バンダナを腕に巻いて帰宅した千尋と、バンダナを巻いた男に思い出のある姉が、家の玄関でばったり会う話。
千歳:千尋の姉。弟にバイクや旅、キャンプ技術等を教えた師匠でもある。
かつて北海道のバイク乗りの間で語られた伝説のライダー「女王蜂」。
千尋:千歳の弟。26歳。旅雑誌「ぐるり」のライター。
取材で一ヶ月間岐阜を巡っていた。年の離れた姉に頭が上がらない。
轍(テツ) :千歳が20年前に北海道で出会ったライダーの男。
旅雑誌「ふうらい」と契約するフリーのルポライターだった。
【注意】
・風雨来記1、風雨来記4に着想を得た二次創作小説です。
・ネタバレ注意:【ちあり:二人旅エンディング】後を想定したエピソードです。
・ゲーム内では、千尋の姉の名前や過去作とのつながりは明言はされていません。
・当サイト内に掲載している二次創作物について不都合等がありましたら、お手数ですがページ上部もしくは下部の問い合わせ欄よりご連絡くださいませ。
プロローグ:東京
腕に結ばれた鮮やかな赤いバンダナ。
それが目に入った瞬間、長年代わり映えのない我が家の玄関に、北の澄んだ風が吹き抜けた気がした。
カーテンから光が差すように、遠い記憶が顔をのぞかせる。
『行けるところまで行って、疲れたら寝る。その繰り返しだよ』
あれは誰の言葉だっただろうか。
私? それとも…。
……
瞬きとともに郷愁が過ぎ去ってしまえば、目の前に立っているのは何のことはない、一ヶ月の長期出張から帰ってきた『弟』千尋だった。
赤ん坊の頃から見てきた歳の離れた『弟』を、私は今、誰と見間違えたのだろう。
気をとり直して声をかける。
「おかえり、千尋」
「ああ、ただいま、姉貴」
やけに弾んだ声が笑顔とともに返ってきたのでちょっと意外に思った。
一ヶ月の取材、キャンプ生活に加えて、東京まで走ってきた直後とは思えないくらいだ。
「お疲れ様。お土産、先に届いてたわよ。お米に野菜にお酒に……父さんも母さんも、喜んでた。私もあのマグカップ、気に入ったよ。ありがとう」
「ああ、美濃焼ね。そう言われると、選んだ甲斐があったよ」
「……良い旅してきたみたいだね」
「うん、良い旅だった」
「なんだか嬉しそうな顔してる」
「あー、実はさ」
千尋は、まるで明日晴れたらツーリング行きます、みたいな自然な調子で、
「俺、結婚して、島根に住むことにしたよ」
と言った。
「へぇ。そう。いいじゃない。結婚して島根に……」
……
「結婚?!島根に住む?!!」
びっくりして、つい大きな声をあげてしまう。
そんな私を見て、弟は、楽しそうに笑った。
「あはははは、やっぱり驚いたな」
「それは、驚くわよ……えぇ……なんで突然結婚?どうして島根?
