岐阜へ再び!【風雨来記4を追いかけて・岐阜旅行記4】

2022岐阜の旅


2022年8月。
約十日間の休日を使って、岐阜一周の旅へ出発する日が来た。

ここ数年、仕事に追われて一泊以上の旅をすることがなかったから、とても新鮮な気持ちだ。
前回の岐阜旅行は日帰りだったから、数年ぶりの「キャンプツーリング」になる。
子供みたいにわくわくしながら準備した。


以前使っていたキャンプ用品は大半処分していたり、長年手入れしていなかったせいで使用できなくなっていたりしたので、今回のツーリングにあたってテントと寝袋、テントマット等を新調。

メインカメラはiPhoneなので、存分に充電できるように念を入れて、モバイルバッテリーを5つ。

雨対策のレインウェア、着替えを多めに。
準備は万全。




懸念がひとつあって、それは今回の期間の岐阜の天気だった。
予報をみると、期間中ほとんどの日に「雨」か「大雨」マークがついていたのだ。
降水確率80%とか90%がずらっと並んでいる状態。

台風の影響で、天候がかなり不安定な様子。

そんな中で唯一という感じで、北部にある飛騨地方では二日目が「快晴」予報だったので、そのタイミングで一番遠い場所を訪れることを決めた。

それはつまり、ちありさんとの「出会い」と「別れ」の場所。
思い出の「種蔵」だ。

今回「一番訪れたい場所」。
まずはそこへ。

そしてそこから岐阜を巡っていきたい。



しかし……遠いっ。
地理的には、岐阜と言うよりほぼ富山県だ。

Googleマップによれば、京都市内からの距離は約300キロ。
高速道路で所要四時間半、下道だと約七時間と言う試算だ。

経験上自分の場合は絶対、途中であちこち道草してしまうので、その2倍から3倍かかるとみていいだろう。(結論から言ってしまえば実際まったくそのとおりになった)



途中までは前回(2022年7月)と同じルート……京都を出て琵琶湖の東岸を北上、彦根を超えて米原から国道21号で岐阜入り。
関ヶ原を抜けて、美濃を北へ。
前回はモネの池でUターンしたが、今回はそこより少し東の長良川沿いまで出て、美濃→郡上→高山→飛騨と縦に北上するルートを計画した。




ともあれ、予定は予定だ。
途中面白そうなものがあったら柔軟に対応しよう。
さあ、出発だ。




滋賀を抜けるまで

琵琶湖沿いの、さざなみ街道を北上する。
湖岸沿いで信号少なめ、道も直線が多く景色が良い、バイクツーリングやサイクリングにも人気の道だ。


前回も思ったけれど、京都を出て岐阜へ入るまで、滋賀県の区間がけっこう長い。
その道中にも見所がたくさんあるので、ついつい足を止めてしまいがちだ。

とはいえ滋賀は近く、飛騨は遠い。
今回は目的があるから、少なくとも岐阜に入るまではなるべく寄り道せずに距離を稼ぎたい……


寄り道……せずに……

道ばたにひまわり畑を見つけて立ち寄ってしまった。
湖畔につづく、ひまわり畑。
こうべを垂れるひまわり達。晩夏の入り口。
岐阜との県境・伊吹山。山頂を境に、その向こうは岐阜県



ふだんよりは……寄り道が少なかったと思う。





岐阜へ

関ヶ原



京都を朝8時頃に出発したのだが、岐阜に入った頃にはもう正午前だった。
やっぱり今日中に種蔵まで走るのは難しそうだ。

寄り道、道草、スローペースは性分だし、割り切ろう。
まずは今日、行けるところまで。


道の駅「池田温泉」の足湯
前回もこの道を通ったので、この風景を見ると「岐阜に帰って来た!」ってテンションが上がる。
見渡す限りの柿畑。全国的にも有名な「富有柿」発祥の土地。




途中、道の駅で足湯につかって休憩したり、道に迷って見渡す限りの柿の木畑に遭遇したり、ちょくちょく寄り道を挟む。

走っていて思うのは、美濃の平野部は本当に「広大だ」ということ。

自分が今住んでいる京都市は標高500メートルくらいの低い山に囲まれた箱庭のような盆地なので、東の端から西の端までせいぜい五、六キロ。道が空いていればバイクで30分かからず横断できてしまう。





