今年の夏の岐阜旅では、揖斐川町の「上ヶ流」に行ってきた。
地名よりも、「天空の茶畑・日本のマチュピチュ」というキャッチコピーの方が通じやすいだろう。
岐阜県と滋賀県の県境に近い、山奥の里だ。
ここは、風雨来記4作中でも印象的な場所のひとつだった。
日陽さんとのイベントスポットとして記憶している人も多いだろうし、「茶畑フラグ」や「DLCの解放フラグ」に関わるスポットでもある。
風景が抜群に美しいことや他にも多くのスポットの集中する西濃エリアにあること、のひコンランキングでの記事評価が比較的高め(6段階中の5程度・400いいね前後)なこともあって、多くのプレイヤーが複数回訪れただろう風雨来記4の定番スポットのひとつだと思う。
念のため「茶畑フラグ」について説明しておくと、作中に茶畑スポットが西濃の「上ヶ流」、東濃の「白川茶畑」と二箇所存在しており、「白川茶畑」を先に訪れていると「上ヶ流」を訪れたときの主人公の台詞が変わるようになっている。
先に上ヶ流を訪れていた場合は以下の通りのモノローグ。
先に東白川の「白川茶畑」を訪れると――
次の様にモノローグが変化する。
ちょっとした小ネタかもしれないけれど、旅の醍醐味のひとつとして「ある場所で出会って興味を持ったり、知識を得て意識するようになった要素との、別の場所での再会」を重要視している自分にとっては、こうした細かなフラグ回収こそ、旅ゲーとして欠かせない部分だと思っている。
また、DLCフラグについては、「天空の茶畑・上ヶ流」を訪れて記事を書くことが、長野編のDLC追加スポット「天空の里・下粟」の解放条件になっている。
前置きはここまでにして、ここからは旅の模様を語っていこう。
お茶街道と伊吹の湧水
さて、上ヶ流へ行く道中、池田から揖斐にかけての山際一帯がお茶の特産地らしく、途中の風景にも茶畑が多かった。
美濃赤坂の金生山から北上して上ヶ流へ続く山沿いの道が、「お茶街道」と名付けられているほどだ。
このあたりは今から700年ほど前、室町時代からお茶が栽培されていた記録があるという。
道の途中にはところどころ、茶畑を見下ろせる公園や休憩所があった。
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ところで、「上ヶ流」という地名について、風雨来記4作中には表記がなかったのでなんと読むのかは今回訪れて初めて知った。
正解は、「かみがれ」だそうだ。
山を下ったところには「下ヶ流(しもがれ)」がある。
上の「流」と、下の「流」。
「流」がこの地域の元々の集落名なんだろう。
「流」を「れ」と読むのはかなり珍しい。
「りゅう」や「る」はあっても、「れ」というのは地名としても一般語句としてもこれまで聞いた覚えがない。
そういえば飛騨の方では「流」と書く地名にいくつか出会ったけど、「ながれ」と読むことが多かった。
どういう由来でこの地名が出来たのか気になる。
ちなみに、上ヶ流を含む周辺の山間部一帯は「春日」と呼ばれている。
この「春日」の名の由来は、「春日局」だと言う説があるそうだ。
春日局の本名は「斎藤福」という。
「斎藤一族」と「稲葉一族」という美濃を代表するふたつの名家の間に生まれた女性で、父親が明智軍について敗戦したことから若い頃は非常に苦労したものの、不思議な巡り合わせもあってとんとん拍子で最終的に徳川三代将軍・家光の乳母に抜擢され、ついには皇室から「春日局」という女性の最高称号を授与されるにまで至っている。
上ヶ流周辺は彼女の出生地という伝承があるため、春日と呼ばれるようになったという。
そばを流れる「粕川」も「春日」と響きが似ているので語源が同じなのかもしれない。
上ヶ流は、道中けっこう高低差があること、道が狭いことなどもあって、けっこう山深いところにあるように感じた。
実際の距離は平野部から十キロも離れていないので決して山奥というほどでもないのだが、「山奥感」が強いというか。
地理としては滋賀と岐阜の県境に近く、両県にまたがる伊吹山の北麓に位置している。
伊吹山の南麓には関ヶ原を通る「国道21号線」が走っている。
自分が京都から岐阜に入るときいつも通る走りやすい道だ。
勾配は全体的にゆるやかで、低速ギアを必要とするような急坂はない。
そう考えると、山の北側と南側でずいぶん風景が違う印象だった。
一方で、共通点もある。
「周辺のあちこちから綺麗な水が湧き出していること」だ。
