・タイトル通り、今回の記事は自分の妄想をひたすら書き綴った内容になります。
・風雨来記4のネタバレを含みます。
つい最近まで、そう遠くないうちに風雨来記5が出るのだろうと何の疑いもなく思っていたのだが、風雨来記4(及び3)の企画・監督を務められていた椎名氏が、日本一ソフトウェアを退社されていたことをSNSで知った。
退社は今から実に一年も前ということ。
構想していた風雨来記5の企画が権利上叶わぬものになったこと。
今は別の会社で仕事をされていること。
…など、いくつかの情報が語られていた。
寝耳に水の話で少なからず衝撃を受けたことは否定しないが、退社の理由や経緯についてはここで詮索するつもりはない。
ただ、「風雨来記4」という作品に惚れ込んでしまった者として、自分の今の思いを素直に書くとすれば、
『たとえ風雨来記というタイトルではなくなっても、ゲームで旅を表現し続けて欲しい』
心からそう願ってしまう。
風雨来記4がくれたもの
岐阜を舞台にした風雨来記4という作品が自分にくれたものはたくさんある。
中でも最たるものは、「足下」を明るく照らしてくれたことだ。
灯台もと暗し。
普段何気なくスルーしている身近なところにもの素敵なものはいっぱいあるよ、という言葉にしてしまえば安っぽい、使い古されたフレーズ。
それをゲームを通して、自然に「体感」させてくれたのだ。
特別に知識のなかった「岐阜」という土地。
何度も何度もゲームをプレイし、興味を覚え、調べ、考え、やがて実際に訪れる中で、自分にとって岐阜という土地がどんどん身近に、そして面白くなっていった。
そしてそれは岐阜だけに留まらなかった。
生まれ育った故郷や、長く暮らしたまち。
自分がこれまで訪れた場所。
何の気なしに通り過ぎていた場所……
今まで気にも止めなかった足下……ごくごく身近なところにも、たくさんの発見をできるようになった。
「自分が一番面白がれるもの」は、外国の大自然や古代遺跡よりも、自分が生まれ育ってきたからこそ「掘り下げて考え、体験できる」、この日本という土地にこそあるんじゃないかと、そう思わせてくれた。
ああ、自分は「そう」だったんだと。
当たり前と思って意識もしなかった、ありふれた日常だと思っていた風景が、これから生涯楽しんでいける、宝の山に変わった気がした。
……そして、自分にとってそんな「身近に光る最高の場所」を象徴するのが、母里ちありというヒロインで、だから「このブログ」の最初の記事はそんな思いを書きつづるところから始まっている。
もちろん、今もそれは変わらない。
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少し話はそれるが、風雨来記4の作中では、取材の最中様々なスポットを巡るわけだが、そこで起こる体験や抱いた思い、言葉によってつむがれるものは、はたしてプレイヤーの「旅」なのか、ゲーム内の主人公の「旅」なのか、取材したスタッフの「旅」なのか。
そんなことを考えることがある。
例をあげるなら、美しい川の源流を見て、「綺麗だ」とテキストが表示されたとき。
それは取材したスタッフの感想であり、ゲームの主人公の感想であり、そして画面を通してその光景を見たプレイヤーの感想でもあるだろう。
その「綺麗だ」という思いは同質のものかもしれないし、違うかもしれない。心というものを並べて比較できない以上、そこを考えても意味はないかもしれない。
ただ、同じものを見て同じタイミングで心が動いたことは確かだ。
きっと、ここからここまでがプレイヤー、ここからはキャラクター、これはスタッフ……とすべてがはっきり切り分けられるものではなく、それぞれの視点、完成、認識が混じり、重なり合うことで、プレイヤーが「まるで本当に旅をしているように」、感じられるんじゃないだろうか。
