【巨大鉄剣と盾形銅鏡】富雄丸山古墳探訪記

旅日記

「2メートル37センチの鉄剣」と、「盾のような形の銅鏡」。
古墳時代の常識を塗り替える、これまで発掘されてきたものとはまったく異なる形態の遺物がまとめて2種類も発掘された奈良「富雄丸山古墳」の現地見学会(2023/1/28)に行ってきました。

今回はその模様を書き留めておきます。








常識の更新

今回の発見にワクワクし、是非とも自分の目で現地を見てみたかった理由は、自分がもともと考古学や伝承の話を好きだというのももちろんあるけど、それ以上に「日本におけるこれからの創作表現」にも大きな影響を与えるトピックだと感じたから。



そもそも「2メートル37センチの剣」と「盾の形の鏡」なんていう、創作・ファンタジーの中の設定でしかありえないと思われていたようなアイテムが、1500年以上昔の古墳から出てきた、というのがもう面白すぎる。


「弥生時代の大規模鉄器生産工房の痕跡」のような、「その時代の考古学に詳しい人にだけ分かる限定的なすごさ」ではなく、「剣」と「盾(鏡)」という、誰にとっても直球で分かりやすい「シンプルかつ定番の組み合わせ」なのも、その面白さに拍車をかけている。




これまでの常識を思い切り打ち破る大発見で、まさか「こんなもの」が古墳から出てくると予想していた人は誰もいないだろう。
もし発見前に予想(「もうすぐ、古墳から2メートルを超える鉄剣が出てくるぞ!」なんて)していたら、馬鹿にされるか正気を疑われていたに違いない。


「事実は想像よりも奇なり」というか、「出てきてしまった事実は想像よりも奇でも納得するしかない」だ。




実物大の2m37cm蛇行剣。小学生のときこういうかんじのオリジナル武器をノートに描いていた気がする。
蛇行剣が出土した場所。粘土槨で密閉された木棺の中に納められていた。
「だ龍文盾形銅鏡」 よく見るとあちこちに、太陽の様なぎざ歯模様が見える
実物大の「だ龍文盾形銅鏡」。「だ龍」とは「なんか龍っぽい神獣」。ワニがモデルとも言われる





今回の発見は、遠くないうちに、小学校の教科書にも載るかもしれない。

それより先に、ゲームや漫画、アニメ、映画など様々な創作メディアで、これからたくさん使われていくことだろう。
天叢雲(くさなぎのつるぎ)や勾玉のモチーフが人気なように。

そうして、常識が更新されていく。

今から先の未来、子供たちに「古墳時代」と聞けば、「ああ、あのでっかい剣と盾型鏡の時代ね」というのが最初に浮かぶイメージになっていくのかもしれない。



今がもしかしたらそんな時代の変わり目かもしれない、と思うとまた楽しい。



見学会について

今日(1/28)の見学会は、約1400人の人が訪れたらしい。
簡単に、どんな流れでの見学だったかをここにまとめておこう。





最寄り駅である近鉄「学園前駅」からは約5キロほど。



遠景からの、富雄丸山古墳。
木が生えているせいで古墳と分かりづらいが、昔は文字通りの「丸山」だったと思われる。
職員の人が言うには、江戸時代くらいまでは陵墓として整備されていたのだそうだ。



まず、古墳に隣接するグラウンドで受け付け。
発掘調査の報告資料を渡されて、順路へ。








奥に見えるのが現地の古墳。
こうしてみると小さな丘のようだ。


実際、元々あった丘に手を加えて造り上げた古墳と考えられている。







正確には、刀身のみで2メートル37センチ。
柄や装飾をつけると、剣としての完成形では2メートル50センチを超えると考えられる。
同時代の東アジアで最大の長さを更新した。
(これまでの同時代最大記録は中国・遼寧省の1メートル38センチの鉄剣)


市教委及び奈良県立橿原考古学研究所によれば「古墳時代の金属器の最高傑作」。







今回の目玉である剣と盾形銅鏡の現物台のイメージ図、そして古墳の周辺部から出土した数点の埴輪(これは本物)が展示されていた。
古墳造成時には、周囲にこうした土器がぐるりと張り巡らされていたようだ。

