祇園祭と「京都ど真ん中の池」

京都が京都になる前の旅

7月24日は、祇園祭の最終日だった。
今年は以前から興味があった「祇園祭発祥の地」を訪れてみたので、これについて書いてみようと思う。





祇園祭って何のお祭り?

あなたは「祇園祭ってどんなお祭りなの?」と聞かれたら、答えられるだろうか。


「日本三大祭りのひとつ」
「1000年以上の歴史がある」
「国内外から大勢の観光客が訪れる夏のイベント」



ちょっと詳しい人なら、


「京都の祇園にある八坂神社のお祭り」
「疫病退散の神事」



というふうに説明できるかもしれない。
あるいは、


「むかしは祇園祭中はきゅうりを食べるのが禁止だった」
「祇園祭が終わると、梅雨も明け、本格的な夏がやってくる」



なんて雑学を披露する人もいるかもしれない。
3年前、風雨来記4と出会ってこのブログを始めたころの自分の知識はそのあたりだった。
京都に生まれ育ったからと言って、特別に興味がなければそんなものだろう。


その後あちこち旅をするようになり、京都についても少しずつ知識を深める中で、祇園祭のはじまりを調べると、自分が追いかけている「京都が京都になる前」のこの土地の姿が見えてきて、とても興味深かった。











祇園祭は日本三大祭のひとつと言われるくらいとても有名なお祭りで、日本人のほとんどがその名前を知っているだろう。
その一方で、何のお祭りなのか、どういう理由で始まったのかまで知っている人はほとんどいないんじゃないだろうか。


祇園祭は平安時代がスタートして数十年経った頃、「国家的な防災事業」としてはじまっている。
平安京だけでなく、日本という国そのものを存続させるために執り行われたプロジェクトだ。




祇園の御霊会

祇園祭が始まるまでの経緯を簡単にまとめると、以下のような流れになっている。



①もともと京都盆地は、周辺を山に囲まれていることから湧き水の多い湿地帯だった。
その上、大きな河川にはさまれているせいで洪水も多発し、水はけも悪い。
おかげで稲作に向かず、開発も進まず、「ほとんど弥生時代も終わろうかというころに山裾でやっと稲作がはじまった」というレベルのど田舎だった。





②流れが決定的に変わったのは古墳時代の秦氏という一族の到来で、彼らの「川をねじ曲げる」ほどの土木技術によって京都盆地の開発が急速に進行。
居住可能地、耕作可能地が激増したことで人口が急増し、わずか2、300年の間に「遷都の候補地」に挙げられるほどの「国」へと変貌してしまう。





③ところ変わって、奈良時代の平城京では謎の疫病が蔓延。
一説には、当時建てられまくった建造物(大仏や寺社)の装飾や加工に「大量の重金属」を使用したため起こった「我が国最初の公害」だったとも言われる。

そんな病や政治情勢の変化などもあって、遷都が計画されるようになり、実際に何度も実行された。
「奈良時代」というと、平城京にずっと都があったように勘違いしてしまうけれど、恭仁京(現在の京都府南部)、難波京(現在の大阪府)、紫香楽宮(現在の滋賀県)というふうにころころ首都が変わっていた時代だった。




④そうした中で、当時中央で最強の権力を持っていた藤原氏は京都盆地の秦氏と協力関係を結んで、この新天地に新しい都を遷すことを計画する。
そうして最初784年、盆地の南西部に長岡京(現在の京都府長岡京市)をつくって都を遷したものの、わずか十年でそこを廃棄、794年に盆地中央部へ「平安京」を遷すに至っている。




一見祇園祭とまったく関係なさそうなここまでの流れが、「祇園祭」の誕生を理解する上では非常に重要な下地なのだ。




平安京がひらかれてから60年ほどが経った、863年。
当時の都は、それはもうひどいありさまだった。


元々がじめじめした湿地帯であった京都盆地。
洪水も多発し、水はけも悪い。特に夏は高温多湿だ。
現代のように下水設備もない時代、そんな土地に大量の人間が移住し、密集して長期間暮らしたらどうなるか想像に難くない。


平安京の衛生状況は最悪で、マラリアなどの伝染病や感染症が大流行し、都を歩けばそこら中に遺体が転がる、世界の終わりのような景色だったそうだ。
一般庶民だけではなく、皇室や宮中の関係者も多数流行病(インフルエンザなど)で犠牲になった記録もある。