世の中にはもちろん、作り手が自己を全く投影しない手法をとっている作品もあるが、おそらく旅ゲーを含む「趣味」や「生き方」をテーマにした創作物の場合は多くのプレイヤーが、その向こうにいる作者の思考や価値観を意識して、そこに共感したり納得したり、時にはツッコミをいれたりするのだと思う。
風雨来記4は、360度映像を世界観の土台として取り入れたり、徹底的な実在性(全編に実写使用、関係各所への取材許可による実名使用、ツーリング時の地名・道路名表記など)にこだわったりと、新しい技術や面白い(けどものすごく手間のかかる)アイデアをいくつも採用して、「新しい旅ゲーの方向性」を見せてくれた。
そしてシステムだけではなく、シナリオ面でもシリーズにとってのひとつの殻を打ち破り、期待を超えたものを確かに見せてくれた。
だからこそ自分は、そんな作品を企画し、形にして世に出してくれた人が、次はどんな風に「旅」を表現してくれるのか期待してしまう。
タイトルや会社にとらわれず、これからも、旅作品を発表し続けてほしいと心から思う。
蛇足:以下、風雨来記続編の妄想垂れ流し
風雨来記4の続編については、この二年ほどことある事に「こんな作品になるんじゃないかな?」と色々想像していた。
それは自分にとって、リリさんのことを考え続ける上で決して無視できない議題でもあるから、思考しないわけにはいかなかったのだ。
舞台は北海道になるのか、それとも他の土地か。
主人公は継続か、変わるのか。
職業は。
バイク車種は。
4は現地取材に対して岐阜新聞の協力があったが、今後も地元新聞社と協力して、プロパティリリースを重視するスタンスで行くのか。
それとも以前のように、自由なルポルタージュに戻るのか。
新しい技術は投入されるのか。
……などなど、とりとめもなく妄想が溢れた。
しょせんは妄想、どれもたいして根拠のない思いつき程度の憶測に過ぎないのだが、もしネタ潰しになってしまったらどうしようと勝手に心配したりしてこのブログではあまり触れては来なかったテーマでもあった。
この機会に少し、妄想を語ってみようと思う。
続編への妄想。
まず主人公について。
続編で、相馬轍が再び主人公になる可能性は低いかな、と思っていた。
個人的に、轍の旅のつづきはめちゃくちゃ見たいし、風雨来記4の発表の時にはそれを期待したこともあったけれど、初代監督である浅野氏=轍みたいなところがあったから、彼以外の人が「これぞ轍の旅!」というものを説得力をもって描くのは難しいだろうとも思う。
40代の自由な独身旅人が主人公の旅作品、というのは相当渋いものになりそうで深く刺さる層は必ず一定数いるだろうが、ゲームというコンテンツのメインユーザー層を考えるとなかなか冒険的すぎる企画に思えてくる。
やはり、榊千尋主人公続投の方が自然な流れだろう。
順当に「3」から「4」を経ての「ひとつの到達点」としての「5」、「ついに最高の一枚にたどりつく、スケールの大きな作品」になるんじゃないだろうか、と。
……そう考えたとき、ふともしかすると「風雨来記5」は、彼にとっての「大きな喪失感」から始まるのではないか、という考えが浮かんできた。
生涯の相棒と言える相手を亡くしたところから始まった、風雨来記1がそうだったように。
榊千尋は、風雨来記4作中で「俺は親しい人と死別したことはない」と語っている。
一方で「親しくなった相手との別れは慣れている」とも。
この言葉を伏線的にとらえるなら、4のエンディングにおける「パートナーを得る」展開も、次回作で「千尋をどん底に突き落としてそこから再スタートさせるため」のお膳立てと……想像できなくもない。
こうした想像をしてしまった背景には、やはり「風雨来記1をリスペクトし、あの風雨来記3を作ったスタッフたちなのだから、シナリオ展開について(クオリティ的な)信頼はできても(人の心を)信用してはいけない」という、トラウマ意識があったのは否定できない。
特に風雨来記4をオールクリアした直後は、こうした考えが脳裏によぎることが多かった。
