岐阜県・飛騨北部の旅のつづき。
■前回
板倉の里・種蔵集落を発ち、池ヶ原湿原を目指してところどころ未舗装の曲がりくねった林道を走る。
Googleマップのナビゲーションでは、9キロの距離にもかかわらず30分以上かかると表示されていた。
道の険しさが見て取れる。
地図上では途中、「ニコイ大滝」という岐阜県最大の落差を誇る滝がある。
ネット情報だと道から見えるとのことだったが、それらしいものは見あたらなかった。
数年前の情報だったので、木が伸びて隠れてしまったのかもしれない。
昔このあたりでリゾート開発が計画されていたらしく、滝周辺には建築途中の橋や廃棄されたトンネルもあるそうだ。
走ってみた感想としては、そこそこの勾配や急カーブはあるけれど、車幅も広め(二台がすれ違えるくらい)でちゃんと整備された走りやすい林道、という感じ。
この数日後に訪れることになる、東濃の八百津線(キングオブ酷道につながる廃道)のように、大きな岩が道路の真ん中に転がっていたり、突然地面が陥没して大穴が空いているようなこともなかった。
特に問題なく池ヶ原湿原に到着。
人と自然の「コラボ」 ~池ヶ原湿原
道路沿いに、木で出来た大きな「池ヶ原湿原」の案内板が出迎えてくれた。
ぽっかり開いた広々とした駐車場が視界に飛び込んでくる。
池ヶ原湿原を含めて、このあたりの高原一帯は「奥飛騨数河流葉県立自然公園」に指定されているそうだ。
「数河流葉」と書いて、「すごうながれは」と読むという。
漢字のあて方といい読み方といい、ちょっと不思議な地名だ。
どういう由来があるのか気になったが、ネットで調べてみても詳細は分からなかった。
早速、湿原へつづく遊歩道に入ってみた。
周辺には、ごく自然に「クマ出没注意」の看板がいくつも立っていた。
木道の上をポクポク歩く。
観光客は自分だけで、あとは遠くの方になにか作業している湿原整備の関係者らしい人達が数人いるだけだった。
とても静かだ。
駐車場からわずか1分。
林を抜けると視界が一気に開けた。
山の中に突然広々とした草原が出現する。
これが池ヶ原湿原。思っていたよりも広い!
木道から見える地面にはところどころ、人の手の平より大きなくぼみができている。
もしかして、クマの足跡なんだろうか……。
見通しが良い。
湿原には、地中に水分が多いから大きな木が根付けない、という。
逆に言えば、大きな木が生えていないここの地中は、いつも一定の水分が保たれ続けているということだ。
周りは深い森で囲まれているのに、なぜこの一画だけ空白のように湿原になっているのか、考えると不思議だ。
「川」でも「池」でも「沼」でもなく、この「湿原」というかたちをとるに至った経緯。
標高や気候、地形、あるいは水質や水温なんかも関係あるんだろうか。
大型の植物が生えにくくなる条件がなにかしらありそうだ。
調べてみると、池ヶ原湿原はかなり微妙なバランスで保たれているようだ。
周囲の山から水が流れ込み、適度に保水される。
この「適度に」というのが重要で、流れ込みすぎても、流れ込まなくてもダメらしい。
たとえばここ数十年、周辺の山が開発されたことで湿原への水の流入量が減り、湿原の水が滞留してそこに栄養が貯まってしまったそうだ。
結果、葦などの大型植物が繁茂してしまった。
これらの植物はたくさんの水を吸い上げてしまうので、湿原の存続が危ぶまれる状況になった。
葦類は、人の背丈の数倍に成長する。
これらに一面覆われてしまうともはや湿原というより湿地帯だ。何も見えない。
一度は損なわれかけてしまった湿原の環境を、地元の人達やボランティアの方々によって保全(葦の伐採や水の通り道の確保等)されることで徐々に回復し、現在の美しい池ヶ原湿原の姿まで還ってきたのだそうだ。
人里離れたスポットに来るとつい何も考えずに「ありのままの自然」のイメージを抱いてしまうけれど、この池ヶ原湿原は「人と自然の素敵なコラボスポット」と言えるのかもしれない。
「あ!」
ふと、唐突に思い当たった。
池ヶ原湿原の「池ヶ原」って、ただの地名かと思っていたら、そのまま「湿原」を表してるのか!
「池」「ヶ」「原」。
ヶはいくつかの使い方があるが、この場合は「関ヶ原」とかと同じだろう。
「関ヶ原」の「ヶ」は、前後の言葉をくっつける連体助詞。
つまり、池ヶ原とは「池+原」。池であり原である場所。
意味的には「湿原」そのものを差す地名だったのだ。
積雪により木道が破損しているらしく、ここで行き止まり。
来た道を引き返す。
花は少ない。
目立つのは薄紫色が美しい、猛毒のトリカブトと、
木道のそばにアザミが一輪。
花弁の落ちた軸に停まる赤とんぼ一匹。
風雨来記4では一面に黄色いサワオグルマの花が咲き誇っていたのが非常に印象的だったけれど、あれは6月ごろの光景らしい。
また機会があれば、花の季節の湿原に訪れたいと思う。
湿原の開園にあたっては、安全祈願祭も行われているらしい。
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住宅街の中の清流 ~飛騨杉崎~古川
池ヶ原湿原を後にして、ここからは、まずは下呂まで南下。その後、岐阜の東部を目指すことになる。
ここからは、数日かけてリリさんとの思い出の場所である下呂温泉、付知峡、馬籠、坂折棚田……と、立て続けに巡るわくわくなルートだ。
翌日からは雨予報、それもかなりの土砂降りが続くことが予想されたため、この日は晴れの間に少しでも進んでおきたいと思っていた。
とはいえ、予報が信じられなくなるほど快晴で、ただ走っているだけでも最高に心地よかった。
こうまで良いお天気なのだから明日からの天気だって、案外そんなにひどくならないんじゃないか、と根拠もなく楽観的な気分になってくる。
国府盆地まで戻って来たところでふと、道ばたの風景に目を引かれてバイクを停めた。
線路そばの住宅街。
何の変哲もない道ばたの側溝で、顔を洗っている人がいた。
えっ!この水顔を洗えるの?!
