2年前、ちありさんと出会ってからずーっとやりたかった、島根の「母里」を巡る旅。
今回はついにかなったその旅の模様を書きつづっていこうと思う。
出雲国風土記と「母里」の始まり
そもそも「母里」とはどういう土地なのか。
今から1310年前の西暦713年。
まだ奈良時代が始まったばかりのこの年、中央から地方国に対してこんな命令が出された。
「国ごとに、
『土地の名産品・特産品』
『土壌の肥え具合』
『山川原野の地名とその由来』
『古老の伝承』
をまとめた報告書を提出せよ」
「この際、地名については『縁起の良い漢字二字』にするべし」
後者は「好字二字令」と呼ばれ、これをきっかけにそれまで一文字や三文字だった地名の多くは(場合によっては無理矢理)二文字で記載されるようになった。
たとえば「はやし」という地名について、「林」だったのを「拝志」に変えたりしている。
阿波踊りで有名な阿波も、この時にそれまでの「粟」から「阿波」へと変更された。
日本の地名に漢字二文字が圧倒的に多い理由は、これが理由だ。
そして、そんな改名を含めたこの地方情報編纂プロジェクトは後に、「風土記」と呼ばれることになることになる。
自分は最近調べるまで風土記を昔ばなしや伝承がメインの書物だと思っていたが、それはあくまで内容の一項目に過ぎず、当時の「リアルタイムな地理・歴史・自然環境データ集」的なものだったらしい。
その土地への行き方、こういう歴史と伝承があって、何が名物で、周辺にはこういう町もあって、そこではこういうものが流行っている――
表面的な内容に限って言えば、現代の旅行ガイド本や観光情報誌に近い雰囲気さえある。
温泉情報が載っているのも、それっぽい。
「風土記」という言葉は、自分が旅に出るきっかけとなった「風雨来記」という作品のネーミングとも関わり深い。
ひとつところにとどまらない風来坊をイメージする「ふうらい」と、地域に根ざして土地と人のつながりを書き記す「風土記」。
本来相反するふたつを組み合わせた言葉であり概念が、「風雨来記」だった。
これはゲームのタイトルであると同時に、作中主人公の立てた北海道旅企画のタイトルでもあり、彼のウェブサイトの名前でもあった。
風土記に話を戻そう。
奈良時代、全国には50以上の国があってそれぞれの風土記が作られたと言われているが、時代の流れとともにそのほとんどが散逸してしまった。
そんな中で現存する最古の風土記――――
20年をかけて733年に完成し、1300年近くを経た現在までほぼ完全に残っている資料、それこそが「出雲国風土記」だ。
この出雲国風土記において、「母里郷」の紹介は本文のトップバッターとして登場する。
母理郷について
出雲国風土記 意宇郡条
天下をお造りになった大神である大穴持命(=大国主)が、越の八口(今の新潟県)の平定から帰ってきた際に、この土地にある長江山においでになってこう言った。
「自分が国作りをして治めてきた国は、天孫へとお任せすることにする。
ただ、八雲立つ出雲の国だけは、自分がおさまる土地として、青く木の茂った山を垣の如くめぐらせて、玉の如く大切に愛でて守り続けよう」
だから、文理と呼ぶのである。(726年に字を母理と改めた)
この記載から、「母里」という地名は元々「母理」と書き、さらに以前は「文理」と書いていて、もっとさかのぼれば「守護する」という意味での「モリ」が由来だったことがわかる。
(726年に字を改めた)という注釈がついているのは、例の「好字二字令」にあわせたものだろう。
とはいえ、少し不思議なところがある。
玉珍置賜而守。 詔。 故云文理。
「だから文理」という文脈が微妙につながらないように思う。
どうして「守」や「守理」ではなく、漢字は「文理」なのか。
「護」「衛」「鎮」「保」「森」「杜」など、何らかの形で誰かや何か、あるいは状態を「まもる」という意味のある字はたくさんあるのに、なぜ「文」の字が使われていたのだろう。
元も子もないようだが、地名由来というものはほとんどが郢書燕説や牽強付会――つまり後付けで良い感じにこじつけたもの、と考える研究家が多いようだ。
