突然ですが、風雨来記4母里ちあり編の「イベントシーン」において、リリさんが画面左側を向いているときは「未来に向かって、前向きな気持ち」で――――
右側を向いているときは「精神的に立ち止まってしまったり、不安、迷ってしまっている」ことが多い――――
ということにはお気づきでしょうか。
もちろんすべての場面ではありません(最初の種蔵のように、物理的に左にしか向けない場所もありますし)が、彼女の心情を考える上で少なからず参考になると、自分はそう思っています。
今回は例を挙げながらそんな「彼女の向く方向」について、語ってみたいと思います。
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今回の記事(補遺)はもともと「ちあり編を語るシリーズ第五回」記事として書いていた内容のうち、テーマから少し逸れるために最終的に採用しなかった部分を、単独記事として再構成したものとなります。
風雨来記4母里ちあり編のネタバレを含みます。
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過去向きと未来向き
種蔵での最終日のシーン。
リリさんが右側を向いている。
これは、日本人にとっては無意識に「過去・停滞」を感じさせる向きです。
そして、橿森神社での最終日のシーン。
ちありさんが左を向いて立っている。
これは、日本人にとって「未来・前進」を感じさせる向き。
こうした「向き」は、別に絶対にこうでなくてはいけないという決まり事、というわけではありません。
あくまでも、「第一印象で無意識に日本人はそう感じやすい」という、視覚印象・心理傾向のひとつです。
ではどうして日本人は、右向きを「停滞・後退・ネガティブ」をあらわす向きで、左向きが「行動・前進・ポジティブ」だと感じてしまうのかというと、大きく分けてふたつの理由があります。
ひとつは、「小説や漫画など、縦書きの本を読み進める方向」が左向き(右から左←)だから。
読み進める方向へ人物を向けていると前に進んでいるように感じるし、その流れに逆らった向きだと後ろを向いているように感じる、というシンプルなもの。
そしてもうひとつは日本文化における「舞台の上手下手」という考え方から。
もう少し掘り下げていきましょう。
まず、古来より日本では、「右から左へ←」物語を読み進める文化でした。
明治時代以降に横書きでは英語に倣って左から右へと書くようになりましたが、縦書きでは今でも右から左へと書きますね。
縦書き文章の書籍は、右から左へ読み進めますが、これは大昔から変わりません。
日本最古のビジュアル+ストーリー作品である絵巻物も、右から左へ←←←時間軸が流れます。
超有名な平安時代の絵巻物、鳥獣戯画。
ウサギとカエルが相撲で遊ぶ場面。
右から左へ←と時間軸が進んでいる。
ウサギの耳を噛んでひるませたカエルが、次の瞬間、ウサギを投げ飛ばした、というシーン。
右へ→と逃亡するサル。武器を持ってそれを追うウサギとカエルたち。
読み進めていくと、被害者(カエル)がひっくり返っていて、「なぜサルが逃げているのか」の解答が得られる。
このとき、巻物の進む向きと同じ左向きの動作や表現を「順勝手」。
反対の右→向きの動作や表現を「逆勝手」と呼びます。
順勝手は、前進や未来の向き。
逆勝手は、後退や逃亡の向き。
また、敵やハプニングは、巻物をめくった先、逆勝手で現れます。
紙に書かれたビジュアル表現のみならず、歌舞伎や能などの「舞台表現」でもまた、客席側からみて右が上手、左が下手。
明確な「上下」の意識があることから、そこには「向き」や「高低差」「時間軸」が生まれます。
例として、上手にいた人物が下手へ移動すれば「前進、旅立ち」であり、下手から上手への移動すれば「後退、帰還」です。
敵やハプニングはやはり、下手からあらわれます。
なぜ舞台に上手下手が決まっているのか、なぜ右が上手で左が下手なのかについては諸説ありますが、ひとつの説として、「元々舞台は神事で、屋外にあったから」と言うものがあります。
平城京や平安京において、皇居は南向きに作られています。
これは、古代中国の都作りにおける「天子は南面す(皇帝は南を向いて座す)」という思想の影響によるものと言われます。
南を向く理由は色々あるのでしょうが、やはり太陽の存在が重要でしょう。
北半球においては太陽は東から昇って、南の空を通って、西へと沈む。
日中は南を向けば、「面白」、常に顔が光で照らされる。