その人が家の中に入っていったあとで、側溝に流れる水を確認する。
底まで透き通った、めっっっちゃくちゃ綺麗な水だ。
ふつう都市部の排水溝だと、タバコやビニールゴミやドロがたまって大変なことになっているものだけど。
この溝は、汚水の排水ではなく、あふれ出る清流を排水しているのか。
これは意図的なものなんだろうか。
つまり、最初から計画的に、治水の一環として作られた水路なのか。
それとも、もともとは普通のまちと同じように雨の日などの汚水排水用に作られた側溝に、結果としていつからか湧水が流れ込んできて綺麗な水路となったのか。
ちゃんと調べれば分かることかもしれないが、今ここで分かるのは住民が日常の中で顔を洗うのに使えるくらいに綺麗な水が流れているという事実だ。
ゴミも見当たらないし、地域の人には大事に扱われているんじゃないかと思う。
こんな水が当たり前のように日常空間を流れているのがあらためてすごい。
水面から跳ねた水が自然に給水装置になっているのかもしれない、こころなしか水路周辺の雑草もつやつやと元気そうに見える。
そんな水路のすぐそばには駅があった。
駅名は「すぎさき駅」とある。
もう少し走ると飛騨市の中心。古川だ。
バイクに乗って、さらに南へ進む。
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杉崎から5分ほどで、古川駅前に到着。
駅名の前に「JR」の文字。
ここはJRなのか。
朝通った郡上八幡駅は「長良川鉄道」だった。
どこから路線が変わっていたんだろう。
鉄道の知識はあまりないので、いまひとつどの路線がどこをどう走っているかイメージがつかめない。
ただ、昔列車で北海道一周をしたくらいには車窓旅も好きなので、いつかのんびり鉄道で飛騨を巡ってみたいと思っている。
古川駅は、映画「君の名は。」に出てくる駅のモデルとなった場所、聖地らしい。
あの映画、いつか見ようと思いながら、未だに見られていない。
大作とか名作と呼ばれるような作品は、一度観るタイミングを逃すと、視聴に思い切りとかきっかけが必要になりがちだ。
思い入れのある作品の続編とかもそうで、風雨来記4とは自分にとってまさに最高の、運命的なタイミングで出会えたと思っている。
それにしても、何度も声に出したくなるほど気持ちの良い天気だ。
旅の間ずっとこんな風だったら…と願ってしまう。
古川駅のすぐ前を流れているこの川は、「荒城川」というようだ。
地図で確認してみると、荒城川の上流に風雨来記4の隠しスポットであった「木地屋渓谷」を見つけた。
バイクで車とすれ違うのもぎりぎりの細い林道を、ひたすら走って到着できるスポットだ。
護岸工事がしっかりされたこの川の水も、やっぱりとっても綺麗だ。
平行して流れる宮川もそうだけど、なんで飛騨の川は街に近いのにこんなに綺麗なんだろう。
水量が多いから?
水温が低いから?
元々の水質にミネラルが多いから?
そうした要素によって、水中のプランクトンが少ないというのもあるだろうか。
水そのものの綺麗さもそうだし、ゴミもとんと見かけない。
そこまで目を皿のようにして確認したわけではないけど、少なくともこの旅の間、長良川、板取川、揖斐川、円原川、宮川――と、岐阜の清流でゴミを見かけたことは一度もなかった。
自分の地元にも、少し山手へ行けば泳げるくらい透明度の高めな川はあるけれど、そんな場所であっても岸辺には白いビニール袋やカラフルな布地がひっかかってたり、河原に空き缶やペットボトルのひとつやふたつは目に付いてがっかりしてしまうものだ。
飛騨の川がばつぐんに綺麗なのは、水を大切にする地域性からくるものなんだろうか。
それとも、人の多少の粗相など意にも介さないほどの自然の圧が……
高い山々からもたらされた大量の水――自然の圧倒的なパワーが、多少のゴミや汚れがたまる間もなく押し流してしまうんだろうか。
古代飛騨と出雲
さらに道を走ると、一面の田んぼに出くわした。
こうしてみると、古川国府盆地が「盆地」であることが視覚的によく感じられる。
往路、種蔵へ向かうときにも思ったけれど、こうやってあらためて見ると想像以上に広大だ。
飛騨に来るまで、深く険しい山々の谷間の町というイメージを持っていたけど、真逆の印象を抱かされる。
かつて飛騨の中心地「国府」だったこの盆地は、ゆったりと横に広い風景だ。
見渡す限りの田んぼを見ていると、「実り豊かな土地」と言う言葉がしっくりくる。
この印象は、実際に飛騨を訪れて、この目で見て、自分の肌で感じたからこそ手に入れられた「自分だけの旅の宝物」だと思う。
田んぼの横には見慣れた雑草、エノコロクサ。
猫じゃらしとも言われるこの身近な草は、実は外来種だ。
粟の原種であるエノコロクサは、縄文時代に食用として大陸から人為的に持ち込まれたものが野生化したと考えられている。
それ以前の地層からは発見されないためだ。
「稲」を神格化した神様は数多い。
穀物神達だけでなく、雷神にも恵みをもたらす者としての側面が与えられた。稲妻という言葉がそれを物語っている。
それはやはり稲の到来、水田耕作の普及が日本列島の有り様を大きく変えた、今の日本に至るきっかけのような出来事だったからだろう。
ならば、それ以前、「粟」がたくさん神格化されていた時代もあったんじゃないだろうか。
阿波国(徳島)は、奈良大和文化の前史的な土地だと考えられているが奈良時代以前は「粟の国」と呼ばれていた。
粟がたくさん採れたからだ。
アワに続く路とも読める淡路島は、イザナギ・イザナミが国生みの最初に造った島だ。
稲に関わる神々を弥生時代の穀物神とするなら、粟に繋がる信仰は縄文時代由来のものだったのかもしれない。
道ばたに当たり前のように生えているこのエノコロクサ。
飛騨の地には一体いつ、もたらされたのだろう。
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余談だが、調べてみると岐阜県では現代でも粟が生産されているそうだ。
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古川国府盆地の風景を見ているとあらためて、古代の飛騨についてあれこれ考えてしまう。
「国府」という地名は、飛鳥・奈良時代に、ここに飛騨の国府(現代における県庁所在地)があった「可能性が高い」ということで明治時代につけられたものだそうだ。
(詳しくは過去回にて)
元々飛騨には、一万年以上昔から継続して人が暮らしていた痕跡がある。
農耕よりも狩猟採集がメインだった縄文時代の山岳地域では、食べる物が少ない盆地の中心部よりもその周囲、実りの多い山裾に近い場所が発展していた。
そこに、弥生時代の比較的早い段階で、日本海側の富山湾から宮川をさかのぼって稲を持った人々が移住してきた。
弥生時代とひとくちに言うが、これが意外に長い。
だいたい紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃まで、1000年以上は続いたと言われる。
これだけ長いと、地域差も大きいし同じ場所であっても時期によって地形環境さえ違ったりする。
たとえば弥生時代の初期は、縄文時代に海面上昇があった影響がまだ残っていて、海に近い平野部は土に塩分が強く残っていたり、沼や湿地帯も多く、現在のように稲作に適した平野が少なかった。
富山方面から飛騨へ弥生人たちがやってきたというのは、そうした状況下で最新文化である稲作を行うための開拓適地を求めて高地へ上がってきたと考えられる。