その観点から言えば今回の場合、モリという地名が来歴不詳で先につけられていて、後付けで「大国主が守り続けようと言った」という伝承が作られた可能性も少なくない。
あるいは、文理の方が本来の地名由来に即しているのかもしれない。
これはまあ、そう言われると説得力のある話だ。
人間は、想像力を膨らませて、見える世界に意味を見出したがるもの。
奇岩や洞窟、巨木、山や河川、美しい泉、特殊な地形―――そうした自然物に神を見出して物語を付加するのと同じように、先祖がなんとなく呼び始めて定着した地名に、何世代も後の子孫が物語を想像・創作・付加するなんてこともきっと普遍的に起こっていたのだろう。
だが今回自分はもうちょっと別の視点で想像してみたい。
大国主が愛し守り続けようと言ったから、この土地はモリと呼ばれる様になった。
この伝承を一旦信じてみよう。
その上で以下は自分の想像だが、モリの由来となった大国主の時代には文字自体がなかったから、最初はただ「モリ」という地名と伝承だけが伝わっていた。
その後数百年がたって飛鳥時代~奈良時代になった頃に、地名を記録するために漢字をあてる必要が生じた。
当時はまだまだ、漢字を扱えたのはごく一部のエリートだけだったらしい。
当然最初に「文理」という漢字をあてたのは、それを扱えるえらい役人か学者、首長クラスの有力者などだろう。
少なくともそこに暮らす、地名由来を知る村人ではないはずだ。
それで、そのエリートが「モリと言う地名ならこの字でいこう」と自分の知識やセンスで字をあてた結果が「文理」だったんじゃないだろうか。
あるいはまた別の視点。
地名の由来にあわせて意味の合う漢字をあてることは当時優先度が低かった。
それまで字がなかったところに字が入ってきて、国内に膨大に存在するすべての地名に字をあてていかねばならないのだから無理もない。
近代でも、諸外国の膨大な情報が入ってきたときは同じ様なことをしている。
外国語の国名について、音だけをとって亜米利加と言う字をあてたり。
加奈陀、伯剌西爾、西班牙、葡萄牙……国名由来にあわせる気なんてかけらもない。
ニューヨークを紐育と書いたり、ベルリンを伯林と表記することは無理矢理に感じるけれど、おそらくこれと同程度のこじつけが、かつての日本に漢字が導入されたときにもあったはずだ。
「ポルトガル」の国名を漢字で「葡萄牙」と書くことについてなんでそんな変な字を、と疑問を抱いてしまうけれど、実際のポルトガルの発音を聞くと感心してしまう。
確かに、「ブドゥガ」と聞こえるのだ。
だから、「文理」の字も案外、当時の発音を正確に表記した結果の当て字なのかもしれない。
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個人的には「文理」の字の来歴よりも、改称の際に「母」という漢字が選ばれた理由の方がもっと気になる。
こちらは明らかに、文中に併記された地名由来を意識した上で、何らかの意図をもってあてられた字のはずだからだ。
「玉のごとく愛で守る」という字面のイメージだけを追えば「母」の字をあてるのも分かるが、その言葉を語ったのは大国主だと考えると辻褄が合わない。
なぜ、いったいどこからどういう理由で「母」の字がやって来たのか。
風土記の中には、これについての掘り下げはない。
この疑問については、地図を広げ、実際に現地を旅しながら考えをめぐらせてみることにしよう。
安来市伯太町母里の旅
風土記の時代にはある程度広い範囲を指していた出雲国の「母理郷」だが、風土記の時代以降、「母理(母里)」と呼ばれる範囲は縮小していって、母里村と呼ばれるひとつの村だけが残った。
昭和初期までは「島根県能義郡母里村」として、戦後の合併で「伯太町母里」、その後平成の再合併で現在は「安来市伯太町東母里/西母里」となっている。
中海に面した安来の市街地から、小一時間ほど南下していくと、母里に到着した。
道路からもひときわ目立つ「母里の風車」がランドマークだ。
