調べ物をしている中で、思考がドミノ倒しのようにつながって、それまで意識もしていなかったものが「自分の中でちょっと意味のあるもの」へと変わることがある。
たとえば、今回は「邪馬台国」について調べていて、「岐阜の田んぼ」につながった。
そんな話をしてみようと思う。
・
・
・
2022年の夏に岐阜を旅した際、東濃の坂折棚田で不思議なものを見かけた。
正直なところ、不思議というより奇妙というか場違いに感じた、というほうが近いかもしれない。
田んぼになんでこんなものが、と思った。
写真には収めたものの、「??? なんだこりゃ」と首をひねったまま今日までスルー……というか忘れていて、たまたま別の物を調べているときに思わぬ角度から「それ」に行き当たったので、こうして記事を書き始めた。
「美しくてのどかな日本の原風景」のような棚田の中で、場違いに感じたもの。
場違い――でも、よく考えてみると、本当にそうなのだろうか。
自分は、どれくらいその「場所」について知っているのか。
そもそも「昔ながら」の「昔」って、「日本の古き良き原風景」って……
具体的には「いつ」の「どこ」なんだ?
前置き:「期待のアンテナ」
自分にとってリリさんとの出会いで得られたものは言葉にし尽くせないほどあるけれど、そのひとつとして、「自分の興味の幅を拡げてくれたこと」がある。
新しいことに興味を覚えたり、昔興味があったのにいつの間にか忘れていたものへの情熱が蘇ったりと、「面白い」と感じられる分野、興味の裾野がずいぶん広がったように思う。
そうやって興味のおもむくまま情報収集をしているとたまに、全然関係ないように思えた全く別の分野の雑多な要素が、思わぬ角度から頭の中で結びつく瞬間がある。
あ、これってあれと一緒じゃん!とか。
もしかして、前に調べた話はこっちの話にもつながるものじゃないか?!とか。
冷静に落ち着いて考えたり客観的に調べてみれば、それはたいがいただの勘違いや思い込みだったりするんだけど、一方で、世の中には答えがないものや、考えること自体に価値があるものだってたくさんある。
むしろそういうものの方が多いかもしれない。
だからこそ、「自分なりのひらめき」や「思考の経路」による「意味づけ」を、大事にしたいと思っている。
なにより思いついた瞬間はワクワクゾクゾクする。
そして、そんな思いつきがときどき、思わぬ出会いや、さらに新しい分野への興味へもつながることがある。
科学的には、ひらめきの瞬間には、脳内でドーパミン※が多く出るのだという。
※ドーパミンは「快楽物質」というのは誤りで、正確には「期待物質」。
「快楽」という結果ではなく、「期待」と「それを上回る結果」(報酬予測誤差)によって分泌されるためで、「学習意欲を増すための幸福感」と捉えることもできる。
「期待」によって脳が活性化し、ドーパミンによる幸福感で「学習」が促進。
その「経験」によってまた次の「予測」を促し、「成長」を促進するという仕組みらしい。
脳というものはよくできている。
美味しいものでも何度も食べると飽きる、綺麗な景色も見慣れると何も感じなくなるのはこのせいだろう。
逆に、何となく入ったお店が大当たりでものすごく良い買い物をしたときとか、何気ない日常の中で驚くような大発見をしてしまったみたいなワクワク感、あるいは試験結果や福引きを回すときのドキドキ・高揚感も、この「期待」という性質によるもの。
極端な話、もしあらゆるものに一切期待をすることがなくなればドーパミンが分泌されることはない。
大きい夢や目標とは別に、「小さい身近な発見のアンテナの感度を上げること」が、日々の期待を保ち続ける秘訣なのかもしれない。
「ご当地 邪馬台国」
記事冒頭で述べたように、ここ一か月ほどは邪馬台国について調べていた。
古くは江戸時代から「邪馬台国はどこにあったのか」という大論争がある。
自分にとっても子供時代からこういうミステリーは好きな分野(徳川埋蔵金とか、ツチノコとかもね)だったけど、最近これについて興味が再燃気味なのだ。
先に言っておくと、自分はこの「論争」に積極的に加わるつもりはなくて、ニュートラルな立場でそれぞれの説の主張を楽しく受け取りたいというスタンスでいる。
邪馬台国伝承というのは、それだけで日本一周の旅ができるほどスケールが大きい。
有名な九州説・畿内説を始め、北は北海道南は沖縄まで全国に「こここそが邪馬台国!」という主張が目白押しだ。
実際に邪馬台国の浪漫を求めて全国各地を旅する人は少なくないし、そうしたガチ勢の大半が「推し邪馬台国」というか、特定の候補地への強い確信を持っている。
そして、「九州説」を聞けば確かに!と思い、「畿内説」を聞けばなるほど!とうなずき、「四国説」を聞けば説得力があるな!と感心してしまうのが自分の立ち位置だ。
真剣に邪馬台国の場所を論じている人からすれば八方美人だと怒られるかもしれないけど、自分としてはいつか決定的な根拠が発見されて邪馬台国の場所が決着するまでは、さまざまな「邪馬台国論」に耳を傾けてこの「日本史最大の謎」を幅広く楽しみたい。
邪馬台国について簡単におさらいしておこう。
まず「邪馬台国」は、日本の正史である「日本書紀」内には書かれていない、三世紀の中国(魏)の書物「三国志」の隅っこでのみ存在が語られる(いわゆる魏志倭人伝)「倭人の国の名前」だ。
日本書紀は本文内で『三国志という中国の書物に、なんか昔、ウチと魏が交流あったようなことが書いてあるらしいね、よく知らんけど。』くらいの温度で触れつつも、「邪馬台国」や「卑弥呼」という固有名に関しては言及せずスルーしている。
そんな魏志倭人伝には、倭国を統括する連合国「邪馬台国」をとりまとめる女王として擁立された「卑弥呼」の国への道順が書かれていた。
ところが、「現代の知識で」そこに「記述されている文面を100%素直に信じた」場合、日本の遙か南の海上に未知の巨大な大陸があることになってしまう。
そこで、様々な人が様々な立場から頭を捻って、文面を解読したり、読み替えたり、解釈を変えたり、書き手や当時の情報源を疑ったり、文化や言語、単位や世界観や考古学的発見を研究比較したりして、それぞれの視点から「邪馬台国はここにあった」「なかった」あるいは「邪馬台国自体がなかった」と説明・主張を繰り広げているのが現状だ。
邪馬台国の場所を考える上で、手がかりはいろいろある。
卑弥呼が連合国のトップに擁立されたのは、倭国大乱――国内で長年にわたって戦乱が続いたことが理由だと書かれているから、卑弥呼が女王になる少し前、西暦200年頃の「戦争・紛争の痕跡」は重要な手がかりになるだろう。
たとえば集落を守る砦や壕などの遺構や、対人武器、戦死したと思われる人骨などだ。
また、「邪馬台国(あるいは女王国)」は約7万戸の人口を誇っていた※と魏志倭人伝に記述されている。
※ちなみに弥生時代の「全国人口」は考古学的推察から約60万人、古墳時代は約540万人と推定されている。
奈良時代の全国人口もあまり変わらず約550万人、大和朝廷の都・平城京で10万人程度。
数字の正確性については諸説あるものの、周辺地域に「大人口を養うための食べ物が確保できる場所」……大平野部が候補地として挙げられることが多い。
