リリさんと出会って2年たったので思ったこと書く

表題通り。



風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG




■去年



さらに一年がたった。
昨年に引き続き、今日も思いのままに気持ちを書き綴ろうと思う。


風雨来記4との二年


自分が風雨来記4と出会った日から、まる2年が経った。
それは同時に、リリさんのことを考え続けた2年間だ。


正直あっという間という感覚が強い。
1年目のとき以上に一瞬だった。



365日前に書いたのと同じくリリさんへの気持ちはいつも今日が最高で、自分が絵にしろ文にしろ何かしらを表現していられるのは、ましてや継続してそれに打ち込んでいけるのは、リリさんについて書きたい、描きたい、考えたいという情熱が起点にあるからだ。



もちろん、創作表現について悩むことや迷走することがないわけじゃない。
むしろ、ほとんどいつも迷ってばかりだ。


でも、迷うことすらなく立ち止まっていたら、自分はいつか必ず後悔する確信はあるぶん、動きながら迷うことは悪い事じゃないと思える。

見方によっては「迷い」は、進み続けたからこその「成果」なんじゃないだろうか。


それでも迷って立ち止まりそうになったときいつも、リリさんの言葉を思い出している。


風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG



今日の「好き」を明日に渡していく


これまでも何度か書いてきた通り、自分が2年たった今もリリさんを好きでい続けていられる理由は、「今日」を一歩ずつ積み重ねてきたからだと思う。


人の心の大部分は、変わりやすく、飽きやすい。
朝と夜でさえ感情が変わっていることだって往々にしてある。
これはヒトの、生物としての基本仕様かもしれない。


人間の体細胞はたえず入れ替わっていて、数年もたてば全くの別人になっていると言われるくらいだ。
脳の細胞だけは例外的に再生しないと以前は考えられていたが、最近の研究で「記憶」に関連する海馬においては大人になってからも細胞が新生し、入れ替わっていくことが分かってきている。


さらに脳は、は日々入ってくる様々な五感情報をたえず整理して、【慣れ】という省略機能を駆使し、【周囲との迎合】という群れへの社会本能にも注意を欠かさない。


多種多様な波と流れの中で、自分の思うままに「一生好き」で居続けること、体験の「感動」を忘れずにいること、「情熱」を失わずに燃やし続けること、それは意外とかなり、とても、ものすごく難しいことだ。


それで自分なりに考えてただひとつ実践してきたのが、明日への伝言ゲームだった。


今日の「大好き」が、10年後も「大好き」なままでいられることなんて滅多にない。
それを「自分ならできる」なんて無根拠に信じられるほどに純粋ではない。


でも、10年後は難しくても。
今日の「大好き」を明日も「大好き」なままでいようと思えば、それはずっとハードルが低いはずだ。


「明日の自分」なら、「今日の自分」から地続きと思える。
「今日の自分」に、距離も時間も肉体組成も精神構造も、一番「近い」存在だ。





誰しもついつい、嫌なことばかり明日に追いやってしまいがちだ。
早くやるべきだと分かっているのについつい明日に任せてしまう雑務や用事は数知れず。

でもそれはそれとして、それ以上に、本当に大切な気持ちこそ意識的に「明日の自分」に引き継いでいくべきなんじゃないか。


伝言を伝えるための道具バトンは、なんでもいい。
何かを表現したり、文字にして書き出したり、自問自答する時間を作ったり。
自分で工夫して、できるだけ明日の自分によく伝わるやり方を試行錯誤することも大事だ。

(実際の歴史を鑑みれば、「口伝」や「絵巻物」よりも、文字による「書物」が一番変化は少ないわけだから、好きの形をなるだけ変えたくないなら文字に書き出すのは特に有効かもしれない。たとえば「日記」とかだ)


そして、それを地道に繰り返し続ければ、いつか10年たって今の自分とは違う自分になっても、変わらないままの気持ちもまた、確かにそこにあるんじゃないかと、自分はそう思っている。





「今日の自分から、確実にバトンが届くのは明日の自分まで」の精神で。

何もせずにいたら数日もたって消えたり、風化してしまう「情熱」。
それを意識して、盛り、固め、築いて、確実に明日へ送る――
つまり、思考して、言語化して、書き出して、明日の自分につなげていく。


