自分が風雨来記4を高く評価している理由のひとつは、この作品で語られる「過去と未来のとらえ方」のバランスがとても心地よいこと。
世の中のすべてが良い悪い関係無く変わり続けることを根底のテーマに。
過去から続いているものをなつかしみながら、現在を楽しみ、未来を期待する。
ゼロか1か、白か黒かでは語れない世の中を語る、そんな目線がとても好きだ。
風雨来記4のおかげで、すっかり忘れていた「風雨来記」という作品や、風雨来記シリーズそのものについてもあらためて「自分にとって特別な作品だ」と思えたし、岐阜についても、むかし美濃を旅した日々の思い出が次々に蘇ってきて「本当に良い土地だったな」と当時の気持ちを思い出すことができた。
そんな気持ちに押されるように2022年の夏は、三度にわたって岐阜を訪れ、いろいろな場所を旅をした。
2023年も岐阜を訪れるつもりだが、その前にこのブログで、2022年の岐阜の旅とそこで撮った写真をまとめておこうと思う。
そうすることで、新たな旅の課題や目標を、あらためてしっかりと意識できると思うからだ。
その前準備ということでもないが、今回は、15年前最初に岐阜を巡ったときの旅について、思い出した記憶をさらっと簡単に、備忘録代わりに綴っていこうと思う。
自転車での岐阜の旅
当時、自転車での日本一周の最中に立ち寄った岐阜県。
地図に書き込んでいたルートをみると、三重から北上し名古屋経由で、海津町より岐阜に入ったらしい。
風雨来記4だと、初期MAPでの一番左下あたり。
治水神社の南側だ。
夜の間に岐阜入りし、最初に訪れた場所は、「養老の滝」だった。
ついたときには真っ暗だった。
暗い中でも相当な水量を感じさせるドーーーと唸るような滝の音と――――
大学生らしき集団が、滝のそばで花火や爆竹を打ちまくって大騒ぎしていたことを覚えている。
そして翌日、あらためて。
養老の滝からの眺め。
風雨来記4でもほぼ同じままの景色が見られて懐かしかった。
養老の滝の、菊水霊泉。
しづちゃんのここでのイベント見たとき、「あれ、何かこの場所見覚えある気がする…」とそれまで忘れていた記憶がふっと蘇った。
ほとんど変わっていない。
1000年前からある場所なんだから、十年かそこらで変わらないのも当然といえば当然なのだろうか。
変わっているところもあるけれど、全然変わってないところもけっこうある。
タイムスリップしたような、パラレルワールドを見たような。
こうやって昔撮った写真をなつかしむのも、たまには楽しい。
珍しい生き物大好きなので、「天然記念物」という看板に惹かれて立ち寄った湧水池。
大垣の、ハリヨ生息地。
ヨは日本の古語で「魚」のこと。
発音的には、ィヨが近いらしく、「ウオ」と同源なのだろう。
ハリのようなトゲがある小さな魚なので、「針魚=ハリヨ」という。
こことあと一カ所くらいにしかいない、と聞いて結構興奮してこの写真を撮った記憶がある。
風雨来記4でも出てきた看板。
この看板の向かいに大垣観光案内所があって(風雨来記4でも健在で、ちゃんと確認できる)、そこのおばさん……いやおねえさんが、「こんなにたくさん荷物載せた自転車はおもしろそうなことをしてるに違いない」と言いながら、わざわざ外に出てきて話しかけてくれたのをよく覚えている。
この、「奥の細道むすびの地」の柱にはちょっとした思い入れもある。
ここに至る数日前に、三重県の伊賀に立ち寄っていた。
伊賀と言えば忍者の里として有名だが、芭蕉はその伊賀の出身のため、一説では「旅の俳人は世を忍ぶ仮の姿で、真の姿は幕府の密命を受けた忍者である」というひともいる。
忍者はともかく、日本一周をしていく上で、かつて日本の半分を旅した芭蕉の足跡をたどるというテーマは、とても面白そうだ!とこのとき思った。
「奥の細道のむすびの地」から、逆走するかたちでのスタート、と言うのも趣がある。
実際、その後の旅において、特に東日本各地を巡る際のルート選びには、芭蕉の足跡にはかなり影響を受けることとなった。
おかげで普通の自転車旅行なら絶対選ばないような山奥に導かれたりもして、色々得がたい体験だったと思う。
そんなきっかけとなったこともあり、大垣という街のことはこの日まで知らなかったけど、その後も未だに自分にとって大垣は、ずっとすてきな街という印象のままだ。
なので風雨来記4ではゲームの中で再訪できて、なつかしく、嬉しかった。
2022年の岐阜バイク旅では大垣は通過しただけに終わってしまったので、2023年はがっつりと探訪したいと思っている。
当時はまだ岐阜駅が改装中?で、周辺はかなり大規模に工事が進んでいた。
いちばん大きく風景が変わった場所かもしれない。
風雨来記4でプレイしたときも、2022年に実際に訪れた時も、「岐阜駅前ってこんなだったっけ?!」とかなり驚いてしまった。
岐阜市周辺のはずだけど、撮ったときの記憶がない。
訪れたのは5月の終わりだった。
一面の……たぶん、麦畑かな?