さらに、船による大規模交易を行うための「港」の有無も重要視される。
海に限らず、大きな湖や河川の近くなど。
大量の物資・情報を安定して運ぶためには必須の要素だ。
首都圏や地方都市部に一極集中している現代と違い、近年までは「都市よりも地方(農村)の方が人口が多い」のが普通だった。
明治以降でも、広島や愛知、石川、新潟、北海道などが日本の人口1位になったことがある。
大きな港のある場所(大規模流通に便利)や、農地が多い場所、米どころ、あるいはそれらの複合地域が強い事が分かる。
古代ではその傾向はもっと顕著だっただろう。
たくさんの食べ物を確保できる場所だから、たくさんの人が集まる。
たくさんの人が住むことができる。
シンプルな話だ。
だから、邪馬台国の人口が7万戸(仮に20万人)だとするなら、そういう場所を候補地として考えればいい。
といいたいが、そんなシンプルな話でさえも「2000年」という月日を考慮すれば、非常に複雑な問題と化す。
「今たくさん食べ物を確保できる場所」が、2000年前もそうであったとは限らない、むしろそうではない場合も多いからだ。
気候も違えば地形も違う。
日本は、縄文時代途中から弥生の頃は、今よりずっと水浸しだった。
現代では大きな平野部が、2000年前は海だったり、湖沼だったりする。
(奈良も大阪も京都も東京も、縄文時代後半までは水浸しだったと言われ、高台にしか遺跡が発見されない時代が長い)
米も原種に近く、品種が違えば必要とする環境も変わる。
技術も、知識も、道具も原始的なものだけ。
だから「大規模稲作に適した場所」ひとつ考えるにも、歴史学や考古学の他、生物学、地質学、地名学※、言語学、物理学や統計学などの幅広い他分野の知識も重要となってくる。
※「地名」は、他の固有名以上に「変わりにくい」性質を持つ。
地域によっては、1000年の時間経過で地名の90%が耐えて残ることもあると言われている。
たとえば、現在海がない場所でも、海に関する地名が多く残っている土地はかつて海辺だった、あるいは海に関する一族が住んでいた可能性があると考えられる。
例として、内陸県である埼玉県には、「塩」や「浦」「波」など、海に関する地名が多く残っている。
考古学的にも170カ所に及ぶ貝塚が高台で発見されているので、縄文時代には海面が高く埼玉まで海岸線が入り込んでいた、と考えられる。
また、「海」は「大きな湖」のことも指した。
長野県の佐久には、「小海」「海野」「海ノ口」などの地名がある。
これは平安時代以降に火山噴火の影響で一時期に「巨大湖」ができたことによるもので、湖がなくなった後も残り続けている。
湖を「うみ」と呼ぶのは、琵琶湖のある滋賀県などでも同様。
琵琶湖をさす平安時代以前の「淡海」が現代でも「近江」という地名で残っている。
世の中のだいたいのことは地形も、言葉も、常識も、風習も、時代によって変化する。
地名は比較的残りやすいと書いたが、それでも一万年もたてばほとんど残らない。
現代では、プロアマチュア問わず様々な専門分野のひとたちがそれぞれの観点から情報を発信しているので、自分の様な「楽しみたい」という目的であるならば、それら先人達の知見を良い意味でつまみ食いして考えることが、自分なりの「魅力のある邪馬台国像」に近づく手がかりになるんじゃないだろうか。
自分が初めて「邪馬台国」を知ったのはずいぶん小さい頃。
きっかけは漫画だったか、ゲームだったか、あるいはテレビのドキュメンタリーや世界不思議発見!あたりだったかもしれない。
それが尾を引いて、成人後も自然と、邪馬台国候補地を巡ってみる、みたいなプチテーマをもって日本全国いろんな遺跡や土地を訪れたりしていた。
今回は、そんな旅の中で撮ってきた写真と合わせて、いろいろな「邪馬台国説」……日本中にある「ご当地邪馬台国」をざっとまとめてみた。
なお、ここでは「根拠とされる部分だけ」を列挙し、説への否定・反論・問題点に関してはあえて書かないようにする。
興味を抱いた説については、それぞれで情報精査していただければと思う。
九州説
佐賀県:神崎・吉野ヶ里遺跡近辺
弥生時代の大規模遺跡として有名な「吉野ヶ里遺跡」のある佐賀。
学校の教科書にも載っていたしテレビでもよく邪馬台国の有力地として特集していたこともあって、子供の頃からの憧れの場所だった。
写真を見ての通り現在の吉野ヶ里遺跡周辺は平野部が遠くまで広がるが、2000年前は海岸線がこのあたりまであって、吉野ヶ里は「波打ち際の丘陵に築かれた海辺の集落」だった。
海の幸はもちろん、周辺には山の幸も川の幸も豊富で、集落の中には湧き水が複数あったことが確認されている。
本州との交流もあったようで、大和や出雲など他国で作られた弥生土器も多数出土している。
環濠という、戦争のための濠で周辺を守っているのが特徴。
「戦争」を考慮した集落ということ。
はじめて訪れたときは、憧れていた場所だけあって、やはりとてもテンションが上がったものだ。
良い意味で、「弥生時代の雰囲気を体験できるテーマパーク」として大人も子供も楽しめる場所。
縁あって数ヶ月ほど、この吉野ヶ里遺跡が見える場所に住んでいたこともあったので、ちょっとした思い入れもある。
弥生式建物が、夜はライトアップされていて、綺麗だった。
近所にあるとついいつでも行けると思ってしまって、吉野ヶ里遺跡内には結局一回しか行かなかったのが今となっては残念。もっと行っておけばよかった。
この近辺では、七夕伝説で織姫と彦星の橋渡しをするとされるカササギ(カチガラス)をよく見かけた。
日本で生息するのは唯一、佐賀平野のみ。
カササギは、魏志倭人伝にも登場する……いや、正確には「登場しない鳥」。
其地無牛馬虎豹羊鵲
つまり、中国にはあたりまえにいる、「牛、馬、虎、豹、羊、鵲(カササギ)」が倭国にはいない、と記述されている。
佐賀平野のカササギはそれ以降に定着したのか、それとも魏の使者がたまたま見かけなかっただけか。
福岡県:福岡~太宰府~糸島、宗像
福岡の海辺で存在感を放つ「香椎宮」では、卑弥呼と同一人物説のある神功皇后を祭神として祀る。
日本書紀で、卑弥呼=神功皇后を匂わせるような記述があるため、江戸時代途中までは多くの学者に同一視されていた経緯がある。
有名な金印「漢委奴国王」が福岡で出土している。
この金印が贈られた時代は卑弥呼の時代とは違うが、北部九州に大陸と交流のある有力な勢力がいた可能性が高い。
「伊都国から1200里のところに卑弥呼の女王国がある」という魏志倭人伝の記述から、伊都国を現在の糸島だとして、そこを起点に邪馬台国を考える説が多い。
古代からの交通の要衝である太宰府説もそのひとつ。
他に北九州説が根強い根拠のひとつとして、北九州を支配していた土蜘蛛の女性首長が日本書紀に複数名登場することが挙げられる。
このうちの一人が、卑弥呼から女王を受け継いだ、台与ではないか、という説も。
はっきり言えるのは、日本の歴史書の公式見解として、北九州では「女王が珍しくない存在」だったことだ。
