去年一年自分なりにいろいろなことに取り組んだ中であらためて、自分は考えることが好きだ、考えて自分なりの答えを見つけることが好きだ、そしてそんな考えたことを文や絵や写真、いろいろな形で表現するのが好きなんだと、強く思った。
これからもたくさん、表現することに挑戦していきたい。
そんな中で、自分にとっての理想の絵や理想の写真について、少しずつ考えがまとまってきた。
イメージはまだまだ曖昧だけど、ただ、方向性はなんとなく自分の中にある気がする。
絵を描くように写真を撮れるようになりたい。
写真を撮る様に絵を描けるようになりたい。
これは技術や芸術性の話ではなく、自分の「心持ち」の話だ。
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「絵のように」ではなく、「絵を描くように」写真を撮りたいと思う。
絵を描くときは対象をものすごく観察する。
実際描く時間よりも、観ている時間やイメージしている時間の方が多い。
ある絵描き曰く、手と目と脳を1:1:1で使うのが絵だ。
今まで撮ってきた写真は目の前の景色を記録として何も考えずにただ切り取っていたけど、これからは、いつもは無理でも、心が震える瞬間に出会ったときには「絵を描くように」集中してよく観て、考えて、感じて……誰かに伝えるための写真を撮れるようになりたい。
「写真のように」ではなく、「写真を撮るように」絵を描きたい。
写真を撮るときは、完成形をイメージしながら、時には息をとめてその瞬間を切り取る。
シャッターチャンスを狙ってじっと待つことはあれど、いざ撮るとなれば一瞬だ。(星の写真を除いて)
絵を描くときはついつい絵を描くという行為そのものの純粋な楽しさで、時間を忘れて夢中になってしまいがちだ。
もちろん、それは決して悪い事じゃないけれど、自分にはどうしても表現したいもの、もっと言えば誰より自分自身が見たいものがあって、それを表現するために絵を描いている。
「描きたいもの」「見たいもの」を忘れないために、あらためて緊張感を持つ必要があるんじゃないかと思う。
心の中のシャッターチャンスは、意外と短いから。
一瞬に集中して、「写真を撮るように」自分の中の「シャッターチャンス」を逃さず、描き出す。
そんな姿勢で、絵を描きたい。
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そんな想いを抱きつつ、今回は風雨来記4「モネの池」にからめて、考えたことを書いていく。
風景写真のルーツ
「感動した風景を見たままに残す」。
これは、カメラがあれば簡単なことだ。
現代ならスマホひとつあれば事足りる。
「いや、カメラが生まれる前だって、野外に出て絵を描くことで風景を見たままに残すことはできたのでは?」と思うひともいるかもしれない。
でも、「屋外で風景画を描く」という行為は産業革命の恩恵によるもので、実は近代の特権。
せいぜいここ150年くらいの話だ。
それ以前は、動植物のモノクロスケッチなどはともかく、彩色画となると「絵の具一色作る」のも「作った絵の具の管理」もとても大変だったため、絵画とは基本的に「屋内のアトリエにこもってやるもの」だった。
それが、産業革命が起きて工場生産が爆発的に発達したおかげで、今では当たり前となった「チューブ入り絵具」が普及し、「風景を描きたい画家は、チューブ絵の具を持って屋外で絵を描く」ようになった。
この経緯は、風雨来記4の中でも主人公によって、かなり詳しく語られていた。
「デジタルカメラとネットを使って実際に旅をしながらリアルタイムルポを書く」という旅日記スタイルと、どこか近しいものを感じる。
季節によって、日差しの強さが違う。
色鮮やかに風景が映える「夏」と、どこか大人く落ち着いた印象のある「冬」。
感覚的には、夏は太陽の距離が近くて、冬は遠い、だから夏は暑くて冬は寒いのだ……というような気がしてしまうけれど、実際は太陽と地球の距離はずっと一定で、違うのは「角度」だ。
夏は、太陽の軌道が高くて(約80度)、冬は低い(約40度)。
この「角度」の違いが、日照時間や大気の屈折など環境に複雑に影響し合った結果、気候の変化を生んでいる。
そして季節のような長いスパンの話だけじゃなく一日の中でも、太陽が昇って沈む間の角度の変化によって、光の屈折や透過、あらゆる条件が常に変動し、ものの見え方も変化し続けている。
モネはこうしたその一瞬一瞬の「光の見え方」を表現することに狂気的なまでに心血を注いだ画家だ。
逆光。
地面に落ちる影のコントラスト。
空や周囲の草花に光が乱反射、日傘からは光が透過し、白いドレスを青や緑、黄、紫など鮮やかな色に染めている。
この絵は戸外で、数時間で完成させた、とも言われる。
その瞬間瞬間の光の印象、その場に吹く風をそのままに描くためには、できるだけ短時間でキャンバスに描き留めなければいけない。
モネも含めた印象派画家の作品は、歴史的な名画とされる作品も、制作にかけた時間は驚く程短かったりする。
たとえば37歳で生涯を閉じたゴッホも数千点という膨大な作品を世に遺している。