赤いバンダナを始め、4は3以上に初代風雨来記をオマージュした要素が多かった分、ついついそれと重ねて考えてしまったのもある。
風雨来記は、出会いと別れをセットで描くシリーズだ。
出会ったならば、その先にいつか必ず別れがある。
だからこそ、それを意識するからこそ、今一緒に過ごしているこの瞬間のかけがえなさを自分なりに言葉にして残していきたい。
その一心でこのブログを作り、たくさんリリさんについて書いてきた。
とはいえ、その後時間をかけて風雨来記4をやりこみ、また考察を深めるほどに、なんとなく「千尋が主人公続投なら、そういう展開にはしないだろう」と思うようになった。
理由はいくつかあるが、4自体が根幹に「大きな喪失を乗り越えて独り立ちする」テーマをやっていたことが大きい。
そう、風雨来記4ですでに千尋にとっての「大きな喪失」を乗り越えている。
轍の北海道記事「風雨来記」の消滅が、この「喪失」に当たる。
千尋が今の仕事についたきっかけであり、人生の目標とも言える「憧れの背中」を失ったところから風雨来記4は始まっている。
それを乗り越え、自分なりの道を見つけて先に進むのが4の大筋だった。
乗り越えたその結果として、ヒロインシナリオではパートナーを得るし、一人旅ではもう一度「風雨来記」と巡り会うことができるのだ。
それを次回作でまた、大きな喪失から新たな旅を始めるという展開にするのは、「初代風雨来記の繰り返し」×「風雨来記4の繰り返し」……二重の焼き直しになってしまう。
風雨来記4では単に喪失を乗り越えるだけではなくその先、「自分の枠にとらわれずに新しい場所へ踏み出していく」ことをシナリオテーマにしていた。
ならばその続編は、過去作の模倣ではなく、もっと新しい「何か」をやってくれるに違いない。
芸事における守破離という考え方がある。
守……師匠の教えを守り身につける
破……学びを外へ広げて、必要に応じて教えを破る
離……守破を大切に自分の流派をつくっていく
これにあてはめるならば、3が「守」、4が「破」、5が「離」。
千尋の旅は着実に一歩一歩進んできたからこそ、それが結実する風雨来記5は、きっともっと「新しいもの」を見せてくれるはず……
新しい風雨来記。
今の時代の価値観、今の時代の「旅のリアル」が重なるような、そんな風雨来記を。
そんな風に妄想をふくらませていた。
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新しいもの、新しいもの……と考えていくと、5では主人公を一新する可能性も十分に考えられると思った。
初代風雨来記の旅から20年以上がたち、一作目の登場人物たちの子供世代が大人になった今。
風雨来記1・風雨来記3のときと同じように、三度北海道を舞台に、新しい20歳の主人公をたてる、というのもごく自然な展開に思える。
次の世代の「風雨来記ファン」を生み出す、新しい風雨来記。
そうなるとたとえば、シリーズ初の女性主人公、というのも十二分にありえるかもしれない。
男性、女性主人公の選択制とか、あるいはもしかしたら、女性主人公のみの風雨来記……とか。
自由な旅をしたくても、リアルではなかなかかなわない人も多い。
女性の一人旅となればなおさらだ。
女性が自分事のように感情移入して楽しめる旅ゲーというのは、商業的に考えてもきっと新しく幅広い多くの層を開拓できるだろう。
意外とあり得そうな企画なんじゃないだろうか。
女性主人公、という概念を考えた根拠としては、風雨来記4における「柚原日陽の存在」が大きい。
これは特に妄言なのだが、自分はかねてから「柚原日陽は女性主人公を意識して企画されたキャラクターではないか」という仮説を内心で提唱していた。
日陽の背景設定は、初代風雨来記における主人公・相馬轍と重なる部分が多い。
たとえば以下のように。
かけがえのない人を失って天涯孤独になり、強い哀しみを抱えたまま故人の形見のバイクに乗って、故人と縁深い場所へ旅に出て、人との出会いで傷ついた心を癒されていく。
