■「風雨来記4:母里ちあり編」について書きます。ストーリーのネタバレ有り。
■「自分はこう考えたよ」という、個人的な感想・考察記録です。
■ 記事内で、ゲーム内のスクリーンショットを、権利元様を表記した上で引用しています。
■ 特に記載のないイラストは、投稿者(ねもと)による非公式の二次創作です。
今回は、母里ちありの「性格」について、考えていきます。
この5か月の間に、自分の彼女に対する認識は何度も何度も大きく変化し、膨らんできました。
その中で、彼女がどういう人か、ひとまず自分自身がかなり満足できる解を得られましたので、2021年12月時点の思考として記録する意味でも、ここに書き記しておきます。
要約
・母里ちありの見ている世界は、ほんの数歩、未来にある
・母里ちありは、奔放とは真逆の性格なのかもしれない
・母里ちありの頭脳は、とても明晰である
・母里ちありの精神年齢は、主人公よりも高い、かもしれない
・母里ちありが手に入れたのは、行動の不確定性だったのかもしれない
・母里ちありの見ている世界は、ほんの数歩、未来に「あった」
母里ちありの見ている世界は、ほんの数歩、未来にある。
――かもしれない。
なぜなら彼女の思考は、非常に「速い」からだ。
はじめに:違和感の所在
母里ちありの印象について。
当初の自分は、…というか割と最近まで、
「母里ちありは楽観的で、あまり深くは考えこまない人物だ」と思っていた。
他人の名前や地名をよく忘れたり、「キラキラでやばやばー」を始めとするポップな語彙。
時折さびしげな顔は見せるものの、だいたいいつもポジティブで、ころころ変わる表情。元気はつらつな言動。
深く悩んでいたように見えても、次の瞬間出てくる言葉は、「ま、いっか。明日は明日の風が吹く!」とくる。
人の顔を見分けられないせいで気苦労を抱えつつも、持ち前のポジティブさと天真爛漫な行動で、結果的に良い方向へ向かっていく。
そういうエネルギーを持つ子だ、と。
思っていたのだ。ずっと。
……けれど一方で、その考えだけで彼女を理解することに対して、なんとなく、違和感をぬぐいされないのも確かだった。
たとえば下呂温泉において、主人公の、「普段の自分なら選ばない方を選んでみた」という気まぐれな選択に対しての反応。
ものすごく驚き、感動し、「キミは殻を打ち破ったんだよ」「目の前がパァーって明るくなった」と大絶賛するリリ。
今まで一度も「普段なら選ばない方を選んでみよう」と考えたことがない、なんて。
天真爛漫とか楽観的性格なんて言葉では、ちょっと説明できない。
ふとした時に垣間見せる、
違和感の正体はどこにあるのか。
延々と思考を重ね続けたある日、唐突に思い至った。
まさか、と思った。
でも、考えれば考えるほど、その思いつきは、辻褄が合う気がした。
リリは、確かにポジティブな性格だ。それは間違いない。
その上で、彼女のポジティブさは単に楽観的ではない、建設的なポジティブさだ。
彼女の前向きな言葉は、強い説得力を持つ。
それは、その奥にいつも必ず、彼女なりに「よく考えた末の確かな根拠」が感じられるからだ。
たとえば、主人公の心を大きく動かした、「結婚はスタートライン」という言葉などはその最たるものと言えるだろう。
あれ?
と、いうことはもしかして。
本当は、奔放とは真逆のタイプなのか……?
「リリは、いつも、何事も、まず考えて考えて、
それを根拠に、行動しているんじゃないか」
裏を返せば、
「根拠(自分が行う意味)が感じられなければ、うまく行動できない。
まして、根拠が不確かな道をあえて選ぶだなんて考えたこともない。
リリは、そういう性格なんじゃないか」
だから、時々身動きがとれなくなってしまう、のか?