道路標識には、「安来市伯太町東母里」とある。
東母里には伯太町時代、町役場があったそうだ。
幹線道路の県道9号線が通っている。
一方、伯太川という川を挟んで反対側の西母里には、小学校や図書館などの公共施設があるようだ。
江戸時代、母里藩の各種施設や城下町があったのも西母里らしい。
ちょっと面白いことに、東母里には東八幡、西母里には西八幡と別々の八幡宮が鎮座ましましている。
川を挟んで反対側は隣村、という距離感だったのだろうか。
まずは東母里から、順番に見ていこう。
母里の風車
母里の風車。
春には風車前の畑には一面チューリップが咲き誇って、多くの観光客で賑わうそうだ。
この風車は浄水場の付属施設らしく、周辺は公園になっている。
そんな風車から、道路を挟んで反対側へ目をうつしてみると。
風車の向かい側はこの通り見事な田んぼが広がっている。
奥には風土記で記述された通りの、まるで青い垣をめぐらせたような山。
とてものどかな光景だ。
とはいえ、道路の通行量はそこそこ多く、景色に見とれて道路に飛び出さないよう注意しなくてはいけない。
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住宅地のほうを少し歩いて行くと、ふと周囲の風景が引っかかって立ち止まる。
何の変哲もない……と言えばそう言えるけれど、微妙に違和感があると言えばある。
なんだろう、この違和感。
車が二台通れるくらいの、微妙に幅の広い道。
その道ばたに不思議なスペースがある。
田んぼと道路に挟まれた、空き地とも言えないほどの小さな空間。
タイヤに囲われて、小さな草木が植えられている。
家のお庭……というにも違和感ある構造。
???
少し離れてみてみる。
石垣で、周囲より少しだけ高く盛られている。
元々家があった、とかだろうか。
それにしてはやけに幅が細くて、長い。
近くに住民の人でも歩いていれば訊いてみたいところだが、残念ながら誰の姿もなかった。
こんなときは、ネットに頼ってみよう。
スマホで調べてみると、まもなく答えは見つかった。
世の旅人の中には、廃線マニアという人種がいる。
廃線となった路線の遺物や施設跡などを巡ったり、線路のあった場所を探索したりして、往事を偲び思いを馳せるのを好む人々だ。
そうした旅人が書き残したブログのひとつに、「母里駅」の存在が書かれていた。
母里駅
大正13年、法勝寺鉄道という鉄道路線が誕生した。
当初は、鳥取県米子から同県の法勝寺までを結んでいたが、その後6年かけて隣の島根県までの支線を開通させた。
これが「法勝寺電鉄線 母里支線」で、ここはつまりその終点「母里駅」のホーム跡なのだ!
そう認識してあらためて見てみると、ホームに上がる階段が残っているように思える。
何の気なしに歩いていたこの広めの道も、元々は線路が敷かれていたんだろう。
ここに限らず、法勝寺電鉄の廃線跡の多くは、そのまま道路に転用されているのだそうだ。
鉄道路線は適度な道幅があって平らで頑丈だから、道路として使いまわししやすいんだろう。
このあたりに駅舎があったらしい。
ここは駅前通りだったようだ。
ただ普通に歩いているだけでは、ここに駅があったなんて気づける人はほぼいないだろう。
廃線となったのは昭和19年だそうだ。
1944年。80年前……
そう考えると逆に、未だこうやって、取り壊されたりして他の用途に使われることなく、遺構がある程度形を保ったまま遺されているのは奇跡的なことのようにも思える。
地図をみてみる。
中央を縦に結ぶ点線は、鳥取と島根の県境だ。
地図の右下に法勝寺の地名が見える。
このあたりが法勝寺鉄道の本線終点。
一方、地図の右上、コメリがあるあたりから左側に六角形の1マーク=県道1号線が見える。
ここが母里支線の分岐で、県道1号線のこの区間は、鉄道の廃線跡を利用した道路となっているそうだ。
バイクを走らせて現地を訪れてみると―――
なるほど言われてみればという感じで、やけに平坦かつ幅広、カーブもゆるやかな道路が続く。
そして道路脇には……
