飛騨の旅のつづき。
■前回
あめの日のはじまり
縁あってとある公共施設の敷地内で仮眠する許可をもらえたので、今日の行動を終了。
雨の当たらない軒下にバイクを停め、その横に寝袋だけ敷いて、夜が明けるのを待った。
自分にとって「旅する上で特に使うスマホの機能」をみっつ挙げるなら、「一番はリアルタイムの天気情報」だ。二番は地図アプリ、三番はネット検索とつづく。
雨が降ると行動に制限が増えるバイクや自転車の長旅においては、数日先までの天候を確認しながらルートを考えていくことができるのは本当に有り難いし、数時間ごとのスポット天気や雨雲レーダーも実に有用だ。
もし天気情報を一切得られなかったら、今日などは日中の天気の良さから油断して、翌朝ずぶ濡れになりながらテントを撤収するはめになっただろう。
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予報通りに深夜二時頃からぽつり、ぽつりと大粒の雨が落ち始め、間もなく土砂降りとなった。
屋根の下、文字通り「雨風しのげる」ことのありがたさを存分に感じながら、うとうとと寝たり起きたりを繰り返しているうちに四時を回ったので目を覚まし、撤収を始めた。といっても寝袋を畳んでバイクに積み込むだけだ。
近くには自分の他にもツーリングらしいバイクが停まっていて、持ち主は二十歳前後の青年だった。
昨晩、自分の寝袋の他にも同じように軒下で仮眠している寝袋を見たが、それも彼だったらしい。
起きだしたところでばったり顔を合わせたので軽く世間話を交わした。富山の大学生で愛知の実家に帰る途中なのだそうだ。
彼は夜明けと共に手際よく荷物をバイクに載せると、
「お先に行きますね」
「気をつけて」
「そちらも。お互いに気をつけていきましょう」
そんなやりとりのあと、雨足が強まる中を躊躇なく出発していった。
やがて、あたりはすっかり明るくなる。
軽く朝食を済ませ、自分もいつでも出発できる状態に準備を整え、この後の行程を思案していた。
さあ今日はどうしようか。
念のためスマホで天気アプリを再確認すると、やはり一日雨マーク。
風もそこそこ強いようだ。
今回の岐阜旅の目的はいくつかあるが、最大の目的は「リリさんとの思い出の場所巡り」。
前日に訪れた種蔵をはじめ、付知峡、馬籠、坂折棚田などにはやっぱり天気が良いときに余裕を持って訪れたい。
がっつり雨天の今日は、「そういうときだからこその味わい」を楽しもう。
たとえば、古い神社や遺跡、城址などを雨の日に訪れると、薄くもやがかった神秘的な雰囲気に浸ることができる。
晴れの日に比べて、人が少ないのもポイントだ。
元々、今回の旅では「位山」に登るつもりでいた。
位山は飛騨国一ノ宮である「水無神社」のご神体として信仰されてきた、飛騨の中心的な霊山だ。
山頂付近には大量の巨石が転がっていて、天孫降臨に関係する古代の磐座だとか、リョウメンスクナの拠点だったという説もあるという。
「神の山」である一方で、麓はスキー場が整備され、山頂へも登山道が整備された誰でも登りやすい「ハイキング向きの山」としても親しまれているそうだ。
風雨来記4作中では「位山」は探訪スポットとしては採用されなかったものの、名前だけは登場していた。
地理的には下呂と飛騨高山の中間、「船山展望台」の西隣の山だ。
船山山頂と位山山頂は、直線距離で3~4キロほどのご近所だが、実際にはその間が深い谷で隔てられている。
位山は、山域から流れ出した水が日本海と太平洋両方に注ぐ分水嶺でもあり、この山を境に、北が「飛騨北部」、南が「飛騨南部」と分けられていたりと、信仰的にも地形的にも行政区分的にも、文字通り「飛騨の中心地点」と言えるだろう。
とにかく属性盛り沢山な山だ。
昔から、船山(1479m)、位山(1529m)、そしてそのさらに隣の川上岳(1625m)をあわせて、「位山三山」とか「飛騨三霊山」と呼ばれてひとつのグループというふうに捉えられてきたそうだ。
このうち、位山と川上岳は山稜で繋がっているが、船山だけは風雨来記4でも語られていたように独立峰になっている。
飛騨の民話では、この地形についてこんな起源が語られている。
むかしむかし真ん中に位置する位山には男神が、船山と川上岳にはそれぞれ女神が住んでいて、ある時女神たちが男神を取り合ったという。
迷った男神は「満月の夜、空の月が自分のいる位山に差しかかったのを合図に、一番最初に来てくれた方と結婚しよう」と条件を出した。
一見公平な条件のように思えるが、とんでもない。
月は東から昇って西に沈む。
そして、位山は川上岳と船山の間に立っている。
位山の西に位置する川上岳から見れば、「月は昇り始めてすぐ」に位山にかかるし、東に位置する船山から見れば、位山と月が重なるのは「月が沈むとき」だ。
ふたを開けてみれば船山の女神がいらいらして待っている目の前で、川上岳の女神は位山の神とさっさと結婚してしまった。
船山の女神はぶち切れた。
このため、川上岳と位山は今も尾根で道が繋がっているが、位山と船山の間は深い谷できっぱりと隔たれているのだ――
こうした実際の地形を想像し解釈した昔話は、日本各地に無数にある。
きっと昔からみんな、「なんでああいう形をしているのだろう」「なんでこういう地形になっているんだろう」と気になって、ああだこうだとたくさん考えたのだろう。
あるいは誰かの思いつきからの出任せだったり、あるいは子供にたずねられた親の機転を利かせたアドリブだったものが、代を重ねて形を変えていったなんてこともあるかもしれない。
特に、その地域でいちばん高かったり目立つかたちをしている山にはこういう民話がつきものだ。
岐阜の隣の滋賀には、「富士山と琵琶湖の創世民話」なんてものがある。
「天を衝くような大男が近江国で土を掘り、その土を駿河国に盛って大きな山を作った。この山が富士山となり、土を掘った跡が琵琶湖になった。このとき、最後の一盛りを落としてしまった。このため富士山の山頂は平らなままで、落とした土は近江富士(三上山)となった」
自分の生まれ育った京都盆地にも、
「都の東西にそびえる比叡山と愛宕山が背比べしたら愛宕山が勝った。比叡山が怒って愛宕山を殴ったため、愛宕山の頭にこぶが盛り上がってさらに高くなった」
という昔話がある。
愛宕と比叡。このふたつの山は、京都盆地にいれば(ビルなどにさえぎられなければ)どこからでも見える「平安京のランドマーク」だ。
これは単に山容からの連想というだけにとどまらず、愛宕山の修験道(神道・仏教・山岳信仰等の入り交じった信仰)VS 比叡山延暦寺(天台宗仏教)との宗教上関係性……対立の歴史をもあらわしたものだという説がある。
両者はだいたい同時代の八~九世紀頃に発足しており、敵対とまではいかずとも何かと競争・比較されることが多かったのだろう。
だからおなじように、位山・船山・川上岳の関係性も、何かしら古代の史実が含まれているのかも知れない。