「やりたいこと」「なりたい夢」は色々あったのに、どれにも絞りきれず、一番得意な動物に関する仕事も見つけられないままタイムリミットが来て、「なーんとなく」決めた仕事に就いたのも、その考えすぎる性質のせい……
そう考えるのは、はたして早計だろうか。
彼女の「座右の銘」。
「明日は明日の風が吹く」
「普段の自分ならしない選択もあえて選んでみる」
座右の銘は、単に「お気に入りの言葉」として使う人もいるけれど、本来の意味は、身近において自分に言い聞かせて、自分を戒めるための言葉。
リリは、主人公と出会ったばかりの頃、何度も何度も「明日は明日の風が吹く」と言う言葉を口にして、パァッと笑顔になった。
それは、つい思考にとらわれてしまいがちな自分の肩の力を、意識的に抜くための言葉だったのではないか。
母里ちありは「考えるヒロイン」なのか
リリの聡明さについて、これまでとりわけ注視したことはなかったけれど、彼女の「思考の速さ」については、主人公が作中で何度か指摘していた。
また、よくよく見返せば何気ない会話や端々にも、思考力の高さや教養が滲み出ているように思える。
たとえば、旅と旅行について一を聞けば十理解し、逆に鋭い質問を返したり、はじめて訪れる観光地で、即興のガイド役を担ってみせたり。(後述する)
突飛な発想を口にして主人公を置いてけぼりにしたかと思えば、いざその発想に至った経緯を語れば即座に納得させてしまう……、豊かな知性を感じられるエピソードは、枚挙にいとまがない。
「優秀すぎる兄」と同じ血の流れる妹であることも、重大な情報となるだろう。
そもそも、現在の彼女がまとう外面――人なつこくて奔放な雰囲気は、小学校以降後天的に身についた(彼女曰く「開き直れた」)もので、元々は強い人見知りで引っ込み思案な性格だったのだ。
兄にしか心を開けなかった幼少時代の大半は、豊かな自然の中、兄とともに遊び回りながら、様々なものを見て、聞いて、学んで、考えて、育ってきた。
そして、学校に入学して以降は、他人を顔で見分けられない自分の個性を補うために、今度は対人関係において常に観察、情報処理――思考をフルに働かせ続けてきた。
会話の中で、今目の前にいる相手が誰なのかを察するために。
相手がどういう人間なのか、情報を得るために。
まとめると、
元来リリは兄と同じく明晰な頭脳の持ち主で、幼少の頃から必要に迫られて身につけた「洞察力」が、特にずば抜けているのではないか。
そして、三つ子の魂百まで、という言葉があるように、リリの行動の軸には今も、「感情」より前に「思考」があるのではないだろうか。
主人公が旅と旅行の違いについて自説を述べた際の、リリの「キミのは旅。私のは旅行に近いね」という言葉。
その真意について、単にうわべだけの話ではなく、
リリは、主人公の「旅」のように、行き先を決めずに自由に旅路を選ぶことが苦手だから、あくまでも予定に沿って動く「旅行」に近い、と表現した――
……と考えるのは、それほど的外れではないように思える。
実際リリの「旅行」は、モネの池という「次の予定」が決まるまでずっと、スタート地点の種蔵から進まなかったのだ。
「島根へ帰る」という当面の目的。
今はまだ気がすすまないその「目的」から逃れるためには、「他の目的」……大義名分が彼女には必要だった。
それで帰郷の途中に通りがかった岐阜で、「観光」という一時的な、立ち止まるための「目的」をたてて、「ふらっと立ち寄った」。
(その場所も、故郷の片田舎と似た雰囲気のある、奥飛騨だった)
そして、「明日は明日の風が吹く!」と自分に言い聞かせながら、結論を明日へと……未来の自分へと先延ばしにした。
考え、向き合う時間を確保するために――
それが、彼女が足を止めたはじまり。
「リリの旅のスタートライン」だったんじゃないだろうか。
ペン回しの心理。
ペン回しそのものが趣味で、日頃から技やテクニックを磨いているという人でもない場合、「無意識にペンを回す行為」は、不安や悩み、退屈さ、あるいは理想と現実にずれを感じている心理のあらわれと言われる。
ついつい物事を深く考えすぎてしまう人のくせ、だとも。
「明日は明日の風が吹く」と自分に言い聞かせ、笑顔になりつつも、何度もペンを回してそのたびに失敗するのは、リリの心の奥の不安や葛藤があらわれていたのかもしれない。
その無意識の不安の象徴のペンを、主人公が何度も何度も拾い上げたことに何かしらの意味(…たとえば運命とか)を見いだすのは、少々ロマンチックに過ぎるだろうか。
そんな、どこか生き方が不器用なリリだったから。
主人公の見せた、非論理的な行動(それはリリとは違う、別の論理であるかもしれない)に、大きな影響を受けて、それが後々、彼女の人生の行き先すら決める、決定的な変化へと繋がっていったのかもしれない。