現在、飛騨古川にある気多若宮神社に伝承として語られているところでは、古代にやってきたのは大国主を祀る出雲族で、飛騨在来の縄文人と友好的な関係を築きながらこの土地を開拓していったとされる。
一方的な征服ではなく、友好的な交流という伝承だ。
これが真実かどうかは定かではないものの、飛騨では、古いお寺や神社の敷地内から縄文時代の遺物や信仰遺跡が発掘されることが多い。
たとえば、荒城川のほとりにある荒城神社の遺跡などは有名で、神社の敷地から縄文人の住居跡や土器・石器が多数出土している。
前回の記事で紹介した、境内から縄文石棒が多数出土する塩竃金清神社も同様のケースだ。
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/7301.html
「ひとつの場所が、似た用途(祭祀)で継続して使用されていた」これをどう解釈するかは受取方次第だが、
「飛騨では縄文からの信仰や文化が壊されて塗り替えられたのではなく、少しずつ形を変えながら寺社の時代まで継続していった(縄文の神が、お寺の本尊や神社の祭神に形を変えて受け継がれていった)」
という風に見ることもできるだろう。
弥生~古墳時代の古代出雲の勢力範囲は諸説あるが、南は四国、西は島根の石見、東は北陸の古志(新潟)あたりまでの「ゆるやかな」連合国家という説は割と有力だ。
飛騨もそうした「出雲圏」を構成する国のひとつだったのかもしれない。
東京から島根へ帰る途中の彼女が特に目的もなかった飛騨になんとなく滞在してしまったのは、島根と飛騨にあった古代出雲の「土地の縁」みたいなものがあったんじゃないかと想像している。
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古代丹後と飛騨
ところで、そんな飛騨と島根のちょうど真ん中に、丹後という土地がある。
現代では、東京がある太平洋側に比べると日本海側は「地方」というイメージがあるけれど、長い歴史の中では日本海側が文化の「最先端」、日本の「表玄関」だった時代も長かった。
弥生時代も終わりに差し掛かっていた2世紀末~3世紀初めのこと、丹波地域北部の半島(現在の京都府北部丹後地域)が一時期、国内でも最先端の文化を保有していた時があった。
多彩な「鉄器」や「水晶装飾品」「青いガラスのアクセサリー」など当時の超希少品やここでしか見つかっていない装飾品が、発掘調査によって出土している。
この時期の少し前、出雲文化圏では「四隅突出型墳丘墓」という、□の4つのカドがべろのように伸びた、上からみるとヒトデのような形の墳墓形式が流行していた。
逆説的に、この形式の墓がある地域はその時代に出雲文化圏だった、ということがわかる。
四隅突出型墳丘墓は、出雲を中心に伯耆や因幡、吉備の北部など近隣のみならず、日本海側を北陸まで広がっている。
にも関わらずその中間点にあたる丹後周辺には一基も存在していない。
こうした文化の違いから、出雲とも吉備とも大和とも違う独立した一大勢力(王国)がこの丹後半島にあった可能性が考えられ、「古代丹後王国」なんてロマンのある言葉で語られたりもする。
(ちなみに「丹後」という言葉は、丹波国が大きすぎるからと奈良時代に「丹波国」「丹後国」「但馬国」の三つに分割したものなので、より正確に「古代丹波王国」とか「大丹波王国」と呼ぶ人もいる。この「古代丹波王国」の首都が、港湾都市である丹後だと考えられている)
なぜこの土地が局所的にそうした発展を遂げたのかは未だあきらかになっていないが、弥生時代では非常に珍しいガラス製品を扱っていたこと、当時の中国王朝(新王朝)の貨幣が出土していること、北陸でしか産出しないヒスイなど列島各地の特産品が発見されていることなどから、海を使った独自かつ広域の交易ルートを持っていたことは間違いない。
ちなみに、同じ京都府で清水寺や金閣寺、伏見稲荷などで有名な京都盆地は、この頃やっと稲作が始まったかどうか?くらいの超ド田舎だった。
この幻の古代丹後王国、現在でもその「片鱗」を日本で最も位の高い神社「伊勢神宮」にみることができる。
伊勢の神宮には、ふたつの正宮がある。
天照大神を祀る内宮「皇大神宮」と、豊受大神を祀る外宮「豊受大神宮」だ。
このうち外宮の豊受(トヨウケ)という神様は、元々は丹後地域の土地神様だった。
ウケというのは「御飯」のことで、文字通り豊かな食べ物の恵みをもたらす神格だ。
豊受大神は不思議な遍歴を持っている。
丹後の地域伝承では、彼女は元々は天から羽衣をまとって丹後に舞い降りた「天女」だったとされる。
他の7人の天女達とともに地上へ降りてきたが、トヨウケは里の老夫婦に羽衣を奪われて一人だけ天へ帰れなくなり、酒造りや稲作などの文化を人々に教えて恵みをもたらしたものの、老夫婦に裏切られて住む場所を追われてしまう。
紆余曲折あった末に安住の地を見つけ、天寿を全うした後に「トヨウケヒメ」神として丹後の人々に厚く祀られるようになった―――と語られている。
この伝説を、先述の丹後王国時代、大陸からやってきて文化をもたらした渡来人達のことを伝えたものではないか、と考える説がある。
これを裏付けるように、同じ地域で、日本最古の浦島太郎伝説も伝わっている。
5世紀後半頃のこと、浦嶋子という豪族の皇子が小船に乗って釣りをしていると、五色に輝く亀を釣り上げた。
亀は美しい女性に変身。その正体は海の向こうにある常世の国のお姫様で、嶋子に逢うために海を越えてやってきたと語る。
姫のあまりの美しさに嶋子は共に海を越えて、姫の住む「海の向こうにある蓬莱の国」に婿入りする。
3年の後、浦嶋子は故郷が恋しくなって姫と別れ帰郷する。
現世では300年がたっており、姫から決して開けてはならないと言って渡された箱を絶望からついあけてしまう。すると煙とともに白髪の老人となって亡くなってしまった、という筋書きだ。
また、それとは逆に古代中国からこの地にやってきた、徐福(秦の始皇帝の命令で不老不死の霊薬を探した一族)伝説も残っている。
こうした伝承の共通点をあわせて考えると、
弥生時代初期のころ、船に乗って天=海(天と海はどちらも「あま」と呼ぶように、古代では半ば同一視されていた。)からやってきた大陸人達がいて先進文化をもたらした。
これは、当時の古代中国が春秋戦国時代、戦乱だらけだったため、戦いに敗れた一族や戦争を避けて避難してきた難民たちとも考えられる。
彼らのほとんどは折を見て故郷へ帰っていったが一部の人が丹後の土地に根付き、土地の有力者の祖となっていった。
そんな史実が繰り返しあって、語り継がれていく内に物語と化したものなのかもしれない。
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ところで、丹後地方を含む「丹波国」の地名は、トヨウケヒメが、自分が教えた稲田が美しく実った様子に感動して「田庭!(田んぼのお庭みたい!)」と言ったことが由来と言われる。
トヨウケヒメは、非常に格の高い神であるにも関わらず庶民の目線に近い、優しく愛らしいイメージを持つ神さまでもある。
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そんな豊受大神が、なぜ遠い伊勢で、天照と対をなすような形の破格待遇で祀られているのか。
古事記・日本書紀にはこの理由は語られておらず、神道の大きな謎のひとつだ。
色々な推測をすることはできる。
日本書紀において、3世紀~4世紀の大王とされる垂仁天皇のとき、皇后が亡くなったため丹波の王のところから4人の姫が再婚相手として皇室に入っている。