当時こうした病気の蔓延は、「怨霊の祟り」だと考えられた。
それも、国を揺るがすレベルの、もの凄く強力な怨霊によるものだと。


こう考えられたのには理由があって、平安京に都を遷す前後で、かなりの数の人物が政争に巻き込まれて暗殺されていた。
(厳密には、島流しや無実の罪による幽閉など、自ら死を選ぶしかない状況に追い込むのが当時の方法だった)

長岡京から平安京への短いスパンでの遷都などもこのあたりの事情がからんでいると考えられている。



その中でも特に、「早良親王」という皇族(桓武天皇の弟)は無実を訴えながら絶食して憤死。彼が亡くなった直後に彼と敵対していた関係者が多数急死したことにより、非常に畏れられていたようだ。

そこで、そんな大怨霊たちを鎮めるための「御霊会」が京都盆地の真ん中にある「神泉苑」という大きな池で執り行われた。


神泉苑






これで一安心……とはならなかった。

おさまるどころか翌年に富士山が大噴火。
数年後には東北で大津波が起こり、大きな被害を出した。

他にも全国で天変地異が続出したことから「これはいよいよやばい」とさらに大きな「国家的御霊会」が計画されることとなる。



そして、869年。
日本にある国と同じ数の66本の矛を立て、これに悪霊を乗り移らせることで全国の土地土地から災いを除去。
さらに怨霊を抑え込むための対抗手段として「牛頭天王」という新しい神を勧請、神輿に祀ることで、疫病や災害の封じ込めを願った。
神道、仏教、陰陽道、修験道、道教など信仰の垣根を越えて執り行われた「多宗教儀式」だった。


この「869年の御霊会」こそが今に続く「祇園祭」の発祥だ。






『祇園』とはなんなのか

最初「神泉苑」で始まった御霊会は、数年後に東山の八坂(現在八坂神社がある場所)で行われるようになった。

「祇園祭」という名は明治時代以降につけられたもので、平安時代から江戸時代まではずっと「祇園御霊会」と呼ばれていた。



では、「祇園」という名はどこから来たのだろうか。

一般的に、仏教の祇園精舎(古代インドの仏教寺)が由来というのが通説のようだ。
御霊会で怨霊封じのために勧請された「牛頭天王」という神が、祇園精舎の守護神という側面を持つことからの名前だと言われている。


牛頭天王という神は、奈良時代の文献には一切名前が出てこず、また海外の文献にも記述がないため、「平安時代に日本で仏教と神道が融合する形で生まれてきた新しい神」と考えられる。

どうしてそこで、祇園精舎の守護神という属性が付与されたのだろうかは不明だ。




もしかすると、「祇園」という言葉には別の意味も見いだせるかもしれない。
「牛頭天王」は「スサノオ」と同一視されている。
スサノオといえば、出雲を建国した神だ。
もともと天の神だったが、地上へ降りて国つ神となった経歴を持つ。



実は、最初の御霊会で鎮められた早良親王たち六柱は、出雲一族が暮らしていた土地である出雲路(現在の下鴨神社の西側)の上出雲寺に祀られた


出雲路は曰く付きの場所で、平安時代において非常に多くの「脱走者(土地を捨てて他の国へ逃げた)」を出したことが記録に残っている。そのほとんどは女性と子供だったそうだ。
京都盆地における出雲一族の立場は決して暮らし良いものではなかったのかもしれない。


そんな出雲の土地に、なぜ日本国内を揺るがした(と考えられた)怨霊が祀られた――言い方を変えると封じ込められたのか、これについては資料がなく、はっきりとしたことは誰にも分からない。

上出雲寺は現存していないが、同じ土地に今は「上御霊神社」が建っており、引き続き彼らを祀る役目を担っている。




「祇園」という言葉を聞くと、ついつい「祇園精舎」というワードを思い浮かべてしまうけれど、字に着目すると、「祇」は「地の神、国つ神」という意味だ。

だから、そのまま読めば「祇園=国つ神の土地」という解釈もできる。


わざわざ、京都の中心部の神泉苑で儀式を行った上で、北のはずれにある祇(国つ神)の土地「出雲路」へ祀った(封じた)こと。
それを指して「祇園」と呼ばれたのがはじまりだったかもしれない。