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さて、地上では雨が降りしきっているが、山上の状態はどうだろうか。
ハイキング向きに整備されているとは言ってもれっきとした山だ。
甘く見るのは命取りだろう。
都市部に近い低山でも、ピクニック気分で出かけて遭難する事例は枚挙にいとまがない。
YAMAP(登山情報アプリ)で確認すると、今日と同じ様な天候状況で位山を登山した人の記録が載っていて、それによれば「雨でも特に苦にならない開けた山道」ではあるらしいが……
雨が降りしきる中、バイクを前にしばし腕を組む。
うーん。
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ま、ここでこうやって考えていても仕方ないから、登山口にある道の駅まで行ってみて、情報を収拾してから登るかどうかを判断しようか。
バイクに積んだ荷物にしっかりと防水シートがかかっていることを確認して、ちょっと引くくらい降りまくっている雨の中に「えいやっ」と気合いを入れて飛び出した。
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土砂降りも、走り出してしまえば意外と悪くない。
今回の旅のために新調したバイク用のレインウェアのおかげで、強い雨の中走っていても内部に水が染みこんでくることもなく、蒸れることもない。思った以上に快適だ。
子供の頃、新しいカッパと長靴で雨の日に出かけるときのワクワク感、無敵感に通じるものがあるかもしれない。
とはいえ、勢いよく打ち付けてくる雨のおかげで、ヘルメットごしの視界はかなり悪く、あまりスピードは出せない。
なるだけ道の左側に寄って後続車に先に行って貰いながら、晴天時以上に安全運転を心がけてバイクを走らせた。
位山登山口へ向かう前に途中、一箇所立ち寄りたいところがある。
本日最初の目的地は、位山を「ご神体」とする神社、「飛騨一ノ宮・水無神社」だ。
水無神社
高山と下呂を結ぶ国道41号線を走り、久々野町に入る。
案内標識に従って住宅街へ進むとまもなく、飛騨一ノ宮・水無神社に到着した。
雨足は勢いを増したり、しとしと落ち着いたりを繰り返している。
探索や観光するには支障がない程度だ。
写真撮影については、この旅では防水機能付きのiPhoneをメインカメラにしていたので、雨でも故障の心配がないのはありがたい。あまりディスプレイが濡れるとタッチに反応しなくなるけれど、こまめに拭き取ればまあ問題ないだろう。
(防水であっても、端子付近が濡れると完全に乾くまで「セーフティ機能が働いて充電ができなくなってしまう」という大問題に直面するのはしばらく後のこと)
神社の駐車場にバイクを停めて、早速参拝していこう。
飛騨国一之宮、水無神社。
歴史は古く、少なくとも平安時代、延喜式神名帳(全国の特に有名な神社をまとめた資料)という文献で「水無神」として記述がある。ここは、色々と興味深い逸話の多い神社だ。
たとえば、どうして「水無」と呼ばれるのかわかっておらず、諸説分かれている。
水無しというが、あたりは水が無いどころか幾本もの川が通って、水に恵まれた土地。
古代はそうではなかったということなのか。
水が無かった場所に水が湧いたから神社を祀った……?
うーん。
山々に囲まれてどこへ行っても清流だらけの飛騨のど真ん中に限ってそんなわけはないように思える。
ここの神社のそばで川の水が地中に潜って一時的に途切れてみえることから「水無し」と言ったとする説もあるが、字ではなく読みを重視して、みなし=「水主(みぬし)」と読み、「水の源流」と考えるのが一般的だという。
前日、高山市で出会い、古川国府盆地、種蔵までずっと、飛騨と富山を結ぶ国道41号線を併走していた一級河川・宮川。
宮川の流れが山を削って作られた道が、古代の物々交換時代より現代まで交易や移動の重要幹線であり続けている。
水無神社はその宮川の源流付近に位置しており、「宮川」の由来もおそらく「一之宮=水無神社」から来ているのだろう。
弥生時代に、富山湾から宮川を利用して古川国府盆地へと訪れ、文化や技術を伝えて根付いた出雲族の人々。
彼らの一部はさらに川を遡り――その旅の終点はここだったかもしれない。
水無神社の神体山である位山は宮川と飛騨川、ふたつの源流をわかつ分水嶺でもある。
宮川は日本海へ、飛騨川は太平洋に注ぐ。
こうした立地から、水無=水主=水源という説には確かに説得力が感じられる。
「水無」の由来から話は変わるが、
ここは皇室にとっても重要な役割を持つ神社であるようで、たとえば「昭和時代に一時期、草薙の剣が置かれていた」と言えばこの神社の特殊性が分かるかもしれない。
これは出所不明な噂話というわけではなく、現在も防衛省や宮内庁に残っている公式記録で、今から80年ほどさかのぼった1945年の話だ。
当時敗戦が濃厚になってきたため、米軍に三種の神器を奪われることをおそれた陸軍上層部の中で「三種の神器移送計画」が持ち上がり、そのうち「草薙の剣」と「八咫鏡」の疎開先として選ばれたのがここ水無神社だった。
1945年8月5日に視察が行われ、準備が進み、熱田神宮の「草薙の剣」は終戦直後、8月22日に実際に水無神社へと移されている。
ちなみに本来は伊勢神宮の「八咫鏡」も移されるはずだったが、こちらは準備に時間がかかり結局実現しなかったそうだ。
昭和天皇実録
中日新聞2014年9月9日
宮内庁が公開した「昭和天皇実録」についての記事
http://www.asahi.com/area/mie/articles/MTW20120820251060002.html
この話には後日談があり、一ヶ月ほどしてほとぼりが冷めた頃疎開が終わり、熱田神宮の神職が草薙の剣を電車で持ち帰ったという。
神代から伝わる草薙の剣を、電車(高山本線)で……。
想像するとすごい絵面だ。
極秘任務であまり目立てないはずだし、普通の乗客として乗ったんだろうか。
(……名古屋から富山を結ぶ高山本線は1934年・昭和9年に開通したばかり。当時最先端交通移動手段だったと考えれば妥当なのかな)
JR東海 高山本線物語
ところで、神器を疎開させるにあたって、全国津々浦々たくさんの神社がある中で、なぜここ、飛騨の水無神社に白羽の矢が立ったのだろうか。
同時代に活躍した作家の坂口安吾氏は、飛騨から天皇家が始まったという「飛騨王朝説」を唱えていたが、やはり飛騨には「何か」あるのだろうか。
色々想像がかきたてられる。
ここではひとつ、「日本神話」による解釈(というよりこじつけ)をしてみよう。
記紀神話における草薙の剣は、出雲においてスサノオがヤマタノオロチの尾から見つけた剣「天叢雲」が初出だ。以降、次のような経緯を辿って所在が遷っていく。
→スサノオからアマテラスに献上される。
→アマテラスの孫ニニギノミコトが地上に降りる際に持ってくる
→ニニギノミコトの子孫(皇室)に代々伝えられる
→皇女トヨスキイリヒメの代に皇室から出され、流浪の旅に出る