一方、美濃はほとんど勾配のないどでかい平野がひたすら広がっていて、その地平のはるか遠くに、高い山々が壁のようにどんとそびえている風景。
高低差のコントラストが強い。
東の端から西の端までは40キロほどあるから、京都をお盆とするなら岐阜は円卓くらいのサイズ感だ。
景色が違うのも当然だろう。


京都盆地のサイズ
濃尾平野のサイズ


バイクで走っていると、こうした土地の作りの違いを実感できて面白い。

あと、前回来たときにも思ったが、やっぱりどこも水がめちゃくちゃ綺麗だ。
大きな川も、そこらへんの小川も、道ばたの用水路も、どこもかしこも水が澄んでいた。




牛臥神社~平安時代のツーリングトラブル~



バイクで道路を走っている最中、視界の隅に見えた集落の中の鳥居が気になって、思わず立ち寄ってしまった。
いわゆる、興味のアンテナに引っかかった、という感覚だ。



入り口の碑に刻まれた社名には、「牛臥神社」とあった。

「おお、こんなところに……!」

と驚いてしまった。

たまたま、この数日前に岐阜について下調べしていた時にみた名前だったのだ。
なんというか、旅の縁を感じる。


確か、平安時代の真ん中あたり、10世紀の頃の天皇ゆかりの神社だったはずだ。
当時の天皇が引退後、美濃を巡幸することに決めた。
巡幸とは、天皇が御所を出て、各地を巡回……旅することだ。

もちろん自由な一人旅などではなく、大勢の共を連れての視察を兼ねたご旅行。
今でも、神様が乗ったお神輿行列が町内を巡ることを巡幸というが、それと同じ「政事(まつりごと)」の一環でもあった。


当時の天皇の旅の乗り物と言えば、「牛車ぎっしゃ」だった。
牛車に乗った天皇がちょうどこのあたりを差し掛かったときに、牛が倒れ臥してしまって、村人が代わりの牛をサポートした、というのがこの神社創建のきっかけになった……とかそういう話だったはず。



看板にはさらに詳しく神社の由緒が書いてあった。





その時の巡幸は、美濃東部の「養老の滝」がメインの旅だったという。
奈良時代から平安時代頃の「養老の滝」は、それがそのまま「国の年号」になってしまうくらい「おめでたい」場所だったようだ。


西暦715年に始まった年号は「霊亀」だった。

霊亀元年。
なんかすごくパワーのありそうな名称。
天皇即位の際に、お役所が天皇へ縁起物の亀さんを贈ったそうで、それを記念してこの年号にしたそうだ。鶴は千年、亀は万年。


ところが、そんな霊亀はすぐに終わった。
霊亀3年、美濃の「とある泉」を訪れた当時の天皇が、その泉に感激して「養老」と名付け、それにちなんで年号が「養老」に改められたからだ。


この頃(飛鳥時代~奈良時代初期)は、「祥瑞」つまりおめでたいことや縁起の良いことが起こったら、それにちなんで短いスパンで元号を代えるという習慣があったらしい。



養老の滝の発見・命名の経緯とその価値については風雨来記4で詳しい。




今の時代で天皇と岐阜の関係性、と言われてもいまひとつぴんとこないけれど、岐阜を巡っていると行く先々で、天皇や皇室ゆかりの場所が意外なほど多いことに気付く。


古墳数も全国10位とかなり多く、宮内庁管轄の陵墓(皇族のお墓)も複数存在しているから、「古代の美濃・飛騨が、一時期の皇室にとってかなり重要な場所だった」のは間違いないだろう。



例えば、岐阜市内にある伊奈波神社や橿森神社は、皇族を祀っている。
血縁関係的にはそれぞれ、ヤマトタケルの叔父と従弟にあたる。






飛鳥・奈良や平安の頃に、天皇や上皇が行幸・巡幸した際に残した痕跡も数多い。


先の養老の滝や牛臥神社もそうだし、たとえば坂折棚田のある中野方地方にも平安時代の巡幸記録がある。
棚田の正面に見える山は笠置山と言うが、これは巡幸の際に天皇が「京都の笠置山に似てるから」名付けたとされる。



正面にある平べったい山が「笠置山」 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG

こっちは京都の「笠置山」。似てる……か?















