※この記事は、2022年夏に三度に渡って巡った岐阜の旅の記録①です。
勢いで出発
「風雨来記4」との出会いから丸一年がたった2022年7月某日。
唐突に思い立った。
「明日の休み、岐阜に行こう」
日帰りなら、荷物や装備は最低限で済む。
前夜のうちに準備を済ませておき、朝5時に起きて6時前に京都を出発。
岐阜県に入ったのは9時を過ぎた頃だった。
「3時間」なんて、普段なんとなく過ごしていると一瞬で過ぎるものだけど、バイクに乗って遠出すると時間の密度がとても高く感じられた。
あらためて、3時間あればこんなに遠くに来られるんだ、と驚く。
こうやって「普段しない新しいこと」をしたり、「見知らぬ場所」へ行くと、一分一秒が引き延ばされるような、凝り固まっていた脳がリフレッシュしたような、ちょっと得をした気分になれる。
「羽を伸ばす」という言葉にも近い。
旅の醍醐味のひとつだと思う。
県境を越えてすぐ、関ヶ原駅で停まって少し休憩した。
からっと強めの風が心地いい。
岐阜。
風雨来記4で走った光景が目の前にある。
ああ、岐阜に来たんだなぁ、とじわじわうれしさがこみ上げてくる。
同時に、いくらかの懐かしさ、親しみも覚える。
以前訪れた時から10年以上がたっているけど、今も色々と思い出深い土地だ。
見たいもの、いきたい場所はたくさんあるものの、今回は突発で決めた日帰り旅行ということで、あえて目的を一点に絞っていた。
目的地は「根道神社の名もなき池」、通称「モネの池」だ。
以前から、8月に一週間ほど休みをとって、腰を据えて岐阜を回る予定でいた。
いてもたってもいられず急遽決めたこの7月の旅は、その前哨戦だ。
準備運動を兼ねて、「とにかくモネの池まで行って帰る。途中で気になったところにはできるだけ寄る。そして日帰りする」。
ちょっと強行軍のスケジュールだった。
あらかじめ調べたグーグルマップでの予定距離及び時間は、片道約200キロ・往復約4~5時間、という試算。
(結果から先に言ってしまえば、実際は片道で6時間以上かかった)
天気は超がつくほどの快晴。
久々の長距離ツーリングだけど、ここまで体調もテンションもばっちり。
良い旅になりそうな予感で、早くもわくわくしていた。
どんな景色と出会えるだろうか。
ヤマタノオロチの正体
風雨来記4のオープニング曲のタイトル名にもなっている「国道21号線」を東へ走り、関ヶ原を越えてすぐのところで県道53号線に入る。
見渡す限りの田園風景。
まもなく道ばたに「式内 伊富岐神社」という看板がちらりと見えた。
この神社の存在は前々から知っていた。
滋賀と岐阜の県境に座す「伊吹山」の東側の麓にあって、なんでも日本神話の八ツ首の大蛇、「ヤマタノオロチ」を祀る神社だという。
今日の旅は、目的はあるものの一分一秒を急ぐわけでもない。
バイクを停めて立ち寄ることにした。
まわりはなだらかな山々と田んぼに囲まれていて、とても静かだった。
「熊注意」の看板が立っている。
高い木々に囲まれた杜は、見るからに由緒のありそうな雰囲気だ。
境内に入り、お参りしつつ、ちょっと違和感を覚える。
たいていの神社、特に大きな神社となれば、入り口なり拝殿横なりに立派な看板が立っていて、「ご祭神」や「由緒」と言った神社の起源にまつわる情報が明記されているものだ。
たとえば、「この神社で祀られている神様は○○で、△△年、□□というような由来で建立され……」というような。
しかし、この神社にはそういうものがなかった。
誰が祀られているかの情報も、ここが建立された由来も、ない。
スマホで調べてみるとこの伊富岐神社、やはり歴史のある、由緒正しい神社なことは間違いない。
奈良時代(713年)にはすでに存在していたことが朝廷の記録に記されている。
当時既に「美濃国二宮(美濃で二番目に偉い神社。ちなみに、一番えらいのは数キロとなりにある美濃国一宮・南宮大社)」として認められていたことが分かっている。