世界遺産になった沖ノ島を含む宗像大社――宗像三女神を祀る出雲と関わり深い神社――も、この地域にある。
大分県:宇佐神宮~山国
宇佐は、九州・本州・四国を結ぶ海の交通の要衝に位置する。
宇佐八幡宮の祭神の一柱である「比売大神=宗像三女神」をヒメ巫女=卑弥呼のことだとする説があって、この宇佐神宮自体が、卑弥呼の墓を原型としている、と言う研究者もいる。
実際に、宇佐神宮は皇室にとって特殊な立ち位置の、謎の多い神社だ。
奈良時代にはここの御神託で天皇が交代しそうになった事件があった(宇佐八幡宮神託事件)ほど、「宇佐八幡の神託」が重要視されていた。
その後も「二所宗廟(皇室が先祖を祭祀するふたつの廟)」として伊勢神宮と同格とされていたり、記紀には出てこないのに、実際は日本全国にこの神社の分社が溢れかえっていたり(八幡社:4万4千社)する。
邪馬台国論争の中には、古代からの「卑弥呼神社」がないことを根拠に、邪馬台国や卑弥呼の実在そのものを疑う説がある。
しかしもし八幡神社に祀られているのが卑弥呼ならば、皇室の祖廟、つまり祖先として祀られていることの意味など、想像がふくらんでしまう……
調べ始めると神話と歴史と考古学の境界が曖昧になっていって、際限なく思考の沼にはまってしまいそうなのが宇佐説だ。
熊本県、宮崎県、鹿児島県
宮崎県・鹿児島県は、天照大神や天皇家発祥の地ともされる、記紀神話と関わりの深い場所。
宮崎の高千穂の「天照降臨」や鹿児島の霧島の「天孫降臨伝説」、神武東征の出発地点の日向。
ここにいた一族が後に畿内へ移動して大和王権の元となったとする説も根強い。
数々の神話が生み出されるのも納得するような、スケールの大きな風景が多かった。
反面、考古学的には弥生時代での大きな発見は少ない。
歴史としての邪馬台国というより、神話としての邪馬台国を重ねあわせてみるような、そんなロマンのある説なのかもしれない。
畿内説
奈良県:大和
全国各地の土器が出土している纏向遺跡を中心とした地域を、邪馬台国の都と比定する説。
「纏向は当時の日本列島における最大級の都市遺跡だから、それを築いた勢力のいたこの場所は、倭の国の中心地である邪馬台国にふさわしい」とする。
「この地にあった邪馬台国がそのまま大和王権へ繋がっていった」と考えるのは、名前が似ていることもあってシンプルゆえに強い説得力がある。
纏向にほど近い「箸墓古墳」は卑弥呼とほぼ同時代のものと考えられるので、「これが卑弥呼の墓ではないか」と言う説を唱えるひとも多い。
穏やかでのどかな土地で、あちこちに古墳があり、平野が広いのでどこからでも三輪山が見える。
訪れると、ふとしたときにタイムスリップして邪馬台国を歩いているような浪漫があった。
写真のように、この地域は弥生時代よりも、古墳時代~飛鳥時代の印象が特に強い。
奈良盆地全域は、縄文時代途中までは縄文海進によって湖(汽水湖?)が広がっており、水が引きつつあった弥生時代・古墳時代以降にもまだあちこちに沼や湿地帯が広がっていた。
そのため、日本最古の古道である「山辺の道」は、平野の中で時にうねり、時に山裾に沿って繋がっている(山の辺の道)。
奈良時代ごろにはまだその名残の大きな湖沼があったのか、万葉集では奈良の風景の描写に、なぜか海原やカモメ(ユリカモメ?)が出てくる。
湿地帯に生える植物といえば、葦の仲間。
そう考えれば、日本の古称である「葦原中国」「葦原瑞穂国」は、弥生時代以前、「稲田が広がる前の日本の原風景」を切り取った地名の名残なのかもしれない。
ところで勝手な想像だけど、自分の場合はなんとなく「九州の邪馬台国の卑弥呼」を想像すると「男勝りで物事をはっきり言うばあちゃん」というイメージで、「畿内の邪馬台国の卑弥呼」は「優しそうだけど眼光鋭く腹の中で何考えているか分からないおばあさん」というイメージになる。
「邪馬台国がどこにあったのか」という「場所」に合わせて、そこにいた「人」のイメージまで変わってしまうのが何だか面白い。
兵庫県・淡路島
兵庫は、日本神話における伊弉諾尊の出身地であり、すべての仕事を終えてから移住した土地でもある。
中でも淡路島は近年、弥生時代を考える際にとても注目される。
淡路島そのものに邪馬台国があったというよりも、邪馬台国畿内説や四国説を考える上で、それと深い関係があったのではないか、とこの島が挙げられることも多い。
淡路島北部で、近畿最大級の鉄生産遺跡が発見されているのだが、この拠点がちょうど邪馬台国成立と同じ頃にぱたっと消滅しているのだ。
邪馬台国近畿説、あるいは四国説を考える上では特に重要な場所と言えるだろう。
日本神話において一番最初に生まれた土地であることを裏付けるように、弥生時代の遺跡や磐座(巨石)をご神体にした古い神社が多く、歴史上最古の神社とも言われる伊弉諾神宮の本殿下からは、2500年前の墓石が発見されている。
島の南東部には、おのころ島伝承のある勾玉のかたちをした「沼島」があり、イザナギとイザナミはこの地に降りたって国生みを始めた、と言われている。
旅して印象的だったのが、横幅が短いところで東西5キロ、長いところでも20キロほどの縦に長い島ということもあって、太陽が一日中、いつも身近であること。
海から昇る朝日と海に沈む夕日の両方を見られる場所が多かった。
これだけ大きな規模の島(北海道・本州・九州・四国を含めて国内11番目)で、こんなに「太陽が身近な場所」もちょっと珍しいかもしれない。
また、全国的にも屈指の「古代地名の存続率」を誇る土地としても知られる。
有名どころだけでも、
下司
倭文
神見
蟇浦
安乎
炬口
榎列
阿万
灘土生
五斗長
上から、
くだし
しとおり
しがらみ
ひきのうら
あいが
たけのくち
えなみ
あま
なだはぶ
ごっさ
……難度が高すぎる。
そのほかの説
島根県・鳥取県~出雲説~
出雲を中心に、山陰地方に広がって邪馬台国があったのではないか、とする説もある。
一部では「マイナー説の中の最有力説」とも言われているようだ。
九州とは別ルートで大陸との交易があったことや、四隅突出型墳丘墓や前方後方墳など(大和の古墳とは違う)独自路線の墳墓を造っていたことが、出雲神話とシンクロしていると言われている。
古代からの製鉄地であることや、大量の銅製品が出土したり、卑弥呼が魏から贈られたとされる年代が刻まれた銅鏡が発見されていたりと、とにかく考古学的な資料が多い場所。
出雲地方はあの世へ続くという「黄泉比良坂」や、常世の世界である「根の国」伝承などにかかわる土地だが、民俗学者の柳田國男によれば、こうした伝承は沖縄のニライカナイ伝承と同じで、元々は「地面の下」ではなく、「海の向こう」についての説話だったのではないかという。
日本語では、天を「あめ」とも「あま」とも言うが、もしかしたら「あめ」と「あま」はもともと別の言葉なのかもしれない。
前者は「空の上」にしか使わないが、後者は「空と海」両方を指すからだ。
ところで、もし出雲が邪馬台国だとする場合は、出雲神話には卑弥呼女王にあてはまりそうな神さまはいるだろうか。
大国主や素戔嗚尊が実は女性だったということになるんだろうか。
それとも素戔嗚尊が産んだ宗像三女神……?