岐阜・山県市の牛臥神社。

山間の静かな集落。
今自分がバイクを走らせてきたこの道は、古代からある程度街道として整備されていたはずだ。
なにせ、天皇をのせた牛車行列が通る道として使われたのだから。

牛車のスピードは時速3キロ程度、文字通りの牛歩。
ゆっくりゆっくりと、このあたりを進んできたのだろう。







十世紀頃、「宇多天皇」が引退後に美濃を巡幸し、この地に通りがかった際、ここで「上皇の車を引いていた牛が倒れ臥し、村人が代わりの牛を献上したこと」を記念して建立されたと言い伝えられている。
当時の住民にとって、この一件は代々伝え続けたい一大イベントだったということだろう。

その伝承通りに、牛臥神社の御祭神は「宇多天皇」となっている。



なお、これは関係あるか分からないが、全国の「天神・天満宮」で祭られている菅原道真と非常に関係の深い天皇でもある。天満宮の使いも「牛」。偶然だろうか






神社を訪れるときに想うこと




牛臥神社境内をお参りしながら――――

ふと、神社って不思議だよな、と思った。

こうやって旅先で見かけたとき、堂々とお参りしても誰にも咎められることはない。
よく考えるとこれってけっこうすごいことだと思う。


だって、地方の神社って、その「土地」に根付いた歴史あるものなのだ。
信仰的・精神的なランドマークでもあり、社殿や石像物、ご神木などが物理的に文化財として保護されている場合もある。

そうした「その土地の人にとって重要な場所」に、別の土地からやってきた見知らぬ人間が入り込み、お参りするのが「ごく自然」に許されている――
考えるほどに不思議だ。



これがお寺の場合は、「私有地」という意識が入ってくる。
ご自由にお参りください、というお寺もあるけれど、それでもやっぱり「個人管理の場所」、「よその誰かのおうち」という感覚が強い。
少なくとも、観光地化されているお寺ではない、地域のお寺を旅行者が訪問する機会は(そこの関係者と知り合ったとか特別な事情がなければ)ないだろう。


もちろん神社にも、皇族しかお参りできなかったり、私有地の中にあったり、神社自体が禁足地や特殊な神域で一般人が参拝できない……といったところもあるにはあるが、基本的に日本全国津々浦々99.9%ほとんどの神社は、いつどこの誰が参拝してもいい「場所」として24時間365日、開放されている。


通常のお参りである限りは、もちろん神様や神職の方に「おじゃまします」という心持ちは大事とはいえ、あらかじめの予約も、特別な許可も、入場料も必要無い。






それは神社信仰の根底が、自然崇拝からはじまっているからかもしれない。
岩とか木とか、山とか池とか、島とか地形とか……誰かのものでも人間のものでもない、ただそこにある自然自体を神様として拝んでいたから。


最初はそう考えていたが、ふと、全く逆の考え方も思い浮かぶ。



まつりごと、というのは政事とも祭事とも書く。
古代では、政治と信仰は切っても切り離せないというか、同じものを指していた。
つまり、まつりごとの一翼を担う神社という存在は、発祥から「公共設備」という側面を含んでいる。


そんな神社はさらに、明治時代に明確に「公共のもの」となったようだ。

明治になってすぐ、諸外国との外交問題の中で、政府はキリスト教をはじめとする宗教の自由を黙認することになった。
同時に「神道は宗教ではない、国のまつりごとである」という見解のもとに、神社を国の管理にし、整備に着手した。

二礼二拍手一礼や手水の作法などの神社の参拝方法が、全国で統一されたのはこの時だそうだ。

(なお、今は国ではなく、文部科学大臣所轄の宗教法人になっている)



神社ははじめ「公共の場」として整備されて、その姿勢が今に至るまで引き継がれてきたわけだ。

だから、旅行者でも入りやすいんじゃないだろうか。
そう考えてみれば、この「入りやすさ」は、「役所に入るときの感覚」にも近い気もする。


自分が地元民の立場であった場合の「受け入れやすさ」も、神社は元々が公的な場所だから、と考えれば説明がつくかもしれない。







神社巡りは自分の趣味のようなものだ。


過去の日本一周の時は、「目に入った神社にはすべて立ち寄ってお参りしよう」と言うクエストをノリで掲げてしまったおかげで、文字通り全国津々浦々、道ばたの名も知れぬ小さな祠から観光客でごった返す大きなお宮まで、数え上げれば千や二千では足りない数のお社をお参りすることになった。


その際に、訪れた神社で地元の人と出会ったとしても、一度として咎められたことはなかった。
積極的に挨拶することを心がけたのもよかったのかもしれないが、いつも好意的に接してもらえた記憶がある。


地元の人しか知らない話を聞かせて貰ったり、差し入れをいただいたり、管理している人が「今日はここで休んでいったら?」と畳敷きの拝殿へ上げてくれて、屋根の下、神様のそばで一晩休ませてもらったこともあった。





