■前回まで:一日目。京都を出発して郡上八幡まで北上
二日目
水たまりに浮かぶ島
テントを叩く雨音を子守歌に、気持ちよく眠っていたのだが……
深夜一時頃、嫌な感覚とともに目が覚めた。
寝袋の中で寝返りをうつと、地面がちゃぷちゃぷ音をたてる。
背中が少し浮かぶような感覚がある。
テントから顔を出して周囲の状況を確認する。
……周囲が水たまりになっていた。
やってしまった。
もちろんおねしょでもなければ、洪水にあったわけでもない。
キャンプの初歩中の初歩、大前提を思い出した。
『雨の時のテントは、水はけの良い場所に張ろう』
昨夜は、長良川の河川敷にテントを張ってキャンプしていた。
雨による増水の心配があったので、河川敷とは言っても川辺から遠く離れた高台になっているところだ。
キャンプ場ではないけれどキャンプOKな場所で、他にもキャンパーや釣り人の車、バイクなどとともにいくつかのテントが並んでいた。
長良川のような大きな河川沿いにはこういうところがいくつかある。
(直火禁止・炊事場なし・トイレなし・ゴミ持ち帰りが大前提だ。マナーの悪い一部の人々のおかげでキャンプ禁止になった場所もある)
数年ぶりのキャンプで、少々見立てが甘かったらしい。
自分の張ったテントの周辺地面は水はけが極端に悪かったようだ。
降った雨が地面に染みこみにくい様子で、一度テントを出て離れて見てみると、水たまりの中心に自分のテントが島のように浮かんでいるような状態だった。
明るい時に写真を撮ったら絵になりそうだ……なんて現実逃避してる場合じゃない。
水たまりと言っても深さ1センチにも満たないごく浅いもの。
この程度ならテントの下にあらかじめ防水シートを敷くとか色々回避の方法はあったけれど、いまさら言ってもしかたなかった。
それに、テント内に水が流れ込んでくるわけではない。
人や物が載っている部分だけ、その重みによって圧迫されたテントの繊維の隙間部分、目に見えない小さな小さなその隙間から、じわっと水の分子が染みこんでくるのだ。
安いレインウェアの内側の、肌にべたーっと水が貼り付く感じに近い。
考え方を変えて湿気で不快なことに目をつぶれば、ウォーターベッドのような寝心地と思えなくもない。(……かなり無理があるけど)
気をつけないといけないのはモバイルバッテリーやカメラなど水気厳禁な装備品で、防水シートやビニール袋を二重に敷いて応急対応した。
移動してテントを設置し直す気も起こらず、そのまま寝ることに決める。
どうせあと数時間したら朝だ。
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ちゃぷん、ちゃぷん……
寝返りをうつたびにまどろみから現実に引き戻される。
海水浴とかお風呂とか、水に浸かるのは気持ちいいのに、空気中の湿気ってなんでこんなに気持ち悪いんだろうな。
いや、夏のミストシャワーとか熱いサウナは気持ちいいから、温度と湿度のバランスにもよるんだろうか。
いやいや、ミストシャワーもサウナも、服がずぶ濡れになるくらいまで浴びてればやっぱり不快になる気もする。
そんなどうでもいいようなことをとりとめもなく考えてしまう。
思考がぐるぐると巡る中でふと思い出す。
そういえば、はじめての一人旅のときも同じことがあった。
あれは風雨来記に憧れてはじめて北海道を旅したとき。
確か、網走湖の無料キャンプ場でのことだ。
あのときも、全く同じだった。
はるか遠い太平洋上に台風が来ていた影響で、北海道も大雨で。
北海道も台風の影響あるんだなぁと思いながら……
9月ということもあって自分ひとりしかいない草地のサイトにテントを張ったら、ちょうどそこが周囲から水が流れ込んでくる微妙な窪地になっていて……
やっぱりテントが水たまりに浮かんだ。
風雨来記に憧れて、はじめてキャンプツーリングしたときにしたのと同じ失敗を、風雨来記4を追いかけて始めたキャンプツーリングで繰り返す。
なんだかタイムスリップしたみたいな感覚で、ちょっと面白くも感じた。
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結局明け方までちゃんと寝付けないまま、寝たり起きたりを繰り返しながら夜を過ごした。
明日の天気が雨のち晴れ予報なのが心の救いだ。寝袋にくるまりながら、何度も何度も雨雲レーダーを見てしまう。
本当に止むのかな……雨。
湿っぽいテントにこもっていると心まで湿っぽくなる気がしたので、4時になったのを機に思い切ってテントを撤収することにした。
未だ降り続ける雨の中レインウェアを着て手早く装備を片付け、バイクに積み込み、移動した。
…………
途中、雨を除けられる橋の下を見つけて雨宿りする。
空がだいぶ明るくなってきた。
予報はどうだろう。
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よしよし、そろそろ止みそうだ。
飛騨はこのあと快晴予報。
走るぞーーー!