新潟・富山・石川・福井 北陸説
高志の国。新潟から富山、石川、福井。
縄文時代の「火焔土器」でも有名な地域。
白山信仰の中心地でもある。
かなり早い段階で大規模農耕が発祥した大平野を擁する土地で、現代でも日本を代表する「コシヒカリ」の大産地だ。
古事記で描かれる八岐大蛇伝承は、大蛇は高志の国から一年に一度出雲へやってきて、生け贄を連れ去っていったというもの。
ここから、素戔嗚尊が治めるまでの国同士の力関係では、
高志>出雲
だったことが伺えるかもしれない。
その後、神話上では立場が逆転し、大国主が高志へ赴いて沼河姫に求婚し、その間に産まれたのが国譲りにも登場する建御名方神と言われる。
高志、つまり北陸地域は農作地のみならず、縄文時代から古墳時代にかけて、「ヒスイ」の存在感が非常に、非常に、非常に大きい。
現代ではダイアモンドの方が高級品だけど、古代ではアクセサリーをつくる上でヒスイは最高級品だった。
古代中国の皇帝の最上級の印である「玉璽」の材質も金や銀ではなく、玉=ヒスイ。
そもそも「玉」とはヒスイのことを指した漢字だった。
(正確には「宝石」のことも指したが、古代中国の最上級の宝石=ヒスイだった)
そして、日本ではヒスイは新潟の糸魚川周辺でしか採れなかった。
現代でこそ国内に12カ所のヒスイ産出地が発見されているけれど、古代に利用・流通されていたヒスイはそのすべてが糸魚川産だということが鑑定の結果判明している。
今から7000年前くらいから1500年前くらいまでの5000年以上の間、「糸魚川のヒスイ」は、北海道から沖縄までの日本列島全域で、最高級の交易品あるいは贈与品として大流通していた。
これは、世界最古のヒスイアクセサリーとも言われる。
まさに全国津々浦々。
縄文時代の大集落として有名な、青森の三内丸山遺跡でも糸魚川ヒスイの装飾品が発見されている。
ところが、そんな糸魚川のヒスイ文化はなぜか奈良時代を境に突然消滅し、記録にも一切残らず、産地どころか日本産のヒスイの存在自体が秘されたまま完全に忘れ去られた。
結果、1200年の長い間、「遺跡からはヒスイが出てくるけど、日本にヒスイが採れる場所なんて記録がない」「大陸から渡ってきたもので、日本で採れたものではなかったんじゃないか」と言うのが常識になっていた。
まるで、現在の邪馬台国の状況のようだ。
それが再発見されたのは、相馬御風という一人の作家(「春よ来い」という童謡の作詞が有名)による、地元の伝承と現実の地名を結びつけた独自研究の成果だ。
伝承では語られ、現実には存在した確たる記録さえ失われたものの1200年ごしの再発見。
このあたりの経緯は非常におもしろいので機会があれば、いつか新潟を旅しながらまた掘り下げてみたい。
琵琶湖説
広い田園地帯が広がる琵琶湖東部。
お米や大豆、麦、野菜の大産地。
琵琶湖を使った水運も盛んだった。
近年になってから、日本最初期の前方後方墳が発見されている、「弥生時代から古墳時代の移り変わり」を考える上で非常に注目される土地。
数年前にも、稲部遺跡という約20万平方メートル、纏向遺跡の原型のような都市遺跡が発見されたことで話題になった。
全体の20%程度しか発掘していない状況ですでに、朝鮮半島や奈良、岐阜や鳥取など幅広い地域由来の土器が出土しており、琵琶湖周辺には奈良盆地と匹敵するくらいの大きな勢力があったと(あるいは大和朝廷の前身だった可能性も)考えられている。
大和とのつながりとして、奈良時代において、一時的にこの地域(現在の甲賀~信楽)に都を移した時期(紫香楽京)ものの、半年もたずに平城京に再遷都したことがあった。
この時近江に建てるつもりで計画していた大仏が、後の東大寺の大仏となった。
琵琶湖東部は、飛鳥・奈良時代の古道から、江戸時代の中山道及び東海道、そして現代の国道1号線に至るまで、西と東を結ぶ陸路の要衝であり続けている。
邪馬台国近江説をきっかけにした滋賀県守山市の卑弥呼コンテスト
四国説:阿波・讃岐・剣山など
邪馬台国は阿波にあった、とか剣山の麓にあった、などとする四国説の知名度もなかなか高いようだ。
魏志倭人伝では邪馬台国からは辰砂(朱い水銀塗料。別名:賢者の石)が出るとしているが、徳島県(若杉山遺跡)では実際に弥生時代に辰砂を採掘していた。(他には三重県の一カ所のみ)
また、大和よりもさらに古い時代の古墳(萩原墳墓群)が発見されていることもあって、考古学的な観点から見ると四国邪馬台国説は、決して荒唐無稽な説ではない。
近隣では八倉比売神社という石を用いた特殊な祭祀が残る神社があり、これが卑弥呼の墓だとする説もある。
あと――
琵琶湖説の守山市と同様に、徳島県でも商工会議所が自治体や地元企業と一緒に「卑弥呼フェス」をやったり、邪馬台国徳島説をテーマにした映画を作ったりしている。
商工会議所内に熱心な邪馬台国オタクがいるんだろうか。
たのしそう。
おそらく、参加している人の大半は「徳島に邪馬台国があった」と本気で考えているわけではないだろう。
こうやって、町おこしとしてポジティブに邪馬台国の謎を楽しんでしまうというのも、ひとつの正解かもしれない。
京都府・丹後王国説
天橋立の根本にある元伊勢・籠神社は、「天照大神」の孫である太陽神を祀る神社。
同時に、元伊勢の名前の通りに、かつてこの神社を経由して「天照大神」と「豊受大神」が伊勢へと移ったことが日本書紀に記されている。
伊勢神宮外宮に祀られる「豊受大神」は天照に食べ物を提供する役目を持つ女神で、元々はこの丹後の土地神とされる。
伝承では、天から稲作をもたらした天女だったとも月の女神だったとも言われている。
名前からの連想で、天照大日孁尊(天照大神)=卑弥呼、豊受大神=台与なんじゃないかという論説もある他、「あま」という言葉は「海」とも書くことから、古代から元伊勢・籠神社の宮司を務め続ける一族・海部氏や、この地に伝わる「海の向こうへ行った浦嶋子伝承」と結びつけて、大陸との関わりも示唆されている。
考古学的にみても、丹後では特に弥生時代の鉄器導入が、出雲を含めた他地域よりも早い。
当時の墳墓からは、同時代の大和の有力者の墓でも出てこないような、大量のガラス製品や古代中国の青顔料、水晶製品、紀元前一世紀の中国貨幣などの珍しい出土品がたくさん発見されている。
中には魏から卑弥呼へ贈られた100枚の鏡のうちのひとつではないか、と言われる銅鏡も。