母里支線の遺構である石積みがひっそりと残されている。
振りかえってみれば風雨来記4でも、廃線跡の駅跡は初プレイの際に一番最初に訪れた印象的なスポットだった。
自分自身の旅でも、期せずしてこうした発見をできたのはとても面白い体験だ。
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ところで、鉄道とは関係ないがこの付近にはちょっと面白い神社があった。
朽ちかけた鳥居が不思議な雰囲気をかもしだしている、印象的な神社だ。
地図によれば「木野山神社」と言うお社だそうだが、ネットではこれといった資料は見つからず、由緒書きなどもないので詳しいことは分からない。
ネット検索すると、木野山神社と呼ばれる社は全国に広く存在する。
これは、明治時代にコレラが大流行した際、疫病退散の御利益があると人気だったことが関係しているようだ。
木野山神は狼を使いとするため、木野山神社では狛犬ではなく「狛狼」が置かれているのが特徴だという。
……
どうもこの神社はそういう雰囲気では無い気もする。
人里を少し離れた野山に囲まれた立地からして、どちらかといえば木野山の名前通り、自然そのものを祀っているような雰囲気がある。
神社のほとりには、
小さな池がある。
この池についても詳しいことは分からないが、地図をみるとこの池から流れ出している川があって、「蛇喰川」という名前がついている。
あきらかに、何らかの 伝承に関連していそうな名称だ。
この神社はその伝承にちなんだ神様が祀られているのかもしれない。
母里藩の城下町
東母里から橋を渡って伯太川の対岸、西母里へ移動した。
こちらは母里藩の城下町だったらしい。
母里藩は、1666年に松江藩から枝分かれした藩だ。
整然と並んだ歴史ある家並みが美しい。
学校や公民館など、公共施設が集まっている。
静かな住宅街の裏手には用水路が流れていた。
地面には、十数匹のハグロトンボが休んでいて、こちらが近づくと次々に飛び立って周囲の草花や枝に移っていった。
このトンボは普通のトンボと違って、チョウのようにフワフワユラユラぱたぱたと軽やかに舞うこと、まるで合掌をするように羽根を開いたり閉じたりを繰り返すことなどが特徴的だ。
その神秘的で幻想的な所作や、7月~8月の時期に姿をあらわすことからから神様トンボや仏トンボ、極楽トンボなどとも呼ばれ、縁起の良い虫とされている。
神社の境内や綺麗な水辺などで見る事はあるけれど、住宅街の裏道で、こんなにたくさんのハグロトンボが飛んでいるのはちょっと非現実的な光景だった。
家々からパイプが出ているが、きっと昔、公害とか環境問題が意識される以前は排水をここから出していんだろう。そのための用水路だったはずだ。
それが上下水道の発達で排出されなくなり、結果用水路が綺麗になって――
おまけに家々に囲まれているおかげで一日中日が差し込みにくく日陰が保たれる立地というのも相まって、ハグロトンボがすみつくに至っているんだろう。
南の外れには、西母里八幡宮。
綺麗に掃除が行き届いた、立派で雰囲気のある神社だ。
西母里には西八幡宮、東母里には東八幡宮がある。
伯太川は「ハクタ川」と読むが、もともとこの地域では「ハタ川」と呼ばれていたそうだ。
八幡をヤハタと読む地域は現在でも多い。
ハタ川を挟んで東西に八幡宮があることは何か関係があるのかもしれない。
もしかすると、元々は地図上の東西というより、ハタ川を基準とした西の宮、東の宮という意味だったり……なんて想像してみたりもする。
調べてみると、東八幡宮は鎌倉時代前後、西八幡宮は室町時代と200年以上間があって別々の事情で建てられたのだそうだ。
出雲の神々のお膝元ということもあって紆余曲折あったのだろうが、東西併せて母里の氏神「両八幡宮」として、今も地域では厚く信仰されているようだ。
なお、西八幡宮の境内には稲荷神社もあった。
他ではみないなかなか不思議なお姿をした狐像が出迎えてくれた。
それは…
毛量多めのお耳としっぽがチャーミング。
母里県の県庁所在地?