平均して一日一枚、時にはそれ以上のペースで作品を完成させたとも言う。
影によって存在を、断片によって全体を暗示する
日本人の類い稀な美意識はいつも私を魅了してきた。影によって存在を、断片によって全体を暗示するその美学に、私は共感をおぼえる
というのは浮世絵を始めとする日本美術を収集し影響を受けた、モネによる言葉。
モネの描いた絵の中でも、睡蓮をモチーフにした連作は約250点に昇るそうだが、これを描くために自宅の庭に日本風の庭園を造って実際にそこで過ごし、時間と共に移り変わっていく光や風を絵の中に写し込んでいった。
「自分の目で見た景色を見たように描く」ために、そこまでしたのだ。
wikipediaより 実際にモネが自宅に造った日本風庭園「水の池」
写真を撮るように絵を描きたい
そんな歴史に残る画家の話をしたあとで自分のことを語るのもおこがましいけれど、芸術家ではない自分にとっても、何かを表現する上で――文章でも、絵でも、写真でも、なんでも――やっぱり「表現対象への新鮮なイメージ」は最重要というくらい大事だ、と思う。
たとえば絵は、時間をかけようと思えばいくらでも時間をかけられる。
50時間、100時間とかけて一枚の絵を完成させる。
去年はそんな絵を何枚も描いたと思う。
だが、その過程で「仕上げること」に夢中になって、最初に描きたかった心の中のイメージがどこかに霧散してしまうことが少なくなかった。
あれ。もともと何を描きたくて描き始めたんだっけ。
そう、何度思ったことか。
確かに、絵というものは時間をかけただけ完成度は上げられるかもしれない。
こだわってこだわって、描き上げたときに満足し、充実感があるのは確かだ。
でも、かけた時間だけ良い絵になるかと言えば、必ずしもそうではない。
鉄は熱いうちに打てとも言うように、時間をかけた分だけ、ある段階から魅力が落ちていくことだってある。
絵から魂が抜けていく。
うまくは仕上がったけど、描きたかったものとは違ってしまった。
そんな感覚を感じたのは、一度や二度じゃない。
20時間かけた一枚の絵より、最初の衝動、感動のままに2時間で集中して描ききった絵のほうが、「自分にとって良い絵」になることだってままある。
だから、あらためて今年は。
自分の心の中の動きや震えの一瞬一瞬を、手放さず、忘れないようにしたい。
何に心を動かされて、絵にしたいと思ったのか。
それを、ちゃんと描き留められるようになりたい。
絵に写し込めるようになりたい。
すごい絵、完成度の高い絵、ではなく、その瞬間の自分の心をそのままに写しだした絵。
そんな、「写真を撮るように」絵を、描けるようになりたい。
絵を描くように写真を撮りたい
目に見えるその風景をそのままに切り取って残す。
後で見返したときに、思い出せるように。
記録のための写真。メモ代わりの写真。
自分にとっての「写真」というものは、ずっとそういうものだった。
最初のカメラは、風雨来記の相馬轍さんに憧れて、当時はまだ黎明期だったデジタル一眼レフを選んだ。
これ
風雨来記をやるまではカメラのことは全く知らず、デジタル一眼レフの存在さえ知らなかったけど、結果的に良い選択だったと思う。
北海道一周や日本一周、石垣島や西表島など、このカメラを持ってずいぶん色々なところを旅した。
カメラのシャッターというのは消耗品で、たくさん撮ると動かなくなる。
このカメラも二度ほどシャッターが動かなくなって修理に出しつつ、8年近く使っていた思い出深い道具だった。
最高400万画素という現代のスマホカメラの半分以下の解像度で、今見ると画質がすごく荒いけど、自分の目的……「思い出を残す」ぶんには十分だった。
その次に買ったカメラは動画撮影もできるミラーレス一眼。
これ
選んだ理由というのも特になかった気がする。
たしか、たまたま家電量販店でセールだったから買ったような。
軽くて、丈夫で故障もなく、東京徒歩旅行や初バイクでの四国九州ツーリング、南米旅行などずいぶん長く10年以上使っていた。
昨年夏の岐阜の旅の途中でとうとう電源が入らなくなった。
カメラについては我ながら本当に疎く、自分が長年使っていたこのカメラが、実はレンズが交換できるということさえ、故障してから調べて始めて知った。
枚数だけなら何十万枚も写真を撮ってきたのに、今の自分からすればびっくりするくらい「カメラ」について興味がなかった。
だからカメラが壊れた後も買い換えることなど特に考えず「スマホがあればいいか」と思っていた。
冒頭に書いたように、自分にとっての写真というものはずっと、
目に見えるその風景をそのままに撮って残す。
後で見返したときに、思い出せるように。
そのためのものだったから。
なので、去年機種変更して使い始めた、iPhone13proのカメラにものすごく満足していた。
iPhoneのカメラは、「目に見える風景をそのまま残したい」という自分の目的に十二分のスペックを発揮してくれた。
高画質だし、ぱっと見の見栄えもとても良い。
狭いところでも広角レンズで広い範囲を写せるし、遠くの物も望遠レンズである程度切り取ることができる。
軽い、小さい、便利!