記憶力/教養/好奇心/洞察力/精神年齢/感情表現
ここからは、リリの聡明さについて、要素ごとにもう少し深く掘り下げて考えてみよう。
記憶力について
國田家の芝桜での「ちあり先生」や、馬籠宿で「島崎藤村の夜明け前」の一節をその場ですぐ覚えたことなどから「自分の興味のあるエピソード」に関しては、高い記憶力を持っていると思われる。
逆に、興味をひかれないことだったり固有名詞については、覚えるのが苦手な模様。
個人名の他、「ぐる…め?」のような雑誌名、「そーぼーなんちゃら」のような「難しい言葉」、あるいは主人公との出会いとなった場所・種蔵についても、「何度も来たくなる良い場所」だと認識しつつも、地名に関しては「そうそう、確かそんな名前」というアバウトさ。
そんなリリだから、たった一度だけ、主人公の名前を呼ぶ場面の特別さや、「橿森神社」を記憶したことの意味合いに胸を打たれるのだけど、これについて語ると長くなるからまた今度。
教養について
天王山の意味するところやモネが画家であること、ウサギの雑学と言った幅広い知識が自然に口について出てくるくらいだから、少なくとも一般的な教養を備えているのは間違いないんじゃないだろうか。
特に動物に関しては、仕事にすることを考えるくらい、かなりの知識を持っているようだ。
「なーんとなくで決めた仕事」の内容については詳しくは分からないものの、新入社員にもかかわらず定時内に自分の与えられた仕事を終わらせていること、「日中サボってた人」から仕事を押しつけられることから、「人の顔とか名前とか、ちょっと忘れたり間違えたり」する以外は優秀な新人……だったように思えるが、はたして。
好奇心について
記憶力の項でも書いた通り、訪れた場所のことを積極的に調べたり、主人公の夢や仕事に興味津々で詳しく話を聞きだしたりなど、興味のベクトルが向いたことに対しては、非常に好奇心旺盛な精神が見て取れる。
この好奇心は、元々、兄とともに自然の中を駆け回って育つ中で培われたものだろうか。
洞察力について
「個人識別」のために、幼い頃からとにかく思考、思考、思考を重ねてきた。
その成果だろう、リリは洞察力に非常に優れている。
その中でも彼女の特筆すべきスキルとして、次の二点を挙げておく。
ひとつは人間の個性を見抜く力。
「会話やしぐさ」から、その人の性格を読み取るのが得意。
「見た目で判断出来ない」リリにとって、目の前の相手はどういう人なのか、会話やしぐさから把握するしかないから、ものすごく注意深く人を観察して、集中して話を聞いて、時にからかうことで能動的に素の反応を引き出したりして……
そうやって過去の知見と照らしあわせた上で、信頼に足る人物かどうかを判断しているのだろう。
リリが「私の直感」と呼ぶそれは、行動科学や統計学の成果物に近い。
思考の速さもあいまって、会話を一旦始めてしまえば、短い時間でも急激に距離感が変わるので、人なつこく、あるいは無防備にさえ感じる場合もある。
それはきっと、すでに彼女の中で「判断」がついた後なのだ。
そうして蓄積した情報のおかげで、リリは、主人公にとって恋愛と仕事、大事なものがどちらかを鋭く判断できるし、結婚相手候補としてOKとも思えたし、「キミならセクシーではなく清楚な撮影を選ぶ」と確信を抱くこともできたのだ。
それはリアルタイムで相手の心理を読み取っているというより、あくまでも過去のデータと照らし会わせて「この人はこういう人」だと解析した結果だろう。
だからこそ、「セクシーで大胆」や、付知峡での「売り言葉に買い言葉」、あるいは橿森神社での「主人公の笑顔」のように、その対象がそれまで蓄積してきた「こういう人」データから大きく外れた解答や行動をとると、激しく衝撃を受けるのだろう。
リリは、他人の変化や成長にとても敏感なのだ。
この高い洞察力があったからこそ、後々、橿森神社での渋川デスクとの「電話」において、6年以上付き合いのある主人公でさえも知らなかった「こんなノリ」を引っ張り出せたのかもしれない。
そしてもうひとつ、本人が唯一得意なことと語るのが、動物の個性を見抜く力。
動物の個体識別能力。
これは、リリが人を見分けられないことと引き替えに先天的に持っていたものか、それとも、学習によって手に入れた後天的なスキルか。
今回は、後者だと考えてみよう。
根拠としては、「はじめて見る種類の動物では識別がうまくいかない」ことや、「見慣れた種類の動物ほど識別がうまくいく」ことがリリ自身から語られているからだ。
おそらく、「人の個性を見分ける力」と、源は同じ。
人間を顔以外で見分けるために苦労して、工夫して、積み重ねてきた経験。
動物に対しても、それは発揮されている、と考えるのが自然だろう。
その上で、動物毎に特化した、個体識別のための土台となるデータを必要とするのだろう。