郡上八幡の朝
郡上から見る長良川は、昨日見たより少しだけ水かさが増していた。
元々が綺麗だったぶん、茶色く濁った水の色が、上流で降った雨の影響を感じさせる。
鮎釣りの人が何人か川の様子を見て、別の場所へと移動していく。
さすがにこれだけ濁った状態だと友釣りが難しいのか、それとも安全面を考慮してか。
二日目、出発。
北を目指す。
通りがかりに、雨に濡れた郡上八幡に立ち寄った。
朝早いせいでまだほとんど人が出歩いていない。
風景ひとりじめだ。
水くみ場の湧き水でのどを潤した。
きんと冷えたのどごしで、目が覚める。
山の恵み、水を通してエネルギーをもらった気分だ。
今度郡上八幡に来た時は、宿に泊まってゆっくりしたい。
めいほうは、ハムの村
昨日はけっこうたくさん走ったけれど、今日のバイクの調子はいつも以上に上々だった。
軽快に、まだ車もほとんど走っていない早朝の「せせらぎ街道」を北上していく。
適度に湿り気を含んだ空気が、肌に心地いい。
明宝の道の駅で休憩する。
ここに来るまでに通った橋でも、この道の駅でも、なぜか「馬に乗った鎧武者」がいさましく弓を振りかざしていた。
なんでここに騎馬がいるんだろうと思っていたら、道の駅の像の下に説明が書かれた碑文があって、疑問が氷解する。
1184年、源義経 VS 木曾義仲の決戦「宇治川の合戦」の際に先陣を切って活躍した名馬「磨墨(するすみ)」が、この地域出身なのだそうだ。
宇治川のあたりは自分にとって準地元というか、はじめて買った車でしょっちゅうドライブした身近な場所なので、何か縁を感じてしまった。
なお、あとで調べてみたら、「磨墨生誕の地」と伝承される場所は東北から九州まで全国に十カ所以上あった。
生誕させすぎだろ――とツッコミたいところだけど、これだけ広範囲に伝承が広がっているというのは、当時武士達の都への集結とともに全国から名馬が集められた歴史を語っているんじゃないか。
その中の一頭の名が「磨墨」だったんじゃないだろうか。
「磨墨」と同じように源平の戦の中で活躍したご当地自慢の馬は、きっとたくさんいたのだ。
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馬と言えば、どうもこの周辺地域(美濃と飛騨の境目)はそれ以前、神話の時代から馬とは深い関わりがある土地のようだ。
「飛騨」の表記は古代から「飛彈」や「斐太」、「卑田」など色々あった。
日本書紀では「飛彈」と言う字が使われている。
この「彈」(及び飛騨の「騨」)は、野生の馬や白い馬を表す言葉。
続日本記において702年に飛騨が中央へ神馬を献上したことが記されている他、万葉集にも飛騨の馬について詠まれたり、飛騨国風土記逸文においても大化の改新の頃に馬の背に木を詰んで運んだという記述があるなど、古くから馬に深い関わりがある土地なのだ。
そのまま読めば、「飛騨」とは「飛ぶ馬」を指す字。
この由来とされる説のひとつに、明宝の北にある隣町・清見町の竜馬石がある。
「川上岳の女神」が「白山の女神」へ使いに出した空飛ぶ馬が途中で地上に降りてサボった挙げ句、石になったものと伝えられている。
また、明宝町の西隣、郡上市高鷲町のひるがの高原には、今も古代馬の子孫を飼育している木曽馬牧場がある。
風雨来記4でもおなじみだったあの牧場だ。
馬は、弥生時代までは日本に存在しなかった。
古墳時代のある時期、急激に日本各地で普及しはじめ、埴輪などでも見られるようになった。
そのはっきりした理由はいまだに諸説入り乱れていて確定していない。
そんな中でも、かなり早い段階から馬がいた地域のひとつがここ、美濃と飛騨の境目なのだそうだ。
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まだ朝早いせいで道の駅の施設は空いていなかったが、気になるものを発見した。
「明宝ハム」を売っている自動販売機。
今回の旅ではあまり名物らしい名物を食べられなかった中で一番印象的な食べ物というと、ここの「明宝ハム・豚肉100%ソーセージスティック『とんこ』」だったかもしれない。
ぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅっと豚肉が詰まっているこの感じ。
凝縮した豚肉というか、「肉」感がものすごい。
かめばかむほど肉の旨味が出てくる。
自分のよく知ってる魚肉ソーセージとは全然違う。
ハムとも違うし、なんだろう。
これは割と人生初体験の食感、味覚かもしれない。
他に覚えが無い味だった。
うまいかうまくないかで言えば、もちろんうまい。