まとめると、祇園祭とは、


・首都移転に伴う「公害・衛生問題」
・国内での天変地異多発による恐怖


これらの社会問題と


・政争による暗殺の常態化
・これに対する後ろめたさ


が重なって生じた概念


・怨霊の祟り


を払うための「国家的プロジェクト」から始まった祭りだった。






京都ど真ん中にある「神泉」


さて、現在八坂神社のある場所に遷されるまで、御霊会の舞台となっていた「神泉苑」。
なぜここが祭りの場所に選ばれたのか。

推測だが、都の中央にありながら豊富な水が湧き続ける「(衛生的に)比較的清浄な土地だったから」ではないだろうか。


元々ここには清涼な水が湧く大きな泉があった。
京都盆地が巨大な湖だったころの名残と言われる、非常に古い泉。

その周囲を宮中の庭園として手入れして名付けたのが「神泉苑」のはじまりだ。







812年、ここで嵯峨天皇によって日本初の「桜の花見」が行われている。
824年には弘法大師空海がここで雨乞いの儀式を行った。
863年には祇園祭発祥につながる御霊会。

その後も、源義経と静御前が出会ったり、小野小町が歌ったり、徒然草でネタにされたりと多くの由緒を持つ国指定史跡となっている。



この「神泉」、現在は世界遺産・二条城のすぐ南に位置している。


本来はもっと広大な池だった。
大きな大きな池だったのが、千数百年の間に勝手に埋め立てられて畑にされたり、お寺の土地にされたりして段々縮んでいき、最後には、徳川家康がそのほとんどを埋め立てて二条城を建ててしまった。

現在二条城がある場所は元々は神泉苑の一部だったため、城内には池があるし、お堀には今も豊富な水が満ちているわけだ。



平安時代はここに広大な池が広がっていた。写真右側が二条城、左側が神泉苑





そうやって削られ削られなんとか残ったのが現在の「神泉苑」。
ずいぶん小さな池になってしまった神泉には、今も絶えることなく水が湧き続けている。












つい昨年、神泉苑が祇園祭発祥の地だということ、さらに今も祇園祭の最終日には八坂神社の神輿がはるばる神泉苑までやってくるということを知って、今回ついに見学に訪れることができた。





神泉苑は先述したように、神道・仏教・陰陽道・修験道など神仏混淆で色々な儀式が行われた場所。
元々は宮中の庭園だったこともあり、ぱっと見どういう施設なのか分かりづらい。

北側の入り口にはお寺のような門があり、南側の入り口には鳥居がある。
境内にもやっぱり、お寺とお社が混在している。




観光で京都へ訪れる際には、是非ここ神泉苑への探訪をおすすめしたい。
京都の中心地にあって、歴史も古く由緒も多く、世界遺産で大人気の二条城のすぐ横というアクセスの良さかつ入場無料にもかかわらず、いつ行っても観光客がほとんどいない「穴場スポット」だ。





ここは、自分の大好きな岐阜の橿森神社とも雰囲気が似てるというか、共通点があるかもしれない。

橿森神社




橿森神社は古代美濃の国の開拓者を祀っていて、周辺には実際に当時の王の墳墓や開拓跡が残っている。
その後織田信長によって「岐阜」の名が与えられ、周辺は都市開発の中心地となった。
そして今も岐阜の中心地すぐそば、住宅街の一画で静かに存在し続けている。


一方この神泉もまた、古代から存在し続け、平安京の成り立ちと深く関わった。
豊臣秀吉による再開発で「京都」誕生にも立ち会い、徳川家康によって埋め立てられつつも、今に至るまで京都の中心でその姿を残し続けている。



その土地の歴史に深く関わっている重要な場所なのに、観光客が押し寄せることもなく、住宅街の中で静かにたたずんでいる。
その雰囲気が似ていると感じる理由なのかもしれない。
















2024年7月25日。
午後七時頃。
祇園祭もいよいよ終わりに差し掛かる時間。






八坂神社の神輿がはるばるここまでやってきた。
祇園祭発祥の地である神泉苑。



どこからともなく、たくさんの人が集まってくる。
小さな子供達が、お母さんの手を引いてはやくはやくとせがんではしゃいでいた。
祭りのわくわくした雰囲気があたりに満ちていた。

さっきまで日常風景が、がらりと色を変える。








非日常はわずか十数分。
神輿が行ってしまえば、また元の静かな神泉苑へと戻っていた。












池で暮らしているアヒルが二羽、ぺちゃくちゃおしゃべりしながら境内をぐるぐると散歩している。
その堂々とした雰囲気から、彼らにとってきっといつもの習慣なのだろう。














個人的には人の少ない場所、あまり人が行かないような場所が好きで、良いスポットはあまり教えたくない方なんだけど、この神泉苑はいつ行っても人が少なすぎて、さすがに勿体ないと思ってしまう。

風雨来記4を好きな人ならきっと気にいるんじゃないかと思うので、京都を訪れたときには是非行ってみてください。






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