幻の鉄鏡、今はない神話の記憶【風雨来記4を追いかけて・岐阜旅行記7】

2022岐阜の旅



■前回まで
一日目は京都から郡上八幡まで北上。
二日目朝、郡上八幡から飛騨高山まで走る。





幻の一之宮

飛騨高山からさらに北上。
このペースだと正午前後には「種蔵」に着けそうだ。
早朝に出発した甲斐があった。

朝4時起きだと、8時間活動しても12時だ。
一日がものすごく長く感じる。
時間を有効に使えている感覚があって嬉しくなった。



種蔵への道中でもう一カ所だけ、訪れたいところがある。
そろそろ見えてくるはずだ。





あれかな……?




高山市から飛騨市へと続く国道472号線を北へ走っていると左手に見えてきた、田んぼの中で大きな木にこんもりと守られたお社。

どこかなつかしい雰囲気とともに、ぱっと見で目を引かれる存在感がある。
きっとあれがお目当ての「国府町の一之宮神社」に違いない。

次の角を左折して、その場所へ向かった。











一之宮神社
一之宮神社
一之宮神社




一見なんのへんてつもない神社。
郊外の神社によく見られる、子供の遊具が置かれた児童公園が併設されていた。



一之宮神社
一之宮神社




金色のしめなわが美しい、歴史の古そうな神社と言った外観だ。
境内もよく手入れされていて清々しい。


ここは「一之宮神社」という。
地域名が国府町名張なので、「名張一之宮神社」とも。
祭神は、大国主神の娘である「下照姫」。


このあたりで大国主神と言えば、ここから3、4キロほどのところにある古社「気多若宮神社」の主神だ。
風雨来記4作中でも、飛騨古川を訪れた際に参拝することができる。

映画「君の名は」に出てくる神社のモデルのひとつと言われ、「聖地巡礼」に訪れるファンも多いのだとか。


「気多若宮神社」 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG





このあたり一帯に、大国主を始めとする出雲系神様が多く祀られている理由として、神通川=宮川をさかのぼって日本海側から出雲文化が入り込んできたためではないか――――
つまり飛騨古川~国府町周辺は古代、出雲勢力によって拓かれた土地だったのではないか、という説が挙げられている。







そもそも「気多若宮神社」は、富山にある「気多大社」から神様を分霊して建立されたと伝わっていて、気多大社の若宮こども、という意味を名前に持つ神社だ。
出雲族が北から入植してきて、地元民と交わっていったと言うのは、そう的外れな推測ではないんじゃないだろうか。






なお、現代の道なら徒歩で25時間の距離となる。
Googleマップのナビでも、気多大社から気多若宮神社までの道を、一千数百年前の古代と同じ「神通川-宮川ルート」で提示してくるのがたいへん興味深い。



一之宮神社




この「一之宮神社」、いつ頃どういう目的で建てられたものか不明だという。
ただ、昔から「一之宮大明神」とか「大宮さま」と呼ばれていたのだという記録だけが残っている。



これはよく考えると大きな謎だ。
一之宮という名前なのに「飛騨一ノ宮」ではない。
少なくとも中央ヤマトの公式書類上で、ここが飛騨の「一ノ宮」とされた記録はない。



律令制において特に重要な地方神社を、一ノ宮(一宮、一之宮とも)、二ノ宮、三ノ宮……のように呼ぶ。

一ノ宮はその土地で一番えらい神様、二ノ宮は二番目……という図式だ。
わかりやすい。
(伊勢の「神宮(内宮・外宮)」だけはそのさらに上の別格扱い)


だが、なぜ神社の格式を定めたかは不明だ。
成立に関する記録がないために、「いつの間にかあった」という事実しか分かっていない。

一応、律令制の中で中央から地方国に役人が赴任する際、まずその国の一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮と順番にお参りするのがならわしだったため決めた、というのが通説になっている。
(一ノ宮しか伝わってない国や、五ノ宮まである国などまちまちなので、この説にも疑問は残る)



それで、飛騨の一ノ宮、二ノ宮はどこかというと、一ノ宮が高山市一之宮町にある「水無神社」、二ノ宮が下呂市の「久津八幡宮」となっている。三ノ宮はなし。


一之宮神社





では、自分が今回訪れたこの「一之宮神社」は、いつ頃か後付けされた「名前だけの一ノ宮」に過ぎないのかというと、必ずしもそうと言い切れない。


ここで一之宮神社のある「国府町」というこの町の名前が重要になってくる。



ひだの国の中心




飛騨高山市「国府町」の由来は、ここにかつて飛騨国の「国府」があった、と考えられているためだ。

「国府」とは律令制において、それぞれの地方国の政治的中心都市のこと。
今で言う「県庁所在地」にあたるものだ。

現在「飛騨国府」と呼ばれている土地は、明治時代に「飛騨の国衙(国府の中心街)があったであろう土地」として「國府村」と命名され、その後「国府町」→「高山市国府町」となって現在に至っている。