古代の丹後には一時的にせよ、大陸と独自の接点を持つ、最先端文化を持った勢力がいたのだろう。
位置的にみれば、これまで挙げた北陸・出雲・大和の三勢力を結ぶ重要な中間地点でもある。
吉備(岡山県)説
大和朝廷と長く対立構造が続いていたことが、日本書紀にも記録されている地域。
畿内勢力と九州勢力の中間に位置する陸路の要衝となる。
卑弥呼の邪馬台国と同時代に、楯築墳丘墓と呼ばれる、前方後円墳の原型とも言われる独自墳墓が建設されている。
伝承では、この古墳は温羅という古代の鬼との戦いにそなえて築いたものとされる。
これが桃太郎伝説の起源という説もある。
山陽は、瀬戸内海という特殊な立地環境もあってか、九州とも近畿とも出雲とも大陸とも、似てるようで少しずつ違う、独特な信仰・祭祀の痕跡が多く残る場所。
邪馬台国の時代、他の地域では銅矛や銅鐸、銅鏡など銅を使った祭祀がブームだった頃、岡山ではバベルの塔みたいな土器を考案して盛り上がっていた。
この塔のような土器が古墳時代の埴輪につながったと言われる。
記紀における長い戦の記載、備中と備前で古墳の形式とそれが築かれた時代が分かれていることから、ここが「邪馬台国」と「大和王権」の国境、勢力争いの境だったのではないかと考える研究者もいる。
訪れてみると、確かにちょっと空気感が違うというか、なつかしい感じの土地なのにどこか異国情緒もある伝承や謎のある遺跡が多い。
現在発見されている日本最古の「栽培稲(水田ではなく陸稲と思われる)」は、岡山県の朝寝鼻貝塚で発見された約6000年前のもの。
他にも数カ所、岡山県内では縄文時代の稲作の痕跡が発見されている。
これらの稲は中国南部原産の品種とも言われ、吉備(岡山)周辺が縄文時代から「海路」を使った大陸との交易ルートがあったことを伺わせるものだ。
琉球説(沖縄県)
魏志倭人伝を現代の知識でそのまま素直に読んだら沖縄に到着する、として最近浮上した「邪馬台国沖縄海底説」。
魏志倭人伝の中の記述が南国の風俗に近いことなどを根拠にする。
(裸足や全身入れ墨、一年中温暖な気候など)
この説では、邪馬台国の時代には今より沖縄の土地は広かったとし、沖縄は何度も隆起と沈下を繰り返しているので今は邪馬台国も海の底にあるとする。
有名な与那国の海底遺跡も、昔は地上にあった遺跡が海面上昇で海底に沈んだのだと主張している、ロマンのある説。
沖縄に伝わる理想郷ニライカナイは、海の向こうの神の世界。
出雲説でも書いたように民俗学者の柳田國男曰く、沖縄の「ニライカナイ」と本土の「根の国(黄泉の国)」は同一で、自分達の「根」、生まれてきて、そして帰る場所を指す言葉。
遺跡からの出土品によって、縄文時代から日本列島との継続的な交易があったことは間違いなく、琉球に伝わる創世神話でも、ニライカナイから海を越えてやってきた女神アマミキヨが久高島に上陸したところから世界が始まっている。
その後島民が増えたためにさらに食べる物を求めたアマミキヨが、ニライカナイの神へ祈願したことで沖縄に稲がもたらされたという。
琉球では狩猟採集文化が本州よりも長く続き、日本本土の鎌倉時代くらいまでが神話時代。
当時本土からやってきた人達(たとえば源氏・平家の武士一族など)が文化を伝え、「神様」として琉球各地で伝説になっているため、それよりさらに古くからあった神話との区別が難しい。
離島毎に、大きく違った祭事形態や創世神話を持つことも多く、南洋の海洋民族由来と考えられる伝承も混在している。
北はニシ(古、祖先がやってきた方向)、南はフェー(風)、東はアガリ(日昇)で西はイリ(日入)と呼ぶなど、方角に関して本土とは違う島国ならではの独特な言い回しを持つ。(おまけに島ごとにさらに違ったりもする)
さらに、古くから琉球にあるヲナリ信仰(男にとって、姉や妹は神的な霊力を与えてくれる存在)や、聖地では女性による祭祀が受け継がれているなど、マジックリアリズム(現実の中の魔術の同居)が未だに深く根付いている土地である沖縄は、「邪馬台国の卑弥呼」のイメージに重なるものもあるかもしれない。
・
・
・
以上、主要な説をざっとまとめてきたが、他にも北海道を含めた全国各地、あらゆるところで邪馬台国説は唱えられている。
海外のフィリピン説やインドネシア説もあるし、果てはエジプト説、南海のボートピープル説、ムー大陸説まで、人間の想像力や発想力は留まるところをしらない。
そして一見珍説と感じられるようなものでも、語る人のその情熱からついつい詳しく聞き入ってしまうこともしばしばなのだ。
そして……
もちろん、岐阜もまた、邪馬台国論争とまったくの無関係ではない。
「岐阜と邪馬台国と…」
先日のリリさんの記事内で、樫森神社の裏山にある「王の墓」について書いた。
ちょうど、魏志倭人伝で書かれた卑弥呼の女王時代と同じ時代のものだ、と。
↑この遺跡がそれだ。
いわゆる「古墳」文化が始まる直前の、天然の岩を棺として利用した「王」の墳墓。
埋葬当初はこの上に土が盛られ、周りの木々は伐採されて、濃尾平野を一望できたことだろう。
西日本の支配者層との関係性を伺える出土品が発見されている。
実は、邪馬台国連合と対立していた勢力「狗奴国」にあたるのが東近江・岐阜・尾張を中心とした「東海地域」ではないか、と言う説を主張している研究者たちがいる。
その説によれば、橿森神社裏山の遺跡は「狗奴国の王」のものだとか。
地名としては、現在の岐阜市内で岐阜駅の南側の地域「加納(旧・稲葉郡加納町)」が、「狗奴」の名残であるとしている。
「邪馬台国だった」ではなく、「邪馬台国の敵対国だった」という立ち位置の主張なのがなかなかおもしろい。
参考
謎の狗奴国に迫る
笠山古墳は濃尾平野最古級か
卑弥呼と対立の男王国は岐阜にあった
狗奴国-wikipedia
大垣市の周辺では、「卑弥呼が女王をしていた時期(西暦230年頃~250年頃死去)よりも少し前の古墳(西暦200年前後)」が見つかっている。
大和の「前方後円墳」とは別勢力の、濃尾平野を起点に広がった「前方後方墳」だ。
琵琶湖説でも挙げたように、岐阜から滋賀にかけての古墳成立や大規模な集落跡は、奈良の纒向遺跡よりも「時代が古い」ことになる。
このことから、元々この地域にいた(前方後方墳を造っていた)勢力が、「なにか」に追われる形で奈良盆地へと移って大和を開いた、とか、はたまた東海勢力と畿内勢力が手を組んで「連合国となった」のではないか、と言う説もあるようだ。
