うさぎ大好き・うさぎ推しなリリさん。
「島根」と「うさぎ」と言葉を並べると、出雲神話の稲羽の素兎を真っ先に連想してしまいますね。
岐阜、とくに美濃とイナバは非常に縁深い関係。
「神話」と「歴史」の境目の時代に、美濃を開拓したのが、因幡国とゆかりのあるひとたちだとされています。
皇族の血筋にも連なる由緒ある豪族と言われ、岐阜市内には、今も「いなば」に由来する神蹟や遺跡、神社、地名などが残されています。
岐阜市の中心部、岐阜城のある金華山もそのひとつです。
昔は、「稲葉山」と呼ばれており、岐阜城も信長以前は「稲葉山城」と言いました。
麓にある「伊奈波神社」は今も、「岐阜まつり」「三社参り」で親しまれています。
そして、ちあり編二周目において最後に訪れる場所となる思い出深い「橿森神社」に祀られている神様は、この「伊奈波神社」の神様の子供とされています。
色んな神様とご縁のあった岐阜の旅。
「まだまだ頑張れ」と応援してくれる神様は、はたしていったいどんな神様なのでしょうか。
親友の月子ちゃんも、ある種の神様のような存在かもしれませんね。
キミはそのままで――
「キミと私はここでお別れ」
踏み出せなかった自分は、ここまで。とばかりに。
彼女らしい強さ、前向きな諦観によって、彼女自ら、別れを選びます。
もし仮にたとえば。
主人公から「仕事を辞めて一緒になりたい」と本気で告白して、リリがそれを受け入れて結婚したとしても、リリ自身が変わらない限りきっとその関係はダメになる。
主人公がどうこうではなく、リリ自身が『自分のために彼の夢をあきらめさせた』と言う後悔にずっと苛まれることになるでしょう。
リリが本気で主人公に求婚するというのは、その覚悟が持てるかどうかにかかっています。
それでも一緒になりたいと思えるのかどうか。
そのためには、リリ自身の「ブレークスルー」が必要だったのだと思います。
一周目の旅では、最後まで壁を壊すことができなかった。
それでも、リリさんは、前に進み続ける主人公の背中を、言葉によって力強く押してくれました。
「キミはそのままでいい」
「一歩一歩、自分の道を進めばいい」
「憧れの背中に追いつかなくても、ずっとずっと追い続ければいい」
「そうして、いつか振り返った時」
「きっとそれはキミだけの道になってるよ」
リリさんの一番印象的な言葉をひとつ挙げるなら、自分は迷わずこの言葉を選ぶでしょう。
「キミはそのままでいい」
いろんな想いのつまった言葉です。
ただ現状維持を肯定する、ということではありません。
前後の文脈や、ここまでの旅を通して語り合ったことを踏まえて成立する言葉。
一般論でもありません。
母里ちありが、主人公のためだけに考えた、主人公のためだけの、主人公の未来に向けた言葉。
この先迷ったときに、バンダナと一緒に道標となっていく言葉。
そう、一般論ではない。
「誰でも」じゃない。
「キミは」です。
前に進み続ける旅にこだわってきた主人公。
迷っても、不器用でも、いっとき立ち止まることがあっても、自分の足で前に進み続けてきた彼だから、
『キミはそのままでいい』のです。
そんなキミだから、いつか振り返ったときに「キミだけの道がそこにある」のです。
バンダナに、「自分のこの言葉を思い出すための道標」という新しい役目を与えて、リリさんは、笑顔で主人公を見送ってくれます。
そこに涙はありません。
仮に哀しくても、泣くわけにはいかなかったでしょう。
リリさん自身が言うとおり、これは、「最後まで逃げちゃった」ための結果であったから。
先延ばしにして、条件をつけて、最後まで逃げてしまった。
自分の殻を破ることができず、結果はどうあれきっと踏み出すべきだった一歩を、うやむやにしてしまった。
もし、勇気を振り絞って全力でぶつかって、それでもどうしようもなかったなら、そのときは悔しくて、悲しくて、涙を流したかもしれません。
でも、今回はそうじゃありませんでした。
だから、立ち止まってしまった自分と違って、前に進み続ける主人公を全力の笑顔で見送ることが、リリなりの「けじめ」だったのでしょう。
二人が最初に出会った場所で、別れる。
かつて、初代風雨来記のメインヒロイン、時坂樹の「ノーマルエンド」がそうでした。
それは、自分がはじめて見た風雨来記のエンディングでした。
最後まで「先延ばし」にしてしまった結果なのも、最後に「一度目を閉じて、次に目を開けたところで旅が終わる」演出も、偶然か、必然か、リリのエンディングとおなじでした。
自分の道を、あらためて探し始めたリリさん。
最後まで逃げてしまったことを、いつまでも悲観はしないリリさん。
自分の力で未来を切り開いていける、強いリリさん。
今日は立ち止まってしまった。
今日は見送る側。
でも、前向きに、全力の笑顔で、先を行く彼の背中を押すことができた。
そんな最高のリリさんだから、
「今の私が最高の私なのです」、と自信満々で断言できる。
逃げること、先延ばしにするのも、悪い事ばかりじゃないのかもしれません。
今日できないことも、明日はできるかもしれないのだから――――
「さよなら、――」
頬にキス。