にもかかわらず、「この神社の祭神が誰なのかよくわかっていない」のだという。
もう少し正確にいうと、この神社に祀られているとされる「伊吹山の神」の正体が諸説あって判然としないのだそうだ。
この神社は東南東向き、つまり「伊吹山」を背にして建てられている。
だから、「伊吹山そのもの」あるいは「伊吹山の神」をご神体として祀っている事は間違いない。
そして周囲に古墳時代の遺跡が複数存在することから、伊吹の神とは元々、この地域を支配していた豪族が祀っていた氏神(一族の守護神)であったと考えられる。
ではその伊吹の神とは何者なのか。
たとえば古事記では「牛のように大きなイノシシ」、日本書紀では「巨大なヘビ(ヤマタノオロチ?)」とされる。
それまで全戦全勝だったヤマトタケルは伊吹の神に敗北し、それが原因となって病を患い、夭折することとなった。
古墳時代から平安時代にかけてこの地域で力を持っていたのは「伊福(伊福部)氏」らしい。
「伊福部」は職業からつけられた姓で、「息吹」を用いた業を担ったとされる。
はっきりとは分からないらしいが、製鉄、鍛冶、祭祀、あるいは歌唱や楽器演奏※などだろうか。
※「ゴジラ」のテーマ曲で有名な作曲家・伊福部昭氏は、もしかしたらその子孫かもしれない。
伊福部氏の本拠地はここ美濃の他、因幡や出雲など特に中国地方で大きな勢力を持っていた。
どこも、古代から製鉄・鍛冶が非常に盛んだった土地だ。
こうした地域には、「金属を司る神社」が多い。
中でも、先に述べたようにこの伊富岐神社のすぐ近く(2~3キロのところ)には「美濃国一宮 南宮大社」という、古来から続く全国の鉱山・製鉄・金属業の「総本宮」がある。
これはきっと偶然ではないだろう。
昔から、ヤマタノオロチ伝説の主流解釈のひとつに「製鉄技術を持った勢力の象徴」説がある。
「ヤマタノオロチとは製鉄のために燃料として木を刈り尽くし、山を崩し切り開き、麓に土砂崩れや洪水が多発させた勢力のことであり、イナダヒメはそのまま、下流にあって土砂や洪水に飲み込まれる稲田の象徴である」という説だ。
これは、オロチが退治されたあとの「尾」から強力な鉄剣「アマノムラクモ」が出てきたエピソードからも、なかなか説得力のある説だと思う。
剣に「アマノムラクモ(天叢雲)」という名前がつけられた理由は「ヤマタノオロチの頭上にいつも天を覆うような雲がわき起こっていたから」とされるが、これも大量の木を焼いた煙であったり、鍛冶作業の際の水蒸気であるとも考えられる。
実際、製鉄による環境破壊は、想像を絶するものだったらしい。
わずかばかりの鉄を作るのに、山一つが丸裸になったとか。
地域によっては、見渡す限りの山全部がはげ山になって、そうなったら別の土地に移って、また60年だか100年だかたって森が再生した頃に戻ってくる、というようなサイクルがあったそうだ。
あるいはそういう情景が、「自分の母であるイザナミノミコト(=山を司る女神)を焼き殺した火の神カグツチ」という神話につながったのかもしれない。
このとき、イザナミが焼かれる苦しみで吐いた吐瀉物の中から産まれたのが、先に述べた南宮大社の主祭神、鍛冶と製鉄を司る神カナヤマヒコになる。
そしてこの事件では同時に、後の国譲り神話に登場するタケミカヅチを含めた、火・雷・剣に関わる神々が多数誕生している。
この地域には、こうした神々に関する神社が集中している。
怒ったイザナギが子であるカグツチを斬り殺した剣は「天尾羽張」と呼ばれる。
この「尾羽張」の名は、有力豪族である「尾張氏」や、尾張平野など地名に名前を残す尾張国の名にもつながっていく。
そして、火の神を切った剣と同じ名を持つ尾張氏は、ヤマタノオロチから産まれた「アマノムラクモ」を祀る熱田神宮を創建している。
尾張氏のもとにアマノムラクモ(厳密に言えば「草薙の剣」)が渡った経緯に関しては、伝説の中で詳細に語られている。