その頃から今も変わらず自分が心がけていることがある。
神様にお参りするときにはいつもまず、心の中で、「おじゃまします」。


その土地独自の神様であれば「はじめまして」。
祀られているのが既知の神様であれば「またお会いしましたね」。

そんなあいさつを浮かべてから、

「この土地まで無事来られたこと」「こうやって訪れることができたこと」への感謝を思う。


そうすることで、ほんのささやかかもしれないけれど、神様を通してその土地との小さなご縁が結ばれたような、そんな気になって嬉しくなるのだ。



神社は、その土地に根付く、土地を象徴する場所。
そんな場所にこうやって通りがかりに立ち寄って、思い出を持って帰ることができるというのは、すてきなことだとあらためて思う。






どこかで「見た」千本桜




あ、ここは……!

結構急な登り坂のつづら折れの先の峠を越え、長い下り道に入ったところで、バイクを道脇の駐車場に入れて停車する。


はじめて訪れるのに知っている風景。
「あ、これ、風雨来記4で見た場所だ!」パターンだ。





隠しスポットな上、記事のゲーム内評価も低いせいで存在感の薄かった「寺尾ヶ原」だ。
個人的には好きなスポットだった。




エンジンを止めて、少しだけ休憩。

時折ツーリング中の自転車グループや車がぽつぽつ通り過ぎるくらいで、とても静かな場所だった。
ここが春には一面桜の花で覆われるのは、確かに壮観だろうな。
駐車場の規模からして、きっと訪れるひとも多いんだろう。


再出発。
この時点で午後三時だった。



碧い川と1300年前の紙


円空キウィ街道……
何とも言えない愛称がつけられた農道を抜けて、板取川に突き当たる。



板取川は、「モネの池」のそばを流れている川だ。
前回の旅でもその水の美しさがひときわ印象的だった。



岐阜はどこでも水が綺麗だけど、板取川はその中でも群を抜いて水の色のインパクトが強い。
緑濃いめの鮮やかな青、という感じの色をしているのだ。





モネの池からだいぶ下流まで下ってきたのがこの地点。
この川沿いにさらに下ると、長良川に合流するようだ。





途中、「美濃手すき和紙の家」という看板が目について、立ち寄ってみた。




美濃和紙。
はじめて聞いたけど、なんだかすごそうだ。



案内板によれば、この建物は江戸時代が終わって明治時代が入ってすぐの頃に建てられた「紙作りの作業場 兼 職人の住居」だそうだ。
「本物の美濃紙は本物の建物で漉いてこそ」という信念で紙を漉いてきた住人が、仕事場としては使わなくなったあとも、現代まで維持してきたらしい。


「美濃紙」がどういうものか知らなかったので看板に書かれている説明を読んでみたら、思っていたよりずっとすごかった。


美濃の手漉き和紙の歴史は、奈良の正倉院におさめられている西暦702年の戸籍用紙に使用されたものまでさかのぼる。
これは同時に、現存する日本最古の紙でもある。

紙作りは他の地域でもされていたそうだけど、美濃の紙は特に優れた品質で、1300年の時を経て今もなお紙としての風合いとやわらかさを残しているという。
ちなみに戸籍帳として使われていたその紙は、後に再利用されたらしく、裏面が帳簿に使われていた形跡があるのだとか。



何にしろ、702年の時点ですでに高品質な製紙技術が完成されていたということは、製紙が始まったのはさらにもっとずっと昔だろう。
それこそ古墳時代の話になってくる。




そんな古い歴史を汲む昔ながらの和紙づくりがここでされていたと思うと、さっきまでとは見え方が変わってくるような気がした。




1300年以上前からの技術。
ユネスコの無形文化遺産※に選ばれていると知って驚くよりも、納得してしまった。


和紙:日本の手漉和紙技術
(構成/石州半紙,本美濃紙,細川紙)