まさか、私をからかうための冗談……じゃ、ないわよね?」
「そんな冗談言わないよ。でも、あはは、姉貴のそんな顔見たの、俺はじめてかも」
そんな顔…。
こっちこそ、こんなふうに屈託なく歯を見せて笑う弟を見たのは、いつぶりだろうか、と思う。
実年齢よりも年上に見られがちで、よく言えば落ち着いている、私に言わせれば妙に年寄りじみたところのある弟が、子供のように笑っていた。
【Ⅰ:女王蜂と弟】
晴天の霹靂とはこういうのを言うのかもしれない。
出発前、千尋から岐阜について、どんな県だと感じるか意見を求められた。
思い浮かんだままに、海がない内陸県だ、程度の感想を返した気がする。
千尋の不服そうな反応からして、それは満足のいく内容ではなかったようだった。
聞かれたから快く答えてあげたってのに。
仕返しに、あんたもライターなら自分で調べなさいよ、と物書きのプライドをつついてやると、東京でもネットでもなかなか欲しい情報を見つけられなかったから、現地の図書館で調べることにするよ、と肩をすくめていたっけ。
ほんの一ヶ月前のことだ。
私には数日前のことにさえ感じる、何気ない日常のやりとり。
それが、だ。
行って、帰ってきて、ただいまもそこそこに出てきた言葉が「結婚して島根で暮らす」ときた。
さらに聞いてみれば、向こうの家業は農業で、婿入りして後を継ぐ……今の会社も辞めるつもりらしい。
数年前、この玄関で、郵送されてきた採用通知に飛び上がって喜んでいた千尋の姿が、今でもありありと思い出せる。
就職がうまくいかず、何度も心を折られながら、とうとう本当に自分のやりたい仕事と巡り会えた、千尋。
入社と同時に四国の取材を任されて以降、北海道、関東、東北……と日本各地を駈け回っていた。
これが自分の天職だ、と言わんばかりに、楽しそうに出かける千尋を見ていると、私まで嬉しかったな。
その千尋が、仕事を辞める……
男子三日合わざればなんとか、とかいうむかしの格言があったっけ。
何がどうなって、あの旅バカでライターバカの弟が突然仕事を辞めて結婚、なんて考えへと至ったのか、まったく想像もつかなくて。
驚き、寂しさの次に湧き上がってきたのは、興味だった。
長旅から帰ったばかりの弟を立ち話させておくのはさすがに忍びないので、リビングに場所を移した。
千尋が自室へ旅の荷物や仕事道具を運び込んでいる間に、私はミルでコーヒー豆を挽いている。
久しぶりに、弟に私のコーヒーを飲ませてあげたくなったからだ。
煎れ立てのコーヒーを、最高気温39度の町で買ったというマグカップに注いでいるところで、ちょうど千尋が戻って来た。向かい合ってテーブルに着く。
「このカップ、見た目もだけど、飲み心地も気に入ってるわ」
「うん。……ああ、姉貴のコーヒーはやっぱりうまいなぁ」
それからしばらく、無言の時間が穏やかに流れる。
私はコーヒーを楽しむ弟をぼんやりと眺めていた。
玄関先で軽く聞いた話では、島根の彼女との関係は、飛騨で知り合い、その後も偶然の出会いが重なったことから始まったそうだ。
旅先での予期せぬ再会。
それは、そう珍しいことではない。
長く旅をすれば、程度の多寡はあれど誰にでも、どこででも起きる話だから。
たとえば、最初の出会いのときに、人と人の間にある周波数…チャンネル?みたいなものが繋がるのかもしれない。
その日の天気とか、体調や気分のノリだとか、価値観や興味の向きとか、バイク乗りならマシンの機嫌や交通事情だとか。
さまざまな歯車が奇妙にかみ合うことで、ほんの数秒、寄り道や信号待ちでズレたら二度と会うことはかなわなかったかもしれない人と人が、再び、三度と、結びつく。
私自身にとっても、そうした再会は馴染み深いもの。
旅の魅力のひとつよね。
そんなことを考えながらマグカップを空にし、なにげなく千尋が腕に巻いている赤いバンダナに目をとめて、はっと思い当たった。
……ああ! ああ、そうか。
先ほど、玄関で感じた郷愁を思い出す。
轍(テツ)くん、だ。
【Ⅱ:女王蜂の追憶】
もうずいぶん昔。15年…いや、20年は前かな。
東京-函館を結ぶバイク専用列車がなくなり、道東行きフェリーも廃止になるという噂が流れて……
それでもまだ、夏の空の下をブンブンと飛び回るバイク乗り達を『ミツバチ族』なんて呼ぶ空気がかすかに残っていた時代の、北海道。
何年も訪れるうちに、いつからか一部のバイク乗り達に「ジョオウバチ」だなんて恥ずかしいあだ名をつけられてしまった私が、わずかな期間に片手で数えきれないくらい繰り返し巡り会った男の子がいた。
それが、轍くん。
若くて、がむしゃらで、純粋で、夢に真っ直ぐで、どこまでもいつまでも走っていってしまいそうな。
それでいて、時々消えてしまいそうなくらい寂しそうに遠くを見るから、思わず抱きしめたくなってしまう、風と草の匂いのする男だった。
『走れるところまで走って、疲れたら寝るって感じですよ』
昔の、まだ純情な少女だった頃の私と同じ言葉を口にしたものだから、嬉しくって思わず笑ってしまったっけ。
出会いだけは温泉だったけど、再会はいつも、どこかの駐車場だった。
約束もないし連絡先も知らない。
お互いの目的地の途中にたまたま顔を合わせては、わずかなひととき、言葉を交わすだけの関係。
『千歳さんも、以前は走れるところまで走って、いたんですよね?