ここに国府があった最大の根拠として挙げられるのが、「古墳の集中度合い」だ。
飛騨全体で約500以上の古墳が発見されているが、国府町だけでその67%、約340もの数の古墳が集中している。(同じ盆地内にある隣町の古川町を含めると、85%にもなる)

面積比で考えると特異さが際立つ。
飛騨全体で約4,000km2のうち、国府町の面積はわずか89km2
そのごく限られたエリアに、67%の古墳が集中しているのだ。




数だけでなく、飛騨で最大の前方後円墳も、岐阜県下最大の石室を持つ古墳も、ここ国府町にある。
そして、そうした古墳の時期は、5世紀頃から7世紀頃まで継続している。

2~300年の間に、最低でも一年に一基以上のペースで古墳を作っていたことになる。
古墳といっても、小さなものから大きなものまで様々だ。




古墳の建設は、重機などない古代において、一大事業だった。

小型の古墳であっても掘って築いて埋めて……相応な人数とそれなりの日数がかかった。

それが100メートル近い古墳となれば何百人が従事する、時には世代を超えた大工事となる。
もちろん工事の間はその人員は農作業ができない。

逆に言えば、古墳をたくさん作ることができた土地ということは、古墳作りに人出をさけるだけの力(財力≒穀物)を持っていた豊かな国だったということになる。



つまり、奈良時代以前の数百年間は、現在の高山市国府町周辺が、後に「飛騨」と呼ばれるようになる地方の中で最も人が集中して栄えていた、飛騨の中心地だった
「古墳時代から最も栄えていたからこそ、その後の律令において国府が置かれた」のだろう。





一之宮神社




そんな飛騨国府にある「一之宮」という名前の神社なのだから、「一ノ宮」という制度が生まれる以前から「地域で一番」の神様だった可能性はじゅうぶんにあるんじゃないだろうか。


その仮説を補強する根拠もある。

一之宮神社の現在社殿が建っている場所には明治時代までは古墳があった。
神社の建て替えを機に取り壊されたその古墳からは、50点を超える7世紀の鉄製品・装飾具に混じって、3~5世紀頃の中国の「鉄の鏡」が出土している。



社殿の北側というから、おそらくこのあたりに大きな古墳があった





この時代の鏡といえば、邪馬台国の卑弥呼が魏の国から100枚の鏡を贈られた記録が思い起こされる。


卑弥呼に限らず、古代日本において「鏡」は権力者の証だったから中国から多く輸入されたし、鍛冶技術の発達によって国内でも製造された。
青銅鏡一枚の価値が、米600キロに相当したと言う試算もある。


そのため各地の古墳から副葬品としてたびたび出土する、そう珍しくない考古資料だ。
ひとつの大型古墳から、80枚の青銅鏡が発見されたことさえある。
これまで見つかった古代の「銅鏡」の総数は、5000枚とも一万枚とも言われているくらいだ。



だが、それはあくまで「青銅鏡」の話で、「鉄の鏡」ははるかに珍しい。
鉄鏡は、古代中国では青銅鏡より価値が高く、より強い「権力の象徴」とされていたため国外流出されず、日本には入ってこなかったのではないかと言われている。



古代の鉄鏡の日本での出土数は、全国で15か所しかない。
ウルトラレアな発掘品だ。

引用:関西大学 https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/19079



数もぜんぶで90枚ほど。
その9割は奈良・大阪に集中している。
それ以外で発見されたのは、香川で2枚、滋賀で1枚、福岡の沖ノ島で4枚、大分(『日田ひだ』)で1枚、群馬で2枚。

そして石川の能登半島にある寺家遺跡で3枚と、岐阜国府町一之宮神社の1枚となる。


一ノ宮古墳のあったと言われる位置。




ここ国府町一之宮神社の鉄鏡は直径21センチを超えていて、国内で発見された中でも三番目に大きい、最大級の鉄鏡だ。
(21センチの夔鳳鉄鏡は、中国本土でも曹操の墓から見つかって話題になったほど希少)