邪馬台国との関連はともかく――
弥生時代から古墳時代の過渡期において岐阜が、「全国的にもかなり早い段階で前方後円墳を建築した大きな勢力の支配していた土地」なのは確かだ。
その勢力がなんと呼ばれていたのか、我々の知るものなのか、そうではないのかは、また別のはなし。
こうした科学的調査での結果から、神話・伝承、その元となった歴史、史実、あるいは人と土地の関わりを連想していくのが自分はとても好きだ。
「説得力」と「ロマン」。
「理性」だけでも足りない、「感性」だけでも物足りない。
自分にとってはどっちも大事にしたい要素。
両者のちょうどよいバランス、そこに生まれるシナジーこそが自分の興味の肝要なのかもしれない。
ところで、すでに書いたとおり、邪馬台国の卑弥呼を、日本神話の最高神である天照大神に重ねる説は大昔からある。
卑弥呼は個人名ではなく「日の巫女」という役職名を指すという説もある。
また、「卑弥呼の死」と「日本で皆既日食が二年連続で起きた時期」(西暦237年、238年)が重なっているとも言われる。
そして、天照大神もまた、太陽神でありながら巫女としての性格も持ち、さらには岩戸隠れという日食をなぞらえたような神話をともなっている。
この時の日食が見られた場所、時間は諸説ある。
九州の一部でだけ見られた(そして日食のまま日が暮れた)とする説から、東海や、北陸でだけ見る事ができたという説。
現代科学でも、1800年前の正確な太陽と地球の軌道シミュレーションを行うのは難しいらしく、未だ議論中らしい。
もしかしたら、岐阜も、当時の「皆既日食エリア」内だった……かもしれない。
というのも、天照大神の「生誕地」とされる場所が、岐阜県の東部にあるのだ
「太陽神の生まれ故郷」
名古屋テレビの特集
ということで、邪馬台国について調べる中で自分の興味は次に、岐阜に伝わるらしい「天照大神生誕伝説」へと移った。
それで、今度はこれについて調べてみた。
前回の記事で、「天照大神の岩戸隠れ神話」になぞらえながら「リリさんは太陽のように面白いひと」と書いた。(平安時代以前の「面白い」の意味は「世界が眩しく明るい」だ)
それは作中主人公にとってもだし、そしてプレイヤーである自分自身にとってもという理由で。
あの結論は偶然の産物というか、別に最初からそういう結論を持っていたわけではなく、記事を書いている中で自然と言葉になったもの。
書きながら、「ああ、自分はリリさんをそんな風に思ってたのか」と気付いて感慨深く思ったものだ。
文を書いていると、自分でも思いも寄らないものが湧き出してくることがあって、そういう体験はとても楽しく、面白い。
表現することの醍醐味なのかもしれない。
そんな「面白いリリ」と岐阜で出会った場所のひとつ、馬籠宿。
画像中央やや左よりに見える高い山が、美濃最高峰である「恵那山」だ。
馬籠の展望台でリリさんと一緒に眺めていたあの恵那山が、岐阜県における「天照大神・生誕伝説の地」。
そもそも「恵那」という名前自体が、天照大神の誕生にちなむものだというのだ。
恵那山の麓には、「恵那神社」という神社がある。
主祭神は伊邪那岐大神と伊邪那美大神。
平安時代の全国神社名鑑である「延喜式神名帳」に記載されている歴史の古いお社で、ご神体は「恵那山そのもの」。
この神社に伝わる伝承では、ここで、イザナミがお腹を痛めてアマテラスを産み落としたとされている。
(ちなみにアマテラスは、古事記ではイザナギの左目から生まれたとされるが、日本書紀ではイザナミが産んだとされる)
子供を産んだときに残る「へその緒」は現代でも記念として大事にとっておく家庭は少なくないが、古くから「へその緒を含めた胞衣(胎盤)」を、「子供の分身」「子供の成長を守るエネルギーの根源」として特別な扱いをしていたらしい。
時代や地域によって形態は違うものの、胞衣は儀式にのっとって大事に埋葬され、その場にいる者は笑顔で出産のおめでたさを祝った。
参考:胞衣について
参考:胞衣の語源について
アマテラスを産んだイザナミも同じように、胞衣を埋めたという。
それがここ、恵那山だというのだ。
イザナギとイザナミは夫婦そろって、東山道(中山道ができる以前からある古道)を通って長野側から神坂峠を越え、美濃に入ったところで、出産。
イザナミは、天照大神を産み落としたあと、胞衣を山に埋めた。
胞衣を埋めた場所だから、「胞衣山」。
「胞衣山・胞山」は恵那山の古い呼び方で、今でも、「胞山国立自然公園」などにその名前が残っている。
また、中津川市内にはイザナミが胞衣を洗い身を清めたとされる「血洗池」や「血洗神社」、天照の産湯に使ったとされる「湯船沢」、出産に疲れた身体を休めた「腰掛け岩」など、伝承に関する地名が点在している。
この伝承の中のイザナキ、イザナミ、アマテラスは、まるで人間のように描かれているが、これが明確に記載されている最古の資料は江戸時代中期からで、それ以前いつ頃から語られていた伝承なのかは不明だそうだ。
古代からあったのか、古事記が大ブームになった江戸時代に地元民話などと結びついて習合した割と新しい神話なのか。
考古学的見地から確かなのは、このあたり……恵那山やその周囲(神坂峠遺跡など)が、古代から特殊な祭祀がされていた特別な場所だった、ということだ。
邪馬台国や日本神話に限らず、世の中は100%の解を出せないものだらけだ。
単純な○か×かで分けられるものは少ない。
無神論者が多いと言われる日本も実際はそうではなく、ほとんどの人が科学的根拠を信じつつも、日常の中でゆるーく神様仏様を信じたり、ご先祖様の霊や、死後の世界を思ったりしている。
本当に無神論者ならば、お墓やお葬式も必要としないだろうし、物に「御」や「さま」をつけて敬ったり(「ご飯」だったり「お日さま」だったり)、ちょっとしたお守りや願掛けも必要無いのだが、そこまですべてに割り切っている真の無神論者はごく少数だろう。
日常生活の中に漠然と信仰がとけ込んでいて、それがあまりにも当たり前すぎて、普段は意識に昇らない。
そんなゆるさが日本文化の根底にあるように思う。
誰に特別教えられた、ということもないのに、自然と。
これはけっこう、不思議なことだ。
棚田と「ペトログリフ」
さて、恵那山と木曽川を挟んでお向かいに、笠置山という山がある。
リリさんと並んで眺めた坂折棚田の風景の、ちょうどど真ん中!にたたずむ山がそれだ。