走らなくなったのは、何かを見つけたからですか?』
『…そうねぇ…どうでもよくなったってのが正解かなぁ…』
『それって、夢を諦めたんですか!?そんないい加減な…』
『私が探して得たものってこのいい加減さ、かもしれないね。だから私は適当に走るのよ…走らないコトも、もっと走るコトもできるのにね…』
『限界まで走りたくはないんですか?』
『走りたければ走る。走りたくない時は走らない。そして絶対に後悔しない。
……ねぇ。キミがもし、誰かを追いかけるなら…転倒を恐れずに必死に追いすがるのよ。
そうすれば、たとえ転んで、最悪の事態に陥ったとしても、自分が納得できるから』
随分たくさん会話した気もするし、実際は全て足してもせいぜい数時間程度のやりとりだった気もする。
細かい身の上話をしたわけでもない。
でも、お互い、似た傷を抱えていることはなんとなく分かった。
ライダーとして、旅人として、根っこの部分で通じ合えた瞬間が確かにあったと思う。
彼の純粋さが、その時の私はほんの少しうらやましかった。
傷だらけなのに歯を食いしばって前へ前へと、走り続けようとする彼の姿が、あのひと……私の最初の男性(ひと)のようでもあり、昔の私自身のようでもある気がして、とてもまぶしかった。
何かしてあげたくて。
せめて、抱きしめてあげたかったけれど。
『そうなったら俺、もう二度と一人じゃ歩けないような気がするんだ…だから』
『馬鹿だよね…私、一時の恋だってわかってるのに…続かないって知ってるのにね』
『千歳さんにも。きっといい男はどこかにいますよ。女王蜂に刺されても平気な、ヒグマみたいに面の皮のぶ厚い男がきっと…』
『ヒグマぁ?! いったな…こいつ!! あはははははっ』
風雨来記「女王蜂イベント~女王蜂の素顔」より
そうして、お互いの旅の無事と再会を願って、別れたのだ。
ふふっ、なつかしいな。
左腕に結んだ赤いバンダナが印象的なコだった。
ちょうど千尋が、今巻いているみたいに。
だから、思い出してしまったのね。
決して容姿が似ているわけではないのに、不思議だわ。
……こうしてみると雰囲気がちょっと……近いのかな。
なんだか、思い出の中の轍くんが目の前にいるみたいで、ほんの少しだけドキドキしてしまった。
【Ⅲ:バンダナの彼女】
今更ながら、千尋にどうして腕にバンダナなんか巻いてるのかと聞いてみると、
「姉貴はさ」
千尋は空になったカップをテーブルにそっと置いて、神妙な顔になった。
「姉貴は、旅先で出会った人と、別の場所で偶然再会したら、嬉しいって思うよな」
「そうね」
もちろん相手にもよるけど。
「俺もそうだ。でも、岐阜で出会った彼女は、『嬉しくない』って言ったんだ」
「ふぅん?」
「旅先では、誰も自分を知らない、出会っても、もう二度と会うことはない、その気楽さを魅力に感じてるからって」
「うん、旅にはそういう良さもあるわよね」
「だけどさ、俺と再会したときは、すごく楽しそうだったんだ。向こうから声をかけてくれたし、こっちが心配になるくらい、人懐こく距離詰めてきて」
「なら、さっきの言葉は本心じゃなかった、と言うことかしら」
「でもその次に出会ったときは、また初対面のようによそよそしくなってた」
「なんだそりゃ」
話だけ聞いていると、ずいぶん面倒くさいやつに思えるわね。
私の心中を察したらしい、千尋は苦笑して、
「わけわからないよな。
俺もそれが原因になって、すれ違ったこともある。
彼女にはOKもらってるから伝えるすけど、うちの家族以外には話さないで欲しい。実はさ」
念をおしてから、語った。
人を外見で見分けることがとても難しい。
彼女は、そう言う体質らしい。
親や兄の顔、親友の顔、初めて会う他人の顔、それらの違いさえ全くわからないのだという。