現在、母里小学校・中学校があるあたりが、母里藩の中心地だったそうだ。
というよりも、母里藩の跡地を学校の敷地として転用したのかもしれない。
この地域は、明治初期には「母里県」というひとつの県だったことがある。
廃藩置県直後はそれまでの藩をそのまま県に置き換えたので、現在の47都道府県の約6倍、3府302県にものぼった。
つまり、その時あった「母里藩」がそのまま「母里県」になったわけだ。
もちろんこれは一時的な措置で、わずか数ヶ月後には整理統合されて、母里県は島根県の一部になった。
それでも、ほんの一時期だけでも「県」だったことがあるという事実自体がなかなか面白い。
今となってはただ静かでのどかな田園風景という感じで、「藩」や「県」という地域行政の中心部だったという雰囲気は感じられない。
ただ、母里藩の跡地である中学校前にひっそりと、かつてここに藩の館があったことを伝える碑が建っているのみだ。
青垣山の神社
さて、母里を発つ前にもう一カ所、東母里で訪れたい神社があった。
東母里の中央部にあるなだらかな山「青垣山」にある「青垣神社」だ。
母里と青垣山。
出雲国風土記の記述、大国主の「青く木の茂った山を垣の如くめぐらせて、玉の如く愛でに愛でまもり続けよう」という伝承を機に成立した地名だと言うことが伺える。
青垣山はまさに、「垣をめぐらせたような」おもしろいかたちの山だ。
この青垣山に、「青垣神社」という古い神社があるそうだ。
しかし、「青垣山→」 という看板の指し示す方向を見ても、入り口らしきものが見つからない。
もしかしてこれが入り口かな?と思える獣道のようなものはあるけれど、バリケードが張ってある。
私有地っぽくみえるし、さすがに勝手に入る気にはなれない。
角度を変えてよく見ると、奥に石段のようなものが見える。
やっぱり青垣神社はこの奥で間違いなさそうだが、入り口が分からない。
一度大きく離れて、道らしきものをよく探してみるが、結果は同じ。
カメラの望遠レンズでのぞくと、社殿らしきものは見える。
暗い森の中で輝いているように見えて神々しい。
なのに入り口は見つからないのがもどかしい。
……もしかして地元の人しか入れない神社なんだろうか。
こういうときは地元の人に聞いてみるに限る。
山のすぐそばにある民家のインターホンを押して、たずねてみた。すると、
「ああ、神社ですか。参拝していただいて大丈夫ですよ。小屋の横に道があります」とのこと。
「入り口らしきところにバリケードがあって、立ち入れないように封鎖してあったんですが……」と打ち明けると、ちょっと間があったあとに「ああ!違います。あれはイノシシ除けですよ」と笑い声まじりの返答。
なるほど!
言われてみれば、人間はまたげるけどイノシシは越えられない高さだった。
気をとり直してイノシシ除けの柵を越え、神社へ向かう。
木陰に入るとものすごく心地の良い風が吹いて、汗が吹き飛んでいく。
石段を登り始めて30秒、山腹にある、よく手入れのされた社殿につくと、早速お参りさせていただいた。
参拝がすんだのであらためて社殿をよくみると、不思議なことに、千木が女千木だ。
本殿の屋根の上にある木の装飾を千木という。
この千木の先端を外(縦・垂直)に削いである場合は「男千木」で男の神様を祀り、内(横・水平)に削いである場合はそこには女神様が祀られていることが多いため「女千木」と呼ぶ。
この男千木、女千木という概念は俗説というか、神道において明確に決まっているルールではない。
そのため、男女の区別ではなくたとえば「天津神と国津神」のように、神様の属性を示しているとか、色々な説がある。
ただ、自分がこれまで千社以上見てきた経験上で言えば、八~九割くらいはその神社で祀られている神様の性別と千木の形状が一致していた。
特に記紀神話で性別がはっきりしている神様に関しては顕著で、たとえば天照大神を主祭神としている神社の本殿千木は、経験上99%女千木が採用されていた。(100カ所中一カ所くらいは例外がある)
大国主やスサノオであれば、99%男千木だ。
一方、神話で性別が不明な神様や、その地域独自の神様、複数の神様を併せてお祭りしている神社などに関しては千木と性別はリンクしないことが多い。
たとえば稲荷神社などがそうで、祭神ウカノミタマは女神と考えられているが記紀に明確な性別記載がないからか、それとも他になんらかの理由があるのか、外削ぎ千木が基本だ。