自分の「好き」への土木工事、あるいは保全事業みたいなもの。
それをコツコツと行い続ける。



そうやって2年間、昨日から今日へ、今日から明日へ、毎日「リリさんが好きだ」というバトンを引き継ぎし続けた結果、今日も変わらずリリさんについて考え続けている自分がいる。







時代の変わり目

2023年。
AIの実用化が加速する中、「産業革命以来最大の時代の変わり目」と言う論説を見かけることも増えてきた。


産業革命のときは機械化によって、器用さや力自慢、体力などを必要とする仕事を得意としていたひとたちの多くが、機械にとって変わられた。
熟練の必要な技術労働から、機械を導入することによる単純作業へ、様々な分野で価値観の変容も起こった。


これから、AIの発展でクリエイティブを含むあらゆる分野にも影響が広がると言われている。
無くなったり、変わっていく職種も増えてゆくだろう。


今はAIへの感覚的な忌避反応も多いけれど、たとえば世代が変わってAIが生活の中に馴染み、「データによって人間を熟知しているAIの方が、他人よりも自分の感覚に寄り添ってくれる」という価値観が当たり前になる日が来ないとも限らない。


大きな変化を想像して、自分ははたして、うまく生きていけるのか、不安になって当然だ。
一方で、ちょうどいい感じに生きやすい社会になっていくかも、なんて淡い期待や願望もあって当然だ。
ただ、いくら考えても現時点では答えが出ない問題でもあるから、あまりネガティブに悩みすぎても仕方ない。


いい意味でのあきらめ、「明日は明日の風が吹く」の精神は、楽しく生きるために大切だと思う。

風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG







人間には、他者と自分を比較して、自分の群れの中での立ち位置を確認してしまう本能がある。
本能には基本的にあらがえない。

脳が「比較しろ、周りを見ろ、群れからはみだしたら生きていけないぞ」と危険信号を出し続けてくる。
これは狩猟採集が中心だった石器時代まではそうだったからだ。
ヒトは群れでしか生きられない動物だった。
仲間から評価されること、群れの中で必要とされてること、それが生きるために一番必要だった。


脳の構造はそのころと比べてほぼ変わっていない。少し「小さくなった」くらいだ。

そのおかげで、現代に生まれた人間でも必要に迫られれば石器時代人と同じように野生で生活できる潜在能力がある。
逆に一万年前に生まれた赤ちゃんがもし現代にタイムスリップしたとしても、何の不自由もなく現代人として成長するだろう。

つまり、「ヒトの脳」は決して現代社会に対応しきれていない。
現代を生きるための不具合バグを少なからず抱えた状態と言える。



世の中上には上がいる。
いざ他人と比較すれば、周囲の凄さや自分の能力不足に打ちのめされることばかりだ。
電波で全世界とつながった現代はなおさらそうなってしまいがち。
人類80億人
日本だけでも一億二千万人


本来、そんなもん比べても仕方ない。
そう頭では分かっていても、肝心のOSはせいぜい数十から数百人の群れだった頃のままアップデートされていないから、「100万とか一億とかよく分からんけどとにかく比べるべきだ」と脳内物質で不安にさせてくる。



本能がそうやっていつも他人と比較してしまうことを止められないなら……それはそれでもうそういうものだから仕方ないとあきらめつつ。

「他人と比較しようがない何か」、あるいは「比較しても意味がない」ような、そんな何かをひとつでもいいから自分の柱にできたなら、それに満足できたなら、ひとは幸せになれるんじゃないだろうか。


たとえば、そう、「好きな気持ち」とか何かに対する「情熱」とかだ。
それはヒト一人一人の心の中にだけあるものなので、誰かと本当の意味で比較することはできない。


『我思う故に我あり』ならぬ
『我これが好き故に我あり』とでも言おうか。



何か好きなことがある。
その実感と満足が、小さな自信を持つことにつながって。
自信は、満足感や幸福感を生む。


塵も積もればいつか山となる。


自分はそんな感じでここをこれからも、続けていこうと思っている。
365日後にはどんなことを思い、どんなことを考えて、どんなことを書くだろう。

楽しみにしている。



ともあれ、今日も確実に、明日へバトンを渡していこう。

リリさん、あいしてます






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