ライダーであり、風のような自由気ままさと、太陽のように温かく包み込む優しさを持つ。
明るく気さくな裏に、重い心荷を抱えて、寂しげな表情が見え隠れする。
それでいて根底には、自分自身で悩みを乗り越えていく強さを持っている。
こちらが立ち止まってしまったら、あっという間に先へ(物理的にも精神的にも)走り去って行ってしまう、そんな空気をまとっている。
風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG
見ようによっては、風雨来記4における「主人公から日陽への印象」というのは、初代風雨来記における「ヒロイン視点で見た相馬轍の印象」を追体験するものでもあるのだ。
ああ、轍はこんな風に見えていたのかな、と。
相馬轍は元々「風の轍」というテーマ曲を持っている通り、自由気ままな旅人ライダーを象徴する人物で、物語内では「風」という属性と、出会った人や読者の心をあたためる「太陽」という属性で表現されていた。
そしてこれはそのまま、日陽のライダーとしての性質、そして「日陽」という名前とその性格に受け継がれている。
日陽がバイクで別れるとき、いつも突風のように去っていくこと。
日陽が、姉(女王蜂)の若い頃に似ているという千尋の評。
後半の旅の主導権が日陽に移ること。
何も考えずにバイクでひたすら走ることで悩みが完全に吹き飛ぶ(日陽ルート消滅イベント※)ことなどからも、彼女のライダーとしての「風」っぷりはいかんなく現されているだろう。
それは旅(=風)をテーマにした作品において、まさに「主人公的資質」だから。
だからこそ、実は初期案では主人公候補だったりしたのでは? なんて妄想をしてしまうわけで。
※日陽ルート消滅イベント
終盤、飛騨神岡駅の『ガッタンゴーイベント』を見つけないままスタミナがなくなるまで走り続けると、日陽はすべての悩みを吹っ切って、仕事を辞めて飛騨に住むことを宣言し、風のように去っていってしまう。
実にあっさりとした(会おうと思えばいつでも再会できる)別れを持って、日陽ルートは強制終了し、一人旅エンディングとなる。
なお、個人的にはこのイベントの意味を考える上で、前作風雨来記3の「松本さんイベント」はとても参考になると思っている。
「松本さん」は、3一人旅ルートでのイベントキャラクターでありカウンセラーのような女性で、自分の旅について悩む千尋に対して、「あなたの中には『ルポライターとしてのあなた』だけでなく、『ライダーというあなた』もいるのだから、時には何も考えずにただ走ればいい」と語り、大きな影響を与えた人物だ。
この松本さんイベント内で語られる「逃避と休息」についての話は、旅の持つ「日常で追い詰められた人の逃避場所」としての側面をポジティブに捉えた、(4における日陽の悩みと重なる部分もある)とても見応えのあるシナリオだ。
そんなこんなを踏まえて、風雨来記5では満を持して女性主人公が登場したりするかも……と妄想していたわけだ。
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まとまりがなくなってきたのでそろそろしめようと思うが、最後にもうひとつだけ。
これは続編の妄想というよりも、二次創作に近いのだが、自分個人にとっては最早リリさんのいない風雨来記は考えられない。
ではその前提で「風雨来記4のつづき」……というか「ちあり編のつづき」を、「ぼくのかんがえたさいこうのふうらいき」的なものとして考えたときに、それはどんなものになるだろうか。
シナリオやイベントが固定になっている2を除いた風雨来記1、3、4をあらためて見つめ直して思ったのは、旅の中での出会いと別れ、そしてそんな相手との不意の再会は、性別や恋愛要素を抜きにして、多くの場合ただそれだけで純粋に心の動くものだった。
出会いは楽しい。
別れは少し切ない。