青垣山神社にまつられているのは大穴持命、つまり大国主と聞いていた。
ならば、外削ぎの千木が採用されることがほとんどのはずだが、ここは内削ぎの女千木。
少し不思議に思う。
何か理由があるんだろうか。
何らかの意図があってあえてこの千木を選んだか、あるいは、元々は大国主ではなく、何らかの女神を主祭神としていた神社だったのか。
この「青垣神社」の由来は不詳だという。
ただ、古くから「守留布神社」と呼ばれていたという伝承がある。
「守留布神社」という名前は、平安時代の「全国神社名鑑」的な書物である延喜式神名帳に記述があるので、伝承通りならば1000年以上の歴史のある神社……の可能性がある。
ところが、この「守留布神社」は、明治時代に一度消滅している。
明治時代、開国の波の中で「信仰の自由」を認める必要が出てきた際、明治政府は日本の神道を「選択肢の数多ある宗教のひとつ」ではなく、「日本人の根幹となる文化・習俗・こころ・国民の共有財産」として確立するために国の管轄とした。
そして、多くの整備・洗練――神仏分離や社格制度などが行われた。
現在、日本全国津々浦々、観光客や部外者であっても訪れた先の神社に自由に、かつ二拝二拍手一礼という決まった形式で参拝することができるのは、このときの政策の賜物とも言える。
そんな動きの中で、賛否両論があがったのが「合祀令」だ。
これはざっくり説明すると「小さな神社がたくさんあるより、ひとつにまとめた方が立派にできるし合理的である。神道は国家事業だから、これに協力してくれれば地方財源から神社運営費を出せるようになる」という感じの政策で、一見暴論のようだが仕方がない部分もあったらしい。
江戸時代は、各地で里人が御利益を求めて次から次へといろいろな神様を(勝手に)勧請して、思い思いの場所に祀るのが流行したようで、神社の数が爆発的に増加した。
あまりに無計画に増やしたものだから管理しきれなくなって、神社というより手作りの祠みたいなものも多くなり収拾がつかない状態だった。
そうしたすべての神社にまわせるほどの財源は無い。
そこで、由緒のよくわからないものはこれを機に合祀して神社の総数を減らすことで、限りある財源でまかなえるようにしようとしたのだ。
今では神社と言えば鳥居がつきものだが、明治時代は社格の高い神社にはあっても小さな神社には鳥居がないのが当たり前の風景だった。
これは単純に、神社が多すぎてすべてに鳥居を建てるお金が足りなかったからだ。
「神社と言えばどこに行っても鳥居があるのが当たり前」という現在の神社の風景が明治~大正~昭和初期にかけて形作られていったのだという。
合祀令について、裁量は各都府県知事に任されたようだが、地域によってはかなり強力な効果があったようだ。
わずか10年ほどで、全国に20万社ほどあった神社は三分の二に減った。
特に顕著なのが大阪府や三重県で、大阪では五割以上の神社が消失、三重では1万社がなんと1千社へと激減した記録がある。
もちろん当時も民俗学者南方熊楠のような文化人や、取りつぶされることになった神社の氏子たちによる反対運動はあったそうだが、色々なものがめまぐるしく新しく変わる改革の時代の中で「古いものは壊して前に進む」という姿勢について、全体としてはポジティブにとらえる人も多かったのも確かだろう。
これは同時期に各地のお城・天守閣が取り壊されたこととも通じることで、廃城令によって、各地のお城が軍用地や学校用地に転用されたり、民間に売り払われたりした。
現代では世界遺産となった姫路城でさえ、運良く天守閣が残ったのは売ってもたいしてお金にならない上に壊せばもっと赤字だったから……といわれている。
明治政府が「姫路城の天守閣」をオークションに出した際、たったの「23円50銭(現代円にして約10~40万円)」で落札されたと言う真偽不明のウワサが流れたほどだ。
国を挙げて前へ前へ未来へと進んでいこう、新しいものを取り入れようとする力・意識が強すぎたせいで、なかなか足下の、価値あるものが見えづらい時代でもあったのだろう。
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青垣神社の話に戻るが、青垣神社(守留布神社)もまた、明治43年に同じ東母里にある氏神「東八幡宮」に合祀されてしまった。