岐阜は小麦栽培が結構盛んみたいだ。
ここから各務ヶ原を通って、犬山、美濃加茂と、東へ移動した。
犬山城。
桃太郎神社。
桃太郎の伝承地としては岡山が代表的だけど(1960年代に町おこしとして大々的に喧伝した結果らしい)、全国に「桃太郎伝説発祥の地」とされる場所があって、その中でも木曽川周辺はかなりの有力地のひとつ。
岐阜にはこうした「桃太郎神社」があちこちにある。
桃太郎の昔話の成立は室町以降だけど、鎌倉時代のこの地域には、「八重羽の雉」という、「犬と鷹をおともに連れた妖怪雉の退治譚」があるのも、何か関係あるのかもしれない。
どこかの峠道。
木曽川の近くだとは思う。
飛水峡。
ここと、となりの「天心白菊の塔」はとても印象深くよく覚えていた場所だったので、風雨来記4で訪れたときすごく嬉しかった。
作中に出てきた、飛水峡を説明する看板も、15年前と全然変わってなかった。
ここで「甌穴(ポットフォール)」という現象(小さい石が川の流れで岩のくぼみに入り込んで、水流で回転し続ける内に大きな穴をつくる)を知っていたおかげで、旅のずっと後で訪れた沖縄の西表島で同じ様なポットホールを見たときに、真っ先に飛水峡を思い出した。
「岐阜でみたあれと一緒だ!」と。
「遠く離れた場所の点と点がつながる瞬間」というのは、自分にとって、長い旅をしていく中で最高の喜びのひとつだ。
だから余計に、飛水峡を印象深く覚えているんだと思う。
旅の出会いとか出来事というのは、その場その瞬間だけの楽しさだけじゃなくて、その後に思わぬ形でつながっていく。
そういう面白さを知る起点のひとつとなったのが、飛水峡だった。
撮った記憶はあるのだけど、どこか分からない神社。
なんだかやたら雰囲気がある。
ここを訪れたのは偶然。
迷い込んでしまった山道を必死で自転車こいでいたら、軽トラに乗った老夫婦が車を停めて、
「これ、食べて!」
と差し入れしてくれたのだ。
(ふたりのお昼ごはんだったんじゃないだろうか)
「そこの道の先に神社があるから、そこで一休みして食べるといいよ」
すっごく嬉しくて。
この出来事は、15年たっても色あせることなく、忘れたことはなかった。
岐阜の思い出、と言われればいまも真っ先に思い出す、忘れたことのない出来事のひとつだ。
神社の石段に腰掛けていただいた、手作りの朴葉寿司。
体も心もしみじみ震えるほどおいしかった。
いま、検索してみるとすぐにわかった。
神淵神社。かぶちじんじゃと読むらしい。
飛水峡から飛騨街道を山の中へかなり入ったところ。
奈良時代以前に建てられた神社で、スサノオとクシナダ夫婦を祀っている。
https://youtu.be/OWnvjmtBnJI
古代の岐阜と出雲の接点って、神話では不自然なまでに記述されないのだけど(※)、岐阜は出雲の神様を祀っている神社が非常に多い。
岐阜を旅をしていると、大和よりも出雲側の勢力であった時代が長かったんじゃないか、と感じることが少なくない。
※神話時代に唯一といっていい、岐阜が語られるシーンがアメノワカヒコ事件。
アメノワカヒコは「国譲り」の神話の中に登場する。
元々、高天原から地上へ、国譲りの交渉に天照大神から派遣された若神だったが、大国主の娘の下照姫と恋に落ちてしまいそのまま婿入り結婚してしまった結果、天照から直々に射殺されてしまった。(おそらく、天照大神に直接殺された神は日本神話史上アメノワカヒコだけだろう)