伊吹山周辺は、神話時代のヤマトタケルノミコトが病を癒した居醒の泉や醒ヶ井、泉神社湧水などを初めとする、石灰地質由来の良質なミネラルを多く含む水が至るところで噴出している名水の宝庫だ。
(そうした場所にはヤマタノオロチが神として祀られていることも多い。ヤマトと対立した土着一族の痕跡だと考えられる 過去記事)
今回訪れた伊吹山北側でも、あちこちで名水と出会い、そのたびに空のペットボトルに汲んで、水分を補給していた。
なにせ猛暑の最中だったから水はいくらあっても足りないくらいで、本当にありがたい自然の恵みだった。
その中からふたつほど、紹介してみよう。
粕川のほとりにある「二条関白・蘇生の泉」。
室町(南北朝)時代に都の大物がこの地へ逃げてきて見つけたという伝承が由来の湧水地だ。
皇室が南北のふたつに分かれて「自分達こそが正統だ」と戦争を繰り広げていた時代。
あるとき、北朝の有力者一行をこの美濃で奉じた際に、病で出遅れてしまった二条大臣が倒れそうになりながらこの付近を通りがかった。
そんなとき夢うつつの中で「乙女が水を差し入れしてくれた」という幻を見て、従者に周囲を探させた結果発見されたのがこの水場なのだそうだ。
湧水を飲んだ二条関白は「この水で蘇生した」と言葉をもらし、やがて完全復活を遂げて主君と合流することができた――という筋書きとなっている。
ものすごい水量が湧き出していた。
そばには、その水量を利用して小さな滝のようなものも設置されていて、通りがかったサイクリストがシャワーのように全身で水浴びしていた。
特に「水浴び禁止」とは書いていなかったから、そういう用途のために作られた滝……なのかな?
湧水のそばには、クレソンが大繁殖していた。
クレソンは、綺麗な沢で見かけるイメージが強いからか、ついつい本ワサビと同じ様な「在来種(古来から日本に自生していた種)」と思われがちだが、明治時代に食材として持ち込まれたものが全国に広がったもの。
つまりは「外来種の雑草」だ。
地域によっては在来の植物の生育を妨げるとして、積極的に駆除されるところもある。
とはいえ、外来種(日本になかったもの)=悪ではない。
時間がたてば、外来種も土地の生態系に馴染んで在来種と呼ばれるようになる。
突き詰めれば人間だって数万年前に日本列島へやってきた外来種とも言えるし、元々日本には存在しなかったタケや菜の花、スズメやコイなどが今は日本の原風景として受け入れられているように、クレソンも日本の綺麗な水辺を象徴する風景として、馴染みつつある段階にあるのかもしれない。
なんだかんだで自分も、こうやって旅の中でクレソンが生えているのを見つけるとなんとなく嬉しくなってしまう。
これを書いていてふと思いだしたが、風雨来記2作中で、沖縄の湧き水で繁茂するクレソンの話題があった。
たしか、垣花樋川(かきのはなひーじゃー)の取材イベントだったはずだ。
高い山のない沖縄では、安定した水が湧き出すところは非常に希少。
そんな中で、垣花樋川は沖縄県で唯一日本百名水のひとつに選ばれている、水量豊富な水場だ。
その名水を利用して、クレソンを作っている農家が、風雨来記2に登場していた。
実のところ、自然の豊かな土地を旅をする中で、クレソンと出くわすことはそれほど珍しくない。
一定の水温の水が常時供給されるという条件さえクリアすれば、簡単に定着・繁茂する雑草だからだ。
実は気づきにくいだけで、市街地のドブ川なんかにも普通に生い茂っていたりもする。
上流から種が流れて定着したものだろう。
それでも、自分は綺麗な水場でクレソンと出会えたとき、カブトムシを見つけた子供のように、あるいは川辺で大きな魚影を見つけた釣り人のように、毎回単純に喜んでしまう。
それはきっと、知識として、クレソンが「食べられる野草だ」と知っているからだと考えている。
一万年以上狩猟採取で生活していた先祖から流れる血が「獲物だ」と興奮しているんじゃないだろうか。。
さすがに余程食べるものに困っていなければ野の野草を採取していくことはないけれど(土地の権利の問題もある)、野の恵みに対する感性は無くさないように、大事にしたいと思う。
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こちらは教如上人ゆかり・おじゃれの水。
教如上人って誰なんだ。
自分は全く知らない人だったので、軽く調べてみた。
名前からして仏教関連の人っぽい……?
