今回は、島根の旅の中で旧母里郷(現在の島根県安来市伯太町)を巡った記録のつづき。
「比婆山久米神社」の探訪を書いていく。
前回
雲伯の堺は「ははのくに」
軽く前回調べたことのおさらいをしておこう。
出雲国風土記において、母里郷の所在した「意宇(おう)郡」は、出雲国の創世神話である「国引き」を行ったヤツカミズオミツヌノミコトが国土を築いた末に、「意恵」(終えた!)と言ったことを地名由来としている。
意宇郡は、その後平安時代まで、出雲国の行政機関(国府)が置かれた国の中心地だった。
そして母里郷は、「天の下を造った大神オオナモチ(日本神話で言う大国主)」が「これまで自分が築いてきた国々は皇孫に譲り、八雲立つ出雲の土地だけは自分自身で宝石のように大切に守り続けていこう」と宣言した場所で、「まもり」が「文理」→「母理」と変遷していったと記述されている。
つまり母里周辺の土地は、「国引き(国土創世)」と「国作り(開拓と平定)」、出雲の歴史のふたつの終焉の舞台となった場所なわけだ。
もうひとつ特徴的なのが、意宇郡の東側では、隣国の伯耆国と隣接していることだ。
南方にあるさらに母里郷では東だけでなく、南の国境も伯耆国に面している。
伯耆は、山陰の諸国の中でも特に出雲との文化的な共通点が多い(遺跡や方言、神話等)土地で、出雲と伯耆を併せた「雲伯地方」という呼称もあるほどだ。
出雲国風土記の国引き神話では、この地域から見える中国地方最大の山「大山」を火神岳と呼び、他所からひっぱってきた土地をつなぎとめる杭とした。
伯耆国風土記そのものは現存していないが、古文献の中には伯耆国風土記からの「引用文」(逸文)が残っているケースがあり、その中に出雲国風土記では全く触れられない「ヤマタノオロチ伝説」について言及しているものが存在する。
一次資料ではないのであくまで参考程度に考えるのがいいかもしれないが、それによれば伯耆国の由来は、
「テナヅチ、アシナヅチの娘のイナダヒメがヤマタノオロチから逃げて山に隠れた際、母が遅れたので『母来ませ、母来ませ』と呼んだ。ここから母来となり、後に伯耆となった」
ということだそうだ。
奈良時代以前のハ行の発音は「パ」だったとされるので、「母来」は「パパキ」と発音したのかもしれない。
また、「ハハ」は、母以外にも、大蛇を指す言葉でもあった。
スサノオがヤマタノオロチを退治した剣も、アメノハハキリと呼ばれている。
「ハハキ」と言う言葉は「母よ来い」と同時に「蛇が来る」という意味でもあったんだろうか。
「母」と言えばもうひとつ、スサノオの「母神」の記述も、この土地を考える上で重要だ。
古事記においてスサノオは高天原にいたとき、母であるイザナミに逢いたいとだだをこねて大泣きし、イザナギを激怒させている。
その後も姉であるアマテラスに対して問題行動を起こし続けた結果追放されてしまったスサノオがたどりついた場所が出雲だったのは、元々は亡き母親に会うためだったのかもしれない。
というのも、古事記において、火の神を出産したことで命を落としたイザナミの亡骸は出雲国と伯耆国の境にある比婆の山に葬られた、とされるからだ。
そのため現在でも、境に近い雲伯地域にはこここそがイザナミが葬られた場所じゃないかと伝わる山や陵墓が点在している。
▽イザナミの陵墓と伝承される土地の一部
その後大国主の時代になり、大国主が黄泉比良坂を通って訪れた地下世界「根の堅洲国」でスサノオと出会った際に、スサノオは根の国のことを「妣國」と発言する。
妣は、「亡くなった母」を意味する字だ。
伯耆の国の語源の「はは」も、イザナミを意味する「妣」だった可能性もある。
出雲と深い関わりを持つスサノオの母「イザナミ」。
あるいはその妻イナダヒメの母「アシナヅチ」。
それとも、他の母的性質を持つ神さま。