この笠置山も恵那山と同じく伊邪那岐命、伊邪那美命を主祭神として祀っているのだが、それだけではなく古くから天候の神社として信仰されてきたそうだ。
岐阜県神社庁ホームページ
若し晴雨不正の侯に遭遇すれば、遠近の農民来て其の鎌を請ひ晴雨を祈るに果たして霊験あり。依りて各地方の農家一般の崇敬最も厚し。
日照りや長雨が続くとき、近くからも遠くからも農民がやってきて、鎌を使って儀式をすると天候回復の御利益があった。農家の崇敬がとても厚かった。と。
笠置山と正面に向かい合うこの坂折棚田のひとたちも、きっと例外ではなかっただろう。
笠置山は現代においても、「その筋ではちょっと有名なパワースポット」らしい。
笠置神社の天気乞いの儀式と関係があるのかわからないが、山中にピラミッド型の磐座や、記号や絵のようなものが刻まれた岩「ペトログリフ」が大量に転がっているのだ。
ペトログリフ、というと大層な言葉だけど、日本語に訳すと「ペトロ=岩」「グリフ=文字」。
「岩に刻んだ文字や記号らしきもの」をさす、それだけのシンプルな言葉だ。
じゃあ日本語で「岩刻文字」でいいじゃねえかと個人的には思うのだが、名付けた人がペトログリフの方がロマンがあると感じたのかもしれない。
(厳密には「ペトログリフ」は岩に「刻んだ文字」を指し、「ペトログラフ」は岩に「描いた絵」を指すが、日本では混同されることが多い)
以前から日本のあちこちを旅する中で、時折こういう線刻文字遺跡を見る事があった。
特に印象的なのは、北海道余市の国指定史跡フゴッペ洞窟だ。
これは結構インパクトがあるので興味がある人は是非確認してみてほしい。
映画やゲームに出てくる古代の壁画ムードがたっぷりだ。
とはいえ、フゴッペのように閉ざされていた洞窟や、土に埋もれていた遺物と違って、「野外で雨ざらし風さらしの岩石の線刻がいったいいつ刻まれたものなのか」を測定するのは現代科学では難しいらしい。
科学的に語れないので、先史時代かもしれないし、江戸時代かも知れないし、昭和の誰かの悪戯なのかもしれない、というあらゆる可能性が重なり合った曖昧な状態だ。
なので論理を重んじる専門家はあまり注目しないが、感性を重んじる愛好家はパワースポットとして意味を見出す。
邪馬台国と同じで、「はっきりわからない」からこそのロマンを楽しめる余白がある、とも言える。
仮に3000年以上前の縄文人の手によるものとしても、岩に刻まれた線や絵単体でどれくらいの価値があるのかは、なかなか微妙なところだ。
たくさんの人の間で使われていた文字なら世紀の大発見だが、「そこにしかない」線刻ならば、新しくできた石器の斬れ味を試すためになんとなく刻んだだけのものかもしれない。
嫌なことがあって苛立ちのあまりに岩に適当に八つ当たりしたあとかもしれない。
(小学校の頃の自分も、アスファルトやコンクリートの壁に硬い石で落書きや○×ゲームをした覚えがあるし)
風雨来記4でも、とあるお寺の壁に大正時代のしょうもない落書きが残っていることが触れられていたが、昔も今も「落書きできそうなスペース」を前にした人間がやることはあんまり変わらないんじゃないだろうか。
ただ、「古くから雨乞いの信仰を集めていた記録がある山に存在するペトログリフ」に関しては、時代の新旧はともかく、雨乞いの祈りをこめて誰かが刻んだもの、と考える方が自然な気もする……。
そんなところまで考えたところで、
「ああ、そういえば」と思い至った。
笠置山からほど近い、坂折棚田。
旅で訪れたときそこで見た、よく分からない岩と、案内看板。
あれは、これだったのか。
棚田の周囲や田んぼのまっただ中に点在する、石の遺物。
いつの時代の誰とも分からないひとたちが、雨乞いを願って、置いたり、掘ったり、刻んだりしたものだと言う。
古代から長く続いていた信仰の遺構なのか。
それともそんなに古いものじゃなく、ここの田んぼが築かれて以降に自然に生まれた民間信仰の形なのか。
あるいは現代人の「勘違い」なのか。
この坂折棚田が築かれたのは大坂冬の陣のあと、今から400年ほど前のことだそうだ。
風雨来記4作中でも語られた通り、名古屋城の石垣を築いた「黒鍬」と呼ばれた職人たちの手によるものと言われる。
その後、地元の人達が補修・改築し続けて、今日の棚田の姿がある。
もちろん、棚田が出来たのが江戸時代ということで、それよりずっと昔、縄文の頃から人が暮らしてきた場所。
元々この、中野方(なかのほう)というちょっと不思議な読み方をする山間の土地では、笠置山に限らず、昔から山や道ばたでペトログリフが発見されてきたそうだ。
だとするなら、この地域では「石」への信仰は当たり前というか自然というか、むしろありきたりのことだったのだろう。
そもそも――――、今自分達が当たり前と感じている神道の作法は、明治時代に整備されたものが多いと言う。
たとえば、お参りの際の手水や賽銭、二礼二拍手一礼の作法は全国で統一されているが、江戸時代までは神社毎に参り方も祈願の仕方も千差万別、八百万にわたったという。
(今も一部の神社、たとえば伊勢神宮では一般人のお賽銭や祈願が禁止だし、出雲大社では二礼のあとは四拍手、お参りも正面ではなく本殿の左側からも行ったりする)
明治になる前は、国家的な神道とは別に、仏教や、その土地土地に根付いたさまざまな信仰が今以上に濃厚に、密着して、共存していたらしい。
雨を願って石に呪文や印を刻んだり、変わった形の岩を見つければにしめ縄を巻いて願掛けをしたこともあっただろう。
日常の中の思いつきや思い込み、偶然や生まれる信仰のかたちもあったかもしれない。
「もの」や「場所」、「出来事」に意味を見出すのは、そこに生き、それを見て、感じ、思う「人の心の動きから」なのだ。
土地の神さま「産土神」
日本の神というのは、天照大神、大国主命、素戔嗚尊……のように、神話伝説で活躍する、名前のある神さまばかりではない。
米粒ひとつにも神さまが宿る、物にも場所にも神さまが宿る、そんな日本独特の自然信仰「八百万の神さま」のほとんどは、「名前のない神さま」たちだ。
坂折棚田から車で10分ほどの笠置峡に、「河合神社」という神社がある。
風雨来記4でもツーリングシーンでちらっとこの鳥居が見えたかも……しれない。
河合神社の主祭神は「天照大神」「豊受大神」「須佐之男」だと記されている。