→トヨスキイリヒメから役目を引き継いだヤマトヒメが伊勢神宮を建て、草薙剣もそこで祀る
→ヤマトヒメが戦に赴く甥・ヤマトタケルに授ける
→ヤマトタケルの活躍の中「草薙の剣」と名を変える
→ヤマトタケルの伊吹山決戦直前、剣自らの意志で尾張氏の姫ミヤズヒメ(ヤマトタケルの妻)の元に留まる。結果ヤマトタケル敗北
→尾張氏・ミヤズヒメ、熱田神宮を建てて草薙剣を祀る
→時代を経ていつの間にか皇室に戻っている。詳細は記載なしで不明
→668年、道行と言う僧による草薙剣盗難事件が起こる。剣は無事発見・朝廷に返還される
→686年、天武天皇が病にかかり、これは草薙剣の祟りだと占われたので熱田神宮に送られ、以降そこで祀られることになる。ここまでが日本書紀での記述。
~
→1945年、一時的に飛騨の水無神社に遷座され、数ヶ月後、熱田神宮に戻される
日本書紀では皇室から熱田神宮に送られた、となっているが、熱田神宮側の伝承ではミヤズヒメの時代からずっと、尾張氏によって熱田神宮で祀られてきた――とされている。
このあたりの経緯が関係しているのかいないのか、明治になるまで草薙剣は熱田神宮の本殿には祀られていなかったことが知られている。
本殿ではなく「土用殿」という、草薙剣のためだけに建てられた御殿で特別に祀っていたのだ。
神社で一般的に行われる祭祀とはやや違った趣を感じられる。
尾張氏は、尾張へ移る前、飛騨・美濃を本拠地にしていた古代豪族だ。
そう考えれば、尾張国の熱田神宮と飛騨国の水無神社は、祖先が同じ親戚のような関係とも言える。
草薙の剣にとって飛騨一ノ宮・水無神社への疎開はある種の「里帰り」と捉えることもできるかもしれない。
神社内を進んでいく。
「飛騨の山間の神社」というイメージから思い浮かべていたよりはるかに広い境内が目の前に広がった。
深い山の中では平地はものすごく貴重なスペースだったはずだ。
これだけの土地を農地ではなく境内として確保し続けているということは、ここの神さまが古くから土地のひとに深く深く信仰されてきた証だろう。
この柵から先には特別な時以外進めないようで、ここからお参りするようだ。
二礼二拍手、手を合わせていつものように、無事ここまで旅してこられたことを感謝する。
こうした地域を代表する神社の場合、その土地そのものに対しての挨拶でもあると思っている。
お参りを済ませるともう少し境内を探索することにした。
看板に、チバカの桂、とある。
チバカとはなんだろう。文面を読んだが、名前の由来についての説明はない。
見上げると――
「おぉ……」
思わずぽかんと口が開いてしまう。
すごい迫力だ。
スギの巨木とはまた違う、三本の幹からいくつも枝分かれしてうねるように空に向かって末広がっていくその樹形は、まるでヤマタノオロチのよう。
上の方の力強い大きな幹の存在感もすごいけど、根元の方の大量に伸びる小さい幹や枝葉も一種異様というか独特の雰囲気で、生命力に満ち溢れている。
木の横から、拝殿のそばに抜ける道があった。
ちょっとした隠し通路のようでついわくわくしてしまう。
境内には、顔を入れて写真撮影するパネルが置かれている。
傍らの看板に書かれた「生きびな祭り」という言葉が気になった。
調べてみるとこれは、おひな様が生きて動き出すお祭りではなくて、昭和初期に始まった、地元の未婚女性たちがひな人形のような平安衣装を着て――つまり「生きびな」になって町内を練り歩く催しなのだそうだ。
他にも境内には興味を引くものがいくつかある。
二体の神馬像。
白駒は祈晴(雨乞いの逆)、晴天を司る神馬。
黒駒は農作物を荒らし、収穫前の稲を食ったために両目を抜き取られた馬なのだそうだ。
今では神馬として、白馬とともに大切に信仰されているそうだ。
水が豊富な飛騨では、雨乞いよりも祈晴の方が重要だったんだろうか。
そのとなりには、大木の切り株が鎮座している。
これまた凄まじい巨木だ。
まるで筋肉のような表面がたくましくもおそろしい。
品種はヒノキだが、突然変異的になぜかこんな風に樹皮がねじれてしまっていて、見た目から「ねじの木」と呼ばれているそうだ。
これに関してはいくつかの伝承が残っている。
「むかしむかし、この大樹を邪魔なので切ってしまおうという話が持ち上がった際に、なぜか一夜のうちにこのように樹全体がねじ曲がってしまい、たたりを畏れた村人は切るのをやめた」とか。
「二百年ほど前、代官から工事の木材として神社の大木を差し出せとお触れが出た際に、里人がこのねじの木を見せて『切ろうと思ったら神さまが怒ってこんなにねじれてしまった!』と説明したところ、『こわ……もう神社の木を切るのはやめよう』というふうに話がまとまった」……とか。
水無神社のシンボル的な存在で、この木に似せた「こくせん」という地域菓子もあって、お正月には参拝客の良いお土産になるのだそうだ。
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ところで、リリさんが風雨来記4で引用した小説「夜明け前」のセリフ「あの山を越えると中津川だよ」。
あれを発言した人物は、明治時代に一時期、この水無神社の神主を担っている。
「夜明け前」という作品は、藤村が自分の父親「島崎 正樹」を主人公(作中では名前を青山半蔵と変えている)としたノンフィクション小説で、「あの山を越えると~」を発言したのもこの半蔵=正樹だ。
元々馬籠という宿場は、島崎家の祖先が他の土地からやってきて開拓して出来た町で、そのため島崎家は町長的な立ち位置にいる。
江戸時代の終わり頃、長男だった島崎正樹は、家督と町の代表者の立場を受け継いだ。
そこまでは順調だったのだが、江戸から明治への時代の変化に呑まれ、彼の人生の歯車は狂ってしまう。
「夜明け前」というタイトルを聞くとつい、「その後に明るい朝がやってくる」と連想してポジティブなイメージを感じてしまうが、誰もが「夜明け」に立ち会えるわけではない。誰かにとっての夜明けが、他の誰かにとってはそうではないかもしれない……
この小説は、そういうお話だ。
紆余曲折あって、立場を失い失意のなかで島崎正樹は、明治7年からしばらくこの水無神社の神主を務めた。
神事のかたわら、学校で学問を教えてもいたそうだ。
水無神社境内には、彼が詠んだ歌を刻んだ碑もあるらしい。
……らしい、というのはそれを、ブログを書いている今この瞬間水無神社についてあれこれ調べている中で知ったからだ。
偶然写ってないかな……
撮った写真を見返してみると「あっ」それらしい碑があった。
おそらくこれがそうだろう。
水無神社のホームページで確認したが、よしよし、間違いなさそうだ。
この碑には、
「きのうけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里」
という、飛騨で晩秋を過ごす中で詠んだ歌が刻まれているそうだ。
神社の外へ出てみた。
少し先まで歩いてみて、そして振り返る。
うーーーん。
さっきから何かが引っかかっている。
何だろう。
この違和感……
……
…………
あ、そうか!