さて、さらに先へと走っているとどんどん日が傾いてくる。
まだまだ飛騨にすらたどりつけていない。





清流ではキャンプや釣り、ボート遊びなど思い思いの楽しい時間を過ごしている人達。

ああ、気持ちよさそう……泳ぎてえ……!
時間を気にせずのんびり川遊び……してみたい……




とにかく綺麗な水面を横目に走っていくと、やがて新たな川に差し掛かった。








長良川だ。
だが……岐阜市内で見たより、かなり……ずいぶん小さい。

え、これ、長良川なの?
と看板を二度見してしまうくらい。






川のそばには立派な水力発電所が建っていた。
明治時代の建物で、今はもう使われていないそうだ。





表札に「長良川水力発電所」と書いてあるから、やっぱり目の前の川が長良川らしい。
川の畔まで降りられる道を見つけたので、近づいてみた。

板取川とは、水の色も川辺の雰囲気も違う気がする。

源流にしている山・地域の地質が違うから、水に含まれる成分や、川底や川岸の土壌を構成する成分、植生なども変わるんだろうなぁ、となんとなく理解する。
感覚的なものなので、合っているかどうかは分からない。







「えがお」と「しあわせ」のひまわりの里


時刻は四時になろうとしていた。
もうそろそろ今日泊まる場所を確保しなくてはいけない。


それは分かっていたが、つい、道ばたの「ひまわり畑 こちら→」という案内板につられて寄り道をしてしまった。

だって……脳内に「ひまわり畑の中でからかいながら笑うリリさん」という風景がありありと浮かんでしまったから。

このあたりは場所的に、「モネの池」と「下呂温泉」の間くらいのところにある。

『リリさんがあの旅の中で、もしかしたら立ち寄っていたかもしれない』
そんなふうに想像が働き始めたら、最早寄らないという選択肢はありえない。



そうやって訪れたのが長良川沿いにある、須原というまちだ。
田んぼとならんで、ひまわり畑が広がっていた。



「洲原ひまわりの里」というらしい。
町の名前は須原なのに、ここの表記は洲原なのか。




入場料は100円から。
金額を上乗せした人のために、手作り返礼品が用意されているのがユニークだ。





園内はちょっとした迷路を楽しめる。


「えがお」から「しあわせ」かぁ。

そういえば北海道にも、「愛国駅から幸福駅行き」キップがあったな。
なんて思いながら、一人ひまわり畑を巡る。

薄々感じていたけど……ひょっとしなくてもここ、カップルorファミリースポットなのでは。







ところで、この「洲原ひまわりの里」では、「魔女コンテスト」なるフォトコンテストを開催しているらしい。
備え付けられているホウキを使って、まるで「ホウキに乗って飛んでいるような」トリック写真を撮って応募する、というもののようだ。






子供連れやカップルが撮影していた他、中年夫婦もいた。
おばさんがほうきを持ってちょっと恥ずかしそうにジャンプするのを、おじさんが不器用そうに撮っているのがなんだかとても微笑ましかった。






青々と育った稲とひまわりのコントラストがなかなか印象的で、しばらくあたりを散策して回る。
ふと気付くと時刻は午後四時半に差し掛かっている。


うん、良い寄り道だった。
もしリリさんがあの旅の中でここに訪れていたら、きっとたくさん笑顔を見せてくれたに違いない。






再出発。
できれば日暮れまでに郡上市までは辿り着きたい。
郡上八幡の街を観光したいし、キャンプ地の確保も明るいうちに済ませたい。


先を急ぐつもりだったのだが……


ひまわり畑を出発して十分と経たないうちに、Uターンして洲原に戻って来てしまった。
途中ちらっと見かけた神社が、通り過ぎたあとでなんだかどうしても、気になってしまったからだ。

なんか、とても、ひきつけられるオーラがあった。



自分は神社好きではあるが、霊感は全く無い。
自分の感じるオーラというのはスピリチュアルなものというより、「ここは寄った方が絶対面白いぞ」と建物や周囲の雰囲気からみてとれる、ということなのかもしれない。


というわけで、次に立ち寄ったのが「洲原神社」だった。



山の中の砂浜~洲原神社

立ち寄って大正解だった。
とても素晴らしい神社だった。洲原だけに



やたら風格のある太鼓橋の横を通って、拝殿へ向かう。
目の前には青々とした水をたたえる長良川。

洲原という地名通り、このあたりは小さな州になっているようで、少し水の流れも緩やかに感じられる。
州のただ中には、島も見える。
砂浜まで降りられるようだ。
お参りのあとで見に行ってみよう。



のぼりの圧がすごい。
白いのぼりが立ち並ぶ姿は、稲荷神社の千本鳥居にも似た存在感がある。



境内にはどでかい桧の木がたくさんそびえたっていた。
その一本一本が一般的な神社のご神木クラスの巨大さで圧倒されてしまった。



この神社の創建は、奈良時代初期にさかのぼるそうだ。
養老元年に建立が計画されて、養老五年に完成したという。

洲原神社は、白山信仰において「前宮」とも呼ばれていたそうだ。
ここから北にある「長滝白山神社(中宮)」、風雨来記4に登場した石徹白の「白山中居神社」と同時期から、美濃における白山信仰の重要拠点として厚く信仰されてきた神社とされる。