それから、いっぱいの笑顔で、最後の最後に――リリが名前を呼んでくれます。
ちあり編を通してたった一回、この、種蔵でのエンディングだけの特別なサプライズ。
「名前を覚えるのが苦手」と言っていたリリさん。
ずっと「キミ」で通してきたから、顔と同じように主人公の名前を覚えていないのかな、となんとなく思っていました。
でも、実は覚えていた。
あるいは、頑張って「覚えた」のかもしれない。
本当のところは分かりませんが、ともかく、最後の最後で「名前」を呼んで、送り出してくれました。
このブログのちあり編の記事で、デフォルトの「名前」ではなく「主人公」と表記している理由はいくつかありますが、ひとつは、このちあり編へのリスペクトからです。
ちあり編において、名前は「重要ではなかった」し、だからこそ「特別なもの」でした。
主人公の旅とリリの旅。
岐阜という、「お互いの住む場所の真ん中」で重なった、ふたりの旅。
別れたあとも、岐阜でのたくさんの思い出や交わした言葉が、これからもお互いを変え続けていくはずです。
その後の展開は、現時点では誰にも分からない。
たとえもう会うことがないと決めていたとしても、人も、環境も、変わっていくもの。
たとえば、野生動物をルポするライターとなったリリと、北海道でばったり再会するかもしれないし、島根の取材の仕事がきて主人公からリリに協力を依頼する日も来るかもしれない。
ある日突然、リリがぐるりの編集部に顔を見せる、そんな未来だってくるかもしれないし、
岐阜で数え切れないくらい再会したように、遠いどこかの町で、ばったり出くわすことも……可能性はゼロじゃない。
お互いが、立ち止まることなく、前に進み続けていれば――――
未来という「物語の余白」には無限大の可能性が広がっている。
だから、
「キミはそのままでいい」
⑬~路はつづいていく~一周目まとめ
この記事シリーズの第一回で書いた通り、ちあり編に存在するふたつのエンディングは『プレイヤー自身の選択』の象徴だと思っています。
旅にしろ、仕事にしろ、趣味にしろ、人生にしろ――節目節目で向き合わざるを得ない選択。
このままの道をいくのか、それとも、道を変えるのか。
一周目は、『キミはそのまま』で「前に進み、成長し続ける路」につづいていきました。
そこにも、もちろんさまざまな変化はあるでしょう。
それでも、道を曲げることなく、進んでいく。
たとえ別れを繰り返すことになっても、自分の信じる道を突き進む。
人によっては、そんな姿勢こそ、「風雨来記らしさ」の象徴かもしれません……。
正直言えば、自分にとってこのエンディングは、見ると今でも思わず拳を強く握りしめてしまうほどに悔しい。
リリは最後の一歩を踏み出せず、主人公も答えを出さなかった。
だから、プレイヤーも何も選択できなかった。選択肢が与えられなかった。
そんな不完全燃焼の旅とも言えるから。
けれど、人生においては、きっと不完全燃焼で終わる物事の方が多いのです。
心おきなく、悔いの無いようにと思って行動したとしても、すべてがうまくいくとは限らない。
心残りが、未練が、良い思い出となって、これからの旅を後押ししてくれる。
そんな風に感じさせてくれる、心に深く響くエンディングでした。
ちあり編のこのエンディングは、風雨来記の結末としては、もしかしたらこれでひとつの完成形かもしれません。
出会いがあるから、別れがある。
別れがあるからこそ、次の出会いがある。
これぞ風雨来記、というような「完成度の高いシナリオ」だと思います。
『キミ(風雨来記)はそのままでいい』
――ですが、「風雨来記4」は「そこ」で立ち止まらずに、
二人の旅の決着を、「選択」を、余白(想像の余地)で終わらせることなく、真っ向から力強く描ききってしまったのが、「ちあり編のもうひとつのエンディング」です。
最後に訪れる場所も、そこで繰り広げられる展開もまったく予想外。
リリの、主人公の、あるいは風雨来記という作品シリーズそのものの「ブレークスルー」への、新しい挑戦。
二人が全力を出し切ることができたなら、どんな展開になるのか。
それは自分にとって、「もし二人の旅の道がこの先も重なるなら、こういうふうになるのかな」という予想の壁のはるか上を飛び越えていく内容でした。
新しい旅は、変化を受け入れる未知の路とも言えます。
何が起こるか、自分自身の変化さえ予期できない。
信じる道だって、時にはいつもとちょっと違うルートを選んでみても良い。
勇気を出して踏み出したその先にも、路はつづいてゆく。
そんな未知を自分で切り開くたいへんな「旅」を、「愉快で楽しい」と感じられてしまえる人のためのルート……と言えるかもしれません。
「ひとつの完成形としての一周目の旅」があるからこそ、彼の仕事、彼の「ルート」を変えてしまうくらいの覚悟へとつながる、二周目の旅の本質が見えてくる。
次回は「二周目以降の旅」について語ります。
次回につづく
「順風満帆」。この言葉は、二周目の旅への布石かも知れません。
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