守留布神社という名は、延喜式神名帳に記載がある。
延喜式記載の由緒正しい神社が合併の憂き目にあうことは本来ない。
ところが、よく似た名前の「宇留布神社」が松江にあって、そちらこそが神名帳に載っている「守留布神社」の比定社であると役人に判断されてしまったらしい。
「ふたつは要らないからそっちは合併」
そういうわけで、青垣神社(守留布神社)はなくなってしまった。
母里八幡宮のウェブページによれば、東八幡宮にはこのときに青垣神社を含めて12の神社が合祀、西八幡宮には10の神社が合祀されたとある。
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それでもやはり、地域住民からすれば自分達の大切な神様だから戻して欲しいという願いがあったようで、合祀したという体裁をとりつつも、その後も本来の境内は大切に守られていたとか。
そして、時期や経緯は定かではないものの、いつの間にか青垣山の社殿は再興されて現代に至っている。
このあたりは書物によって記述がまちまちらしい。
「青垣神社」と「守留布神社」は元々別の神社で、守留布神社が無くなってしばらくしてから、他の場所にあった青垣神社を守留布神社跡地に移してきた、と読めるものもあるようだ。
現在の青垣神社の本殿に女千木が採用されていることを考えると、どちらかの神社の元々の御祭神は女神だった……という可能性も考えられる。
ともあれ、確かなのは、今現在の青垣神社(守留布神社)の御祭神は「天下所造大神である大穴持命」(=大国主)だということだ。
母里の地名由来伝承、青垣山、そして青垣神社。
出雲国風土記の記述を彷彿とさせてくれる地名と環境、風景。
古代へのロマンをかきたててくれる、素敵なスポットだった。
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余談だが、青垣山の裏手には100円で美味しいあまざけを買える無人販売所があった。
元々あまざけは夏に飲む飲料で、当時のエナジードリンクみたいな存在だったときく。
超がつくほど暑い中いただいたよく冷えたあまざけは自然な甘さとコクが本当に美味しくて、思わずおかわりをしてしまったほどだ。
それでも2杯で200円。
家の近くにあったなら日常的に愛飲したいくらいだ。
出雲国風土記の「母理」へ
今回訪れた「母里」は、出雲国風土記に残る「母理」の地名を「現在まで残してきた土地」だ。
しかし、すでに書いたように風土記編纂当時の「母理郷」はもっと広い範囲を指していた。
「伯太町母里」からさらに南に進んだところに、長江山がある。
それは、出雲国風土記に記述がある山だ。
母理郷について
出雲国風土記 意宇郡条
天下をお造りになった大神である大穴持命(=大国主)が、越の八口(今の新潟県)を平定して帰ってきた際に、この土地にある長江山においでになってこう言った。
「自分が国作りをして治めてきた国は、天孫へとお任せすることにする。
ただ、八雲立つ出雲の国だけは、自分がおさまる土地として、青く木の茂った山を垣の如くめぐらせて、玉の如く大切に愛で守り続けよう」
だから、文理と呼ぶのである。(726年に字を母理と改めた)
長江山、現在は「永江山」と書くそうだが、そこには稚児岩という巨岩があり、大国主はその上に立って出雲の世界を見渡しながら上記の宣言をしたと言う。
であればつまり、その場所こそ母里発祥の地といえる。
そして、もうひとつ。
今回の記事の冒頭で挙げた、もともとは文理だったモリに「母」の字があてられたのはなぜかという疑問。
それは、この地域で存在感の強い、ある「女神」が関係しているのかもしれない。
雲伯と呼ばれる、島根(出雲)と鳥取(伯耆)の県境付近の地域で古くから信仰される女神……いや、「母神」イザナミだ。
その陵墓の候補地のひとつとされる遺跡が、母里からバイクで10分ほどのところに存在する。
……厳密には、バイクで10分にプラスして徒歩1時間ほどの山上に。
というわけで、訪れるべきところはまだまだ多い。
南へ。
母里を巡る旅はさらに続く。
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