当然千尋の顔も覚えられないので、どこかでまた偶然出会ったときのために彼女が目印として結んだのがこの「お揃いのバンダナ」なのだそうだ。
「このバンダナは、彼女にとって、俺の顔なんだよ」
優しい表情で、そっと、バンダナをなでる千尋。
……まあ、話は分かったけど。
それなら彼女と離れている今は、そのバンダナをつけてる必要ないじゃない、と指摘すると、これが腕にあるとあの子とつながってる気がするから、と照れ笑いをした。
ゴン。
私がテーブルに置いたカップが、思いのほか大きい音をたてたので、千尋はびくっと身を震わせた。
おっと、いけない。
別に、イラっとはしてないわよ? ……そんなには。
身内の惚気話を事細かに聞き出す趣味はないけれど、まだあとひとつ、腑におちないことがあった。
千尋が『結婚という道を選んだこと』だ。
旅の中、再会を繰り返し、距離が縮まり、それがやがて、恋愛感情に発展する。
これはわかる。
自分を省みても、思い当たる節のひとつやふたつ…
うーん、十や二十でも足りないわね。
私のことはさておいて、この数年、北海道や今回の岐阜ほどの長期出張こそなかったとは言え、ずっと仕事仕事、旅から旅へ飛び回っていた千尋。
近頃ではたまに、根を持たず風来坊を続ける男達特有の「匂い」を漂わせることさえあった。
旅人としてのこの子の、私と価値観の近い奔放な部分と、私とは違う生真面目で融通のきかない部分の両方を知っているからこそ、いっときの勢いや単純な恋愛感情だけで結婚を決めたわけでないとは信じているのだけど……。
自分の旅よりも、彼女との結婚を選ぶ。
そんな決心へ至るまでに一体、どんな経緯があったのか。
私が疑問を口に出すと、千尋は首を振った。
「『仕事』よりも『彼女』を選んだのは確かだけど、『彼女』と『旅』を天秤にかけたわけじゃないんだよ。いや、かけたのかな。旅の形は変わったとしても、彼女となら……いや、順を追って話そうか。ええと、」
思い出すように天井を見上げ、ゆっくりと話し出す。
「あれは確か……5回目にあったときだったかな。彼女が『お見合いも悪くないかな』って言ってさ」
「お見合い?」
脈絡なく出てきた、場違いにも思える単語に首を捻る。
「彼女、実家の両親からお見合いをすすめられていたんだよ。出逢ったばかりの頃は、自分にとってはお見合いなんて時代劇の中の話だって、すごく嫌がってたんだ。だけど、岐阜を旅するうちに、心境の変化があったらしい」
「ふうん?」
「お見合いだからって理由で嫌がるんじゃなく、まず会って話をしてみてから、嫌かどうか決めようかな。そう思うようになったって。それで、こうも言った。
俺と出会う先々でこうやって話しているのも、お見合いみたいなものじゃないかって」
「へぇ」
数えきれないくらいの旅人と語り明かしてきたけれど、旅の再会をお見合いに喩えるのは、はじめて聞いたかもしれない。
同時に、なるほど面白い、と納得してしまうくらい言葉に説得力があった。
言われてみれば、互いの価値観とか仕事や趣味の話を通して、少しずつ互いの理解を深めていく過程は、確かに似ていなくもない。
ということは、今回の仲人……二人を結びつけたお節介焼きさんは、岐阜という土地、ということになるのかしらね。
『旅』と『お見合い』
それは、会話をしないと人を見分けられない彼女だからこそ、思い至った発想なのかもしれない。
「……て感じで、お見合いの話の流れから、予告プロポーズされてしまって。
次から次へと言動が読めなくて思考がついていけないのに、理由を聞くと妙に納得させられてしまうのが、また面白くてね。
いつの間にか、この人ともっと話したい、もっと知りたいって。あれは、恋愛というより、新しい土地を訪れた時のワクワクに近かったな」
なんとなくだけど、話を聞いている限り、彼女の方も千尋に対して似たようなことを感じていたように思える。