それもジャンク的な味付けというより、塩メインの素朴な肉加工品寄り。
220円は正直言ってコスパ良すぎだと思う。
近所で売っていたら常食したいくらいだ。
焼いて食べたらどんな感じだろう。
想像が膨らんだ。
昔ながらの製法でハムを作り続けている「明宝ハム」は、知る人ぞ知る幻のハムとも呼ばれ、その会社があるこの明宝という地域は一部のグルメ好きの間で別名「ハムの聖地」と呼ばれているそうだ。
そこに至る経緯もちょっと複雑で、元々この地域は「奥明方村」という名前だった。
奥明方と書いて「おくみょうがた」と読む。
その後「奥」の字を無くしてしまって、「明方村」となった。
そんな明方の農協が中心になって最初に設立されたのが「明方ハム」だ。
そしてある時そこから飛び出して、村主導の第三セクターとして再発進したのが「明宝ハム」だという。
「明宝」とは「明方の宝」という意味らしい。
「農協の明方ハム」と「村主導の明宝ハム」ふたつのハム会社。
こうなった経緯についてはいくつかの説がある。
説1
「明宝ハム」設立の際、古巣である「明方ハム」の人員を大量に引き抜いていったために、明方ハムは人手不足に陥り、その解消のために明方村から隣の八幡町(郡上八幡)へ移転して現在に至る。参考
説2
村から農協へ「明方ハム」事業拡大を持ちかけた際に農協が拒否し、八幡町(郡上八幡)に事業所を移してしまったため、村主導で「明宝ハム」を設立した。参考:明宝ハム公式サイト
真偽は関係者のみぞ知るものだろうが、ともかく明方村に残った「明宝ハム」はブランドとなって村おこしの中心となり、ついには村の名前まで変えてしまうほどに成長した。
「明方村」から、「明宝村」へ。
そう、「明宝村」というやたら縁起の良さそうな地名は、この「明宝ハム」が由来なのだ。
明宝ハムの一番美味しい食べ方は、まず「包装丸ごとボイル」らしい。
こうすると中で豚の脂肪が全体に回って、できたてに近い味を楽しめるそうだ。
それを輪切りにして焼いたり、サイコロ状に切ってアツアツの御飯に盛ったり、野菜スープに放り込んだり……
……ネットの紹介記事を見ていたら食べたくなってきてしまった。
明宝ハム、今度一度取り寄せてみよう。
例の「キャンプでアメリカ風ハムステーキ」を、いつかこのハムでやってみたい。
『國田家の芝桜』
次は同じく郡上市明宝にある、今回の目的のひとつ――――國田家の芝桜に立ち寄った。
最初、芝桜のある道路への入り方で少し迷ってしまった。
南側か北側、どちらも少し離れた分岐路から入らないといけない上、途中から候補の道が枝分かれしていて、どれが正解か分からなかった。
訪れてみて納得。
どっちも正解だった。
芝桜の下側と上側、どちらにも道路が通っていた。
いや、芝桜畑が、ふたつの道路にはさまれていると言った方が分かりやすいかもしれない。
芝桜への通常の入り口や駐車場は下の道路側にあるのだが、自分は最初は上の道を通っていたので、すぐ目の前に近づくまで全く気付けなかった。
上の道は、旧坂下峠への峠道の入り口で、せせらぎ街道がなかった昔はここから、飛騨の方へ抜けていったらしい。
また、上の道路は、なつかしいあの休憩所前につながっている。
この道、風雨来記4作中の頃よりも、綺麗に舗装整備されていた。
新しいアスファルトは黒々としていて、ずいぶんイメージが変わって感じる。
ただ、そのそばに建っている休憩所はベンチの配置が変わっている以外は以前のままで、懐かしいたたずまいだった。
休憩所から斜面を見下ろす。
残念ながら、シバザクラの花は見えなかった。
5月が開花のピークシーズンで今は8月。
流石に季節外れが過ぎたようだ。
事前にネットで調べてはいたんだけど「5月が見頃」としか書いていなくて、それ以外の時期の情報を見つけられなかったんだよなぁ……
8月でもちょっとくらいは見られるんじゃないかとひそかに期待していた。
なお、郡上の観光ポスターによれば、「國田家の芝桜」の満開の風景はこんな感じらしい。
入り口から見ても、やっぱり花の姿は見られず。
きょろきょろしていたらふと、入り口隣の建物の中にいるおばさんと窓越しに目があってしまった。
笑顔で会釈すると、同じように笑顔の会釈が返ってきた。
ただ、ちょっと不思議そうな顔をしていた。
……確かに、よくよく考えれば花盛りを過ぎたこの時期、しかも朝一番に訪れるというのは変に見えるのかもしれない。
心証が不思議から不審に変わらないよう、早めに立ち去ることにしよう。
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と、バイクを停めた場所へ戻ろうとすると、緑の芝の中に淡いムラサキ色の点点を見つけた。
おおっ……!