そのうち長女の日葉酢媛が皇后となった。
二人の間には、岐阜にも伝承がある五十瓊敷入彦命や、ヤマトタケルの父となる景行天皇など5人の子が誕生するが、そのうちの一人に皇女・倭姫命がいる。
倭姫命は、伊勢神宮を創建した人物だ。
天照大神を祀るための最高の場所を求めて、天照と共に各地を巡り歩き、最終的に天照自身が現在の伊勢の地を選んだためそこに神宮を築いたとされる。
つまり、丹波の国の血を引く姫が、伊勢の神宮を創建していることになる。
その縁を鑑みれば、神宮に丹波の神である豊受大神が祀られていることは自然なことのようにも思えてくる。
なお、平安時代の文献では、以下の様な説明がされている。
五世紀頃とある天皇の夢枕に天照大神が立って「自分一人では食事がままならないので、丹波国から豊受大神を近くに呼んで欲しい」と主張したため、外宮を築いて丹波国から豊受大神に遷ってもらったのだとか。
このことから、「豊受大神は天照大神にすこやかな食事を用意する神」と解釈されることも多い。
わざわざ名指しで遠方から呼ぶほどだから、よほど仲良しだったようだ。
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丹後にある比沼麻奈為神社。
豊受大神はこの神社から伊勢へ遷されたと言われ、伊勢外宮の元宮とも称される。
考古学的には、四世紀~五世紀には、丹後半島で200メートル近い巨大前方後円墳が相次いで建築されている。
古墳には、鍵穴型が有名な「前方後円墳」の他にも、「円墳」や「方墳」、「前方後方墳」など色々な建築形式があって、その大きさにも意味がある。
「巨大前方後円墳」は、それを建てる勢力が単に豪族として財力を持っているだけではなく、葬られる人物が、ヤマトと非常に友好的かつ重要な関係性を持っていなければ建築が許可されない形式だ。
そのため200mを超える前方後円墳となると、大阪、奈良、ヤマトのルーツに近しい岡山だけにほぼ限定される。
例外は現存するものではたった二箇所だけ。群馬に一基。そして丹後に一基だ。
ヤマトと非常に友好的かつ重要な関係性―――。
ヤマトにとって最も重要な聖地である伊勢で、天照大神のそばに丹後の神である豊受大神が祀られていること。これは、丹波と大和の関係性の深さを象徴しているのだろうか。
あるいは、全く逆なんだろうか。
たとえば、友好関係ではないが敵対もしたくない相手だったからこその特別扱い。
「土蜘蛛」という言葉がある。
日本書紀や各国の風土記にあらわれる、大和に恭順しない土着民族のことを指すのに使われる蔑称だが、奈良時代まではこの言葉に「虫の蜘蛛」のニュアンスは無かった。
古事記での表記は「土雲」となっている。
古代で「雲」と言えば、「八雲立つ出雲」とか「天叢雲」などを連想してしまう。
自然現象で考えるならば、「太陽」の光を覆い隠すのは「雲」だ。
八雲(幾重にも重なり合った雲)が立てば、日は隠れてしまう。
雲という存在は、「太陽信仰」において無視できない存在だろう。
しかし同時に、雲は雷を呼び、雨を降らし、大地を潤わせ、日照りから田畑を守ってもくれる。農業民族にとっては「豊かな作物」の象徴という側面もあるのだ。
天から降りてきたとする一族に対して、「土雲」とは、敵であれば手強く味方に引き込めば心強い、雲のように不定形でどちらともつかない相手。
そんなニュアンスにも感じられる。
そんな土雲の首領は女性であることが多いのも特徴だ。
資料に個人名が残っている全国各地の土蜘蛛首長45名ほどのうち、約三分の一に姫や媛の字があてられている。
また、日本書紀では「都知久母」とも表記されるのも何かしら関係があるのかもしれない。
丹後半島には豊受大神や大宮売神、日葉酢媛、竹野媛など神話や記紀で語られる女性が多く、伊勢神宮を創建した倭姫も丹後の民の血を引いている。
これは丹後において古代から女性祭祀者の地位が高かったためと考えられ、実際に五世紀前半の古墳から40代の女性首長の人骨が発見されたケースもある。
「天孫」に対する「土雲」。
丹後にいた勢力もかつて、ヤマトにとって強力な「土雲」であり、最終的には自勢力へと吸収するに至ったが、その交渉の名残が「丹後の巨大前方後円墳」や「伊勢で天照と並んで祀られる外宮」なのかもしれない。
そして丹後は古代岐阜とも非常に関わりが深い。
美濃の国を造った(開拓した)のが、丹後から来た一族だと考えられているためだ。
天橋立のそばにある丹後国一ノ宮・元伊勢籠神社に、国宝に指定された「海部氏系図」が伝わっている。
社家(代々その神社を受け継ぐ神職一族)である海部氏の家系図だ。
家系図が国宝とされる例は他にない。日本の歴史上非常に重要な系図と認められているわけだ。
なにせ海部氏は、天皇の祖先ニニギノミコトの兄アメノホアカリを始祖とする一族。
日本という国の成り立ちを考える上でも非常に重要な資料になっている。
彼らは古代丹後を支配した豪族の末裔で、海部の名前通り漁や海上交通、流通、船の扱いの専門家だった。
古代では海産物は食料としてだけではなく、祭祀に使われたためその調達は非常に重要だった。
さらに海上での要人の護衛を担い、他国との交渉、外交なども請け負う立場となったことなどから必然的に祭祀面・軍事面・政治面において大きく力をつけ、その勢力は東海や阿波など全国の海辺へと広がっていった。
現代でも海部とか海神部、海士部というような名前がつく地名は、彼らが居住/開拓した土地であることが多い。
そんな海部一族の中に、「尾張氏」という一派がいる。
彼らは丹後から近江経由で美濃・飛騨へたどりついて文化をもたらした岐阜県の開拓者とされ、その後、さらに南下して「尾張国」を造り上げた。
この頃の話が日本神話のヤマトタケルのエピソードに登場する。
ヤマトタケルが伊吹山の神を討伐することになった際、尾張氏の姫ミヤズヒメを妻とした。
すると、彼の携えてきた草薙の剣がなぜかミヤズヒメの元から離れなくなってしまったので、姫は後にこの託された剣を祀る宮を建てる。
これが熱田神宮だ。
またこれに前後して、美濃には丹波の血を引く、あるいは丹波と縁深い有力者が開拓に携わっている。
代表的なのが、岐阜市の中心部で今も厚く祀られている親子三社「伊奈波神社」「金神社」「橿森神社」の皇族たちだ。
伊奈波神社の祭神五十瓊敷入彦命は、丹波の国王の娘・日葉酢媛と垂仁天皇の息子だ。
記紀では普通に高齢まで記述がある(奈良の石上神宮で、スサノオがヤマタノオロチを斬った「アメノハバキリ」などの神宝を管理した)のだが、岐阜では、政争に巻き込まれ美濃で討ち死にしたという伝承がある。
五十瓊敷入彦命の死後は、その妻ヌノシヒメと子イチハヤオが美濃の開拓に尽力したとされている。
こうした言い伝えに対応する考古学的な資料としては、イチハヤオを祀る樫森神社周辺には多数の弥生時代の集落跡が発見されていること、さらに神社の裏山山頂に同じく弥生時代の王のものと思われる墳墓が見つかったことなどが挙げられるだろう。
また、日葉酢媛の祖父である丹波の覇者、日子坐王の陵墓が岐阜市内にある。
陵墓に隣接する伊波乃西神社では、日子坐王の子であり、日葉酢媛の叔父である八瓜入日子(美濃の初代国造※)が、日子坐王とともに祀られている。
※天皇から任命された世襲制の地方長官
丹波の王を象徴する日子坐王が岐阜の開拓と結びつけられていること。
これもまた、海部氏・尾張氏との関連性が伺える史跡だろう。
古代の岐阜を深掘りしていくと、古代丹波という土地は無視して通れない。