今自分の前に水無神社がある。
普通なら、その背後に位山があるはずだ。
でもそうじゃない。
水無神社は位山をご神体としているはずなのに、正反対の方を向いて建っている。
だから違和感を感じたんだ。
神社では参拝者は拝殿(賽銭箱が置いてある建物)で、その奥にある本殿にいる神さま(ご神体)に向かってお参りする。
その本殿のさらに後ろには、元々神さまが住んでいた場所だったり、古代の祭祀場や磐座があったりすることもある。
だが、水無神社をお参りした場合、位山の神様に背中を向けていることになる。
これは自分の知る限りなかなかレアケースだと思う。
なんでこうなってるんだろう。
不思議だ。
実は、水無神社の神さまと、位山の神様は元々関係なかった、あるいは対立関係だったとか……?
水無神社から宮川を挟んで反対側に、御旅山と呼ばれる丘がある。
古墳なのではないかとも言われるこの丘は、文字通り水無神社の「御旅所」だ。
こちらからは、位山がよく見える。
歴史の長い神社の本殿でも、古代からその場所に建っていたとは限らない。
長い歴史の中で環境の変化、地域開発や天災、占いや神事など様々な事情によって移転・移築されること――「神さまのお引っ越し」はよくある話だ。
木が倒れたから隣に立て替えるみたいなケースもあれば、山の中にあった社を里のそばに移したり、川のそばにあった社を高台に移したり。
洞窟や平地にあった社を、ビルの中や屋上に移したり――なんてこともある。
もっとも有名なのは伊勢神宮だろう。
近畿や東海に「元伊勢」と呼ばれる神社が点在しているように、現在の伊勢に至るまで各地を転々としながら天照大神がおさまるための最適地を占ったことが日本書紀に記されている。
そして伊勢におさまった後も現代まで、式年遷宮――20年に一度社を建て替えてお引っ越しをする祭事が続けられている。修繕ではなく場所も移して、神様の家を丸ごと造り替える大祭儀だ。
そして「御旅所」というのは、元々神社が建っていた跡地だったり、神社が建てられるきっかけになった土地を開発せずに神域としてそのまま残し続けているものだ。
神社にとって特に大切なお祭りのときには、神さまを神輿に乗せて地域内を巡り、この「御旅所」に里帰りする。
一之宮町の御旅山も、「元々水無神社があった場所」、あるいは「水無神社創建の起源やきっかけとなった場所」なのだろう。
古墳説が本当なら、ここに眠っているのは位山の神様そのひとなのかもしれない。
現在の水無神社は位山と反対の方を向いてお参りする立地になっているが、かつてこの御旅山にあった頃は位山に向けて社が建っていたと考えられる。
田んぼの向こうに、位山がドーン。
これでもかというくらい、あきらかに位山を遙拝するのに適した立地だからだ。
だからこそ、どうして位山の見えない場所へ遷宮したのか、謎は深まるばかり。
御旅山のそばには、「臥龍桜」と呼ばれる有名な桜の古木がある。
現在でも花見の時期には県内外から多くの人で賑わう名所だが、この木はなんと樹齢1100年。平安時代生まれだ。
この木が生まれた頃は、水無神社はまだこの御旅山にあったんだろうか。
それともすでに、現在の位置に移築されていたんだろうか。
木と会話できるなら、「水無」の語源も、水無神社が位山と真逆の方向を向いて建てられた理由も、判明するかもしれない。
位山山麓
雨の中、一之宮町からバイクで走ること十数分。
位山の登山口はいくつかあったが、今回は雨天ということもあって一番スタンダードなコースを選択した。
道の駅「モンデウス位山」という、スキー場に併設した施設を起点とするルートだ。
スキー場なだけあって駐車場はやたら広く、周辺は公園として綺麗に整備されている。
バイクを停めて、周囲を探索してみる。
大きな看板に「位山匠の道」という文字。
現在駐車場のあるあたりには東山古道とか飛騨支路と呼ばれる奈良時代以前から使われていた都から美濃、飛騨を結ぶ官道があり、「飛騨の匠」たちもここを往来したという。
官道、つまり中央によって荷物を載せた馬や牛が通れるように公に整備された公共路、ということだ。
付近の岩には、見慣れない苔?植物?みたいなものがへばりついている。
このあたりは湿地帯らしいが、そういう環境特有の生き物なんだろうか。
何の変哲もない遊歩道の脇に、「分水嶺」「太平洋」「日本海」と書かれた矢印看板が立っていた。
植物の下に隠れて見えないが、ここを境に流れる水の旅路がかたや太平洋、かたや日本海と大きく分かれることになるようだ。
分水嶺については、風雨来記4作中にて「ひるがの高原」の分水嶺公園が紹介されていた。
個人的に大好きなスポットのひとつだ。
位山山麓とひるがのは緯度も標高も近く、直線距離が20キロに満たないくらいご近所だ。
にもかかわらず、水系が違う。
ひるがのの分水嶺は「庄川」と「長良川」に分かれるが、位山の分水嶺は「宮川」と「飛騨川」に分かれていく。
長良川は郡上から美濃を抜け、岐阜市内を通って南下。
飛騨川は下呂を通って、少し東に逸れた後でまた西に戻り、美濃加茂のあたりで木曽川と合流。大きくカーブして南下。
すぐ近くで生まれた長良川と飛騨川(木曽川)は、一度は離れ、その後近づいて、最後はほとんど平行するように流れていく。
にもかかわらず、結局交わることなく海に到達する。
水の旅路を、つい人のそれになぞらえて想像してしまい、なんだかちょっぴり感傷的な気分になってしまう。
現在一番近いところでは、数十メートルの距離まで近づくも交わることのない長良川と木曽川(飛騨川)。昔からそうだったわけではない。
人の手によって近世になって「切り離された」のだ。
江戸時代までは揖斐川・長良川・木曽川が網目状に無秩序な合流をしており、洪水が起こる度に川の位置ごと変わっていたという。
明治以前の河川状態をあらわした図をみると、それが決して大げさな話ではないと理解できる。
江戸時代までは揖斐川・長良川・木曽川が網目状に無秩序な合流をしており、洪水が起こる度に川の位置ごと変わっていたという。
明治以前の河川状態をあらわした図をみると、それが決して大げさな話ではないと理解できる。
https://www.water.go.jp/chubu/nagara/21_yakuwari/rekishi.html
そんな三つの川を「分離」する大規模な工事計画。
風雨来記4内で語られた、治水神社の「宝暦治水」事業はまさにこれだ。
その後明治になって、ヨハネス・デ・レーケというオランダの土木技術者の指揮によって、完全分流が実現した。このときには、当時の国家予算の約12%が投じられたそうだ。
余談だが、このデ・レーケという人は日本各地で治水工事に大活躍しまくったため、農林水産省のホームページでも国の偉人として名前が残っている。
彼が携わった工事の痕跡を辿るだけで、東京、千葉、群馬、富山、福井、岐阜、愛知、三重、滋賀、大阪、京都、鳥取、徳島、福岡、宮崎……と、ほとんど日本縦断に近い旅路になるほどだ。
いつかその足跡をたどる旅をしてみるのも面白いかもしれない。
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道の駅のスタッフさんに話を聞くと、今日くらいの天候なら位山を登山するのに特に問題はないとのこと。
バイクならば「ダナ平林道」という林道で巨石群のそばまで上がることができるので、そこの駐車場からならあとは山頂まで徒歩一時間かからないそうだ。
よし、行ってみよう!