再会は……本当に、ただ純粋に、再会できて嬉しい。
「ああ、あのときの! まさかこんなところで!」
旅の一期一会には、特定の人物のシナリオを掘り下げとはまた別の醍醐味がある。
出会い、ひととき一緒に時間を過ごして、別れる。
キャンプ場でとなりあって意気投合し、数日間一緒に食べたり飲んだりあちこち巡ったり楽しく過ごしたのに、結局最後まで連絡先どころか本名さえ知らないまま……なんて、実際の旅の中でも珍しくない話で。
逆に、何百キロも離れた遠い場所で、全くの偶然に再会することだって決してフィクションの中だけの話じゃなかった。
そんな旅の一期一会をひたすら味わうことがメインのゲーム、というのも悪くないんじゃないだろうか、と。
初代風雨来記の一人旅要素をさらに特化したような。
膨大な出会いイベント、同じ数だけの別れイベント。
そうなると必然的に、旅人で溢れかえっている場所……オンシーズンの北海道が舞台になりそうだ。
一期一会を突き詰める旅というのは、「すでにパートナーのいる主人公」という立ち位置にも大きな意味を生む。
帰る場所がある旅人のひとときの一人旅。
旅先で出会う旅人達との一期一会にしぼって描くことで、対比的に、人生を共に歩いていくパートナーという存在の意味についても、浮かび上がって見えてくるものがある……んじゃないだろうか。
人が生きている限り、いつかは必ず別れの日が来る。
事故、病気、何が起こっていつ、その日が来るかは誰にも分からない。
当たり前のように感じがちな、大切な人と過ごす今この瞬間自体が、奇跡のような時間の積み重ねなのかもしれない。
一期一会とは元々、「生涯に一度きりの機会」と考えて誠意を尽くす茶道の心得を指したそうだ。
一期、とは一生という意味の仏教用語だとか。
だけどよくよく考えてみれば、「人生そのものが一度きり」だ。
マクロな視点で見れば、この生涯自体が、過ぎては戻らぬ一度きりの機会。
人生の中で一度しか会えない
人の人生は、一度きり。
たった一度の一生の中でしか会えない。
夫婦であっても、等しく一期一会。
その「一期」は、決して当たり前でもなければ、永遠につづくものでもない。
だから、共に歩ける一瞬一瞬はかけがえないものだと忘れてはいけないと。
帰るべき場所、パートナーのいる「限定的な一人旅」を描くゲームだからこそ、描けるもの、実感できることもきっとたくさんあるだろう。
とりとめなく、そんな妄想もしていたりした。
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妄想というものは語り出すと話は尽きないが、今回はこのへんにしておこう。
色々書き連ねたものの、自分にとって風雨来記4は「人生を変えた特別な一本」だ。
これまでも、これからも。
その思いの中心には、いつも変わらずリリさんがいて、まだまだ書きたいことがたくさんある。
だから今後もこのブログで、言葉にして書き続けていきたい。
これもまた、自分にとってのひとつの旅だから。
コメント
毎回楽しみに拝見しております。
椎名Dの退社、全く知らずに次回作に期待していたので、とても驚きました。
一期一会、とても綺麗な響きですが、自分としてはもう少し長く付き合っていきたいゲームでした!
次回作への妄想が尽きないのはどなたも同じなのですね。笑
退社されたとはいえ、次回作の制作について1%でも可能性があるならそこに縋りつきたいくらい面白い作品だと思うので、私はこれからも心の中で椎名Dを応援し続けたいと思います。
コメントありがとうございます。
そうですね。何の疑問もなくこの先も続いていくものだとばかり。
退社を知ったときは、一言では言い尽くせないくらい色々な想いがよぎりました。
「あの人」のサイトを失ったときの千尋くんはああいう気持ちだったかもしれません。
それでもきっと前に進み続けて次の旅を見せてくれるんじゃないかと期待は抱きつつ、私も陰ながら活動を応援していきたいと思っています。