それ以外の祭神にも、白山姫命(白山信仰)を始め、菅原道真(天神信仰)、応神天皇、大己貴大神(大国主)、大山祇命(山の神)、笠置大神(タケミナカタ)などを始め、ちょっとあからさまなほどに名だたる神様が多数並んでいる。
どうしてこんなオールスターみたいなかたちになっているかというと、明治時代の廃仏毀釈が理由らしい。
この神社は古くから地域で信仰されてきた地域の神さまで、明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈の際に国から「村社」を用意するように言われて、村内の山野や道ばたのあちこちにあった産土大神の祠を集めてまとめて、「河合神社」としたのだそうだ。
その際に、有名な神さまたちと同一視して、名前をつけて祀ったのだろう。
産土神とは、神話に出てくる神様ではなく、いわゆる「土地神さま」のことだ。
土地を作り、守る神であり、その土地に生まれた者の守り神、氏神でもある。
お話に出てくる、日本神話の名前のある神様の多くは、皇族や氏族・豪族とひもづけられて「○○氏の祖神」という側面を持つ。
有名なところだと、皇族の祖神が天照大神、藤原氏なら天児屋命、諏訪氏なら建御名方神、三輪氏なら大物主……というふうにだ。
中には、勝手にお気に入りの神さまの子孫を名乗る例も多く、古代から社会問題になっていたそうだ。
日本書紀でも、これを正す裁判の逸話が残っている。
一方で、産土神、産土信仰はそうした一族の「血縁」ではなく、「地縁」に基づくもの。
歴史には登場しない、その土地に住む一般庶民たちにとっての地域に根ざした神様だ。
産土神は、自分の土地の人間を、生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。
人も土から生まれると言う考えから、出産の神様としても信仰されたという。
たぶん、日本の原始的な「神様」観は、こうした産土信仰が近いのかもしれない。
ルーツであり、生活の中で身近にいて、心に寄り添ってくれる地元のカミサマ。
誰かに教わるものというより、人々の生活の中から必要とされて生まれてくる信仰。
明治時代に神道が整理整頓されて洗練される以前はきっと、「神社」か「お寺」かではくくれない、神か仏かの区別も曖昧なたくさんのカミサマが、山野路傍の至る所に祀られていたのだろう。
その名残は、坂折棚田で見る事ができる。
この写真を撮った当時は「なんだろう、あの石」という不思議な気持ちだった。
それでもやけに強く目を引かれたことを覚えている。
田の神信仰。
稲が無い状態だとこうなっているようだ。
これまで、田んぼの風景を見た時つい、「日本の原風景という型」にはめてひとくくりにまとめてしまっていたけれど……
もちろん、それ自体は悪い事じゃないと思うが、そのせいでこの「田の神さま」のように、見逃してしまっていることもあるかもしれない、と今回思った。
田の神、山の神、
アエノコト、道祖神、先祖祭祀……辿り始めるときりがない。
町や、村や、集落。
一族、仲間、あるいは親子や夫婦。
多様な関係の中に生まれ続ける、無数の小さなカミサマたち。
現代日本人の遺伝子の12%程度が、縄文人由来と言われる。
ことさら教え込まれることもなく、生活の中の身近なものやことにカミサマを「見つける」ことができる日本人の感性は、案外そんな12%のご先祖様ゆずりの宝物なのかもしれない。
きっと、その土地の気候やなりたち、歴史、そこに住むひとたちの価値観や伝承、あるいは旅人たちがもたらした様々なものによっても、同じ様でちょっと違う、「パラレルワールドみたいな日本の原風景」が、地域ごと、時代毎、家族ごと、もっと言えば人の数だけ、無数に存在しているんじゃないだろうか。
まとめ:「なんじゃもんじゃ」な原風景
笠置山には、巨石やペトログリフ以外にも、風雨来記1をプレイした人ならなつかしい「ヒカリゴケ」が生息していて実際に観察することもできる。
また、ある意味で石以上のミステリー「なぜか日本列島において対馬と東濃周辺にしか自生していない謎多き植物ヒトツバタゴ」の貴重な自生地でもある。
ヒトツバタゴは、江戸時代末期まで「名前」がなかった幻の樹で、「なんじゃもんじゃ」とも呼ばれている。
「一葉タゴ」の名通り、当初は発見した人がタゴ(トネリコ)の一種だと思ってこう名付けた。(実際は同じ科なので親戚関係)
なぜトネリコがタゴと呼ばれるかというと、新潟や富山のこめどころにおいて、田んぼになくてはならない存在だったから。=田子。
水田の横にたくさんトネリコを植えて、そこに刈り取った稲穂をかけて干す。
北陸地域では「昔ながらの田園風景」と言えば、田んぼとトネリコがセットだった。
画像検索
田んぼのみならず、トネリコ属はよくしなり、丈夫なため、縄文時代から木槌や建材に使われたり、斧や槍などの柄にも利用されていた。
現代では、たとえば野球の木製バットの最高級素材は、トネリコ(アオダモ、アオタゴ)を使ったものだ。
神事でも、最近だと令和天皇即位の儀式で、北海道産のトネリコ(ヤチダモ)が「鳥居」として使われたという。
トネリコ属はタゴの他、タモとも呼ばれるが、これは「魂」が語源という説があるとか。(他には田んぼに植える=「田茂」や、丈夫でしなやかでよく「たわむ」から、とも)
ヤチダモは、北海道アイヌ文化でも重要な植物で、感情があり人の会話も理解するとされる霊木とされ、家や船、川の堰や儀式のための子熊の檻、または薬など日常的に利用されていたそうだ。
アイヌの丸木舟
ヤチダモ 美唄市ホームページ
縄文草創期から今までの1万7千年のどこかのタイミングでは、現代の「桜並木」や「竹林」、「海辺の松」※のように、こうしたトネリコ属が「日本の原風景」を象徴する樹であった時代もあったのかもしれない。
※桜も松も竹も少なくとも縄文時代には存在していたが、それがまとまって見られる「並木」や「林」の姿はいまほど「どこでも見られるもの」ではなく、むしろ「レア風景」だった。
そして、同じトネリコ属であるヒトツバタゴも、稲作と関係してこの土地で古くから大事に利用されていた、あるいは信仰や移住と関係して大昔に大陸から持ち込まれた、という可能性もある。
見慣れた樹に似た、見慣れない樹として。
五月には、雪のように真っ白な花がいっぱいに咲き誇るそうだ。画像検索
今回触れた岐阜の古墳や恵那山も含めて、あらためて訪れて巡りたい。
行きたい場所、見たいものが、また増えた。
コメント