あれってシバザクラ……だよな?
本当に数えるくらいだけど、朝露に濡れた小さな花が、そこだけぽっと光がともったように咲いていた。
満開じゃないぶん、緑の景色の中のその小さな一輪一輪が映えてみえる。
なんだかとても良いものを見られた気がして、
國田かなゑさんの写真に向かって思わずぺこりとお辞儀した。
いつか、満開の時期にもまた、あらためて訪れさせてください。
ありがとうございました。
お邪魔しました。
山奥に謎の看板「稗田阿礼生誕の地」
郡上(美濃)と飛騨を結ぶ「せせらぎ街道」は風雨来記4でもおなじみの道だ。
特にちあり編では必ず通るルートでもある。
ゲーム内のみならず、日本一ソフトウェア公式のYouTubeチャンネルにおいて、この道を走る秋のツーリング風景がアップロードされている。
前後編併せて非常に長い高画質動画だ。
「せせらぎ街道」の名前通り、この道路沿いに平行して流れる川は水量は多いが底が浅めで、確かに「せせらぎ」といった感じだ。
昨夜は豪雨だったにも関わらずこの流れなので、普段はさらにもっと穏やかな川なんだろう。
穏やかな川に沿った道、ということはアップダウンやカーブも比較的ゆるやかということでもある。
走っていてストレスなく、心地良い。
定番のツーリングコースと言われるのも納得だ。
このせせらぎ街道は2010年頃まで「有料道路」だったそうで、なんとなく納得してしまうロケーションだった。
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郡上市明宝までがぎりぎり「美濃」だ。
國田家の芝桜から5キロほど北へ走ったところにある「坂本トンネル」を超えるとそこから高山市清見町。
いよいよ「飛騨」に入る。
そこからさらに数キロも進むと、事前情報で自分がちょっと気になっていた謎のスポットに近づいてきた。
Googleマップで偶然見つけた謎スポット。
その名も「稗田阿礼生誕の地」だ。
Googleマップはただの地図アプリというだけでなく、誰でもスポットを解説と写真付きで登録することができるため、知る人ぞ知るような「口コミ」が玉石混淆で集まっている集合知の場でもある。
ひと昔前なら旅人の間でだけ口伝えで知られていたとっておきの場所、地元の人だけが知っている内緒のスポット、一般人には知名度がないが研究者からすれば垂涎の土地、そういうものが定番スポットに混じってごろごろと転がっているある種の魔境。
時には「なんでここが知られてないんだ?!」と驚嘆するような、そんなとっておきスポットと巡り会ってしまうことだってある。
もちろん逆に、「なんでこれを紹介しようと思った」とツッコんでしまうようなトンデモスポットとの出会いも……
話を元に戻そう、今回飛騨を目指すにあたって出発前にルートを考えていた際にたまたま見つけたのが、國田家の芝桜から少し北上したところにある「稗田阿礼生誕の地」というポイントだった。
「稗田阿礼」と言えば、古事記編纂に関わる人物のひとりだ。
古事記の序文によれば、彼(あるいは彼女)が天皇の命令で『帝紀』『旧辞』などの古代書物を記憶し、それを暗誦したものを太安万侶という人物が文字に書き起こした、それこそが「古事記」だとしている。
簡単に言えば、稗田阿礼さんが語った昔話を本にまとめたのが古事記、ということになる。
Googleマップ、山の中の道に唐突に出てくる『「稗田阿礼 生誕の地」看板』。
見つけたときから気になって仕方なかった。
なんでこんなところに稗田阿礼の名が?