家族たちの涙の中で彼の葬儀が行われたが、やってきた下照姫の兄がアメノワカヒコとそっくりだったため、アメノワカヒコが生き還ったと大騒ぎになった。穢れた死人と一緒にするなと怒った兄が、葬儀の建物の屋根(喪屋)を切り飛ばしたところ、その喪屋は美濃に墜落した。この痕跡が美濃に、「喪山」と呼ばれ残っている。
そして現代でも、喪山周辺には大国主やスサノオ、八岐大蛇などが祀られている。
「喪山」には2022年に訪れたのだが、その話はまた今度。
つちのこ騒動で有名な東白川村。
風雨来記4で、つちのこ神社まで取り上げるとは思っていなかった。
余談だけど、自分はここでつちのこについて調べて珍獣探しにハマってしまい、その後の旅でもついついツチノコがいないか気にするくせがついた。
ツチノコは結局見つけられなかったけど、足元や周囲を観察するくせがついたおかげで、捨てられた仔猫と、ハブの赤ちゃんを見つけたことがある。
苗木城も、とても印象深い場所だ。
当時はまだ知名度が高くなかったのか、全然人がいなかった。
ほぼ一人占めだった記憶がある。
風雨来記4で訪れて綺麗になっていてびっくりした。
当時はもっと、山奥の野趣溢れる山城、という素朴な感じだった気がする。
ここは城自体のスケールがとにかくでかかった。
自分が、こののち「山城」巡りにハマるようになるきっかけだった。
そして、それ以上にそこで出会った「ご近所のおじさん夫婦」が印象に残っている。
「最近新しく家を建てたから、一晩泊まっていけ」と言って、ご厚意に甘えることになった。
その夜は、友人夫婦も呼んで、とても楽しい宴会だった。
そういえば、のちに北海道から海産物を送ったときに電話で話したきりだ……。
なつかしいな。
もう、顔も覚えていないけど、親切にしてもらった思い出だけは心に刻み込まれて、ずっと忘れることはなかった。
あれは恵那山だろうか。
風雨来記4でも、苗木城最上部の展望所から見えていた橋。
「中山道」の碑が印象的で撮った写真(だとおもう)。
調べてみると「大井宿」らしい。
どこか分からない。
鬼か山賊の伝承のある場所だったと思う。
(調べてみたら瑞浪市の「鬼岩公園」だった)
どこかわからないけれど、峠越え。
山の途中で水が切れてしまっていたので、道ばたの湧き水が本当に美味しかった。
体が資本の自転車旅は、水と食べ物が最重要だ。
バイクや車にとってのガソリン。
日常生活だとカロリーが高いものは避けるが、自転車旅においてはカロリーが高いものを選ぶ。
荷物の量や走行距離にもよるが、一日で4000~5000キロカロリーを消費するから、食べる量も内容も相応のものになる。
日本の山地は水が豊富なので、水切れを心配したことはほとんどなかったが、食べ物切れは何度か起こした。
ここは……、
今に至るまで、そしてこの先もずっと忘れることのない、思い出深い場所。
山奥の道路沿いにあった、鳥居の並ぶお社。
通りがかりになんだか雰囲気のある鳥居だなぁ、と軽い気持ちで立ち寄って、薄暗い木々の隙間を抜けると、小さな古い祠があって。
のぞき込んでぎょっとした。
すごく荒れ果てていた。
祠の屋根は傾いて、神様のお使いの置物が割れて、転がっていた。
一体なにが起きてこんな風になっているんだろう。
いつからこの状態なんだろう。
霊感なんてないし、ごく一般的な日本人程度の信仰心しかない自分だけど、そのときは、背筋が震えあがった。
失礼のないようにていねいにお参りして、その場を後にした。
その後しばらく怖かった。
何か憑かれたんじゃないか、たたりがあるんじゃないか、なんて不安になったけれど、そのあと結局とくべつ悪いことなど何一つ起こらなかったし、どちらかというと良い事の方が多かった(良い出会いがあったり)から、すぐに、自分にとって幸運の神様だったんだと思うようになった。