実は戦国時代の大物らしく、wikipediaには詳細な記事が綴られていた。
教如上人は、本願寺一族の人間だそうだ。
本願寺一族は、「仏教系戦国大名」という表現が近いんじゃないかと思う。
戦国時代という時代背景の中で、戦いと政治で信仰という勢力を広げる、武闘派スタイルの人達。
信長・秀吉・家康とも関わりが深い。
彼らは元々は京都の東山を本拠とする一族だったものの、室町時代には衰退。
教如上人の高祖父・蓮如の代で比叡山延暦寺と抗争した末に京都を追い出されて、そこから近江や加賀、美濃、三河、大坂など各地を点々としながら拠点を増やし、多くの信者を集めて巨大な勢力となったそうだ。
彼ら本願寺一族は、現代でのいわゆる「お坊さん」のイメージとは全く違って、「宗教・戦闘・政治・商売全部を行う総合経営者」に近い。
トップ自ら武装して戦場に出、軍を率いる様は武将と変わらない。
違うところと言えば、通常の武将は土地の農民から徴収した税が資金源だが、本願寺の場合は全国の信者たちから冨が集まる。
さらに、信者の農民に指示を出して一揆を起こさせることで他地域の武将の勢力を削ぐ、というえげつない戦略も駆使して戦国時代に猛威をふるっていたそうだ。
本願寺一族は世襲制で、当主は子供をたくさん作り(中興の祖である蓮如は、子供の数27人。80を超えても子を作り続けたことで有名)、各地の武将との政略結婚を重ねている。
特に教如上人の父親である顕如は信長と10年以上戦い続けたため、「信長を最も苦しめた男」という異名を持つ。
その後も和睦したり対立したりしながらも、比叡山延暦寺と違って焼き討ちされることがなかったのは、政治的なバランス感覚も優れていたのだろう。
彼ら本願寺は、信長・秀吉・家康からも、敵に回すと厄介だが味方に引き入れれば利用価値の大きい集団と認識されていたようだ。
そうした流れもあって、教如上人も若い頃から信長と(政治的にも武力的にも)バチバチやりあったりして、父譲りの武闘派だったらしい。
引退した父の跡を継いで本願寺のトップに立った後は、秀吉とは比較的協力関係を築いていたようで、味方として戦に同行することもあれば茶会にも出席したりもしている。
茶人としても有名だそうだ。
現在、京都駅のすぐ近くに「西本願寺」と「東本願寺」というやたら巨大な寺院がある。
西・東は通称で、正しくはどちらも「本願寺」らしい。
京都生まれなので存在だけは知っていたものの、その違い――なぜ同じ名前の巨大なお寺が同じ様な場所にふたつあるのかこれまで分かっていなかったのだが。
その原因こそが、教如上人にあるのだそうだ。
ざっとまとめると次の様な流れだ。
信長が存命の頃。
教如上人が父親・顕如の跡を継いで本願寺のトップに就いた時点ではまだ、西も東もなかった。
とはいえ内部では兄・教如を代表とする武闘派と、弟・准如を中心とする穏健派の対立、派閥争いが起こっていた。
そんな中で穏健派が自分達こそ正統だと秀吉に働きかけ、それを受けて秀吉が教如上人に「10年たったらあなたの弟(穏健派の代表)にトップを譲るように」という約束を取り付けた。
10年後、教如上人は約束通りトップから引退したのだが、裏では自分の派閥のトップとして行動を継続。
やがて秀吉が没し、将軍と成った家康が教如に対して「新しい寺建てて独立しない? 天皇の許可も出たし、土地もあげるよ」と薦めたことをきっかけに、東西の分裂が実現。
これは、本願寺の強大な力を半減・弱体化させるための家康の策でもあったようだ。
家康は三河での大名時代、本願寺の指示による一揆に苦しめられた経験があり、江戸幕府を開いたあとの憂いを取り除いておきたかったと言われている。
これを機に教如上人をトップとする「東本願寺」が成立。
元々あった本願寺は「西本願寺」と呼ばれるようになり、なんともいえない距離感・関係の別団体として今に至っている――という流れのようだ。
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そんな教如は政治的側面から、当時戦略的に重要な土地だった美濃にも頻繁に赴いていた。