登山届をきちんと出して、いざ位山へ――!
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言われた通り、バイクで林道を進んで――――、100メートルも走らないうちにUターンした。
無理無理無理!
確かに林道は未舗装路だとは聞いていたけど、普通の砂利道じゃなくて、やたらと砂利が大きかった!いや、砂利というか子供のゲンコツくらいの石がたくさん混じっていて、バイクが跳ねる跳ねる。
タイヤがとられるし、振動も強烈だ。
それに加えてきつい傾斜。
雨によってぬかるむ地面。
さらに、林道終点まで車でも30分くらい走ることになるらしい。
運転も危険だけどそれ以上にパンクや電子機器の故障などが心配だし、荷崩れする可能性もある。
総合的に考えて、自分のバイクではこの道は無謀だと判断する。
今日に関しては一日中雨予報、急ぐ旅ではない。
バイクは麓において。
下から、歩いて、ゆっくり登ってみることにしよう。
位山登山
気を取り直して、いざ登山開始。
正面奥に見えるのはスキー場だ。
雲で見えないが、あのさらに向こうに位山山頂がある。
このまままっすぐ正面の丘を越えていくルートもあるが、今回は右側からぐるっと迂回するルートをとる。
巨石群遊歩道まで5キロ、という看板。
古代の祭祀跡とも言われる巨石群のそばに駐車場があるそうだ。車・バイクでも30分ほどかかるらしい。
歩いてなら所要時間はどれくらいだろう。
5キロといえば平地なら徒歩一時間くらいの距離だが、登り坂の林道なら倍以上みたほうがいいだろう。
現在時刻午前9時。
大きな砂利が転がっていたのは入り口付近だけで、途中からは舗装路未舗装が入り混じった割と整備された林道、という雰囲気になった。
それでも勾配は強いので、下りのことを考えれば歩いてきて正解だったとつくづく思う。
帰りは、別のルートから降りるのもありかもしれない。
『「蔵柱のネズコ」クマ出没や落石等の危険があります……』
道ばたの木札にそんな文字。
道中には、ところどころでこんな風に「巨木巡り」の案内があった。
位山は巨樹・大木の宝庫だそうだ。
案内にそって立ち寄ってみる。
確かにこれは一見の価値ありだ。
何も案内がなければ入ることもない山の中、周囲から見てもあきらかに浮いている不思議な形の巨木。
iPhoneのカメラは近くのものが大きく、遠くのものが小さく写りやすい。写真では木の大きさ・存在感が伝わりにくいのが残念だ。
ネズコとは聞き慣れない木だが、ヒノキの仲間の日本固有種で、腐りにくいことから家具の木材に向き、木曽五木※のひとつとして古くからこの地域の特産だったようだ。
※木曽五木…ヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ、サワラ
林道の半分くらいを進んできた。
こちらには、岐阜県の木でもあるイチイの大木があるそうだ。
250メートル。
グラウンドで走れば一瞬だが、山の中では体感1キロくらいはある。
クマ出没注意の文字に、ビクビクしながら遊歩道を進んでいく。
道の先には、決して細くはない周囲の木がまるで鉛筆のように見えるほど巨大な木が座していた。
これがイチイの樹だと傍らの看板が説明してくれる。
周りがあきらかに植樹された杉林の中、一本だけ残っているイチイ。運良く木材として切り倒されることを免れたのだろう。
イチイは木材としたときに堅く美しく加工しやすいことから、古代から特別視され重宝されていたそうだ。
西洋では最高級の弓の材料とされ、一方日本では神官の勺(杖)の材料となった。
なかでも「位山のイチイ」は特別で、古来より現代に至るまで皇室に「位山のイチイの勺」を献上する慣例が残されている。
そもそも、「位山」の名も良質なイチイ(一位)の産出地を指しているという説があるそうだ。
イチイはスギなど他の木と比べて成長が非常にゆっくりだ。
種から植えると10年たっても1メートルに満たないほどで、そのおかげで身が詰まった固い木質になるし、寿命も長く、樹齢1000年以上もそれほど珍しくないらしい。
ここのイチイは一体、ここまで大きくなるのにどれくらいの年月を重ねてきたんだろう。
標高が上がってきたからか、ガス(雲)が少し濃くなった。
これは山上からの眺望に関しては絶望的だなぁ、とぼんやり思う。
途中、一度だけ車が上から降りてきたが、それ以外は完全に自分ひとり。
雨と風の音を聴きながら、黙々と歩き続けた。
うん。こういう時間も悪くない。
晴れているとどうしても、行きたい場所が多すぎて気が急いてしまう。
もちろんそれはとても楽しくもあるけれど、普段の日常とは遠く離れた山で、ただ無心で時間に追われることもなく……というのもすごく贅沢な過ごし方だ。
・
・
・
あまり代わり映えのしない景色が続く。半ば無心になって歩き続けていた。
そうして、登り始めてから二時間ほどがたった頃、ひとつのカーブを曲がったところで、視界の先に黒くて大きなものを捉えて、全身の毛が逆立った。
意識や理性より前に、体が勝手に固まる。
視界の先に、何かがある。
一瞬遅れて思考が追いつく。
黒い。自分よりも大きい何かが道の先に立っている。
自分の中の何か……動物としての本能だろうか、が「終わった」と言った。
何が終わったのか。生命の終わり、たぶん最大限の危機だと感じたのだろう。
そんな無意識に湧き上がった感覚を意識が翻訳し言語化したのが「終わった」だったのかもしれない。
山の中で、二本の足で立つ、人間より大きな黒い生き物。
…………クマ?