一方、石川寺家遺跡の鉄鏡は、直径4センチほどと小型だが3枚出土している。
寺家遺跡は「気多大社」に隣接する土地で、古くから気多大社と密接な関わりが深い祭祀遺跡として古くから知られていた(つまり神社の起源にそのまま繋がる)貴重な遺跡だ。

「気多大社」は「能登国の一ノ宮」で祭神は「大己貴命(大国主神の別名)」。
「気多大社」には、大己貴命が出雲から船でやってきてこの地を開拓したという神話が伝わっている。



「気多」といえば、すでに書いたとおり、国府の「一之宮神社」から5キロほどの場所には「気多若宮神社」がある。

風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG



この気多若宮神社は、能登半島にある能登国一ノ宮「気多大社」の分霊を勧請したとされている。
(分霊勧請:平たく言えば、神様の分身にお越しいただくこと)

それは大国主神を信仰する一族(いわゆる出雲勢力)の一派が、枝分かれしてこの土地にやってきて、飛騨の人々と交っていった記録のようにも考えられる。

「大国主の娘」である下照姫を祭神とする一之宮神社で発見された鉄鏡も、そことなにがしかの関係がありそうだ。




貴重かつ希少な鉄鏡が副葬されていた一之宮神社の古墳。

この神社がある地域は、国府町名張という地名だ。
名張とは「なわばり」あるいは「隠れる」という意味だろうか。

飛騨の国府の名張にある一之宮。



「一之宮」という名前は、かつてここが本当に一ノ宮、つまり「飛騨の国にとって特別な場所、あるいは特別な権力者が葬られた場所」だった時代があって、その記憶が「一之宮」という呼び名とともに残り続けた……
そんなふうに考えることができるんじゃないだろうか。



山と海の豊穣国



都から遠く離れた山の中にあるこの土地が、なぜそんなに繁栄したのか。




これは実際に訪れて、自分の目で見て驚いたことなのだが、この国府町周辺は「飛騨=山の国」というイメージからすると意外ほど開けた平野に田園風景が広がっていた。
あとで調べてみると「古川国府盆地」と言い、現在でも飛騨地方随一の米どころらしい。


国府町の田園風景



この「古川国府盆地」には、400を超える古墳や飛騨で最古の弥生稲作跡にとどまらず、はるか数千年前の縄文時代の遺跡が多数見つかっている。
開拓前からも、多くの縄文人の集まる暮らしやすい土地だったことが分かる。


古川国府盆地





さらに、地図を見ると意外と海が近い。



近いとは言っても70キロほどはあるが、例の「宮川」を水路として利用すれば、数日……もしかしたら一日二日で富山湾……能登国へと船で至れる距離だ。
歩いても十日はかからなかっただろう。




ところで稲作が始まって以来、古代から近代にかけて、「日本で最も多くの人口を抱えていた土地」はいつも「地方」だった。

今でこそ人口の多い土地といえば東京を含む首都圏以外には考えられないが、つい100年前くらいまでは北陸や東海、四国や九州など、圧倒的に地方人口の方が多かったのだ。

例をあげると、西暦1880年・明治13年の人口ランキングでは、1位が石川県、2位が新潟県。(なお3位は愛媛県。東京は17位)だった。
米どころである北陸が東京の2倍の人口を誇っていた時代があったのだ。
(余談だが、島根の人口が12位で、東京より島根の方が人口が多かった)

当時は47都道府県ではなく、38府県+開拓使(北海道)という分類だったために、今より広い範囲を割り当てられていた県もあった。

1位の石川県は現在の県にあてはめると「石川+福井+富山」だったから、新潟が実質1位というふうに見る事もできる。
どちらにしろ、北陸に大人口が集中していた時代があったことは確かだ。



そうなった最大の理由はやはり「食料事情」が大きい。
北陸と言えば現在でも日本有数の米どころ。
おまけに優れた漁業場でもある。川をさかのぼれば深い山もほど近い。

産業革命が日本に入って首都に人が集中する以前、流通が未発達の世界で多くの人口を支えるためにはとにもかくにも安定した食糧を大量確保する必要があった。

「都市の大人口を養う」のはいつも、それ以上に大人数の生産民だったのだ。


また、弥生時代はまだ、縄文時代に一度海面上昇した影響が残っていて、入り込んだ海水によって浸食された海抜の低い土地には水が溜まりやすかったり、塩分のせいで不毛の大湿地が広がったり、多湿からジャングルのような植生が広がっていたりと、現在とは大きく異なる景観が日本の平野部には広がっていた。