「天下分け目の関ヶ原の合戦」が起こる数ヶ月前、石田軍から追われた教如上人が、春日の地に逃げ込んだ。
この時、「潤いの水(おじゃれの水)」に立ち寄り、美味しい水を飲んで身も心もリフレッシュ。
その後、地域住民に助けられて無事逃げ延びることができたそうだ。
この伝承、よくある地方の民間伝承で終わらず、ちゃんと公式に認識されている。
なにかというと、東本願寺の公式オリジナルグッズとして「東本願寺の水」が販売されており、そこにこの「おじゃれの水」が使用されているのだ。
東本願寺第12代 教如上人ゆかりの水:岐阜県揖斐川町春日[おじゃれの水]
慶長5(1600)年8月、教如上人は石田三成軍から逃れるため、岐阜県の山間部に向かい、滋賀県との県境にある国見峠付近の鉈ヶ岩屋で数日間身を隠されました。その途中、休憩の際におじゃれの水を飲まれ、心を潤されたと言われています。
岐阜県の名水「高質の森水」に[おじゃれの水]を定量点滴充填して製造しています。
https://www.higashihonganji-gansyosya.jp/3780/
「高質の森水」というのは多分誤字で、「高賀の森水」のことだと思う。
風雨来記4プレイヤーなら「モネの池」や「星宮神社の矢納ヶ渕」と同じ水源の水、と言えばその綺麗さが伝わるだろう。
地理的には、モネの池から1キロくらいのところで湧いている名水だ。
その水に、おじゃれの水を点滴したものが「東本願寺の水」なのだそうだ。
自分は、お土産物を買ったとき裏の表示を見て、縁もゆかりもない別の土地で製造されていたりするとすごくがっかりしてしまう。
(ある観光地でせんべい菓子を買ったとき、表示見たら自分の家の近所(歩いて5分くらい)の菓子工場で作られていて、あれはがっかりを通り越して愉快だった)
創設者縁の地で採取した質の高い水に、伝承をちょっぴりトッピング。
オリジナルグッズとしてちょうどいいこだわり具合というか、そうそうこういうのがいいんだよ、と思う。
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こういう野外の水場では「生での飲用には適してません」とか「煮沸してね」的なことが書いてあることが多い。
あくまで自己責任の話だけど、自分の場合は「その場所より高いところに人工物がない」かつ「水が目の前の岩から湧き出している」かつ「水温が外気温に比例しない(夏はキンと冷たく、冬はほんのりあたたかい=地中から湧出し続けている)」という条件がそろっていれば、生のまま飲むことがある。
そうでない場合(たとえば水が地面の底から湧いていて泉になっているとか、湧き出している場所が見えないとか、沢水、井戸水、地下水など)は必ず煮沸する。
(もちろん、エキノコックスの心配がある北海道や海外においてはこの限りではなく、煮沸を徹底する)
あくまで自分の場合の判断基準はそうというだけの話で、決して人に薦めるものでもない。
いちおう、そういうスタイルでやってきて今までお腹壊したことがないので、この先問題が起きるまでは自己責任ということでこのままでいこうと思っている。
水との相性は人によって違うので何が絶対の正解、というのはないと思う。
少しでも心配を感じるなら、煮沸か濾過を徹底するのが安心だろう。
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そんな感じで道中水分補給をしながら、急勾配のうねうねカーブを越えて、ついに「天空の茶畑」へたどりついたのだった。
天空の茶畑
道を上りきったところには、数人のおじさん、おじいちゃんたちが交通誘導をしていた。
道中ほとんどすれ違う車などなかったのに、局所的に、この場所だけ車やバイクが数十台停まっている。大人気スポットだ。
後で聞いたことだが、このおじさんたちはこの茶畑の主でもあり、展望台や遊歩道を観光客向けに整備・開放して「天空の茶畑」「日本のマチュピチュ」というキャッチフレーズを考えた仕掛け人でもあるらしい。