見つけてはいけないものを見てしまったような、出会ってはいけない相手に出会ってしまったような、そんな本能的な恐怖に背筋が寒くなった。
自分の本能の部分がずっと警鐘を鳴らしていた一方で、体の方はやけに冷静で、黒い生き物がこちらにまだ気付いていないことを意識しつつゆっくりと慎重に、注意深く後ずさって、這いつくばるようにカーブの陰に身を隠した。
それでほっと息をつく。
すぐに、首だけをそっとのばしてカーブに生えた草木の隙間から顔先だけ出した。
生き物は、ガードレールに寄りかかるように2本足で立ち、木の枝に顔を突っ込んでいた。
よかった、気付かれずに隠れられたようだ。
安堵するとほぼ同時、不意に枝葉で隠れていたそれの『横顔』が目に入った。
その瞬間、その『横顔』のシルエットが、自分の知っている生き物に合致する。
認識が切り替わる。
「カモシカだ」と認識して緊張が一気に抜けた。
ニホンカモシカだ。
意識が一気に日常モードに返って来た。
パンクしたタイヤのように気が抜けていく。
……なんだぁ、クマじゃなかったのか。よかった。
いや、でも、それにしても……黒い。
過去に何度かカモシカと出会った経験はあるけど、黒というより灰色ぽいイメージだったから、全く認識が追いつかなかった。
季節によって色が変わるのか、個体差や地域差があるのか。
こちらが少し動くと、ぬっと太い首をまわして顔をこちらへ向けた。
感情のうかがい知れない黒い目がまっすぐこちらを見つめてくる。
それがまるでヒトの相にも似て、一瞬また畏れを抱いた。
が、視力はあまり良くないようだ。
こちらが動かないと、「なんだ気のせいか」と言った感じでまた食事を再開した。
あらためてまじまじと見る。
大きいな。
カモシカって、立つんだ……
そして後ろ足で立つとこんなにたくましく、大きいのか。
こうやってカモシカと分かった上で見ても、立っているとカモシカに見えない。
自分がもしカモシカの存在を知らなかったら、「山の中で『鬼』と出会った」と本気で思っていたかもしれない。
カモシカは尖った角を持ち、目が四つあるようにも見えることからウシオニと呼ぶ地域もあるそうだが、今なら心から納得してしまう。
我ながら現金なものだ。
余裕が出てきて、iPhoneのカメラを向けている。
さっきまでは「自分の身に危険が及ばないために」気付かれないように苦心していたのが、ニホンカモシカと分かった今は「シャッターチャンスのために」気付かれないようにしているのだ。
カモシカはこちらがほんの少し動くたびに反応してこちらを見る。
が、じっとしているとすぐに食事に戻る。というのを何度も繰り返した。
リアル「だるまさんが転んだ」だ。
そんな時間も長くは続かず、つい大胆に動きすぎてしまった。
カモシカははっきりこちらを認識したようだ、驚いたように身を翻して四つ足となり、(そうすると確かにカモシカの姿だ。先ほどまであんなに巨体に見えていたのが嘘のように、小柄に見えた)慌てすぎたのかアスファルトで滑って転んだ後すぐに体勢を立て直し、軽やかにガードレールを跳び越えて山の中に駆けていった。
大きな甲高い声で何度も何度も叫びながら。
ふと、
ああ。あのカモシカが「今感じている感覚」は、自分がついさっき感じていたものと同じなのかもしれない。
そんな風に思った。
人間も動物の一種だ。
未知の大きな動物と出会うと、文明の中で普段は忘れている自然の本能が呼び覚まされるのだ。
今回は結果的に既知の生物だったが、それをそうと認識するまでの間……不意に出会い、見慣れぬ(知らない)体勢や向き、シルエット、毛色などの条件が重なって最初「未知のもの」に見えてしまっていた。
そのとき湧き上がった感覚。
それはたぶん、山野に暮らした先祖たちが持っていた「未知の、自分より大きな生き物と出会った時に感じるそれ」と同じものだったはずだ。
動物の根幹にある、未知へのこわさ。
自分はさっきご先祖、そしてあのカモシカと、きっと同じ感情を体験したのだ。
この出会いだけでも、雨の中歩いてここまで登って来た甲斐があったと思えた。
とはいえ、もちろんここで引き返すつもりもない。
体力も気力もまだまだ万然。
山頂を目指して再出発しよう。
登るほど、道の脇に巨岩が増えていく。
そういう地質なんだろうか。
そしてその岩を、木の根や幹が覆い被さり、丸飲みしようとしている。
ここでは、木の方が優勢に見えた。
これらも先ほどのカモシカと同じく、バイクだったら一瞬で通り過ぎて見ることのできなかった風景だ。
登り始めてから二時間ほどだろうか。
時刻は午前11時になろうかというところで、ようやく、駐車場のある「巨石群登山口」に到着した。
奥に見えるのが、「水無神社」奥宮の鳥居だ。
最初しばらくは「なんでこんなところに鳥居があるんだろう」と首を傾げてしまったほどだ。
扁額(鳥居の中央にある「○○神社」と書かれた札)がないので、この鳥居だけ見ても、これが水無神社のものだとはぴんとこないだろう。
隣の石碑をよくみると、ここから先が水無神宮奥宮の境内だということが分かる。
登山を進める前に、広場で少し休憩する。
雨は意外にも勢いを弱めていて、小雨か、最早霧雨と言った様相を呈していた。
おかげで見晴らしも、思っていたよりは見えているな、という感じ。
とはいえ本来見えるはずの白山連峰とか乗鞍は望めるべくもない。
小休止のあと、再び歩き出す。
ここから山頂まではもう一時間もかからないはずだ。
ここまで二時間。もう行程の半分を過ぎていることになる。
体力も気力もまだまだ万全。
どんどん進んでいこう。
位山山頂へ
鳥居をくぐって、山頂を目指す。
登山道の左右にはたくさんの巨石・巨岩が座している。
場所によっては巨石の壁の隙間を縫うように進むところもある。
その数は十や二十ではきかない。
あまりに多すぎて途中で数えるのをやめた。
ここが登山道として整備される以前は、奥宮の参道、神域だったんだろう。
この付近一帯がまるで巨大なストーンサークル、あるいは石柱神殿のようだ。
それら巨石のほぼすべてに看板が立っていて多種多様な「名前」が付けられていた。
見た目や石質、地域伝承などからの連想だろう。
なんでその名前?と思うものもあれば、確かにそう呼びたくもなるなぁというものもある。
これは賛否両論あるだろうからあくまでも自分の個人的意見だけど。
さすがに全部の巨石に名前をつけてしまう、しかも看板を立ててしまうというのはやりすぎなような……
山の中に眠る巨石群の神秘性が削がれてしまうような気がして、あるいはそれぞれの岩を目の当たりにした時にその人それぞれが抱くだろう自由な思考、印象、発想を阻害し固定化されてしまう気がして、あまり好ましくは感じなかった。
もちろん、名前があるから親しみが生まれる、素通りせずに一個一個に立ち止まって見るきっかけになる、気軽に思考や発想につながるガイドになるという考えもできるから、良い面もあるとは理解できるけど。
ところどころの巨岩の隙間には、石を重ねた、部屋のようなスペースがあった。
いつの時代のものかは分からないが、人の手が入っているようだ。
岩にはたくさんの線刻のようなキズも見える。
弥生か、もっと古く縄文か。
古代において、このあたりの岩屋は素晴らしい天然の住居になっただろう。