『お見合いも悪くない』って発想になったのって、見知らぬ相手だった千尋と再会のたびに会話を交わして、思うところがあったからなんじゃないのかな。
「そのとき彼女、『結婚は、ゴールじゃなくてスタートだと思う』って言ったんだよ」
「うん?」
「『結婚は一緒に夫婦になっていくスタートライン。この人となら歩いていける、そんな信頼関係が築ける相手かどうかが自分にとっては大事だ』って。
俺が、結婚に対して前向きに考えるようになったのは、その言葉に心を動かされたからだと思う」
「そうなの?それって、そんなに目新しい考え方でもないんじゃないかって思うけど」
「そうかな。そうなのかもしれないな。でも、彼女が岐阜の旅の中で、自分で考えて見つけ出した言葉だったからかな。あの時、あの場所で、俺の心に確かに強く響いたよ。
彼女は結婚についてそう言ったんだろうけど、俺にはその言葉がまるで、自分の旅路の前に突然広げられた、真新しい地図みたいに思えた。
もしかしたら、俺の旅もそうで、俺がずっと追い求めてきた最高の一枚は、何かをやり遂げた先、ゴール地点にあるものとは限らないんじゃないか。
自分がこれまで探してもいなかった、手を伸ばせば届くかも知れないすぐ身近なところにあって、そこがスタートなんじゃないか……って」
「ずいぶん大きな心境の変化だったのね」
「そうだね。いきなりの結婚話に戸惑いはしたけど、これは自分にとっての分水嶺かもしれない。
ひとつの流れが、ほんのわずかな差で、日本海に注ぐ川と、太平洋へ注ぐ川に別れていくみたいに。
自分が、これからどこに向かうのか、真剣に考える機会だって、そう思ったんだ」
千尋は一言一言、噛みしめるように言葉にした。
私は黙って耳を傾けている。
「ルポライターの仕事は好きだよ。ずっとこの仕事で食っていきたいって思ってた。
心の底には、会社に縛られずに、もっと自由に記事を書きたい、自らの企画をたてて旅をしたいって気持ちもあった。
一方で、憧れの人に追いつきたい一心で走り続けたのに、6年間かけても背中にさえ届かなかった。
ならこの先もずっとこのままなんじゃないかって、不安になる自分もいた。
あるいは仕事を辞めて彼女を選ぶというのは、自分が追い続けてきた夢からの逃避じゃないのか。
決してそうじゃない、いつかそれを後悔しないと言い切れる覚悟が、自分にはあるのか。
毎日、夜が来るたび考えたよ。
自分とあれほど時間をかけて向き合ったのは、6年前の北海道以来だったな」
以前の千尋なら、きっと別の答えを出していたんじゃないだろうか。
少なくとも一ヶ月前、岐阜に行く前の弟は、自分の夢と仕事のことで良くも悪くもいっぱいいっぱいという感じだった。
素直で人に影響されやすい反面、妙なところで人一倍こだわりが強くて固い殻を持つ千尋。
岐阜の旅と、彼女との出会いは、千尋のそんな殻を破っただろうか。
「一人でしか見られない景色、出会えない人、感じられない感動もあれば、誰かといるから見られる景色や出会える人、感じられる感動もある。
どっちがいいとか、人生に正解なんてない。ただ、自分がどの道を選ぶのか。
彼女とは縁があって、互いに影響を受け合って、周りの人に助けられながらすれ違いも乗り越えて、本音を語り合える関係になれた。
これからの自分の旅の形が変わったとしても、この人と一緒ならきっと面白くなるって思えた。
だから、岐阜にいる間中ずっと選択を先送りして立ち止まっていた彼女が、最後の一歩を踏み出して、俺に手を伸ばすのを見たとき、俺は、迷わずその手を取ったんだ。
一緒に、新しい場所へ踏み出すために」
【Ⅳ:千歳と千尋】
「――というわけで、彼女を島根に送り届けて、ご両親に挨拶もしてきたんだ。そう遠くないうちに、あっちへ移るつもりだよ」