案外、顔と手以外を服で隠している「人間」よりも、全身から個性の情報を得られる「動物」の方が、リリにとっては見分けやすいのかもしれない。
精神年齢について
人の何倍もの思考経験の積み重ね。苦労の重み。
それらの人生経験は、彼女の精神の時計を、人よりも随分と進めてしまったんじゃないだろうか。
リリの精神年齢というか精神の成熟度は、(一部の反応を除いて)実年齢よりもずっと高い。
そうならざるを得なかったのかもしれない。
時々、20歳だということを忘れてしまうくらい、落ち着いた表情を見せる。
以下の様なエピソードから推測するに、少なくとも本人の自認する精神的年齢は、二十代後半……たとえば28くらいなのかもしれない。
- 「28くらいだって思ってた」主人公を、自然体でキミ――同年代、あるいは弟に対するように――と呼び、対等に会話していたこと。
- 主人公からの「年の離れた妹」扱いに「なぜか」ひどく驚いてショックを受けていたこと。
- 「好きって言うか、アニメくらい見てないと話についていけなくない?」
意識して情報を追わないと、「同年代」の話題についていけないこと。 「それは置いときまして」や「れっつらごー」と言ったたまに飛び出るなんか古い語彙。
姉のようでもあり、親友のようでもあり、妹のようでもある。
達観した大人の部分と、年相応の部分と、未成熟の部分が、渾然一体と入り交じってころころと表情を変えるのが、母里ちありという女性だ。
感情表現について
普段から熟考(思考が速いため周囲からは即決に見える)の上で行動するためいつも余裕と落ち着きのあるリリが、その感情をあらわにすることはそれほど無い。
さらしたとしても、たった一度、付知峡での例外を除けば、すぐに切り替えて平静に戻るのが常だった。
・「お見合いなんて時代劇の中の話だよ!」
二度目の種蔵にて。両親がやたらお見合いに乗り気なことに辟易して。
が、その数日後には、お見合いを、条件付きだが肯定していた。
・「私の初恋のひと」
モネの池にて大好きな兄のことを語る姿。
幼い少女のような、ふわふわとした言動。
・「私の会社のひとが色々ブラックでー」
会社の先輩や上司への怒りをぶちまけた時。
どんどんヒートアップしていく新社会人あるあるエピソード。
「それでも時間さえ守ってくれたらいい」と譲歩したり、
愚痴を聞かせてしまった主人公に対する謝罪も忘れないなど、落ち着くのも早い。
・「キミならそっちを選……んでない!」
下呂温泉の噴泉池にて。
主人公が大胆でセクシーな撮影を選んだことは、リリの「目の前を明るく、未来を無限大に」変えてしまうくらいの驚きだった。
・「いや、そこは嘘でもみてみたいって言おうよ」
自分の水着姿を前に空気を読まない主人公に、真顔でツッコミを入れるリリ。
なんか恐いぞ、とは主人公の談。
真顔だからこそ伝わる感情もある。
・「大っ嫌い!」
付知峡で「頭が真っ白」になった一件。
「独り占めしたいって思ったよ」と後に語る。
リリが他では見せなかった、年相応というか、むしろ小学生のような感情の発露。
後述する。
・「それじゃあれっつらごー」「さくさくっといこっ!」
馬籠での仲直り記念。よほど嬉しかったのか、
一度登って降りてきたばかりの峠の坂を、ダッシュで駆け上がっていく。
作中で最もテンションが高い場面。
れっつらごーなんて死語をどこで……。
・「だ、ダメじゃん!この話の流れなんだから、
しっかり3位以内に入ってよ、キミー!」
「リリさん、リリさん、落ち着いて」
勇気を出してプロポーズするための心の準備が、肩すかしに終わって思わず素の感情がこぼれてしまうリリ。落ち着くまでの、気持ちの切り替えも速い。
この中でも、付知峡の一件(「大っ嫌い」)は、リリが「理屈ではなく感情のままに最後まで行動してしまった」特に珍しいケースだろう。
本人が後々、「頭が真っ白になった」と述懐している通り、これまでの彼女の人生でもほとんどなかった経験だったと思われる。
『バンダナをつけた主人公がリリ以外の女性とたまたま一緒にいた』
第三者目線ではただそれだけのことも、リリの視点に立ってみれば(仮に恋愛感情を抜きに考えたとしても)、
『自分にとっての彼は、大勢の中から「バンダナ」という目印によって見分けられる唯一の相手だけど、彼にとっての自分は、「バンダナなんてまた買えばいい」=「いくらでも替えのきく」程度の、旅の中で出会った大勢の中のただの一人に過ぎない』
という、「普通」の人達と自分との見ている世界の違い――現実を突きつけられるに等しかったのだ。
「バンダナは(見つからなくても)また買えばいいし」という主人公の失言に、一度は怒りをぐっと飲み込んだリリが、今度こそ、「あの女の人、誰?」と、はっきりと不機嫌をあらわにした。
「キミと私は、彼氏彼女ってわけじゃないし?