こちらは、木の根の下に大きな空洞が空いている。
人工物……たとえば古墳の石室が木に浸食されて崩れた後……のようにも見えるけど、どうなんだろう。
模様のようにも、図形のようにも見えるキズが張り巡らされた岩もある。
この線、自然にできたものか、人の手によるものか。
仮に人の手によるものだったとしてもこうした、野外の岩石を削った跡は放射性炭素年代測定法が使えないために、いつ彫られたものか正確な測定ができない。
1000年前に彫られたものか、100年前に彫られたものかでさえ、はっきり答えがでないのだそうだ。
白黒分からないことが残念でもあり、分からないからこその浪漫も感じる。
道中、風の音がけっこうすごい。
気圧が不安定なのか、時折ゴロゴロと雷のような音が鳴りそれに呼応するようにびゅう、と勢いよく風が叫ぶ。
が、その風は音だけで肌で感じることはない。
ずっと上の方で吹いていて、木の高いところをゆらして、枝葉に溜まった水をふるい落とす。
おかげでぼたぼたと大粒の水滴が降ってはくるものの、それだけだ。
風は、山の肌の「表面」というか、自分の頭上を覆う木々によって遮られてその下には入ってこられないらしい。
登山道に到達するのは、ほとんど霧のような雨と、たまにそよ風。平穏なものだった。
割と勾配のきつかった巨石地帯を抜けると、一気に道が平坦になった。
まるで平地のような、真っ平らな道だ。
もう山頂はすぐそこという場所なのに、普通山は先へ行くほど尖っているイメージがあるにもかかわらず、この平坦さ。
あ、そういえば。
ふと、風雨来記4の船山の描写を思い出す。
あそこでも主人公が同じ様な感想を抱いていた気がする。
位山の隣、船山。
船山は開発が進んで、山頂まで車道が整備されているから一見の印象が違うけど、位山と山頂付近の形状は似ているのかもしれない。
あまりに平らすぎるせいで――――
ところどころで、水たまりというスケールを超えて、道全体を覆う小さな池が生まれてしまっている。
この水を逃すすべがないのだろう、丸木道が橋となって敷かれていた。
ここだけみるとまるでピクニックコースだ。
標高1500メートルの山とは思えない。
……と、思っていたら。
木道が水没しているところも。
深いところでは、くるぶしの上くらいまで水につかる。
靴が濡れきってしまうともういいやと、積極的にじゃぶじゃぶと水の中を歩いた。
さすがに標高1500メートルとなると真夏でも結構温度が下がってくる。
それでも体を動かしている限りは暑くもなく寒くもなくといった感じで、快適に思えた。
山頂まで、あと500メートル。
相変わらず平坦な道が続くけれど、足下には岩や大きな石が転がっている。
蹴躓かないように気をつけよう。
ふと気付いて靴をぬぎ、水たまりに素足をつけてみる。
流れがある。
土質がきめ細かいとか粘土質だからだろうか、水が地面に染みこむより先に流れているのだ。
降った雨がその場で沢となる。
平地では見ない光景だ。
でもどこか懐かしくも感じるのは、大雨の日の学校を思い出すからだろうか。
たくさん雨が降ったとき、学校のグラウンドに水が溜まって川や池ができる光景はきっと現代日本人の原風景のひとつだ。
不意に道の先が開け、広場が出現する。
天の岩戸に到着した。
なぜ天の岩戸と呼ばれているのだろう。
飛騨には天孫降臨の伝説が残るとも云うし、岩戸隠れにちなんだ伝承もあるのかもしれない。
神話の「天の岩戸」との関係性はともかく、巨石と巨石が、人為的にか自然にできたものかはわからないが組み合わさって岩屋を形成している。
ご神体あるいは神域らしく、岩にはしめ縄、周囲にはロープが張り巡らされて、侵入を拒んでいるため岩戸内部の様子は詳しく分からないが、人間が住むには十分な広さがありそうだ。
しめ縄が張ってあるし、この天の岩戸が、位山をご神体とする水無神社の「奥宮」なんだろうか。
それにしても……
これ、「天の岩戸」と書かれた看板の存在感が強すぎて個人的にもったいないと思ってしまう。
熱意は感じるけれど……
主客転倒、出しゃばりな司会者のようだ。
見れば分かるからそんなにでかでかと主張しなくても、と思う。
別に無い方がいいとまで思わない。ただもう少し岩戸から離れたロープの外側に設置するとか、看板のサイズを小さくするとか、あるいは岩戸の雰囲気に調和する字体を使うとか、看板じゃなく石碑を採用するとか……これを設置するとき、そうした意見はでなかったんだろうか。
ネットでは特にここの看板についての不評意見は見当たらなかったから、自分が少数派なのかもしれない。
柵に沿って側面にまわる。
とたんに野趣溢れる雰囲気に引き込まれた。
木と石の融合。
磐座とご神木の垣根が混ざり合った、不思議な光景だ。
巻かれたしめ縄や紙垂もその神聖な空気を強調している。
全部がとけ合ってひとつの生命体にも見える。
柵とロープがあって近くによることはできないが、離れていてもその存在感は圧倒的だった。
なぜだかはよく分からないが朽ちかけた切り株の根元、シダやコケに包まれて、小さな七福神らしき像がふたつぽつんと置かれていた。
たぶん、大黒さま(オオクニヌシ)とえびすさま(コトシロヌシ)だろうか。
どうしてここに、どういう経緯で座してらっしゃるのだろう。
この切り株にちなむ何かがかつてここにあったのかな。
当然だがたずねても答えは返ってこない。
雨の空気も相まってなんだか不思議な光景だ。
天の岩戸を後にして、登山を再開する。
道はさらに平坦になって、水はけが悪いを通り越してもはや小川。
これはもう登山道という名のせせらぎ。
沢歩きの様相だ。
しかし、不思議だな。
どうしてこんな水の溜まり方するのだろう。
登山や森歩きしていても、こういう光景はあまり見たことがない。
木々やクマザサに包まれた狭い道が、急に開ける。
ぽっかりと、空の白がまぶしい。
広場だ。
山頂……ではないようだ。
本当の山頂はこのすぐ先にあるらしいが、木々に囲まれて景色が見えないらしく、実質ここが位山で一番展望の良いポイントになっているようだ。
いくつかのベンチと、切り株を加工して造った多数の腰掛けがあるだけのシンプルな展望広場。
本来なら、この先に素晴らしい展望が広がっていたのだろう。
今日は……まあ、仕方がない。こういう日もあるさ。
ここで、はじめて登山客とすれ違う。若い男性だ。
この日、登山客と出会ったのは結局この一回きりだった。
飛騨の中心とも云われるこの位山を、ほぼ独り占め状態で登山してしまった。
これは考えればものすごい贅沢だった。
ついに位山山頂、標高1529メートルに到達。
事前情報通り見晴らしはほぼゼロなので、三角点と標注がなければ山頂に立ったという実感は得られなかっただろう。
一休みする。
現在時刻は午前11時50分。
ダナ林道入り口から登り始めたのが9時だったから、ここまで三時間弱だ。
けっこう良い感じのペースで来られたように思う。
それにしても、このあたりの地面は全然水が溜まっていないな。
同じ山頂付近でも、水が染みこみやすいところと、染みこみにくいところがあるのかもしれない。
そうそう、水といえば、登山道の案内標識によるとこのあたりに「水場」があるらしい。
山頂付近なのに水場?
