今年は、年内のどこかのタイミングで一週間くらい島根を巡るつもりでいる。
Googleマップで、行きたいスポットをマークしていたら、気付いたら1000カ所を超えていた。
その半分以上が神社や遺跡、神話スポットだ。
どこまで回りきれるか分からないけど、その際にはめいっぱい楽しんできたいと思う。
今回、その前哨戦を兼ねて、前々から気になっていた「京都の出雲」へと足を運んだ。
「京都の出雲」は、自分の知る限り大きく分けて2カ所存在する。
ひとつは京都府京都市の北部にあり、もうひとつはお隣の京都府亀岡市。
どちらの土地も、奈良時代にはすでに「出雲」と呼ばれていたことが公式に記録されている由緒正しい「出雲」だ。
ただ、出雲と呼ばれるようになった経緯は少し違う。
京都市の出雲は、「国譲り神話」においてアマテラスから使者として出雲に派遣されて、そのままオオクニヌシを気に入って出雲に居着いてしまった神「アメノホヒ」の末裔である出雲氏が拓いた地域。
一方亀岡市の出雲は、オオクニヌシ自身が開拓した土地として古代から伝わっている。
今回訪れたのは「亀岡の出雲」の方だ。
詳しいことを書き出すと際限なく長い記事になりそうなので、今回は簡単な感想と、写真を少し載せておくあっさりした記事にしたい。
亀岡市は京都の北西にある、山に囲まれた盆地だ。
今は「京都市(かつての山城国)」が観光地として世界的に有名になっているが、実は古墳時代中頃までは亀岡(かつての丹波国)の方がクニとして栄えていた。
京都盆地は古くは「山城国」と呼ばれたが、元々「山背国」と書いた。
文字通り山の後ろ。
秦一族という渡来系技能集団がやってきて大規模開拓する以前の京都盆地は一面の湿地帯で、長期的な耕作に適した土地が少ない辺境国だったためだ。
亀岡盆地もかつては巨大な湖だったが、京都盆地よりも数世紀先行して開拓が進められたようだ。
以前飛騨の記事で、飛騨の古川国府盆地は、日本海側の能登国から出雲族が入植してきて現地人たちと協力して開拓した、という話を書いた。
亀岡の「出雲」も同じだ。
この丹波という土地もまた、あるときオオクニヌシ(出雲族)がやってきて、地元の多くの神と力を合わせて土地を拓いたという開拓神話を持っている。
つまり丹波という土地はかつて、出雲の国の一部、あるいは友好国だったわけだ。
写真は、京都市と亀岡市の市境。
古代には、山城国(畿内)と丹波国(山陰)との国境だった。
この「王子」と呼ばれる地域は、酒呑童子伝説のある大江山の麓だ。(大江山はここと、丹後国の二カ所存在する)
酒呑童子は、平安時代に起こった出雲族の末裔(丹波の王子)と朝廷との対立を伝承化したものと言う説がある。
また、この少し北側の景勝地「保津峡」は、オオクニヌシの妻であるミホツヒメが名前の由来だ。
保津峡を流れる川は亀岡では「大堰川」、京都市内に入ると「桂川」と呼ばれる一級河川だが、この国境区間でだけ「保津川」と呼ばれ、保津川下りという観光名所になっている。
ここからが個人的めちゃめちゃおもしろポイントなんだけど、「亀岡盆地は、この保津峡たった一カ所からしか水が出ていく場所がない」。
もしそこがふさがれば、今からでもたちまち一面湖となってしまう地形だ。
丹波の神話伝承では元々亀岡は赤茶けた湖で、オオクニヌシやオオヤマクイと言った出雲から来た神様が保津峡を工事して水を京都盆地へと逃がし、開拓したと言い伝えられてきた。
そして現代での地質調査の結果、一万年くらいまでは実際に盆地一帯が湖だったと考えられている。
その後も、近年まではしばしば盆地が「水浸し」になった形跡があり、現在の保津峡の水面より80メートルも高いところで貝の化石が発掘されていることから、かつてはその高さを川が流れていたと考えられている。
その後地震や風化浸食などで少しずつ保津峡の原型とも言える谷が生まれ、水位が下がっていったのだろう。
しかし治水事情が大きく改善されたのは、出雲から開拓者たちがやってきたためだ。
この写真の地点が保津峡の入り口で、その両岸に古墳時代創建の古いクワタ神社(右が桑田神社、左が請田神社)が建っている。
ここが古代の開拓の前哨地点だった。
当時岸壁だったこの場所の掘削工事に使ったクワを祀ったのがここの神社の起源とされる。
写真を見るだけではただの狭い谷だ。
だが、亀岡盆地では「水が出ていく場所がここしかない」という事実を知ると、見え方が変わってくる。
もしこの保津峡を何らかの手段で堰き止めたら、あるいは自然現象で埋まってしまったら……
水の出ていく先が無くなって、亀岡盆地全体がすぐに湖になってしまう。
そんな紙一重みたいな地形だということが視覚的に分かる。
保津峡以外の谷はすべて盆地よりも標高が高いため、水が出るどころか逆に流れ込んでくる。