重大な決断をしたはずなのに、全く気負った様子はない、自然体の千尋。
一人前のオトコの顔をしている。
自分と一回り半も歳の離れた『弟』。
赤ん坊の頃からずっと見ていた千尋を、ほんの一瞬別人のように遠くに感じてしまった。
「…会社、辞めてしまうのよね」
入社に至る顛末や初仕事から見てきたせいか、正直寂しい。
そう素直に感じている自分に少し驚く。
私はつくづく、この『弟』に関してだけは、適当、ではいられないのねぇ。
「ああ。MG書房は退職する。上司…渋川デスクにも伝えた。ただ、『ぐるり』の仕事は島根でも続けるつもりだよ」
「あら、そうなの?」
「うん、フリーの契約ライターという形でね。たぶん渋川さんのことだから、俺が『ぐるり』での仕事を窮屈に感じていたことをわかってたのかもな。結婚して島根で農業をやるって言ったら、驚きつつもすぐにフリーの道を薦めてくれたよ」
自分で思っていたよりも、記者として高く評価されていたみたいで嬉しい。
結婚後については色々考えてはいたけど、まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった。
新しい旅は出だしから予想以上に楽しいよ…と、歯を見せて何度も大きく笑う千尋。
今日の千尋は本当によく笑う。
まるで長い長いトンネルから抜け出たみたいに、楽しそうに。
こんなに笑顔の多い子だったっけ、と記憶を辿っていると。
「なあ、姉貴」
「うん?」
呼びかけられて、向き直る。
千尋が笑顔を引っ込めてこちらを見ていた。
「俺、旅の出会いって、それぞれが思い思いに走ってる道が、たまたま交差したり、そばを並んで走ったりすることだって思ってた。
いっとき、同じ時間を重ねても、元々別々に走ってる道だから、やがてまたわかれる。
だから、出会いと同じくらい別れも大切にする。
そうして走っていった先でまた出会うこともある。旅って、そういうものだって」
ゆっくりと連ねる言葉を黙って聞く。
私の価値観もそれに近い。
少なくとも自分の道も、他人の道も、曲げたくはない。
「だけど、今はちょっと違うようにも思うんだ。道は一本だけじゃないのかもしれない。
たとえば、彼女と出会った今の俺の道と、出会わなかった場合の俺の道、とかさ。
今回の旅で彼女と出会って、俺自身、ずいぶん変わったって思う。
俺だけじゃなく彼女も。
再会して話すたびにお互いに影響し合って、変わり続けた一ヶ月だった。
ほんの少し前まで別々の方を向いていて、ただ交差して別れていくはずだった道でも、ぶつかって影響し合って、それまでなかった新しい道ができることも、あるのかもしれない」
千尋は姿勢を正して、真っ直ぐに私を見つめた。
「これまでの旅で出会ったたくさんの人たちのおかげで、俺の今の道がある」
そこで少し言葉を止めてから、一言一言、ゆっくりと言葉を重ねていく。
「道のはじまりは、俺に旅とバイクを教えてくれた、姉貴だ。
姉貴がいなかったら、きっとバイクに興味を持つこともなかった。
旅行とは違う、旅をすることもなかった。
あの人のサイトをもし見かけたとしても、きっと何も感じないままページを閉じてた。
当然、この仕事に就くこともなくて、彼女とも出会わず、俺は全く別の道を生きていたと思う」
「千尋は……ちっちゃい頃から知らないところへ行くの好きだったから、私が教えなくても、きっと旅をしていたんじゃないかしら」
千尋は微笑みながらそっと首を横に振って、もう一度真っ直ぐに私をみた。
「感謝しているよ。ありがとうな。姉貴。
俺に、旅を教えてくれて」
「……、なんだか今さらねぇ。
……うん」
あらたまって、じっとこちらを見つめる千尋に、
できるだけ、自然に、軽く、笑って返したつもりだ。
言葉が震えなかったか、少し心配だった。
エピローグ:岐阜