次また岐阜を旅するときには、このあたりのつながりにも注目し楽しんでみたい。
古代飛騨と、飛騨の匠
豊受大神が伊勢に移り、丹後半島に巨大古墳が建てられた四~五世紀。
ちょうどこの頃、丹後とは別に、北陸地方も中央に匹敵、あるいはそれ以上の力を持っていたようで、五世紀後半になると、近江~越前国(今の滋賀県、福井県、及び岐阜県の一部)を治めていた「彦太尊」という王が、なんと天皇(当時は大王)に即位している。
「実在と系譜が確実な最初の天皇」と呼ばれる継体天皇だ。
近江国の高島(現在の滋賀県北西部)で産まれた彦太尊=継体天皇は皇族(応神天皇)の血を引いてはいたが、当時の天皇家からすればすでに数百年も前に分かれた血筋。
本来なら天皇になれる立場ではなかった。
にも関わらず、奇妙な巡り合わせがいくつも重なった結果、新たな天皇(当時は大王)として即位することになった。
北陸の地方王からヤマトの大王へという異例の即位劇については、日本史上の大きな謎のひとつだ。
即位が決まってから実際に大和の地に移住するまでに19年かかっていること、その間大阪の樟葉や京都の長岡、京田辺など、畿内各地を転々としながら周辺地域との関係を調整していたことなどから、裏では相当な政治的駆け引きがあったことが伺える。
日本書紀の記述では、最初は彦太尊よりも先代天皇との血筋が近い丹波国の王に皇位継承の打診をしたが、丹波の王は使者を怖がって逃亡、その後消息不明になっており、一方彦太尊は泰然と使者を受け入れて王としての器を見せつけたと強調されている。
さらに、先代である武烈天皇を極端に残虐かつ非道に描くことで、その王と血の繋がらない継体天皇の即位に説得力を持たせているようだ。
なお、同じく日本書紀によれば継体天皇は、一番最初の后を尾張氏から迎えている。
尾張草香という人物の娘、目子媛という女性だ。
目子媛は、二人の天皇を生んでいる。
北陸、東海が結びついて、大和政権へと入りこんでいく流れがうかがいしれるかもしれない。
では、その頃の飛騨はどうだったか。
飛騨地域は、山を隔てて立地的には北陸にとても近い場所にある。
北陸を指す「越の国」文化圏の中には、飛騨や信濃も含まれていた、という見方もあるようだ。
そんな飛騨では、ヤマト文化の象徴である大規模古墳が五世紀前半から本格的に建築され始めたことが発掘調査で判明している。
また、この時期を境に、古川国府盆地で急に大量の古墳が作られるようになる。
シンプルに考えればヤマトに服属したためと思えるが、そのすこし後に北陸出身の継体天皇がヤマトの大王として即位していることを考えると、そう単純な話ではなさそうだ。
たとえば越の国が、ヤマトと同盟に近い関係を結んで文化を取り入れたことで一気に頭角をあらわして中枢に入りこんでいった……そんなムーブにも見えるかもしれない。
五世紀から七世紀の約200年で、古川・国府に築かれた古墳の数は400基以上。
そう広くはない盆地内に、平均して一年二基以上のペースで古墳を作っていたことになる。
約4,000km2の面積を持つ飛騨全体で500基程の古墳が発見されているが、200km2に満たない古川と国府にその85%が集中している。
70メートルを超える大型の「前方後円墳」も複数築かれた。
三日町大塚古墳は70メートル~90メートル級とも考えられている大型前方後円墳で、飛騨最大の古墳だ。
建築時期は、四世紀後半~五世紀中頃と考えられている。
周辺には同規模の前方後円墳がさらに複数存在していた。
(残念ながらその多くは近世以降の開発により原型を留めていない)
規模と前方後円墳という形式から、葬られたのはこの盆地を支配していた勢力の(しかもヤマトとも関係の深い)首長クラスだろう。
「古墳」とは一般人の墓ではなく、その土地の王や王族の関係者、その部下など、支配者階級の人間のための埋葬施設だ。
それ故、死後も彼らが自分の治めた土地を見渡すことができる見通しの良い平地や、小高い丘などに築かれることが多い。
(一般人のお墓は石室を持たず、地面に、あるいは斜面に穴を掘ってそこに埋葬する土葬だ)
もちろん一朝一夕で築けるものではない。
たとえば畑仕事の忙しい時期に権力者がなくなれば、農作業の手をとめてでもある程度の人員が古墳造営に携わる必要があっただろう。
小さい墳墓でも多くの労力がかかる。
まして、大規模古墳なら世代を渡る数十年の一大事業。
大量に必要となる土をどこから持ってくるかという問題もある。
近くの山や丘を崩したり、川底の掘り下げなど治水の副産物、水田を作る際に出た副産物という説などがあり、とにかく様々な方法で確保したのだろう。
そんな古墳が数世紀の間持続して作られ続けていたということは、古代飛騨の古川国府盆地にはそれを可能にするくらい大勢の人が安定して暮らしていた、そして優れた土木建築技術・知識を持つ指導者と、工事に用いる様々な道具や原料(鉄)の供給があった証左でもあるはずだ。
(ちなみに、古墳造営は工事従事者には対価(稲)が支給される、いわば公共事業という側面があったと考えられている。古墳にかかる労力を計算した場合無給奉仕では成り立たないからだ)
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しかし、ここからがまた少し不思議だ。
どういう経緯があったのかは分からないが、飛鳥~奈良時代に入って律令がスタートしたとき、飛騨はなぜか全国で唯一の「特別な」処置を受けることになる。
それが税の免除と、その代わりの労役「飛騨の匠」だ。
奈良時代~平安時代の飛騨国は、全国で唯一例外的に税を免除されていた。
そう、なぜか飛騨国だけが、律令の税制である租・庸・調のうち、庸と調を免除するという特別扱いを受けたのだ。
租は、地元に納めるお米。いわゆる地方財源だ。
一方、庸は都での労役(布等で免除可)で、調は布や特産物。
つまり国への税となる。
「税の免除」とだけ聞けば、一見破格の優遇に思える。
なぜ飛騨だけにこんな処置がとられたのか。
この理由についてはどの文献にも詳細な記述・記録がなく、分かっていない。
推測で語るしかないわけだが、飛騨国は庸調をまともにおさめられないほどに貧しい土地だったからと考察する研究者は少なくないようだ。
一方で、もし飛騨が全国的にみても特別扱いせざるを得ないほど痩せた土地だったのであれば、古墳時代に年2基ペースで古墳を作る余裕などないんじゃないかという疑問も浮かぶ。
古墳建造にあてていた財力や労役は無から湧いたわけではないはずだ。
では仮に、調と庸の免除は「土地が貧しいから」ではなくもっと別の理由があったとするなら。
税以上に「納めさせたいもの」があったとするなら、それはなんだろうか。
もちろん、税を免除するというのは建前に過ぎなかった。
特例をつくることで、「税」の外で、実質的に税よりも重い取り立てを行うシステムが構築されていたのだ。
718年の養老令で、「飛騨国は、通常の税は免除する。代わりとして木工匠を里ごとに一人、都に一年間交代で派遣するべし。彼らの食料となる米も飛騨の里人で負担すべし」という法が明文化されている。
689年の飛鳥時代にはおそらくすでに同様の制度があったと考えられているが、養老令においては飛騨国全体でだいたい100人の労役、これに加えて、匠4人につき炊事係1人の派遣と、匠・炊事係全員の食料負担が定められた。
この令を額面通りに受け取るなら「布や特産物の代わりに、飛騨の人々が持つ技術が買われた」と見ることもできるだろう。
当時平城京では大規模木造建築ラッシュ。