だから稲作が日本に持ち込まれても、水田を作るのに適した場所は今よりはるかに限られていた。
現在の「海に近い大平野」のような場所のほとんどは、2000年前はどこもまだまだ、安定して稲作ができるような状況ではなかったと考えられている。

そんな中で、海辺の平野にもかかわらずかなり早い段階から開拓に成功して大規模な水田稲作適地を確保できた地域、それが「北陸」だった。

能登・気多大社の起源が「出雲から船でやってきた大国主神が開拓したこと」と言うのは、この記憶が伝承されて神話になったものなのだろう。

それがさらに百年か二百年かかけて飛騨地方にまで波及した。

この歴史の残響が、古川国府盆地に多数残る「縄文遺跡」や「弥生遺跡」「320基以上の古墳群」であり、「気多若宮神社」の創建社伝であり、「一之宮神社」で発掘された鉄鏡であるのかもしれない。




一之宮神社境内のタイムカプセル



ところで――――

国府町には飛騨全体の67%、約320の古墳があると紹介したが、風雨来記4作中で登場し、特にしづちゃんのイベントで印象的だった「高堂城跡」の「かうと洞古墳」も、そのうちのひとつだ。




風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG




今は木や草に覆われているが、築かれた当初は周辺も整地されていて立派な古墳だったはずだ。
こんな山の上までどうやってこの巨大な石を運び上げたんだろう。


……と思いながらなんとなく位置を調べてみたら、一之宮神社のすぐ裏山ということが分かって衝撃を受けた。
この古墳、一之宮神社を含めて、国府の盆地を見渡す小高い位置に作られていたのか。

盆地に対するこの距離と一之宮との位置関係、何らかの意味や関係性があったのかも……?




画面右上のマークが気多若宮神社、中央右が一之宮神社、左のマークが高堂城跡
一之宮神社の後ろ奥に見えている山に高堂城跡がある。




高堂城からの帰り道で左を向くと、一之宮神社が確認できる 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG




風雨来記4のツーリングモードで確認すると、確かに高堂城からの帰り道で一之宮神社を確認することが出来た。
国道へ戻る手前、左手奥に見える田んぼの中のこんもりとした木々が目印だ。

無限に楽しめるな、風雨来記4。








今回の考察に関連して、この地域の神話時代について重要なエピソードがある。
それは「リョウメンスクナ」についてだ。


現存する最古の歴史書・日本書紀において、西暦377年頃、つまりちょうど国府に古墳が築かれはじめる前後に、中央王権によって討伐されたとされている「顔が2つ、手足が4つずつある鬼人」の記録。


このリョウメンスクナは地元飛騨では古代より一貫して「悪鬼や毒龍を退治し、農業を広めた英雄」と伝えられてきた、山の民の王だ。
そのために、飛騨の神社には「本来の主祭神」はリョウメンスクナだったのではないか、と言われる社も少なくない。
また、仏教の守護神ともされ、現在までリョウメンスクナ信仰を残している寺院が数カ所ある。



ところで、一之宮神社にあったと言われる古墳は7世紀のものだが、鉄鏡だけはリョウメンスクナが生きたとされる4世紀前後のものだ。


そして「スクナ」と言えば神話の中に、非常に有名な神様がいる。
少彦名命
船に乗って出雲へやってきて大国主神と知り合い、その後「協力」して国を開拓した神だ。


この神は登場シーンがとても印象的で、あまりにも小さいために植物のさやを船にしてやってきた。
さらに、大国主と言語による意思疎通ができなかった。

ヒキガエルの神タニグクに聞くと、カカシの神クエビコなら知っているんじゃないかと推測したので、次にクエビコにたずねると、「天津神の子、スクナヒコナの神である」と答えて、身元が判明する。

タニグク=ヒキガエルは日本各地どこの谷間にでもいる普遍的な存在という意味らしい。

クエビコ=かかしは古代より、田の守護神、農業の守護神、土地の守り神だった。
また、朝から晩まで一年通して畑に立っていることから、地上すべてを見通す存在とも考えられていた。
そんな、農業民にとってはもっとも身近とも言える神がスクナヒコナの出自を保障した、というのは色々含むところも多そうだ。