たとえば大国主の母親「サシクニワカヒメ」や、大地の母とも言える「ハニヤスヒメ」。
はたまた、今では忘れられてしまった上古……縄文時代の女神達。
「妣國」。
そうした「母」を象徴するような信仰や伝承が古くからこの土地に根付いていたからこそ、「文理」だった郷に「母」の字があてられるようになったのだと想像するのは、割と自然な思考の流れじゃないだろうか。
比婆山久米神社
伯太町母里からバイクで十数分も走れば、イザナミが眠る地と伝えられる地のひとつ、比婆山が見えてくる。
広島県にも比婆山はあるが、今回は島根の比婆山だ。
この山は、道路からでもすぐに分かった。
山そのものの形ではなく、山肌が個性的なのだ。
思わず「おー!」と歓声をあげてしまった。
以前の投稿でも書いたとおり、この不思議な造形は火山活動の影響によるもので、玄武岩の柱状節理。
地中から溢れたマグマが冷えて固まって出来た地質だ。
自分は柱状節理という言葉を、風雨来記4で覚えた。
岐阜にある、巌立(こちらは安山岩の柱状節理)がそれだ。
比婆山の柱状節理は近づくとコンパスが逆転するミステリースポットだが、この理由についてはすでに科学的に解明されている。
1929年、「地球の地磁気(南北)は頻繁に逆転しているかもしれない」という論文を、日本人の松山教授という人が発表した。
これは彼がその数年前に、山陰にある観光名所「玄武洞」の岩石が現在とは逆の磁気を帯びていたことを発見したのがきっかけだった。
マグマが冷えて固まった岩石は、天然の磁石になる場合があるのだが、なぜ玄武洞のそれは、磁気が逆向きなのか。
松山教授はその後、国内外36か所の火山成岩を調査した。(比婆山もそこに含まれていたかもしれない)
結果、逆転磁気を帯びる岩質を他にも発見し、研究を進めて論文発表に至った。
ちょっと壮大すぎるスケールの話で、これが発表されたとき研究者達の間でもかなり懐疑的な反応だったらしいが、現在では、地球の磁気はこれまでもずっと数十万年に一度のペースで北と南がひっくり返ってきたことがあきらかになっている。
詳しくは「地磁気逆転」で検索して調べてもらえればと思う。
なぜ磁場が反転するのかはまだはっきりわかっていないし、次にそれが起こった時に人類文明や地球環境にどういう影響があるのかも判然としていない、今なお地球のミステリーのひとつだ。
コンパスを狂わせる比婆山の柱状節理は、今とは地球の磁気が逆だった時代に生まれた火成岩、ということになる。
火の神を産んだことが原因で命を失ったイザナミが、火山が冷えて形成された土地に眠っているというのは不思議な縁を感じてなかなか趣深い。
さて、そんな比婆山だが、山頂にある比婆山久米神社=イザナミの陵墓を参拝するための登山口は、ふたつある。
北にある「比婆山久米神社里宮」の登山口と、南にある「峠ノ内参道」と呼ばれる登山口だ。
北側ルートだと、里宮の境内にある登山口から登ることになる。
こちらは、けっこうきつめのコースらしい。
もう一方、南側の登山口まではバイクで数分の距離だ。
こちらは比較的登山初心者向けのコースだそうだ。
今回はこのルートから参拝することにした。
登りはじめてすぐ、ちょっとした滝が出迎えてくれた。
不動の滝と名前がついている。
ベンチがあったので一休みしつつ、沢水に手をつけて、顔を洗わせてもらう。
思っていたよりずいぶん冷たい水だ。
岩や地中から染みだしてから短い距離でここに到達しているんだろう。
そこから十分も歩いて、この道を選んだことを少し後悔しはじめた。
えらく整備されている。
コンクリート道路に防護柵。
殺風景な車道がずっと続いていた。
風景に面白みがない……
もしかしてこのルートは山頂付近までずっとこうなんだろうか。
北側のルートを選んだ方がよかったかも。
そんなことを思いながらてくてく歩き続けると、行程の半分くらいまで行ったところで、