古事記では、スサノオがヤマタノオロチから奪い取った天叢雲はアマテラスに献上され、後代になって天孫降臨を機に天孫ニニギノミコトとともに地上にもたらされ、皇室に伝わった。
その後時代を経て皇子ヤマトタケルの手に渡り、ある事件をきっかけに「草薙の剣」と呼ばれるようになる。
日本各地を平定していったヤマトタケルだが、「なぜか」、伊吹山の神討伐に向かう際に「草薙の剣」はヤマトタケルを拒み、妻であり尾張氏の娘であるミヤズヒメの元に残ったことが語られている。
結果、ヤマトタケルは伊吹山の神に破れてしまった。
その後「リベンジ」は描かれない。
伊吹山の神の勝利のままで、記紀のエピソードは終わる。
そして「草薙の剣」はそのまま、尾張氏の氏神として熱田神宮に祀られることになる。
「ヤマタノオロチ退治」は「岩戸隠れ」や「国譲り」と並ぶほど、あるいはそれ以上に知名度がある日本神話の代表的エピソードだが、実は、ご当地である出雲の神話を集めた「出雲国風土記」では「なぜか」ヤマタノオロチに関する話題は一切登場しない。
そして、ヤマトタケルを打ち負かした伊吹山の神(ヤマタノオロチかもしれない)を信仰していた地域勢力・伊福部氏は、その後の大和朝廷の勢力下で一定の権力を得ている。
見ようによっては「ヤマタノオロチ側の勢力が、かつて奪われた剣(祭祀権)を取り戻したストーリー」というふうに捉えられなくもない。
はたして、記紀が編纂された時代においてヤマタノオロチと言う怪物として描かれた神さまは、当時も「まつろわぬ怪物」として認識されていたのだろうか。
それとも、ヤマタノオロチのエピソードは「武力による古代豪族の勢力争いを英雄譚化したものだ」という共通認識があった上で記述されたのだろうか。
古事記ではヤマタノオロチを、「蛇」という字を使わず、「八俣遠呂智」と書く。
当てる字になにかしら敬意のようなものを感じなくもない。
そんな伝承の続編、あるいは系譜のような説話は、その後の時代でも繰り返し語られることになる。
たとえば、平安時代になって朝廷と対立した鬼の大王「酒呑童子」は、元々は伊吹童子と言い、伊吹明神=ヤマタノオロチの子供であるという伝承がある。
酒呑童子は、ヤマタノオロチと全く同じ形(酒を飲まされて酔ったところで首を切り落とされる)で敗北する。
この時、酒呑童子を斬り殺した剣「童子切」は、伯耆国の名匠・安綱の作。
伯耆国は、因幡と出雲の間にある土地で、鍛冶・製鉄のメッカ。
「伯耆(ほうき)」という言葉の由来は、「伊吹」と同じく「製鉄に『空気』を使ったことから」とか、あるいはヤマタノオロチに襲われた稲田姫が隠れ、逃げ遅れた母を呼んだ「母来、母来」からであると言われている。
こうしたリンクは偶然なのか、意図的なのか、それとも、伝承として語られていく中で後付け的に統合されていったものなのか。
神話伝承と、実際の歴史・遺物の機微。
当時の政治的事情などから白か黒かで描き分けられなかった神話記録の中の微妙な思惑を感じたり、思いを馳せ、想像をふくらませたり。
そんな空想遊びの大きなきっかけとなる場所が、古代からの「真ん中」のクニ、濃尾平野という土地かもしれない。
山と水の岐阜
モネの池に向かって再出発する。
道中、色々なものが目に入るたび、ついついバイクを停めて見入ってしまった。
遠くからでも一目で分かった、ギフのピラミッドこと金生山。
インパクトがありすぎる。
ここまで整然と掘削されていると、工芸品にも似た美しささえ感じてしまう。
あるいは、古代の古墳を見た人々も、こんな畏敬を抱いたのかも知れない。
この金生山は、伊吹山とほぼ同じ地質だそうだ。
今回は立ち寄る時間がなかったが、またの機会には是非訪れたい。
揖斐川の雄大さに感動して、思わずバイクを停めて見入った。
その後も岐阜の旅の中で何度も繰り返し巡り会うことになる揖斐川。
個人的には、この夏、岐阜で一番印象に残った川はこの揖斐川かもしれない。
そしてそんな揖斐川沿いからふと山手に目をやると……
あの山の「あれ」って……もしかして……「あれ」なのか?