スクナの意味については、大国主の別名である「オオナ」ムチに対しての「スクナ」ヒコナであると言う説が有力だ。

大国主を他所から入ってきた「出雲勢力の象徴」と考えたときに、少彦名はそれぞれの「地域の代表」あるいは「出雲民と地域民をつないだ協力者」だったのかもしれない。

オオナとスクナは、いわば「両面」対となって国を拓いていった関係性を示している。





また、北陸・能登地方においては、実際に大国主と少彦名は「親戚関係」とされている。

気多大社の本社と称する「気多本宮・能登生国玉比古神社」では、大国主と協力して能登を開拓した少彦名が、その中で市杵島姫命と結婚して子をもうけ、その子孫が神主の家系であると伝えている。

市杵島姫命は、宗像大社や全国の八幡宮、厳島神社などで祀られる「宗像三女神」の一柱だ。
海に関わりが深い女神。

そして、大国主は同じく「宗像三女神」の一柱である田心姫との間に子供がいる。
それが、下照姫だ。

少彦名からすると大国主は義兄弟、下照姫は義姪、という関係性になる。





少彦名は、どの地域でもたいてい悲劇的な結末を迎えることになる。
国づくりが安定してきたあとで、どこかに吹き飛ばされたり、川で溺れたり……そうしてあの世へ去ってしまうのだ。

そして飛騨では、同じスクナの名を持つ開拓神が、朝敵とされて戦で滅ぼされこの世を去っている。


能登からやってきた大国主を祀る人々が開拓し、地元の縄文文化を色濃く残した人達と協力してつくり上げたとされる国、飛騨。
そこに残る「スクナ」の名を持つ鬼の伝承。



そんな異端の神と関係あるのだろうか。
飛騨の民はいつからか中央より「謎の特別扱い」を受け続けることになる。
それが「飛騨匠」という制度なのだが、



――今回は長くなりすぎたのでここまでにしておこう。

一之宮神社に滞在した時間は30分にも満たなかった。
ここから、この旅いちばんの目的地である「種蔵」へ行った帰り、再びこの国府を通ることになった。


なのでまたその際にあらためて、この地域に残る不思議な神社や、リョウメンスクナの反乱、「飛騨匠」との関係性などについてさらに掘り下げてみようと思う。





飛騨の最北部へ

というわけで再出発し、途中道に迷ったりもしながら、順調に走り続け――





正午を過ぎた頃、ようやく種蔵へ到着した――!



つづく

コメント

  1. やまねこ より:

    こんにちは。去年のあなたの「旅」の記録、毎度楽しく読ませてもらっています。
    一之宮神社はゲーム内で一度訪れたのみであまり詳しく知らなかったので、今回の記事で学べてよかったと思います。山がちな印象のある飛彈にも農作地帯があるのは意外でした。

    風雨来記4をプレイするのに使っていたPS4が故障してしまい、しづのルートは途中から見れずじまいになってしまっていて、しづも飛彈に向かっていたことを知り、ヒロイン全員が飛彈に何らかの関わりがあることに嬉しさを感じました。
    3人が廻った飛彈国にいずれ私も向かおうと思います。飛騨東照宮、今回の一之宮神社、高堂城跡を中心に飛彈の素の姿を見られたらいいですね。
    きっとあなたは今年も岐阜に足を運ぶと思うので、偶然同じタイミングで岐阜に向かっていて、知らずにすれ違っていたら面白いですね。

    いろいろあって現在は岐阜に縁がなくなってしまいましたが、一時期名古屋にいたのでそのとき9回ほど岐阜に足を運びました。
    どこを見ても「事前に調べた情報よりも美しい」と感じることばかりで、毎度岐阜の魅力に夢中になってしまいました。
    今年は風雨来記の本場ともいえる北海道には向かえないのですが、また足を運んで、当時向かえなかった飛彈国を体感したいと思っています。

    常にリリさんのことを愛し続けているあなたを、いつも応援しています。あなたを人生の目標として進んでいこうと思っています。
    今後もそれぞれの路の続きを歩き続けられるよう、お互い壮健でありますように祈らせていただきます。

    • ねもと より:

      こんにちは。飛騨の田園風景は予想もしていなかったので、個人的にとても印象深かったです。
      まだまだ行っていない場所(奥飛騨や神岡、白川郷など)がたくさんあるのでまた訪れたいと思っています。
      やまねこさんも飛騨へ行かれるとのこと、良い旅になりますように。

      岐阜への9回の探訪は羨ましい限りです。
      一度にたくさん巡るのもいいですが、区切りをつけながら時間を空けて繰り返し訪れるのも色々な発見がありそうですね。
      おっしゃるとおり健康には気をつけて楽しい旅を続けてください。

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