この埴輪一つとって見ても掘り下げ始めるとどこまでも長くなるので今回は触れないでおこう。



近づくと、どこからどこまでが「古墳」なのか全然分からなくなった。
順路に従って歩くが、周辺はどこにでもありそうな普通の、雑木林のある公園という印象。






ところが、木々の合間に伸びる坂道を登っていくと、一瞬で景色が一変する。








富雄丸山古墳は「日本最大の円墳」らしいが、実際に目の当たりにすると確かにスケールがでかかった。
そこらの前方後円墳(後の時代の最先端古墳)よりもずっと大きい。

視界が開けた瞬間「おおっ」と思わずテンションが上がる。







入り口前テントで展示されていた円筒埴輪は、古墳建設当時、ここに並んでいたようだ。

いちばん手前のが円筒埴輪。最初期型の埴輪の形態。












数日前からの降雪で、足下はかなりぬかるんでいた。
滑る人もいて、ロープをもって慎重に歩く。






湧水施設型埴輪。

湧水施設とは、古代の上水道のようなものだという。
「井戸・あるいは自然湧水による水の供給施設」を模したものと考えられている。

埴輪には、こういう現代で言う「建物のミニチュア模型」のようなものも数多くあって、当時の建築物をうかがい知ることができる。


この埴輪、湧水施設型埴輪としては全国最古クラスらしい。
これもすごい発見なのだが、蛇行剣と盾形鏡のインパクトが強すぎて、その陰に隠れてしまっているのが残念だ。








古墳の頂上部。
大きな古墳は宮内庁管轄になっていたり、神域として守られている場合も多く、この規模の古墳にこんな風に登頂することができる機会は貴重だ。



眺めがばつぐんに良い。
遠く東大寺の屋根や、若草山も見えた。

これは当然で、自分の支配地を見渡させる「眺めが良い場所」に権力者を埋葬するのが古代の慣習だった。



とはいえ、かつての風景と今の風景はずいぶん違うだろう。
古墳時代の奈良盆地は湖や池、沼が無数に点在する、水浸しの湿地帯だったと言う。

そのため、奈良盆地の古道は、山の麓を通ったり、平地ではなく高い尾根を通ったり、何も無い平地でいきなり曲がりくねったりと、現代の地形で考えると意味不明な軌道を描くことがある。
これは、かつてそこにあった湖沼を迂回した痕跡だと考えられている。


