京都の「出雲」旅2 【出雲路】

京都が京都になる前の旅



「出雲」の由来


前回は、京都府亀岡市の「出雲」を巡った。
出雲大神宮。
日本神話の「国譲り」の少し前、オオクニヌシを筆頭とする出雲の民が、丹波の国を開拓したという伝承が今に残っている土地だった。






弥生時代から古墳時代にかけて、「出雲」と呼ばれる勢力は主に日本海側や四国の一部を中心に大きな影響力を持っていた。
その後、「大和」と呼ばれる勢力に国の統治を譲ったのが「国譲り」神話だ。
オオクニヌシは現在の島根県におさまって、現在に至っている。



でも、「出雲」の物語は実はそこで終わったわけではないということが、調べるうちにだんだん分かってきた。
大和勢力を歴史の表、光とするなら、影の部分。
歴史の教科書には載らないけれど、「出雲」は確かな痕跡を「現地」に残している。




オオクニヌシ、つまり出雲勢力の「王」の一族は国譲りによって島根の「出雲」におさまったものの、出雲勢力は一枚岩ではない。
神話の中ではオオクニヌシ直系の子供として特にコトシロヌシとタケミナカタがピックアップされているが、それ以外にも出雲勢力には数多くの一族がいた。

彼らは大和が政治を司るようになったあとも各地域において大きな力を持っていたので、大和と協力しながら「日本」という国を作っていった。



大和国(奈良)の最高位・大神神社や、山城国(京都)のやはり最高位・賀茂神社(上賀茂・下鴨)などが、出雲の神を祀っていることからも、出雲の存在感がうかがい知れる。

そしてどちらも……つまり、大神神社周辺にも、賀茂神社周辺にも、「出雲」という地名が現代まで残っている。






出雲路


というわけで、今回は「京都市」の出雲に訪れたので、それをレポートしようと思う。






奥に見えるのは比叡山。
右の碑は、賀茂御祖神社。「下鴨神社」の正式名称だ。


上賀茂・下鴨神社の領域は「賀茂氏」の勢力下だった。
賀茂氏は出雲系の有力氏族だ。


奥の山は送り火で有名な「大文字山」。


左奥の山は「比叡山」。この地域のシンボルで非常に存在感がある。







京都市の「出雲路」は、そんな賀茂氏の土地と川を挟んだ隣の一画にある。
この地域には古くから、その名も「出雲氏」が暮らしており、それが現在に続く地名の由来になったといわれている。












出雲氏は、名前通り出雲国の杵築大社(出雲大社)の祭事と出雲国の支配を担当した国造(地方長官)の一族だ。

「国譲り」の時、天照大神の命を受けてオオクニヌシの元へ交渉役として使わされたにもかかわらず、オオクニヌシに惚れ込んで出雲に住み着いてしまった神「アメノホヒ」を家祖とする。
そのため、オオクニヌシが国譲りで出雲に治まったあともその地に残り、オオクニヌシを祀り続けた。


神話を歴史的にみるなら、大和勢力と出雲勢力の間を取り持って良い感じに国譲りに貢献した一族という風に見る事もできるかもしれない。



京都の出雲氏も、その流れを汲む一派なのだろうか。
彼らは賀茂氏とともに、京都市北部の開拓に携わったと伝えられている。




出雲路周辺の一帯は、古くは出雲郷と呼ばれていたらしく、奈良時代の文献に「山背国愛宕郡出雲郷」という記述がある。


また、そこに住む人々の氏神として「出雲井於いずもいのえの神社」があった。

出雲=出雲郷
井於=鴨川のほとり

直訳すれば「出雲郷の鴨川のほとり」神社という意味だそうだ。


出雲井於いずもいのへの神社はどういう経緯があったのか今は、下鴨神社の境内に摂社として祀られている。







平安時代の延喜式という当時の有力神社をまとめた書物には上述の「出雲井於神社」の他「出雲高野神社」の記述があるが現代には残っておらず、高野川の上流にある「崇道神社」境内に摂社として存在するのみだそうだ。





「上出雲寺」



現在、出雲路でいちばん大きな神社は、「上御霊神社」となる。







この神社のたっている場所には、古墳時代後期~奈良時代頃から、出雲氏の氏寺「上出雲寺」があった。
平安時代、出雲氏の「上出雲寺・下出雲寺」は、平安京の入り口にある「東寺・西寺」に匹敵するほどの勢力を持っていたそうだ。

数年前に周辺でマンション建設が決まって地面を掘った際、出雲氏の邸宅と思われる大きな屋敷の柱跡が見つかったりしている。




現在日本三大祭りとして有名な八坂神社の「祇園祭」。
これは、平安時代863年の「神泉苑の御霊会」から始まっている。
当時、都で疫病が蔓延したのを不遇の死を遂げた者の祟りだと考え、それを鎮めようと行われた儀式だ。

そしてこのときの儀式で鎮めた御霊を神として祀ったのが、今に続く御霊神社の始まりといわれている。









まとめ:出雲の残響

現代において、「出雲」ときけば真っ先に島根の出雲を連想する。
でも、それはあくまで「現代の常識」の中での話にすぎないようだ。


開拓する際、自分達がやってきた故郷の名前をつけるのはありふれた話だ。
アメリカのニューハンプシャー州はイギリスのハンプシャーから来た人が名付けたし、北海道の伊達市は仙台藩の伊達氏が開拓したから伊達市となった。



かつては今よりもっとたくさんの「出雲」があったのかもしれない。



「地名」は、基本的に大きな事情が無ければ残りやすいと言う。

確かに――

様々な勢力が入り乱れて、人の流入も多く、新陳代謝が早い都において、出雲氏の祀った神社も寺も今は無くなってしまったけれど、地名だけは確かに、彼らの居た痕跡を現代に残している。












余談

平安時代、京都に「出雲郷」という地名があったのはすでに書いた通りだが、島根にも「出雲郷」という地名があった。
これは山陰道の宿場名にもなっているんだけど……
出雲の「出雲郷」は難読地名として一部で有名だったりする。

初見ではおそらく絶対、読めない。
是非検索して調べてみてほしい。



今度の島根旅では、島根の「出雲郷」にも訪れるつもりでいる。
非常ーーーーに楽しみだ。




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