舞台も同様に、舞台の上に立つ人の顔に日が当たるように古来では南向きに作られました。
そうすると日が上がる方向(東)が客席から見て右側。
日が沈む方向(西)が客席から見て左側になります。
ここから上手下手の位置が定まったようです。
上手とは、「太陽が昇る方向」を指していたということですね。
余談ですが、「左遷」という言葉も、右(上手)にいた者を左(下手)に遷す、というところから来ています。
とはいえ、表現は決して「単一的」なものではありません。
たとえば、下手にいた人物が上手に移動しようとすることで上昇志向、挑戦をあらわす見方もできるでしょう。
上手にいる人物と下手にいる人物が逆転すれば、それは地位や立場の優位が入れ替わったことをもあらわします。
大事なのは、向きや位置そのものではなく、上手下手や向きという「情報」を使って、「何を表現するか」です。
芸術というよりも、構成……デザインに近い考え方かもしれませんね。
止まっていても、そう見える
右から左へと物語が進む。
現代においてもその流れは続いていて、漫画は右から左に読み進めます。
アニメや日本映画でも、基本的に右から左が「進む」方向です。
例を挙げてみましょう。
日本人は、特に前後の説明なく「走っている人間のポーズ」をみたとき、
これを「前に向かって走っている」と認識することが多く、
これは「何かから逃げている」と捉える傾向が強いわけです。
この向きだと、人間側が主人公で、マンモスに立ち向かっているシーン。
この向きだと、マンモスが主人公の物語で、人間に立ち向かっている動物ドラマ、というふうにも見えてしまいます。
ゲームにおいてもこの傾向は根強く、横視点のRPGやシミュレーションゲームなどでは、右側にいて左を向いているのが味方。
左側にいるのが敵方、というスタイルが基本です。
敵ユニットが味方になると向きが変わるのも王道です。
(例外もあって、「スーパーマリオ」などのアクションや格闘ゲーム、シューティングゲームなど、「瞬時の判断・頻繁な操作が求められる横スクロールゲーム」は逆に、「左が主人公側・左から右へ進む方向」へ進化しました。これは「リアルタイムで動くもの」に関するまた別の心理効果に関わると言われます)
さて、ここまで「日本では」と強調してきました。
実は右向き、左向きをどう捉えるかというのは、国、文化ごとに全く違います。
たとえば西洋文化においては日本とはすべてが真逆で、古代から左から右→へと眺めていく文化が主流でしたし、舞台でも客的からみて左が上手、右が下手と捉えられてきました。
ですので、たとえば動画の再生マークや早送りは右向きですし、YouTubeのシークバーも左から右へ動きます。
つまり、西洋の映画やゲームでは、日本とは逆に、左向きはネガティブ、右向けがポジティブを感じさせる表現……ということになります。
このため、ジャンルによっては海外へ輸出する際に「左右を反転」することも珍しくないそうです。
意外と知られていない、感覚の違いです。
とはいえ、これらはあくまでも「そういう傾向、前提がある」というだけの話。
例外も山ほどありますし、人間の脳は左右問題に関しては結構柔軟で、前後の文脈、演出などから「あ、これは左から右へ進むんだな」「これは右から左へ進むんだな」と流れで自動判断してくれるようです。
読み進めてしまえば、たいした問題にはなりません。
だから、向きについて必要以上にこだわる必要なんて全くありません。
ただ、日本の多くの作品は、
基本的に画角に自由度があるときは、前向きや未来をあらわすなら「左向き」。停滞や過去をあらわすシーンでは「右向き」で表現する「傾向が多い」
という程度にゆるーくとらえておくと、表現を理解したり、作り手・撮り手の(意識的、無意識的な)創作意図を想像し、楽しむ上でひとつのきっかけになるんじゃないかと思います。
ちあり編の「構図」
そんな前提を踏まえてちあり編を見ていけば――
最初は「右向き」(過去・停滞・不安)だったリリさんが、岐阜の旅、主人公との会話で「正面」を向き、時間をかけてだんだん「左向き」(未来・前進・希望)が多くなっていくこと。
迷いもありながらも、それを乗り越えて二人で手をつないで、一緒に前進する。
構図からも、そんな風な意味を見いだせると、自分はそう思います。
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補遺③につづく
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