「もうiPhoneで十分じゃん、これからは旅に重いカメラを持って行かなくてもいいな!」と本気で思っていた。
少なくとも岐阜の旅では98%満足していたといっていい。
残りの2%は、まだ望遠性能が弱いので遠くのものを写すときにちょっと不便だな、というくらいだ。
これもあと数年もすれば、きっと解消されるだろう。
日常でも旅先でも、いつでも取り出せてすぐに撮影できる。
最高の記録写真媒体だ、と思った。
ちょっと余談になるが、ipad(大型タブレット)での写真撮影もなかなか面白い。
性能なんかはiPhoneとほとんど一緒だけど「写真を撮る」という感覚ではなく、「タブレットに映った現実の風景をそのままキャプチャする」という感覚。
「写真」ではなく「現実スクリーンショット」という感覚。
カメラともビデオともイラストスケッチや写生とも違う、自分視点感というか、世界が拡張したような、なんとも不思議な感覚がある。
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なのに、なんでだろう。
最近になって、もっと写真で表現してみたい、と思うようになった。
写真を楽しんでみたい、撮ることそのものを楽しんで観たい。
「ただその場所、その空間をあとで見返すための記録として写すだけ」ではなく、絵を描くように創意工夫しながら「作品としての写真」にも挑戦してみたい。
自分の感動を、一枚の中に表現してみたい。
iPhoneでもそれはできるかもしれないが、今の世の中にもあれだけでっかくて重いカメラを持ち歩く方々が溢れかえっているのをみると、きっと間違いなく、「一眼カメラ」で撮る方が楽しいはずだ。
どうせなら、撮って楽しいカメラを手に入れたいと思ってしまっている。
2023年自分の旅では、「記録としてではなく、楽しみとしての写真撮影」がテーマに加わるのかもしれない。
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なんだか不思議だ。
絵については「写真を撮るように描きたい」と思い、写真については「絵を描くように撮りたい」と思うんだから。
でも、この感覚が自分の中で、不思議と結びつきかけている。
なんだかその先に、「自分にとっての理想の表現」が待っているような、そんな気がする。
まとめ
今、AI技術が飛躍的に発展していて、これからは「写真に撮る」「絵を描く」以外にも、「AIに望む物を出力させて選ぶ」というような分野も発達していくと言われている。
あるいは、「写真」でも「絵」でもない「今はない新しい何か」が、溢れる世の中になるのかも。
けっこう歴史的な瞬間に居合わせているのかもしれない。
色々なもの、色々なことが便利になっていく。
そんな中でも、お腹いっぱいになってしまわないように、「自分にとって本当に必要なもの」「自分が本当に好きなもの」を見失わないようにしたい。
時代の流れの中で、表現というものの意味がこれからどうなるか分からないけれど、自分にとっての表現の軸はたったひとつだけだ。
文を書くこと、絵を描くこと、写真を撮ること、旅すること、動画を作ること、その他もろもろ、表現するということ。
自分にとっての表現の原動力は、リリさん。リリさんがいるから。
リリさんが好きだ、その気持ちが根っこにあるだけで一生分楽しく表現をし続けていけると今日も本気でそう思っている。
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