ついにその場所へ辿り着く――――!
――――なるほど、確かに「稗田阿礼 生誕の地」と書かれた看板が、ある。
特に説明もなく、なにがしかの建物があるわけでもなく看板だけが。ぽつんと。
言い方を変えれば、看板だけしかない。
説明もなにもないので、ここが生誕の地とするなにがしかの伝承なり根拠なりがあるのかどうか、それすら分からない。
一般的な「ヒエダノアレ」ではなく、「ヒダノアレ」とわざわざルビを振ってある。
軽くネットを調べてみると、飛騨から日本の国が始まったとする「飛騨ルーツ説」があるらしい。
飛騨はもともと「日抱」と書き、独自の太陽信仰があったとか。
天孫降臨は飛騨一ノ宮である位山が舞台だったとか。
風雨来記4作中でも紹介された日輪神社は、その飛騨説において飛騨の中心に位置するとされるパワースポットなのだそうだ。
稗田阿礼生誕の地という看板が立っている理由も、「稗田阿礼」の稗田は「ひえだ」ではなく「ひだ」と読み、「ひだの阿礼家」という意味であるとして、古事記の語り部である稗田阿礼を飛騨出身だと考える説がある、ということらしい。
稗田阿礼の末裔を称する人も飛騨高山に在住するとか。
過去の書物をすべて暗記して口頭で語ったという稗田阿礼。
それをまとめたのが古事記とされる。
謎過ぎて、女性だったとか、複数だったとか、伝説上の人物で実在しないとかいろいろ言われるが、だからこそ様々な説があって楽しいとも思える。
調べてみると、京都にも稗田阿礼の生誕地だかゆかりの地?だかがあるらしい。
旅が終わったら、今度訪れてみよう。
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やがて山間の道を抜けて、高山市内へ入る。
空がパァッと晴れてきた。
うおおおお、風が気持ちいい。
飛騨だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
朝市とコイと宮川と。飛騨高山にて
朝の高山市内。
街の雰囲気があまりによかったので、思わず立ち寄ってしまった。
お盆休みということもあって、観光客がかなり多い。
川沿い(宮川という川らしい)では「宮川朝市」が開かれていた。
朝市でとうもろこしを購入した。
甘いホワイトコーンが三本で100円!
よく売れているみたいだ。
生のままでも非常に甘く、美味だった。
飛騨高山産のりんごも購入。
品種はシナノレッド。甘酸っぱく爽やかな、夏らしいりんごだった。
一個50円から。やっすい!
食感しっかりでちょうどいいバランスの甘酸っぱさ。
賑やかで活気のある、素敵な朝市だ。
露店で、みょうがや工芸品と並んでコイのエサが売っている。
ここで買ったエサは、目の前の川(宮川)にいるコイにあげるもののようだ。
高山のコイは街の景観を彩る、観光資源としても重要な存在で、以前はお祭りの一環として毎年数百匹単位でこの川にコイを放流する試みもされるほど、市民や観光客から親しまれてきたそうだ。
残念ながら、後継者不足や環境意識の変化など諸々あって、2021年を最後に放流は無くなったらしい。
それ以前に訪れていたなら、たくさんの色鮮やかなコイがこの川を泳ぐ姿が見られたのだろう。
それを見る子供たちも大喜びだったに違いない。
でかい魚はそれだけでテンションが上がる。
時代の変化によって、かつては当たり前、あるいは推奨されていた行為が一転してタブーになることは珍しくない。
コイの放流もそのひとつで、縁起物として、川を綺麗にしてくれる存在として、明治以降全国各地で盛んに行われていたが、現在は多くが廃止される傾向にある。
コイが実は外来種であり、他の魚の卵を大量に捕食するなど川の生態系に大きな影響を与えてしまうことが最近になって分かってきたためだ。
自治体によっては昔はコイを放流していたのに、今は積極的に駆除を始めているところさえもある。
厳密にいえば縄文時代以前から日本の河川に生息する「日本在来種のコイ」もいるのだが、この「在来コイ」は琵琶湖や四万十川などごく一部の水系にしか残っていない、希少かつ未だ謎多い存在だ。
警戒心が強く水深の深い場所に生息し、人間の前にはほとんど姿を現さないため、釣り人や漁業関係者でもない多くの日本人にとっては、生涯お目に掛かることがない幻の魚と言える。
外見は、よく見かけるコイより背が低く細長く、巨大なフナのような感じだ。