その後の奈良時代でもそうした水源の名残があって、飛鳥のあたりまでカモメ(ユリカモメだろうか)が飛来していたことが和歌に詠われている。



画面中央左側の草が刈られた丘が若草山。そのさらに少し左の、高い屋根が東大寺の大仏殿




富雄丸山古墳の話に戻るが、この頂上部、まだまだ深いところまでは発掘されていないらしい。

今回の「蛇行剣」と「盾形銅鏡」が発見されたのは、墳頂から少し下の造り出し部、つまり「権力者」の埋葬部分ではない、その臣下と思われる埋葬地からだったのだ。



古墳の形式+古墳の大きさ・高さ+副葬品の豪華さ = そこに埋葬された人物の権力の強さや地位の高さ と考えられる。

頂上部……この富雄丸山古墳の主役である主人の埋葬部からは、さらにすごい発見がこれから待ち受けている可能性があるのだ。







やはり、例の蛇行剣の発掘場所でみんなついつい立ち止まってしまうらしい。
下りの列はなかなか前に進まなかった。



蛇行剣・盾形銅鏡の発掘場所



大きな木をふたつに割り、中をくり抜いてその中に被葬者を寝かせる「木の棺」。
その周りを粘土によって覆い、この場所に埋葬していた。

蛇行剣と盾形銅鏡は、その棺の上に重ねるように置かれていたそうだ。
参考写真

被葬者は、一体どんな人物だったのか。




発掘した担当者さんの話では、蛇行剣はあまりに長いこともあって、まわりの土ごと大きくくり抜くように取り出したという。
だから実際の重さはまだ分からないらしい。


盾形銅鏡の方は重さ5キロほどらしいが、あまりに貴重なものすぎて、30キロにも感じました、と語っていた。
すごくすごく嬉しそうなのが印象的だった。


自分たちが研究・発見した成果の、発表の場。
それが、今世間でこんなにも注目されている。

嬉しくて仕方ないだろう。







富雄丸山古墳の見学はここまで。
順路に従って歩くと、そのすぐ隣にある別の古墳へと誘導される。





こちらは、上の大きい円墳よりも、150年くらい後の時代にわざわざこの場所を選んで造られたもので、子孫の墓とも考えられるそうだ。
時代的には聖徳太子の活躍する少し前くらいか。

聖徳太子は、教科書で歴史として教えるくらいだから飛鳥時代のひとだと勝手に思い込んでいたけど、古墳時代終盤、という区分になるらしい。


「○○時代」というのはあくまでも未来に生きる我々現代人が勝手に呼んでいる区分で、その境界は本来グラデーションだ。
弥生時代から古墳時代の間を通じて生きた人も、古墳時代から飛鳥時代の変革を目の当たりにした人もいるわけで。


もしかしたら、2023年現在も、実は歴史的な大きな変革期のただ中にあって、ずっと先の未来の教科書では「2023年頃を境に○○時代が終わり、○○時代が始まりました」と語られるようになるかもしれない。






大満足。
現地をこの目で見られて、詳しい人から話しも聞けて、良い刺激にもなり、とても良い体験だった。





古墳について

「日本にあるコンビニをすべてを足した数よりも多い」と言われる「古墳」。

現代において「古墳」とは、単に「古いお墓」を指す言葉ではない。
「3世紀半ばから7世紀頃にかけて日本で築造された、墳丘をもつ墓」のことを「古墳」と呼んでいる。


元々は、ただ「古い墓」を指すだけの言葉だった。

古墳は大きいので目立つ。
その存在は大昔からずっと認知されていたので、素直に、昔の貴人が建てたお墓という意味で「古墳」と呼ばれていたのだ。


それが時代が進んで考古学が発展し、「古墳」と呼んでいた墳丘墓よりさらに古い時代のお墓(弥生時代や縄文時代のお墓)があることが知られるようになり、そんな古いお墓にも地域や年代によって細かくたくさんの種類があるということが分かってきた。

だんだん、全部古墳でくくるのに無理が出てきてしまい、徐々に定義が変わってきた、という経緯がある。

その後紆余曲折あって、今は先述のように「3世紀半ばから7世紀頃にかけて日本で築造された、墳丘をもつ墓」という意味で定着している。


こうした定義は、この先の研究や考古学上の発見によって、また変わるかもしれない。
実際、特に弥生時代終盤の墳丘墓は、古墳との違いがけっこう曖昧なのだ。

「古墳」ではない古代墳墓の例として、

弥生時代の墳丘をもつお墓は「弥生墳丘墓」。
出雲王国で流行したお墓の一形態として「四隅突出型墳丘墓」。
歴史が始まった飛鳥・奈良時代以降のお墓は「墳墓」。
北海道でその後10世紀まで続いた墳丘墓は「末期古墳」または「北海道式古墳」。


などと、なんだかややこしい感じで使い分けられていて、分かりにくいことこの上ない。
研究が進んで分類がもっと確かなものになったら、もう少しとっつきやすく整理してほしいな、と思う。




富雄丸山古墳を後にして

古墳を見学したらすぐに帰るつもりだったのだが、グーグルマップを見ると周辺(ほんの1キロ~5キロほどの範囲)に面白そうな、興味をひかれるスポットをたくさん見つけてしまった。
時刻はこのときまだ午後1時。

駅に向かう途中、少し遠回りしようかな、と思って寄り道を始めたのだが、これが甘かった。




奈良という土地は「ついでにちょっと」という気分で見て回るには、「あまりにも見所がありすぎる」のだ。

なんやかんやあって、結局帰宅したのは、夜の10時だった。




ダイジェスト




長くなりそうなので、この模様は機会をあらためて、またまとめようと思う。
今回はここまで。




リリさんにちょっと似ててかわいい






【2023/01/30追記】


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