どこで誰と何してようと勝手だよね!」
「そうだね、確かに俺とリリは偶然会っただけの関係だから、
どこで誰と何してようと勝手だね!」
そんな出来事があった後でも、それはそれとして、五平餅(おいしいもの)は全力で満喫できるのが、リリの愛すべきたくましさだ。
「母里ちありの知性溢れる会話」具体例
①モネの池での会話
リリの敬語には、大きく分けて二つの意味がある。
ひとつは初対面の相手に対するよそよそしい態度。
そしてもうひとつ、やや芝居がかって話すのは、彼女自身の大切な価値観や知識、気持ちを、相手に丁寧に伝えたいときだ。
(大切な価値観だから話すのがちょっと照れくさくて芝居がかるのか、それともこういうしゃべり方も彼女の素のひとつなのか……はまた今度考えて見よう)
私達が見ている世界は、世界のほんの一部分……
母里ちあり/風雨来記4
この世界に存在しないと諦めた時、それはその人の中で本当になくなってしまうのです。
不確定性原理の話題だろうか。
ミクロの世界では、可能性が不確定なまま重なりあっていて、観察という外部の認識によって結果が確定する。
つまり、「ある」と「ない」両方の可能性を併せ持った状態が存在し、観察する者によって「ない」と観察(確定)された途端に、状態が変化し、その観察者の世界からは実際に消えてしまう※、という「普通の常識」からすればそんなアホな、と言うような人智を超えた現象が、この世界の根っこにある。
案外、その延長線上にある我々の世界自体も、同じ様にわけのわからないものなのかもしれない。
②ちあり先生の観光ガイド
想像していただきたい。
あなたがある観光地を知識ゼロの状態で訪れたとして、一通り巡り見終えた後でいきなり、じゃあこの場所についてガイドしろ、と言われて果たしてうまくできるだろうか。
主人公のように、最初から取材と言う目的があるならば別として、ただ観光で訪れた場所の情報を、人に解説できるレベルで自分の中で定着させる、というのは実は非常に難しい。
が、リリにはその難しいことが出来てしまう。
これは紛れもなく、豊かな知性の賜物と言える。
①「元々はお婆ちゃんが一人で花を植えるところから始めて」この場所のなりたち。
②「あと、色々賞をとってて」客観的な情報。
③「みんなに愛される芝桜なんだよー」自分なりのまとめ・結論。
④「でも今は見頃を過ぎちゃったみたい」リアルタイムのお役立ち情報を伝えることも忘れない。
と言った具合で、スポットの魅力・要点を、簡潔かつ分かりやすくまとめて、表現する。
見事なルポルタージュだ。
さすがちあり先生。
③旅と旅行の違い
旅と旅行と。主人公にとってはとても大切なこだわり。
元々は、ベテランライダーである「姉」から教え込まれ、「あの人のサイト」を経て、自分なりに作り上げてきた考え方。
誰もに理解されるとは限らないし、共感となるとさらにハードルが高い。
主人公自身それを自覚しているので、北海道の旅の頃から、あまり人には話さないことにしていた。
「どう違うの?」
というリリの質問に対し、
「違いというか自分なりの使い分けかな」
と旅と旅行についての持論を、主人公が説明すると、
「なるほどなるほどー」
と即座に意図をくみ取った上で、
「じゃあ駆け落ち逃避行はどっちなんだろう」
と、突然新たな概念を、逆質問の形で投下してしまう。
メタ的な部分では、この「駆け落ち逃避行」は風雨来記シリーズとは切っては切り離せない、重要モチーフのひとつ。
主人公・ヒロインから知人・親類、通りすがりのサブキャラクターまで、これまで幾多のカップルが、様々な形で様々な逃避行を繰り広げてきた歴史があるのだ。
たとえば、歴代主人公達の追い続けている「最高の一枚」を撮るという目標。
その最初の一枚は、駆け落ち逃避行の果て、プロポーズの瞬間を撮ったものだった。
そして、この二人の間にできた子供が、風雨来記1・2の主人公「相馬轍」なのだ。
1970年代後半に撮られたその写真は、デジタル時代に入るより前に、何らかの理由でネガごと消失してしまったらしく、風雨来記1(2000年)時点には、すでに存在していなかった。
今作の主人公は、高校生の時(2010年頃?)に見た「あの人のサイト」で「最高の一枚を目指して」という「言葉」を知った。
つまり、実際にその「最高の一枚」を見たことはないし、ましてやそれが、「駆け落ち逃避行」が生み出した奇跡的な一枚だった……なんて思いも寄らないことだろう。
リリは、「旅と旅行」というキーワードひとつから、図らずも主人公が目標とするものの原点に触れてしまった形になる。
それははたして、単なる偶然か、それとも何らかの縁が導いた必然か。
一体どちらなのだろうか。
④「結婚ってさ、スタート地点なんじゃないかなって」
お見合い・結婚に関しては、岐阜に来た直後からずっと考えていただけあって、早い段階でしっかりと自分の答えをまとめ上げている。
「お見合いなんて時代劇の中の話だ」と憤っていた日から十日ほどで、ダーウィンもびっくりの変化だ。