実は江戸時代にシーボルトが日本の出島で研究していた頃から「日本のコイは2~3種類いるんじゃないか」という考察記録自体はあったらしい。
釣り人の間でも「コイは2種類いて習性や容姿が違う」ことは知られていたが、「おそらく野生化して世代を重ねた個体だろう」という認識のまま、混同され続けてきた歴史があった。
我々が川や池でふだん見かけるコイがほぼすべて大陸由来の「外来種(もしくは混雑種)」で、「在来コイ」とは遺伝的に別種の生物である……ということが判明したのは今世紀、2006年になってからのことだ。
在来コイについてはまだまだ研究途中で、今後日本固有の「新種」として登録される可能性もあるという。
またコイに限らず、2023年に北海道発で発表された論文では、サケやマスなどの漁業目的の「魚の放流」でさえも、無意味どころか「逆効果」だということが解明されたため、将来的には「放流」という行為自体がなくなる日も来るのかも知れない。
北海道大学北海道立総合研究機構
放流しても魚は増えない~放流は河川の魚類群集に長期的な悪影響をもたらすことを解明~(地球環境科学研究院 助教 先崎理之)
米国科学アカデミー紀要(PNAS:Proceedings of the National Academy of Sciences)に2023年2月7日付けで発表
環境と観光。未来と伝統。
温故知新。
「魚の放流」には、子供の情操教育や観光資源、文化としての側面もあったし、川の環境を良くしたいという真摯な想いもあったはずだ。
昔から良かれと思って続けてきた習慣を、実はよくないことだったとバッサリ否定するのも心情的に抵抗がある人も多いと思う。
実際、世の中はゼロか100、白か黒かで割り切れない。
あとの時代になってから「実は魚の放流は、環境に対する優れたメリットがあった」というデータが出てくる可能性だってあるのだ。
過去を無造作に否定するんじゃなく、時代ごとに新しい常識と折り合いをつけながらより生きやすい考え方を探っていく。
個人的にはできるかぎりそんな姿勢でいたいと思う。
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ところでこの「宮川」、何の気なしに見ていたけど、ここから富山湾まで流れていくらしい。
富山では「神通川」と言う名前に変わるそうだ。
ブログを書くために調べてて知ったんだけど、このあと種蔵まで走った際に道路から見えた川。
それぞれ別の川だと思っていたら、全部この「宮川」だったらしい。
結構衝撃的だった。
この川も、
この川も、
この川も。
ずっと同じ川と併走していたらしい。
もし川が言葉を話せたら、「お、また会ったな」と声をかけられて「え、どっかで会いましたっけ?」と困惑してしまったかもしれない。
ふと、あのときのリリさんもこんな気持ちだったのかな、なんて思った。
『ああ、キミだったのか-、って』
自分がこれまで長く暮らした京都盆地や大阪府、滋賀県では、川は全部太平洋……南に向かって流れる。
だからついつい無意識に川は北が源流、南が下流という思い込みがあった。
一般的な地図でも北が「上」で南が「下」だ。
北上、南下という言葉があるくらい。
おまけに、山奥を流れる川は上流、市街地を流れる川は下流という「常識」もあった。
これは岐阜を旅する中で、この日の朝まで見てきた美濃の川は同じで、どれも南(下)、太平洋に向けて流れていた。
上流
↓
下流
けれど、分水嶺を超えて飛騨に入り、ここでは川はすでに南が上流で、北にある日本海へ向かって流れているのだと、流れの向きが南北逆転していることにいまさら気付いた。
下流
↑
上流
北上ではなく北下する川。
しかも高山の「市街地の真ん中を流れた川」が、その下流で「奥深い山谷を流れる清流」になっている。
その事実を考えたときに一瞬まるで、なんだかこう、自分の中の常識がいつのまにか反転していたことに気付いたみたいな、奇妙な面白さ、心地よい違和感……のようなものを感じた。
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短い滞在時間だったけど、飛騨高山、本当に雰囲気の良い町だった。
ここもあらためてゆっくり訪れて堪能したい。
というわけで、再出発。
高山市をさらに北上する。
つづく
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