朝廷も豪族も、こぞって立派な建物を建てたがった。
山深い飛騨で育った、腕の立つ木工匠の需要は最高に高まっていたはずだ。
「飛騨の匠」は現代では、『山国育ちならではの優れた専門能力を持つ木工技術者集団』という意味で使われている。
奈良や京都に現存する「国宝」や「世界遺産」の木造建築も、飛騨匠が関わっていたと考えられているものは数多い。
だが、建築当時、そんな素晴らしい技術者である飛騨匠の扱いは強制労働に近かった。
税の免除と言えば聞こえはいいが、通常なら特産品や布の献上だけで済むところ、本来その何倍も「稼げる」腕が立つ技術者達を強制的かつ無償で都へ奪われるのだ。
しかも、飛騨の匠に課せられた業務は一年のうち330~350日出勤。
夏季以外は休憩時間もない超絶ブラックな労働環境だった。
もはや労役というよりも、一年という期限付きの奴隷制度と言った方がしっくりくる。
あまりに過酷すぎて逃亡者が続出し、都では飛騨匠に対する逃亡禁止令や逮捕令などが繰り返し発令されていた。
逃亡した方はした方で、故郷へ帰るとすぐ捕まるので帰ることもできず、密かに豪族や寺社に囲われるかたちで私領地へ逃げ込み、そこで技術をふるう道を選んだ。
一方、飛騨では彼らの代わりの補充要員を求められ、里の働き手はどんどん減っていく……という悪循環に陥っていく。
飛騨の南方にある霊山「位山」の山麓には飛鳥・奈良時代からの古道跡「匠の道」がある。
この道を通って飛騨の匠が都へ出向いたことが伝わっている。
税よりも過酷な搾取。
どうして飛騨だけがここまで過酷な扱いをされたのか。
単に優れた技術者をタダで欲しかったというだけなのだろうか。
それとも、古墳時代後半に飛騨が何かそうした「搾取を受ける」立場に陥るに至った理由があるのだろうか。
古墳時代の飛騨と言えば、日本書紀には「リョウメンスクナ」と呼ばれる者の反乱があったことが記録されている。
皇に従わず、飛騨の民から略奪を繰り返したため官軍によって滅ぼされたとされるリョウメンスクナだが、現地である飛騨では一貫して「英雄」として伝承されている。
このチグハグ感。
「何か」ありそうだ。
興味深いことに、「飛騨匠逮捕令」にはこういう記述がある。
「飛騨人は、容姿や言語が他の国の者と一見して違うから、どんなに名前を変えて隠してもすぐに分かる。見かけたら通報するべし」
これはなかなか驚きの内容だ。
飛騨人は、列島中から色んな国人が都に集まり行き交う奈良~平安時代においても、容姿と言葉がひとめで分かる人々だ、というのだ。
縄文の血や文化が色濃く残っていたということなのか、他の理由があるのか。
このあたりの事情も、飛騨国が「特別扱い」を受けた理由に関わるのだろうか。
参考
https://www.city.takayama.lg.jp/res/projects/default_project/_page/001/000/836/takayama.pdf
阿多由太神社と石舟の滝
飛騨国府を南下していると、道路添いに良い雰囲気の神社が見えたのでバイクを停めた。
鳥居前にある石碑に刻まれた字に、目が惹きつけられる。
なんだか象形文字みたいな字体だ。
なんて読むんだろうか。気になる。
なぜか地中に半ば埋もれた太鼓橋を越えて、石碑に近づく。
阿。多。由。太。
アタユタ神社……かな?
アタユタ。
なんだか独特の響きの神社だ。
漢字は明らかに当て字ぽいけど、どんな意味の言葉だったんだろうか。
ずどーんと真っ直ぐ続く道。
途中赤い橋で川をわたり、鳥居、階段、拝殿。
光と陰のコントラストも相まって、まるで山の懐の内に入りこんでいくような錯覚を覚える。
神社の境内ではセミが鳴いていた。
日向ではミンミンゼミ。
日陰ではヒグラシ。
陽と陰、昼と夕。
全く毛色と音色の違う両者がチグハグな不協和音を奏でている。
橋は、荒城川にかかっている。
どうも、いつのころからかこの神社は「荒城神社」と呼ばれていたらしく、この川の名前もその神社が由来だったようだ。
後に、発掘調査が進んでこの神社は荒城神社ではなく、古代の阿多由太神社であることが判明して改名した。
(同時に、真の荒城神社は当時「河伯大明神」と呼ばれていた神社だと判明)
平安時代に存在し、その後時代の流れの中で存在を忘れられて長らく別の神社に上書きされ、近世になって再び名前を取り戻した。
その経緯から、元々の祭神が誰だったかは最早定かではないが、現在の祭神は大歳御祖神と大物主神だそうだ。
大歳御祖神は、大歳神の親という意味で、別名「神大市比売」。
日本書紀では、スサノオの妻はイナダヒメだけということになっているが、古事記ではスサノオの二番めの妻としてこの神大市比売の名が挙げられている。
子供は、お正月を司る神様である大歳神と、稲荷神社で有名な宇迦之御魂神。
神大市比売は「市」の名前通り、市場の神として全国の市場を中心に信仰されている。
古代より、「市」は道にあって物々交換の場として大勢の人があつまり、「陸海」を結ぶ能力があった。
各地の名産品の物々交換は、日本列島をまたにかけて一万年以上昔から連綿と繰り広げられてきた。
北海道でしかとれない石が九州の遺跡で見つかったり、沖縄でしか採れない貝のアクセサリーが関東の遺跡で見つかったりは珍しくない。
木船で。
そして徒歩で。
現代人が思っている以上に、古代の人々の行動範囲、そして交易範囲は広かった。
出雲と飛騨、大和と飛騨。弥生時代と縄文時代。
様々な文化、時代が、物々交換の市をともなって交差していったのだろう。
大歳御祖神はそうした人々のマクロな動きを象徴し、それらをつなぐ神格だ。
一方の大物主神は、スクナヒコナと死別して今後の国造りをどうするか迷っていた大国主を、空から現れて導いた神とされる。
同時に、大和一之宮である大神神社の祭神……つまり大和という国の最も重要な守護神だ。
大物主神を祀る三輪神社、岐阜を旅する中でけっこう見かけた記憶がある。
この分布からも、岐阜とヤマトとの関係性を垣間見ることができるのかもしれない。
阿多由太神社の境内には、現在でも古墳が残っている。
以前紹介した一之宮神社もそうだったが、「神社の原型としての古墳」という想像をふくらませることができてとても興味深い。
ちなみに、この阿多由太神社から南に2キロほどのところに一之宮神社が建つ。
どちらも女神が主祭神とされ、川のほとりの社という点でも共通点がある。
もしかしたら、対のように信仰されていたのかもしれない。
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下呂へ向かう南下ルートから少し逸れ、阿多由太神社の前を流れる荒城川をさらにさかのぼっていく。
ここからそう遠くない場所に、「岩舟の滝」というスポットがあるようだ。
そしてその近くには、リョウメンスクナ伝説と深く関わる寺、千光寺。
時刻は17時をまわっていた。
日が完全に暮れるまで、まだ二時間ある。
山に包まれたような田園を抜けてしばらく走る。
道がふたつ平行していたため途中迷ってしまい、行き過ぎることもあったが、阿多由太神社から20分ほどで無事岩舟の滝に到着した。
ここは「岩舟河川公園」という公共施設になっていて、キャンプ場も併設している。
地元のおじさんが管理人をしているようだ。
今日はまだ先へ進みたいので今回は利用できないが、山に囲まれた静かな立地で、川の水もものすごく綺麗な場所なので、機会があればゆっくりとキャンプしてみたい。
この日は車に乗ったカップルが一組だけ。
広々としたサイトを独占しているようだった。