なお、「長滝白山神社」は風雨来記4にも名前だけ登場する。


白山中居神社 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG



長滝寺=長滝白山神社。
明治時代に神社と寺に分けられたが、元々同一のもので今も同じ境内にある。


「長滝白山神社」は、美濃馬場の起点スタートラインだ。
「馬場」は、現代風に言えば「白山への修行登山口」。


そこから先は馬で行けない、あるいは行かない。
馬を留め置いた場所だから「馬場」というわけだ。
今の世なら「駐車場」となるだろうか。


白山修行道・美濃駐車場。




このあたりの位置関係は、地図で地形を見ると分かりやすいと思う。

Google earth



こうして空からみると、確かに白山への道が見えてくる。



DLCでは白山山頂が見られる(宣伝) 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG












そんな白山ゆかりの神社である洲原神社だが、主祭神は、「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」「おおなむちのみこと(大国主)」となっている。

白山系神社なのに、ククリヒメがいなくてオオナムチがいる、というのはちょっと珍しいかも。






この神社は、いざなぎ・いざなみの夫婦神をまつることから、良縁・子宝・子育ての御利益があるそうだ。
境内にはそれにちなんだいくつかのパワースポットがあった。





子育て安産の霊石。

子供を授かりたい女性が、この石を決められた手順でまたぐことで、子宝に恵まれるという伝承があるそうだ。
今は囲いが作られ神域のように括られているけど、もともとは石だけがあって、訪れたひとたちの間で自然発生的に言い伝えられるようになった伝承らしい。



こちらは「縁結び夫婦桧」。
男性は女桧を、女性は男桧を抱きかかえて祈念すると、良縁に恵まれると言い伝えられている縁結びスポットだそうだ。



参拝も済んだので、立派な楼門をくぐって川原の方に降りてみることにする。


近づくと、一瞬まるで海岸に来たような錯覚を覚えてしまう。




海岸のような砂浜だ。

周りの風景が山と川なので、頭がバグる。
なんでここの砂、こんなきめ細かいんだろう。

ここは少し上流で川が大きく曲がっているから、そのせいで内側になったこの場所に、細かく砕かれた砂だけが水の流れに乗って入り込んでくる……のかな。






洲原という地名通り、まさしく州の原、砂原だ。


この神社は先の述べた安産・縁結びの神である以上に、古くから「農耕と養蚕の神」として信仰されてきたそうだ。

日本では、田んぼの神様と山の神様は同一視されている地域が多い。

田植え前に山から田んぼに来て貰い、田植えとともに山へ帰ってもらう。
秋の収穫の時期には山へ向けて感謝を捧げる。
そしてまた翌年の初春に山からお招きする――――そんなサイクルだ。




以前描いたこの早乙女(五月乙女)のイラストも、そんな風習にちなんだものだ。






洲原神社では今も、初春には白山から山の神を招いて恵みの豊穣を願い、田植えの頃に山へお帰り頂く伝統的なお祭りが行われているのだとか。

また、参拝者が「御神砂」を持ち帰って田んぼに巻く、というような風習もあるらしい。


ものすごくうねった地形。神社前は、空から見ても分かるくらい広い砂浜になっている。



ここは川が直前で大きくS字ターンしている。
そのおかげで川の勢いが二段階でそがれて、農地にしやすい地形になっているのかもしれない。






目の前にたたずむ亀のような形の島には、しめ縄が巻かれている。
文字通りの「神の岩」として、時代を超えて信仰の対象とされているようだ。

これだけインパクトのあるロケーションだから、きっと神社ができる以前からこの岩は信仰されていたんじゃないか……そんな気がする。






時刻は17時。
この場所にいたのは30分にも満たなかったけれど、とても濃密な時間を過ごせたように思えた。
時間が凝縮している感覚。

普段なら仕事を終えて気を緩めてあっという間に過ぎ去ってしまうような、夕方の時間。
意識次第で、時間の濃さはこんなにも変わるものなのだ、と肌で感じられて嬉しくなる。



だが、今日はまだ終わっていない。
さらに先へ進もう。








次の目的地、郡上八幡へ向けて北上する。







次回へつづく。




コメント

タイトルとURLをコピーしました