茶畑を管理する組合員であるおじさんたち七人が、観光地としてのブランドイメージから名付け、遊歩道や展望台の整備なども含めてすべて地元産、手作りで作り上げたスポット。
それがこの天空の茶畑なのだ。
モネの池のように、訪れた人たちの口コミによって名付けられ、自然と成立していったスポットも素敵だけど、地元のひとたちの創意工夫が大きく実を結んだこういうスポットもとっても魅力的だと思う。
早速、茶畑を見渡せる展望台へと向かう。
管理上の問題からか、入山時刻は16時半までと定められていた。
(冬期は16時までらしい)
この日は「岐阜のピラミッド」金生山にも登っていたため結構時間がおしており、到着時刻は15時過ぎ。
急ぐほどでもないけれど、あまりのんびりしている時間はなかった。
入り口でもらった手作りの地図を片手に、茶畑を一望できる「絶景ポイント」を目指して早速歩き始めた。
風雨来記4作中でも再現されていた、急傾斜ルートとなだらかルート。
行きは急傾斜、帰りはなだらかなルートを選んだ。
……そういえばゲームの中でも同じ選択をしたっけ。
風雨来記4は旅のシミュレーターにもなっているようだ。
「天望台」の看板は、風雨来記4作中で主人公が訪れた頃よりさらに色あせて、判読が難しくなりつつある。
周りには草が生い茂っていて、最初気づかずスルーしてしまった。
道ばたには他にも「天空の遊歩道」という看板もあった。
期待が高まる。
「天空の遊歩道」
なかなか魅力的なキャッチフレーズだ。
そこから少し進むと、またたく間に視界が開けて、空が広がる。
振り返れば、見下ろす眼下に絶景が広がっていた。
しばらく立ち尽くして、ぼーっと眺める。
ぅわっと溢れ出してくる汗を、吹き抜ける風が乾かしていく。
訪れる人はみな、同じように景色にみとれて、立ち止まっていた。
見晴らしの良い場所に感動してしまうのも、人間の本能なのかもしれない。
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さて。
風雨来記4ではここまでで折り返していたけれど、今回はさらに上まで登ってみようか。
散策マップを見る限り、茶畑を見下ろす「絶景スポット=A地点」は、行程のだいたい半分くらいだ。そこからさらに15分ほど登ったところに、岐阜方面を一望できる場所があるらしい。
ここからは傾斜がさらにきつくなっていて、汗が滝のように流れていく。
途中で500mlのペットボトルで持ってきた水を飲み干してしまった。
甘く見ていた。
バイクに積んでる、汲んだばかりの湧水2リットルの方を持ってくればよかった……。
そんな後悔を抱きつつ、先へ進む。
ふうふう言いながら登り続けると、整備された道路に出た。
かたわらには手作りの看板。
岐阜・本巣方面迄 一望出来ます 100M先 天望台
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おー!
面白い風景だ。
左右の山が変則的なファインダーになっている。
逆三角に切り取られた濃尾平野。
ずっと向こうには、金華山も見えた。
何度も岐阜に訪れたせいで、もうすっかりお馴染みになってしまったランドマークだ。
崖を途中でバツッと切り開いたような真っ直ぐな道に、ぽつんと置かれたベンチがシュールでもあり、絵になると言えば絵になる。
ここに腰掛ければ岐阜城まで見えるというロケーションが素晴らしい。
今は山の陰になってしまっているけど、日中ならもっと明るくて開放的な雰囲気だっただろう。
茶畑の天望台は十人ほどの観光客が入れ替わり立ち替わりでにぎわっていたけど、ここは今は自分ひとり。
とても静かだ。
ベンチに腰掛けるリリさんが自然と思い浮かぶ。
上ヶ流を訪れたら、きっとこの天望台まで登って、この景色を眺めるだろう。
そして……きっと、いつもみたいに笑ってる。
…………
この景色を見られて。
ここまで上がってきて良かった。
次回につづく
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