ここでの会話は、リリの思考が非常に速い、ということを最も感じられるエピソードかもしれない。
「好きというわけでもない俺とどうして結婚しようって思ったのか」という主人公の疑問に対して、「どうしてって………あ、そっか」気付くまでにしばらく時間を要したこと。
「結婚はスタートライン」「恋愛は結婚の条件として重要じゃない」という価値観をリリが持ったのは、「岐阜に来てから、思うようになった」わけで、つい一週間ほど前までは、リリだって結婚への価値観は主人公とそう変わらなかったのだ。(たぶん)
逆に考えるならば、リリにとってのこの一週間は、思考の末に手に入れた新しい価値観が自分の中に完全に馴染み、根付くに足る――長く十分な時間だったのだろう。
章の最後に、
「……なんとなくキミは、○○を理由に断る気がするけど」
という毎回的確に主人公の心理を見抜く、鋭い洞察力も、付け加えておこう。
⑤キミにとっての仕事は…
「仕事」に対する意識に関しては、特に変化がわかりやすい。
社会経験がまだ半年(賢明な彼女にとっての半年は、その数倍の経験値かもしれないが)に満たないリリにとっては、まだまだこれからいろいろな意味で「知っていく過程」にある分野だからだ。
一ヶ月の期間を経て。
彼にとって仕事がどれだけ大切か、深く知らなければ、悩むこともなかっただろうが、それでもリリは知ることを選んだ。
自分がプロポーズしたら、奪ってしまうことになるかもしれない、相手の仕事のことを自分の意志で知っていった。
蓄積した情報は、賢明な彼女にいくつかの答えをもたらしただろう。
「勇気(主人公から仕事を奪う根拠)がたりなかった」最初の旅において、その答えとは「お別れ」であり、「バンダナにたくす新しい役目」であり、「仕事に迷う彼に伝えたい言葉」であった。
「キミは以前、迷ってるって打ち明けてくれたよね」
「キミはそのままでいい」
どんな芸術も、模倣の先にある。
これは、あらゆる創作表現において、ひとつの真理といえる。
20世紀を代表する芸術家の一人、ピカソは「優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」と言う主旨の言葉を残した。
肉体で表現する芸術であるクラシックバレエの演目には厳密な振り付けが定められているため、究極的に研鑽された踊り手ならば必然的にみな同じ動きになっていく「はず」だが、現実には逆で、同じ動きの先にこそ、唯一無二の踊り手の個性があらわれるのだ。
古代ギリシャにさかのぼれば、アリストテレスは模倣こそが人間の創作活動の源であり、芸術は自然の模倣だと唱えた。
そして模倣は時に、この世にすでにある実物を超えて、物事の本質へと近づくこともある、とも。
リリは、「私、今ならわかるよ」の言葉通り、知識としてではなく、主人公の仕事に対する姿勢を見る中で、自分の中からそうした「表現における真理」へと思い至ったのだろう。
言い換えれば、主人公の「仕事」とその姿勢が、リリに、仕事に対する新しい発想、知見を与えたのだ。
そして、リリが真剣に、考えて考えて、生み出した答え、言葉だったから、
そこに、リリなりの確かな論理があったから、
主人公の心に強く届き、この先迷っても、また前へ進むための勇気を与えつづける、確かな「道標」になっていくことに違いない。
⑥「私は長く感じたかな」
岐阜での一ヶ月にも満たないお互いの旅。
立ち止まっていたリリと、走り続けた主人公の時間感覚の違い。
時間の流れとは一定ではなく、相対的なもの。
物質の振動によって生じるため、場所や状態によって常に変化する。
アインシュタインは、ちょうど千尋君と同じくらいの歳の頃に、それを発見したらしい。
たとえば山の上と海辺の街、徒歩とバイク、あるいは立っている人の頭のてっぺんと足の先という些細な距離でさえ、重力や速度の影響を受けて、すべて別の時間が流れているわけだ。
とはいえ、それはあまりにも微細な差に過ぎないから、普段の生活においては(たとえば光の速度に近づいたり、ブラックホールに飛び込んだりしない限りは)意識するような問題にはならない。
人間の意識にとってより重大なのは、脳の体感時間のほうだ。
精神年齢の項でも触れたように、精神に流れる時間と、肉体に流れる時間は別物。
何をどんな風に経験したか。あるいはしなかったか。
それが精神の中の時間を形作る。
慣れない、新しい体験をすると時間は長く濃密に感じられるし、慣れ親しんだ好きなことに集中していると時間はあっという間に過ぎていく。
つらくてしんどい、苦労に直面している場合の時間は気が遠くなるほどに長く、迷いや焦りで時間を惜しんでいたり、あるいは、何も考えずに嫌なことからも逃げて、ひたすらぼんやり過ごせば、一ヶ月なんて一瞬の体感の内に過ぎ去るのだ。
リリは「一ヶ月が長く感じた」と言った。
それは決してネガティブなことではなく、
立ち止まってはいても、その間たくさん悩んで、考えて、自分と向き合って、意味のある時間を過ごしたからこそ長く感じたのだと、自分は思う。
⑦奇跡みたいな確率を乗り越えて