コーヒーのおかわり、俺がいれるよ、というので千尋に任せた。
キッチンに立っている弟の後ろ姿を眺めながら、ふと、これだけ話を聞いてみても、千尋の彼女の人物像が全く見えてこないな、と思った。
手前味噌かもしれないが、ちょっとシスコン気味なところのある弟なので、結構年上の相手だったりするんじゃないだろうか。
実家からお見合いをすすめられるくらいだし。
つい気になってしまって、千尋の背中に問いかける。
「いくつくらいなの、千尋の彼女」
「え? 20歳だよ」
思いのほか若かった。
「この春に東京の短大卒業してそのまま就職したんだけど、半年で退職して、島根に帰る途中だったんだ」
「半年。なかなか思い切りが良いじゃない。さっき言ってた体質のせいかしら」
「それもあるらしいけど、それ以上に職場の人達と価値観が合わなかったらしいな。
もっと早く会社に来いとか、定時だからって逃げるように帰るなとか言われて嫌になったって。
始まりも終わりも時間はきっちり守るべきで、いい歳した社会人が時間にルーズなのは困るって、怒りながら力説してた」
「ほーう」
「でも、そういう本人は、実家に帰るのをのらりくらりと一ヶ月も先延ばしにしてたんだぜ」
くっくっ、と。
笑いをこらえているらしい。
うーん、余計にわけが分からなくなったわね。
うちの弟が惚れ込んだのは、いったいどんなオンナなのか。
今後直接会う機会もあるだろうけど…
私はふと思いついて、スマホを取り出した。
数分後、千尋がコーヒーを注いだカップを持ってテーブルへ戻ってくる。
「もし彼女に興味があるなら、俺の記事に彼女のこと書いてるよ。固定のファンもついたりして、結構評判良かったんだ」
「うん。今、読んでいるよ」
濃飛清流コンペティション。
千尋が書いた、一ヶ月分の岐阜の記事。
それを読みながら、弟の変化は、この、岐阜という土地との出会いも大きかったのに違いない、と思った。
たとえば、本州の旅人にとって、海の向こうにあってどこか別世界のようにも感じる北海道と違って、岐阜は歩いてでもいつかはたどり着く、日常の延長線だもの。
日本の真ん中。
遠い昔から、東と西を結んできた要所。
行き交う旅人達の縁を、何百年も、あるいはそれ以上長きに渡って、繋いできた土地…。
……うんうん。
思っていたよりもずっと面白そうじゃないの。
期待感がうずうずと、胸の内に湧き上がってきた。
旅の空から空へと夢中で飛び回っていた頃の自分に戻ったような気分だ。
心がいつになく弾んでいる。
今から準備すれば、明日の朝には発てるわね。そして昼には岐阜だ。よーし。
スマホの画面から顔を上げると、記事への反応が気になるのかこちらを見ていた千尋と目があった。
「千尋。今夜はうちでご飯食べるんでしょ」
「どうしようかな。学生時代の仲間を誘って飲みに行こうかと思ってたけど」
「もう約束したの?」
「まだだけど」
「なら、それは明日にして、今夜は家族水入らずで、岐阜の旅のお土産話、聞かせなさいな。
記事の感想はそのときに話すわ」
「えっ」
「…家を出るんなら、これからはゆっくり話す機会もそうそうなくなるじゃない」
「それは確かに、そうだけど。土産話は、明日じゃだめなの?」
「ダメね」
「なんで」
「私が、少しでもはやく千尋の話を聞きたいからよ」
千尋はまいったなぁ、と渋い顔で頭を掻いた。
それを、まんざらでもない時のしぐさだと私は知っている。
遠くへ行ってしまったように感じたバンダナ姿の千尋の中に、慣れ親しんだ可愛い『弟』を確かに見つけて、私は思わず頬を緩ませた。
「バンダナと女王蜂」 了
参考・引用
風雨来記4 母里ちあり編
風雨来記4 真鶴編(バンダナルート)
風雨来記1 女王蜂の素顔
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