しつこいようだが、ここしか水が出ていける場所がない。
狭い谷に見えるが、歴史上何度も何度も近代まで工事を繰り返してきて、その末のこの姿だ。
かつてはもっともっと狭く、水の抜けにくい地形だった。
そんな狭い谷だからこそ、一点突破で切り崩し、効率よく亀岡盆地の水を排出できる唯一のポイントとして、出雲からやってきた開拓者たちはここに目をつけたのだろう。
請田神社で祀られる大山咋(オオヤマクイ)神というのは「山に杭を打つ」という字の通り、山林の開拓を司る神だ。
このオオヤマクイは、保津川を下って京都盆地に入ったところにある「松尾大社」にも主祭神として祀られている、秦氏の氏神だ。
つまり、秦氏が保津峡掘削工事に関わったことをあらわしている。
オオヤマクイは京都の「比叡山」の山神でもあり、賀茂神社とも関わりが深い。
「オオヤマクイ=古代京都開拓の神=秦氏の祖先」と考えてもそれほど的外れではないだろう。
丹波ではオオクニヌシとオオヤマクイが協力して保津峡を切り拓いたという伝承もあり、出雲族と秦一族の共同事業だったとも考えられる。
そんな保津峡を川下りすると終点には、秦氏が築いた「葛野大堰」がある。
保津峡から京都盆地に流れ込んだ水の勢いをコントロールするために築かれた、古代の治水堰。
これによって生まれた副産物こそが、現在の風光明媚な有名観光地「嵐山」だ。
保津峡から流れ出した水は京都盆地に入り、葛野川、のちに桂川と呼ばれるようになった。
この水運と洪水がもたらす豊かな土壌、そして秦氏の治水技術があったからこそ、のちに「平安京」誘致がかなって、この京都盆地に都が築かれることにつながっていく。
ここまで考えれば、「京都」という土地にとって、この小さな峡谷がどれほど多大な影響を与えたのかというロマンを十分に味わえるだろう。
もし、この峡谷が完全にふさがっていて亀岡盆地が巨大な湖のままだったら、まわりまわって京都盆地に平安京が築かれることはなかった。
今の観光都市・京都も存在しえなかった。
歴史が大きく変わっていたはずだ。
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そんな、出雲族の大事業を見物したあとは、いよいよ彼らの本拠地だった場所、「出雲大神宮」へ訪れた。
この、出雲大神宮。
実は以前からよく通っていた道沿いにあって、この神社の存在自体は知っていた。
にもかかわらず、浅薄ながら「出雲大社の分社なのかな」程度の認識で興味もなくスルーしていた場所だった。
この出雲大神宮、実は日本史における記録上、最も古い「出雲の社」だ。
平安時代の公式記録で「出雲神社」と記載されているのはここだけで、社格も非常に高い「明神大社」のひとつに数えられているほどだ。
(明神大社は、国全体規模の祭祀に関わる特に強力な神社で、全国に200社程選定されていた)
先に述べたように丹波国の伝承では、出雲からやってきたオオクニヌシが他の神と協力しながら土地を開拓したと伝わっている。
ここからが興味深いのだが、この出雲大神宮にかつて伝わっていた「丹波国風土記逸文」においては、オオクニヌシはここを開拓した頃に、「国譲り」に直面し、大和民族へ自身が開拓した土地を明け渡して自身は山陰へ去ってそこに新たな大社を築いたとされる。
この大社を杵築大社と呼んだ。
杵築大社は明治時代に「出雲大社」と名前を変えて現在に至っている。
このことから、この出雲大神宮は別名「元出雲」とも呼ばれている。
「丹波国風土記」はすでに失われていてことの真相は不明のままだが、伝承としてはなかなか面白い話だ。
古代においてオオクニヌシ=出雲族の勢力圏は列島の中でもかなりの範囲に伸びていて、「出雲」と言っても広大なエリアを意味していたのかもしれない。
周辺は「出雲」だらけだ。
出雲大神宮は、山そのものをご神体にしている。
御影山と言う山だが、この信仰は一万年前からのものだと伝わっているそうだ。
これはちょうど、湖だった亀岡盆地の水が引き始めた時代でもある。
当時山に暮らし、湖の幸を恵みとして受け取っていた縄文の人々の記憶だろうか。
残念ながら、今回は訪れたときには刻限を過ぎていたので、御影山の参拝はできなかった。
また機会をあらためよう。
出雲大神宮から丘を降りてすぐのところには、「丹波国最大の前方後円墳・千歳車塚古墳」がある。
伝承と事実ベースの距離が非常に高い地域だと感じてわくわくした。
出雲大神宮や亀岡、丹波の国に関しては、まだまだ書きたいこと、訪れたい場所がある。
今回の旅ではじめて知ったことも多く、調べたい事だらけだ。
近々また訪れる予定でいる。
でも今日の記事はひとまずここまでにしておこう。
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