リリは、どんな思考を経て、どんな想いを込めて、これまでの経緯を「奇跡」「確率」と表現したのだろう。
「私の直感は間違ってなかったって思いました」
28日間。
直感を検証するための時間。
兄に似ている。
自分と精神年齢や価値観の波長も近い。
実年齢の割にお互いそこそこに落ち着いていて、気も長い方だから、
結婚しても、夫婦として協力してうまくやっていけそう――――
自由奔放に見えて、自分の常識の殻をなかなか破ることができない、不器用なところのあるリリ。
理知的で、ロジカルで動く(動いてしまう)から、あきらめ(=切り替え)も早い。
反面、経験したことのない事態や明確な答えのない問題に対しては、頭が真っ白になって思考停止(フリーズ)したり、明日に先延ばししてしまうこともあった。
そんなリリだから、主人公の「普段は選ばないから選んでみた」という非論理的な思いつきの行動に、「私は今までそんな風に考えたことがなかったから」とひどく感動したのだ。
そこで何より重要だったのは、主人公がその行動をとったきっかけが、他ならぬリリ自身の、何気なく口にした言葉だったということだ。
「新しいことに挑戦するのもありだよね」
リリの何気ない言葉によって、主人公は行動を変えた……女の子にセクシーな撮影を頼むのは恥ずかしい、という自分の殻を破ったのだ。
確かに、この瞬間、リリは彼を「変えた」。
自分が、誰かを変えられる。
それは小さな一歩ではあったかもしれないけれど、彼女にとって、おおげさではなくほんとうに、未来に無限大の可能性が広がったような、そんな「大発見」だったんじゃないだろうか。
知ると言う行為は、暗黙の中の過程である。
母里ちありが、何をやってもおかしくない面白さがあるひとなのは、
決して彼女の感性そのものが常人とかけ離れているからではなく、
必要ならひとたび語りあうだけで、きっとお互いがそれぞれには思いつくことのできなかった、新しい価値観を互いの中に見つけ合い、尊重し合っていける相手だと、確信できるからだ。
「暗黙知」という言葉がある。
平たく言えば、言葉にしてうまく説明できない個人の経験や勘に基づく知識のこと。
多くの人が当たり前にできる「人の顔を見分ける」という行為は、典型的な暗黙知だ。
そんな「普通」の暗黙知を知り得ることができなかったリリには、そのぶん、彼女だけが持つ暗黙知がたくさん備わっている。
それが時折、他人を呆れさせたり、すれ違いを引き起こすこともあったし、もちろん、ハッピーで楽しい結果を生み出すことだって、たくさんあった。
岐阜の旅の終わりに、彼女は何を考えてあんな行動に出たのか。
リリのことだ、きっと、その思考によって導き出した論理的な行動だったのだろう。
彼女自身が、あの展開をどこまで明確に予想していたかは分からないが、結果をみれば、事態はたいへん良い形へととおさまったのは事実だ。
リリの暗黙知、思考による最適解。
それが行動となってあらわれたのが、あの電話だったに違いない…………。
…………いや、待てよ。
大事なことを忘れている気がする。
そうだった。
いまや、母里ちありの座右の銘には、刻まれているのだ。
主人公が口にした、
「普段選ばない選択肢も、あえて挑戦してみる」
という言葉が。
もちろん、「明日は明日の風が吹く」だって、まだまだ彼女の内では健在だろう。
それらの行動指針が混じり合った今のリリは………だから、つまり。
やっとほんの少し理解できたかな、なんて思ったのは一瞬で、「今のリリ」はすでに、それまでの理解の範疇からは遠いところにいた。
それは、「一人でも家に帰れる」、最初のエンディングのリリとは違う、
「一人で帰れるけどなんとなくまた岐阜に戻ってきちゃう、とかもあるかもしれない」新しいエンディングのリリ。
これからの母里ちありの行動には、
論理も、根拠も、あるのかもしれないし、
もしかしたら、ないのかもしれない。
一歩踏み出した母里ちありは、
予測不可能で不明瞭な道も、
あえて選ぶ可能性(勇気)を手に入れた、
不確定性リリなのだ。
結論:つまりすべてがわからない
考えて考えて、
そして、ぜんぜんわからないことがわかった。
わからないから、自分にとってリリは、こんなにも面白いのだろう。
そしてもしかしたら、リリにとっての主人公も、予想外だらけで、面白い存在なのかもしれない。
「お互いに影響を与え合って」、未来は予想のつかない形へ変化していく。
――母里ちありの見ている世界は、いつも数歩、「未来」にあるのかもしれない。
リリは、その思考の速さによって、主人公より数歩先の未来を見て、歩いていた。
「きっと未来は明るいよ。私が太鼓判を押しちゃいます!」
「未来には、無限大の可能性が広がってるんだなって思えた」
「私の未来の旦那様♪」
そんな彼女は、岐阜の旅の終わり、そして新しい旅の始まりに、振り返って、手を差し出してくれる。
ふたりの見ている世界がちょっと違っていたからこそ、手を取って、一緒に歩き出したとき、そこから見える新しい世界は、より豊かに広がるのだ。