気になって仕方ない。
下山ルートから一旦外れて、その「水場」を探索してみた。
思っていたよりはるかに立派な水場だ。
四阿とウッドデッキと、水船(木桶)。
「位山御神水」の木板。
屋根の下には、ひしゃくやじょうごが吊ってある。
水はあの岩場から湧いているようだ。
水源らしい場所には箱がかぶせられている。
ここだけ草木が生えておらず、地面も細かな砂利となっていた。
元々は泉で、水が流れ出していたんだろう。
そこから伸びるパイプにつながった竹筒から、絶えず水が流れ続けている。
雨水とかではなく、本当にここの岩場から水が湧きだしているようだ。
決して「ものすごい勢い」とかではないが、か弱くもない、しっかり、みゃくみゃくとした水量だ。
山頂付近に水が湧く。
どういう理屈なんだろう。興味がある。
周辺の地形や地質……あの、尾根の地面の水はけの悪さも関係しているのかもしれない。
これはこれで機会があったらまた調べてみるとして、それより直感的に思ったのは、この水場こそが位山信仰の神髄なんじゃないかということ。
先ほどの「天の岩戸」よりもさらに、この「水場」は水無神社の根幹に近い気がするのだ。
水無神社の「水」は、元々この水場のことを差していたりしたんじゃないか。
なにせここは、水無神社奥宮のさらに最奥地なのだ。
水無の語源がもし「水主」だったとしたなら、水主とはつまり水源のこと。
位山のもっとも最初の水源。
それはこの水場だ。
生きるために人間が必要なもの。
一番は水、二番は食料、三番は雨風しのげるねぐら(住居)。
神か、天孫か、あるいはリョウメンスクナか。
この山上にかつて降り立ち暮らした、そして今は水無神社で祀られているかもしれない人々は、きっとこの水源があったからこそここに暮らすことができたはずだ。
なによりも最初にまず水ありき。
その上で、山中には糧となる豊富な草花や獣達、そしてイチイを初めとした有用な木々がある。
そして彼らが拠点とした場所があの巨石群。
家だ。
「家」と「岩」は言葉が近い。
山の恵みに包まれて、歴史にも残らない遠い昔のある時期に、ひとつの小世界がこの位山山上にあったんじゃないだろうか。
それを後世、山から降りた彼らの末裔たちが、自分達の神さま(ご先祖・土地の英雄)たちが暮らした場所として祀るようになった。
しばらくの間、そんな空想に浸ってみた。
ありがたく、位山の恵み「水」をいただく。
・
・
・
のどを澄んだ水が通り抜けていく。
おいしい。
体の奥から綺麗になっていくような、元気をもらえた。
さあ、下山だ!
帰るまでが登山。気を抜かずに降りていこう。
位山下山
水場から少し戻ったところで、道端に木の看板が立っている。
乗鞍岳展望スポット、と書かれていた。
雨足は弱いものの、ガスは濃くなるばかりだ。
残念ながら、乗鞍岳があるだろう方向を見ても、シルエットすらとらえることはできなかった。
さらに先に進む。
こうしてみると、同じ山上でも水はけのよい場所、悪い場所がある。
地面のほんの少し下の地質や状態はそれぞれ違うんだろう。
そうした複数の条件が重なった末に、先ほどの水場のような現象があらわれるのかもしれない。
間もなく、天の岩戸へ戻ってきた。
ここからルート分岐だ。
往きに利用したダナ林道登山口ではなく、スキー場側登山道を使って降りていこう。
早速道に迷った。
道がなくなって、見通しの良い林に出る。
人の手が入ってはいるようだけど……どう進んだらいいんだこれは。
少なくとも登山道ではないよな。
ルートにはピンクのリボンが巻かれているのでそれを注意深く確かめれば早々迷うことはないけれど、不注意で見落としたり、倒木で死角になっていたり、木々の隙間や獣道などを登山道と間違えたりすることはどうしても起こる。
こういうときは来た道さえ分からなくなる前に、一旦素直に引き返すのが得策だ。
どうしても積み上げてきた労力を無駄にしたくないという心理を持ってしまうけど、そこはぐっと押し込めて道を戻ると、間もなく正規ルートに戻ることができた。
巨大な倒木。
「根こそぎ」という言葉がすごいスケールで具現化している。
深く幅広く広がった根は、大きな岩をいくつもつかんでいた。
ここまで根を張っても、倒れることがあるのか。
なぜこの木だけ倒れたんだろう。
地面の下が堅くて、深く根を伸ばせなかったとか?
周囲に比べて少し低くなっているから、水がたまりやすく土が軟らかかったというのもあるのかもしれない。
人がそばに登山道を作ったから、風通しがよくなってしまったなんて理由もあるかも。
そうした要員が重なった上で強風が吹き、木の上の方があおられてその勢いで……という感じだろうか。
倒れた根っこは未だ多量の土をたたえていて、空を向いたその先からは無数の若木が芽生えていた。
形を変えて、今も未だ生きているのだ。
・
・
・
標高が下がってくると、徐々にガスも薄くなってきた。
霞の向こうに山嶺が見える。あれはどこの山だろう。
特徴的な形をしているから、知っていればひと目でわかるんだろうな。
ようやく、スキー場のリフト乗り場まで降りてきた。
視界が大きく広がって清々しい。
もうここからは道に迷うことはないだろう。
雲の下に出たため、一気に展望が広がった。
方向的に、あれが一之宮町。
あの小さな盆地の右端あたりが水無神社……になるのかな。
こんもりした緑が残っているのが分かる。
同時に、やっぱり水無神社は位山とは全然違う方を拝んでいるな、と思う。
(写真右の方を向いて拝むことになる)
御旅山ががっつり位山を向いているぶん、向きの違いが目立つ。
本当に水無神社の神体山が位山なら、その山に背中を向けて拝むなんてことあるんだろうか。
パノラマ展望をしばらく堪能してから、下山を再開する。
下りで負担がかかったのか、ふとももやふくらはぎに疲労を感じ始めている。座りたい。休みたい。
山頂の水場と雨の湿度のおかげでのどはそれほど乾いていないけれど、とにかく腹ぺこだ。
山を降りたらまずは何かお腹に入れよう……。
頭が「疲れた」と「腹減った」で埋まっていく。
祭壇岩。
見晴らしの良い場所に、独特な形の岩が等間隔に並べられている。
古代、なにがしかの祭祀に使われていたと考えられているようだ。
位山信仰に関わるものだろう。
特に説明などはないが、ストーンサークルの一種だろうか。
見通しの良い丘を駆けるように降りると一気に標高が下がり、間もなくモンデウスパークの登山口までたどりついた。
ふう、と一息つく。
下山の感慨もそこそこに、道の駅の売店へ飛び込んだ。
ああ、お腹減った!
売店にある食べ物を買い込んで、ベンチに腰を下ろすと一心に空腹を満たす。
水分補給も忘れずしっかり済ませて、ひとしきり体を休めた。
気付けば、雨はほとんど上がっていた。
次回につづく。
モンデウス余談
ところで、ここの道の駅名「モンデウス飛騨位山」の「モンデウス」ってなんだろう、となんとなく気になったまま調べずじまいだったので、このブログを書いている最中にふと思い立って検索してみた。
「モンデウス」は固有名詞らしい。
「モンデウス」と検索に打ち込むとほとんどすべてここ、飛騨位山の施設がヒットする。
だが、モンデウスの意味について言及しているサイトはなかなか見つからない。
検索ワードを色々変えてみて、ようやくそれらしい記述にたどりついた。
結論からいうと、ラテン語を使った「神の山」を指す造語だそうだ。
モン=山
デウス=神
デウス・エクス・マキナの「デウス」か。
モンの方は英語の「マウント」とか、モンベルの「モン(フランス語)」と同源。
位山は日本古来からの山なのだから、シンプルに「神の山・飛騨位山」じゃダメだったのかとも思うけど、そもそもこれは道の駅の前身となった村営スキー場時代(2005年までは位山や水無神社周辺は高山市ではなく宮村だった)に命名された名前なのだそうだ。
なるほど確かに、スキー場の名前で「モンデウス」というのはなかなか洒落ていて良い語感だと思う。
「スキー行こうぜ」「おう、どこに行く?」という話の流れになったとき、「神の山にしよう」とか「位山にしよう」よりは「モンデウスにしよう」の方が、「スキーしに行くぞ」というムードが駆り立てられそうだ。
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