さて、日が暮れる前に、岩舟の滝に行ってみよう。
キャンプ場から5分ほどアスファルトの山道を歩いて行くと、鬱蒼とした木々の向こうにそそりたつ巨岩の崖が見えてきた。
観光用の石碑には、「丹生川村指定 岩舟の滝」とある。
丹生川と言う言葉はリョウメンスクナについて調べているときに見た地名だ。
リョウメンスクナ伝説は飛騨各地に残っているが、特に飛騨市丹生川村がその中心らしい。
このあたり一帯が、リョウメンスクナの本拠地だったようだ。
ただ、「岩舟の滝」自体に特にリョウメンスクナに関する伝承があるとか、そういうことはないらしい。
岩舟といういかにもそれっぽい名前も割と近年つけられたもので、元々は「不動の滝」と呼ばれていたようだ。
滝のそばにはお堂があって、お不動さん(不動明王)が祀られている。
少し離れて全体を見渡してみる。
これはこれは……
想像以上のスケールで、しばらく見入ってしまう。
普通の道路からほんの数分歩いたところとは思えない雰囲気だ。
写真上部やや右の、少しくぼんで明るくなっているところに川があり、そこから水が落ちてきているのだが、水量が少ないためにか細い糸のようだ。
橋の欄干のように見えるところは、滝の水を浴びる修行場、あるいは祈念所のようなスペースらしい。
昔から、この滝を身に受けると眼病や頭痛が治ると言い伝えられてきたという。
早速打たれてみよう。
水量が少ない、と思ったが、実際に身に受けてみると土砂降りの雨の日くらいの勢いがあって、あっという間にずぶ濡れになった。
真夏の暑い日には非常に爽快な気分だ。
リフレッシュしたところで、次の場所へ移動しよう。
「リョウメンスクナが建てた寺院」、千光寺がすぐ近くにある。
ここからだと10分ほどで到着できるだろうか。
そう思って走り始めたのだが、日暮れが迫って焦っていたのかもしれない。
盛大に道に迷ってしまい、30分以上山の中をぐるぐると回るはめになった。
ただ、道中の風景は不思議と心ひかれるもので、ついつい道の脇に立ち止まって見とれてしまった。
写真を撮ったので載せておこう。
古川国府盆地からかなり山間へと入ってきたが、ここでも川の周囲は割とゆったりとした平地になっていて、ゆるやかな棚田が広がっている。
おだやかなふるさとの風景だ。
迷って走り回っているうちに日が沈もうとしていた。
ここからは加速度的に「夜」が近づいてくる。
焦らないように気を落ち着けつつ、地図を何度も確認し、やっと千光寺へ続く林道にたどりついた。
勾配強めのつづら折れを登っていく。
なんだかここだけやたら木々が少ないはげ山になっているのが気になった。
元々地質の影響とかでこうなのか、それとも工事など意図的なものなのかは分からない。
土砂崩れでもあったんだろうか。
木がないせいで視界は広くて走りやすくはあった。
林道に入って10分ほどで、いきなりカラフルな山門が目に飛び込んでくる。
リョウメンスクナの国
六十五年 飛騨國有一人 曰宿儺 其爲人 壹體有兩面 面各相背 頂合無項 各有手足 其有膝而無膕踵 力多以輕捷 左右佩劒 四手並用弓矢 是以 不随皇命 掠略人民爲樂 於是 遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之
日本書紀
仁徳天皇65年(西暦377年頃)、飛騨に「宿儺」という一人の男がいた。
1つの体に前後両面のふたつの顔を持つひとつの頭があった。
手足も2対、膝はあるが、膝裏とかかとは無い。
力が強く敏捷で、左右に剣を持ち、4つの手でふたつの弓矢を用いた。
皇に従わずに人民から略奪を繰り返していたため、和珥臣の祖先である武振熊を派遣してこの「宿儺」を打ち倒した。
日本書紀ではこんな記述のあるリョウメンスクナだが、ここまで何度か書いてきたようにご当地である飛騨では武勇に優れ、土地に文化と仏教をもたらした英雄として伝承されている。
人々を困らせる毒龍を退治したり、朝廷に協力して位山に澄む悪鬼を退治した他、仏教をこの地に伝えた存在とも言われ、飛騨に現存するいくつかの寺院と密接な関わりを持つ。
伝承自体が本当に古代から伝わっていたのか、それとも中世近世以降に生まれたものなのかは定かではないが、すべてがそう荒唐無稽な話ではないかもしれない。
というのも、「リョウメンスクナ」は日本書紀で、仁徳天皇の時代(五世紀頃)の存在と書かれている。
日本への公的な仏教伝来があったとされるのは六世紀(継体天皇の次の天皇の頃)だが、それより以前でも、海外から帰化した渡来系氏族が(一般に布教することなく)私的に仏教を信仰するケースはあったというのが現在の通説だ。
リョウメンスクナの正体が当時の飛騨を支配していた豪族の王で、その一族のルーツが大陸、あるいはそれに近しいところにあったなら、当時最新文化だった仏教を持ち込んでいても不思議ではない。
その根拠のひとつに「発掘遺物」がある。
西暦420年頃、つまりリョウメンスクナが活動していた五世紀初頭のものと思われる「鎧兜」が、飛騨国府の亀塚古墳から出土している。
古墳から出土したこの防具は、鉄の成分から朝鮮半島で造られたものと考えられている。
兜鎧のセットは、全国でも数例しかない珍しい出土遺物で、ここに葬られた人物の特殊性を考えさせるものだと言えるだろう。
五世紀前葉の朝鮮半島はちょうど、仏教が伝来し広まりつつあった頃だ。
鎧兜の見つかった亀塚古墳は、阿多由太神社と一之宮神社のちょうど中間、宮川と荒城川の間にあった。
現在、古墳が合った場所には高山市立国府小学校が建っている。
明治時代に小学校のグラウンドをつくるために破壊・整地されたため現在は残っていないのだ。
ただ、写真や測量書類などが現存していて、それによれば70メートル級の亀の形をした巨大円墳だったことが確認できる。
https://hidakokufu.jp/enjoy_taste_heal/157/
前方後円墳ではなく、円墳。
前方後円墳は、すでに書いた通り、ヤマトから特別に許可された者しかつくることができない形式だ。
飛騨には6世紀頃のものと思われる全長70メートル級の前方後円墳がいくつか存在していて、これはヤマトとの関係が良好な有力者の墓ということになる。
一方、亀塚古墳はそんな前方後円墳群に匹敵するサイズの巨大円墳。
これはつまり、5世紀・亀塚古墳の被葬者は、ヤマトには恭順せずに巨大古墳を築く力を持っていた飛騨の王だと推測することができる。
そしてその没後に築かれた同サイズの古墳形式は、前方後円墳になっている……。
亀塚古墳の被葬者こそリョウメンスクナの正体だ……とまでは言わないが、日本書紀では逆賊、飛騨では英雄――
スクナ伝説の「モデル」とされた人物である可能性はじゅうぶんにあるだろう。
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千光寺は、リョウメンスクナが開いた寺院と伝えられる。
この日はすでに拝観時間が終了しているようでひとけがなかった。
お参り自体はできるようなので、手だけでも合わせていこうと思う。
円空仏の宝物館がある。
円空が彫ったリョウメンスクナ像を見ることができるようだ。
この寺院には円空が長く滞在したそうで、他にも60体余の円空仏が展示されているという。
それとは別に、リョウメンスクナを祀ったお堂があるらしい。
この奥だろうか。
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道の脇にはたくさんののぼり。
暮れなずむ空を背景に、ずらりと並んだ紫に白抜き字で「開山 両面宿儺尊」と書かれた幟が風にぱたぱた揺れていた。