同じ景色を見て、同じ速度で歩いて、二人で時を重ねて……。
それは、かつて「もしも」と語り合った「逃避行」ではなく。
あとがき:リリの「リリ」
利:平仮名の「り」及びカタカナの「リ」の語源。
鋭い。よく切れる。かしこい。聡い。 例:利口、利発、利点
理:古代中国の哲学用語で、物事の普遍的な法則。論理。原理。道理。
理屈。里(土地)の区画を整理し、ととのえる様をあらわす会意形成文字。
「母里ちありは、こういう人物である」と。
リリという存在を、たとえ一時的にでも型に押し込んで定義付けすることに、自分には抵抗がありました。
容易には推し量れない、次に何を起こすか予測できない、そんなところを、彼女の大きな魅力だと感じていたからです。
ありえないことかもしれないけれど、もし仮に万が一、彼女のことをすべて……本当に全て、理解してしまったら――あるいは理解したと自分の中で何かが完結してしまったら――
自分にとっての母里ちありとの旅は、そこで終わってしまうんじゃないか。
そういう思いが根底にある故に、観察者バイアスがかかって、今回のような不確定性を帯びた結論へと結びついた可能性は、否定できません。
観察者バイアスとは「観察者が最初から特定の結果を期待して観察することで、他の要素を見過ごしたり軽んじたりしてしまう傾向」のこと。実際には無関係な結果を、期待した結果に合うように無理矢理理論づけたり…、解釈してしまったり……。
一方で、二つの理由から、そうしたバイアスとは関係無しに今回の答え(リリさんはやっぱりわけ分からん)を導き出したのだという、確信もあります。
理由のひとつは、この記事を書き始めた当初は、
「リリは感覚で動いてるのではなく、論理で動いてる……?!
これはもしかして、俺はリリを理解したかもしれない!!」
と風呂から裸で駆けだしたアリストテレスの如きテンションで興奮していたことです。
理解してしまうことで終わるかもしれない、という迷いはあっても、そのためにわからないままでいよう、これ以上考えないようにしようなんて露程も思わず。
ただただもっと知りたい、考えたい、証明したいという欲求こそが、そもそもの原動力だったわけです。
だから、一旦書き上げて読み返しているうち「よく考えたら、後半のリリは新しい座右の銘で動いている可能性がある」と気付いて、結論が「リリはやっぱりわからない」となってしまったことは、心底嬉しくもあるし、ほんの少しだけ悔しくもある…というのが、素直な気持ちなのです。
もうひとつの理由は、リリとの物語だけに限らず、風雨来記4という作品のテーマとして、色々なところで、見えない、わからない未来に対するポジティブな想いが言及されているからです。
たとえば、一人旅エンドにおいての、主人公の独白がそれです。
見えない先に何が待っているのか、見えないからこその期待と、高揚。
主人公が旅に求める、このわくわく感。
これって、誰かさんがくれる「体験」と、すごく、似ていませんか?
と、まあいろいろ書きましたが、何よりも今回、いちばん重要だったのは、「自分がリリさんを見続けて、自分で手に入れた現時点での答えを、こうやって言語化できた」、ということ。
またひとつ、今ある思いを表現することができて、本当によかった。
これから先も、色々なことを考えて、その時どきの思いを、綴っていきたいと思います。
ずいぶん長くなりましたが、今回の記事はここまで。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
ご縁があればまた別の旅の話で。
ちあり編についてまだまだ書きたりないことがたくさんあります!!!!!
・ ふるさとというテーマ 書きました
・ 過去作との関連性をひたすら挙げ続けて気付いたこと
・ 風雨来記1の旅の「直後」にリリさんは生まれてるけど、その意味について・ リリさんが敬語で話すシーンをまとめていて気付いたこと 今回少し書きました
・ リリさんの故郷が島根のどのあたりか考えていて思ったこと・ 月子さんはどうやってのひコンのリリさんを見つけたのか 書きました
・ 変わり続けることの大切さ、変わらないことの素晴らしさを描いたことによる、
すべてのエンディング、ルートの可能性の肯定
・ 「最高の……」の始まりは「お前が笑顔でいられる場所を探せ」だった話
・ 別れることによって「終わらない旅」に居続けられることの幸福と、
結ばれれば否応なく「いつか必ず別れの来る旅」に向き合わされるという話・ 俺も20歳の時仕事についてリリさんとおんなじこと思ってた! 書きました
・ 「種蔵のリリ」「モネ・芝桜のリリ」「下呂以降のリリ」の、
距離感の変化が何十周してもいつも新鮮だという話・リリさんはなぜ言い訳をしないのか 書きました・リリさんの本質の話。 今回書きました
・リリさんのこれからの進路の話
進学・研究、動物の仕事、ルポライター、農業。お母さん。可能性無限大。
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