道ばたの直売所。
はつしもを買いたかったけど、5キロの袋しかないらしくて断念……残念。
週一回、時間は9時半から12時まで。
たまたま良いタイミングで通りがかったらしい。
あまりの安さにスイカ(200円)とマクワウリ(100円)を買ってしまった。
道中食べよう、と思ったんだけど、スプーンを持っていないことに気付いたのはだいぶ後になってから。
結局、家まで積んで帰ることになった。
ちょうどモネの池へ向かう通り道で、の風景。
風雨来記4プレイヤーにはお馴染みすぎるスポットかもしれない。
山を削ってるという点では、先述の金生山の方が徹底的にやってるわけだけど、印象がこうまで違って感じるのは、パネルの置き方が無計画っぽく見えちゃうというか、雑然と、散らかってるように見えちゃうからなのかな。
他人のプライベート的な、見ちゃいけないものが目に入っちゃった感じというか。
自分の机の上の散らかり具合を思い出してしまう。
リアルの机も、PCのデスクトップも、こんな感じだ。
だから他人の事はとやかく言えない。
山間へ入っていく。
青々とした稲穂が風でなめらかに波打っていた。
まるで湖面のよう。
ついまた、バイクを停めてしまった。
気になるものを見つけるたびに、こうやってついつい立ち止まってしまうから、なかなか先に進めない。
この時点で11時30分。
当初の予定では、もうとっくにモネの池に到着しているはずの時間だった。
まあ……こうなることは薄々わかっていたよ。
山地に入るにつれ、水がどんどん綺麗になっていく。
ハリヨ公園。
天然記念物の珍しい魚「ハリヨ」が生息する池らしい。
ハリヨの名前通り、ヒレがハリというかトゲ状にとがった魚らしい。
こうしてみても、水がめちゃくちゃ綺麗だ。
藻がたくさん生えていたけど、これは汚れた水に生える藻とはまた違うのかもしれない。
「大量の藻と、澄んだ水」という取り合わせはなかなか不思議な光景に思えた。
このあたりからちょっとずつ、気持ちが焦り始めた。
先を急ぐ旅ではないものの、「モネの池は太陽の位置によって見え方が違う」「午前と午後では水面の反射の仕方が違うので、水面下まで綺麗に見たいなら午前中が良い」……
そんな情報を聞いていたからだ。
どうせなら、綺麗な状態の「モネの池」を見てみたい。
午前中には間に合いそうにない。
もうあんまり寄り道しないようにしよう……。
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そんな決意は10分ともたず、強烈なデジャブを感じてバイクを道ばたに停めた。
岐阜県道91号岐阜美山線(通称サラサドウダン街道)沿い。
ものすごく見覚えある風景……
来たことないけど、自分はこの景色を知っている。
そう思って脇道を振り返ってみると、
……「あの洞窟」かな?
九合洞窟遺跡
九合洞窟。
風雨来記4の中でも個人的にお気に入りポイントのひとつだ。
一番最初の旅で記事にした場所で思い出深い。
大きな洞窟は、冒険心がくすぐられてワクワクする。
場所を全然意識していなかったけど、こんなところにあったのか。
グーグルマップにすら載っていなかった。
↑地図の中央あたり
入り口に、地主の方のご厚意で見学は自由ですと掲示されていた。
早速中に足を踏み入れてみる。
たえず天井から水がしみだして、雫があちこちでポチャ、ポチャと静かに落ち続けている。
地面は湿っているけど大きな水たまりはないから、落ちてくる水分と、蒸発する水分+地面に吸収される水分が同じくらいなんだろう。
洞窟の中はひんやりと涼しい。
これだけ入り口が大きく開いているのに、気圧の関係とかがあるのかもだろうか、夏の暑気が入ってこないようだった。
それを裏付けるように、外でやかましいほど鳴り響いている蝉の声が、ここでははるか遠くに感じる。
音は空気の振動だ、という知識を身をもって実感した気がした。
それよりなにより、入ってみて強く思ったのが、「広い!」ということだ。
思っていたよりずっと広い。
これは「洞穴」ではなく、まさしく「洞窟」だ。
一時的になら、数百人が余裕で雨宿りできる程度には広く、奥深い。
写真では上部の岩があまりに巨大すぎて穴が小さく見えるけど、入り口は、平均身長くらいの大人が立って入れるくらいの高さだ。
写真だけだとサイズ感が分かりにくいと思うので、等身大シルエットを入れてみた。
どれだけ大きい洞窟なのか、伝わるかな。
しかも、立ち入り禁止になっている場所の先に、まだ「奥」があるらしい。
この洞窟からは、石器時代から縄文時代にかけて何千年もの間、人々が暮らした生活の痕跡が発見されているそうだ。
ところどころ身をかがめないと通れない部分もあるけど、平均身長が低かったらしい古代人なら、余裕で立って生活できたかもしれない。
足下はぬかるんでいてすべりやすいから、過ごしやすいように、干し草や枯れ枝、毛皮なんかを敷いたり、もしかしたらこの中に簡単な小屋のようなものを建てたりもしたのかもしれない、なんて想像したりもする。
今日の自分がたまたま通りがかった、ここに至る道。
「今」と「昔」で、「住みやすい土地」の基準は違うだろうし、気候や地形も変わっているだろう。
この洞窟にはかなり長い期間……それこそ何千年単位で人が暮らした形跡があるらしい。
もしかしたらこの洞窟がある場所は、縄文時代は人が交流・往き来する「主要街道」沿いだったのかもしれない。
ひとしきり見学した後、洞窟を出た。
目的地のモネの池まではあとわずか。
何度か迷いつつも、着実に距離は近づいていく。
「うおおおお! めちゃくちゃキレー!!」
運転しながら何度も声に出してしまう。
空も青、水も青、山も青。
いよいよテンションが上がってきたところで、道路脇に看板が見えてきた。
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