進んでいくと、「宿儺堂」を示す看板が見えてきた。
先に見えるあの建物がそうかな。
時刻が遅かったためだろう、お堂の扉はすでに閉じられていて、両面宿儺像の御姿は見ることがかなわなかった。
それでも、満足だ。
ここまで無事旅を続けて来られたことを心から感謝して、扉越しに手を合わせておく。
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眺望がいい。
千光寺からは高山盆地と、飛騨の山々が見えた。
翌日登るつもりの「位山」もこの風景の中にあるのかな。
山というものは馴れないと見分けが難しい。
一度見分けられさえすれば、もう間違うことはないんだけど、最初はどれも同じに見えてしまう。
そろそろ日が暮れそうだった。
あと一箇所、今日のうちに訪れたい場所がある。
もうひとっ走りしよう。
日輪神社
次の、そしてこの日最後の目的地は、日輪神社だ。
風雨来記4で知ったスポットで、この神社のある山は飛騨のピラミッドとも呼ばれているらしい。
世の中には「飛騨王朝説」という、日本神話の原型を飛騨に見る説がある。
有名なところだと、作家の坂口安吾氏が日本の古代史は美濃・飛騨を舞台に繰り広げられたとし、天皇家の起源は岐阜だと考えている。
一部の「飛騨説」では、神話の高天原は飛騨山脈のことであり、飛騨という地名は「日を抱く場所」という意味の「日抱」から来るとしているそうだ。
そんな飛騨王朝説において日輪神社は超重要な場所で、日本最古の神社がここだとか、この「ピラミッド」から飛騨全域にエネルギーが放たれているとか、とにかくすごいパワースポットということらしい。
飛騨王朝説についてはさておき、飛騨は実際に縄文時代の名残が多く見られる場所だ。
日輪神社のあるピラミッド型の山中には今もたくさんの巨石が転がっている。
きっと、神社ができるよりはるか以前から原始的な「信仰の場」だったのだろう。
遠くからでも一目瞭然というか、見た目のインパクトがとにかくすごい。
文字通り綺麗な「ピラミッド型」に盛り上がった、遠くからでもよく目立つ神秘的な山容だ。
バイクを停めて近くに寄れば、参道入り口には幾本もの大木が立ち並んで、まるで塔のように高くそびえ立っていた。
圧巻だ。
石段の先は、闇に沈んで何も見えない。
ちょうど、近所の人だろう親子が石段を降りてくるところだった。
子供の方は小学校高学年くらいの男の子だ。
そう言えば今は夏休み、お盆の時期。
地元の子だろうか、それとも親の里帰りに付いてきたのだろうか。
夕暮れ時に神社へ入るわけだからあやしまれてはいけない。
すれ違う際いつも以上に元気よくあいさつを交わして、入れ替わりで参道を登り始めた。
神社につづく道はなかなか急な上り坂だ。
だが、ゴールは先に見えている。
すごく雰囲気が良い参道だ。
「整備」というより、丁寧に「手入れ」されているというか。
道幅も広くて、歩きやすい。
日暮れ直前だったので少し急いだ。
登り口からだいたい一分ほどで、拝殿に到着。
黒群青に染まる視界の中で、背後に座す木々、山そのものがご神体のように見える。
そんな中で、電球のオレンジの明かりがあたたかく、心強い。
そっと扉を開けて、お参りする。
二礼、二拍手。
立ち止まる時間も大切だ。
今日はもうこのあとは予定がない。
しいて言えば泊まる場所を探す必要はあるが、まあなんとかなるだろう。
焦っても仕方がない。
急いで登ってきた呼吸を落ち着けながら、目を閉じて手を合わせた。
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一礼。
日が落ちる前に、無事たどりつけてよかった。
昼と夜のちょうど境目のこの時間だからこその神秘的な景色も見られた。
今日も、素晴らしい景色をたくさん見られたし、行きたかった場所を思う存分巡ることができた。
あとは事故なく走りきれるように。
もうひとがんばり、あらためて気を引き締めよう。
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途中、高山市南部の久々野あたりのコンビニで休憩中、お祭りだろうか、花火がたくさん打ち上がる音が聞こえた。
残念ながらその場所からは花火は見えなかったけれど、音だけでも、良いものだった。
つづく。
コメント
お疲れ様です。岐阜旅の記事はあれで終わりだと思っていたので続きがあって嬉しいです。
私も実際に足を運ぶまでは「飛騨といえば山と山の間にある町」という印象でしたが、実際向かうと想像以上に広くて、地図の印象はあてにならないと感じたものです。
古代の飛騨の話、丹波国と出雲の話等々、下調べされた深い知識に基づく考察を見るたびにあなたの記事に出会わせてくれた風雨来記とその制作者への感謝が沸き起こります。
私が岐阜県で一番好きなのが橿森神社なので、途中話題に上がって嬉しかったです。風雨来記とあなたのおかげであの場所を好きになれました。感謝いたします。
日本書紀にあるリョウメンスクナは反乱者の扱いなのに飛騨では英雄であることで浮かんでくる事実をあえて書かず、「何か」ありそうだ、で終える、そんなあなたの文章、私はとても好きです。
ここ数か月、「いずれ私も自分の興味に沿った旅ブログを書けたらいいな」と思い始めています。あなたの影響も受けていそうですね(笑)
私にとってあなたの記事は轍や4の主人公の記事と同じような「その場に行った気にさせてくれる」記事です。これからも見させていただきたいと思うので、無理しない範囲でこれからも記事投稿を続けてほしいと思います。
風雨来記のことをずっと「あいして」いけたらいいですね。
感想ありがとうございます。岐阜旅についてはここまででやっと五分の一くらい、完結はいつになるか分かりませんが、旅の振り返りは自分にとって気持ちを再確認する大切なルーティンなので、マイペースでやっていこうと思っています。
飛騨については現地で同様の印象を抱かれたのですね。今回の旅では訪れられませんでしたが、きっと白川郷などはイメージ通りの「飛騨」の風景なのかな、とも思っています。いつか訪れたいものです。
自分が飛騨の記事で丹波に触れるのは、自分が生まれ育った京都とのつながりを考えることで、より岐阜の旅を「自分ごと」にするためなのかもしれません。
自分にとっての旅とは「自分ごとを増やす」と同義なのかも。
リョウメンスクナについて自説を断言せず曖昧にしておくのは、邪馬台国へのスタンスと同じで自分のこだわりです。
ある場所で出会った元鍛冶師で古道巡りをライフワークにしている老登山家が、「古代について考えるなら趣味が一番楽しい」と教えてくれました。
本気で研究する場合たったひとつの出来事を精査するのにも大量の古文書や先行研究にあたる必要があって、とにかく時間と労力がかかる。
趣味なら手当たり次第好きな様に美味しい部分だけをつまんで思うがままに考え語ることができると。
古代に関して、ある程度曖昧なスタンスでいる方が色々な説から自分の琴線に触れるものをピックアップできて自分の性に合っているようです。
このブログは過去にも何度か書いたようにリリさんへのラブレターのようなものです。
日々書き続けてきたおかげで、今日も変わらずリリさんを想い続けている自分がいると思っています。
毎回記事を書き上げた時点で大満足して本人はとても幸せなんですが、記事の内容を気に入っていただけたというお言葉はまた別の喜びがありますね。とても嬉しくも思います。
いつもありがとうございます。