以降、このお社の祭神と同じ神さまを祀る神社を見かけると、必ず立ち寄って、感謝をお参りするようにした。
それは、15年を経て、今も続いている。
小さい頃に引っ越しが多く、特にはっきりとした「故郷」というもののない自分にとっての、いわゆる「氏神さま」なのかもしれない。
岐阜には小さなダム湖が、あちこちに点在していた。
ダム湖周辺の道路は起伏が少ない、整備された道路であることが多い。
景色もよく、自転車で走るには最高だった。
……商店なんかは皆無なのがときどきつらかったけど。
確か、このあたりだっただろうか。
山奥の集落で通りがかった、やたら大きなお屋敷の前で、「自分は豊臣秀吉の末裔だ、姫と呼ばれている」と自称するお姉さんに出会った。
自分が自転車で日本一周を目指していると言うと、本気か冗談か、私も自転車に乗ってついていくと言って家の奥に引っ込んでいった。
「ちょっと待っていて、すぐに準備をするから」と言うのだが、日も傾いていて先へ進みたかったし万が一ついてこられても正直困るので「先に行きます」と声をかけてその場で別れた。
その後彼女が本当に自転車で走り出したのかどうかはわからない。
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日本一の木製水車……だったはず。
道の駅おばあちゃん市・山岡
ここの駐車場では、通りすがりの三人組のおばちゃんに、応援の言葉と板チョコをもらった記憶がある。
自転車に荷物満載だと何かと目がつくらしい、どこから来たのと声をかけられることが多く、自転車で日本一周していると話すと、応援の言葉とともに、食べものを差し入れしていただくことが多々あった。
食べた分だけペダルをこげる。
毎日、日常生活の5倍くらい食べて、それでも痩せていく。
岐阜の山間部は人里離れると、十キロ二十キロ走らないと、食べ物を売っているお店がないのがざらだったから、本当に空腹の時のチョコ一枚の差し入れはものすごくありがたくて、こうやって写真を見たりすると、ふっと当時の記憶が蘇ってくる。
調べたら、「小里城大橋」らしい。
世界一の美濃焼こま犬。
日本一周中は、「こま犬の写真」を撮るのも個人的テーマのひとつだったので、これはとても印象的だった。
このこま犬のあとに長い上り坂があった。
登り切った頂上にあったコンビニで買ったがりがり君が最高に美味しかったなぁ。
この写真から15年以上たった2023年現在も、世界一は健在らしい。
自分の中ではながらく「美濃焼」と聞けば思い出すのは「あのでっかいこま犬」 だった。
小里川ダム。
当時どうしてこういう写真を撮り残していたかは覚えていないけど、なぜか二枚も撮っているので、かつて使われていた建物が湖に沈む風景に、何か感じるものがあったんだと思う。
これは浜名湖だろう。
岐阜を抜けたようだ。
撮影データの日時を確認すると、だいたい5日かけて、西から東へ美濃を横断する形で走り切っていた。
まとめ
当時は「岐阜」について美濃と飛騨の区別もついていなかったけど、あらためて見返すと、飛騨までは行っていなかったことがわかった。
2022年の夏の旅は、「生まれて始めて飛騨を訪れた旅だった」ともいえる。
というわけで次回から、そんな2022年の岐阜バイク旅について、書いていこうと思う。
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