ようやく車道は途切れて、雰囲気ががらりと変わる。
ちゃんと手入れされた、歩きやすい山道、いや参道だ。
ここからの道中の風景はなかなか面白かった。
シダ類やササに覆われた道の脇に小さな池があったり、
母里藩主が植えたと言う大きな木が立っていたり、
イザナギ・イザナミにちなんだものだろう夫婦岩。
そして、以前から興味を持っていた、「陰陽竹」とも出会うことが出来た。
竹は、「かぐや姫」のイメージが強く和風景の象徴とも言える植物だが、稲と同じく日本に元々なかった植物で、縄文時代以降、人の営みとともに大陸から持ち込まれて根付いたものだ。
温暖な平地ではすさまじい繁殖力と成長力を発揮して、日本の「原風景」を創り上げていった。
一方、笹は日本在来の植物。
両者の違いは、竹は軸が筒のように太く、笹は草の茎のように細い。
また、笹は寒冷地に強く、竹は弱いため、標高が高い場所や北国は笹ばかりになる。
(北海道でタケノコと言うとピンク色の細長いヒメダケをさすが、あれはチシマザサ(クマザサ)の子なので厳密にはササノコである)
生物学的には、成長しても幹に皮がひっついたままなのが笹、綺麗に皮が剝けて幹が向きだしになるものが竹、というような素人にはよく分からない分類がされているそうだ。
竹と笹は同じイネ科タケ亜科に分類されているが、遺伝子的に離れた別種の植物だ。
イヌ亜科に分類されているイヌとキツネくらいには、遠い生き物らしい。
基本的に、交雑はしないし、万が一したとしても繁殖能力を持たない。
にもかかわらずこの陰陽竹は、見た目だけじゃなく遺伝子レベルで本来混ざらないはずの竹と笹がミックスした状態で繁殖しているという、非常にレアなケースなのだそうだ。
現在自然下で存在するのは、世界でもこの比婆山山頂付近のみということで、ヒバノバンブーサという学名がつけられていて、島根県の天然記念物に指定されている。
この地方の伝承では、イザナミが出産のためにこの山を訪れた際に杖にしたタケがそのままこの山に根づいたといい、このタケを杖にすると安産に恵まれるとか、蛇が寄りつかなくなるなどの言い伝えも残っているそうだ。
登り始めてから30分ちょっとで、木々の向こうに立派なお社が見えてきた。
比婆山久米神社「奥の宮」だ。
山頂は常に風雨にさらされるのだろう、案内板の文字はかすれて読むことができない。
そこにまた趣を感じつつ、早速拝殿へ参拝する。
まずは神様へ、ここまで無事来られたことの感謝とご挨拶をしておこう。
お参りのあと、周囲を探索してみる。
神社の裏側は、古墳なのだろうか、小さな丘のような盛り土があって、「伊邪那美大神御神陵」として祀られていた。
御神陵の周囲を囲う壁板には、小さな文字で端から端までびっしりと、(おそらく)神社改築の際に寄進した人々の名前が手書きで記されている。
ぐるり一周、すべての壁板に。
一体どれくらいの人数になるのかわからないくらい、とにかくたくさんだ。
歩いて登るしかない山の上に、これだけ立派な神社が建っていることを考えても、古くからとても信仰の厚い神社だったことがわかる。
かつては山頂にもかかわらずこの付近で湧き水が湧いていたらしく、この水を飲むと母乳が出る、子供の産湯に使うとその子は一生元気で健やかに暮らせると、参拝する人々が絶えなかったそうだ。
この井戸の名前が……ちょっと直球過ぎるので、wikipediaで確認していただきたい。
山頂から、神社とは反対側の斜面を少し下ったところには霊石「玉抱石」が見られるらしい。
「玉抱石」がいかなるものかわからなかったが、百聞は一見にしかず。
行って確かめてみよう。
数十メートルほど進んだところで、穴が空いた石が群れをなして転がっている場所に出た。
これが「玉抱石」だろうか。
人工的に空けた穴にも、自然に出来たもののようにも見える。
じっと立ち止まって目を凝らすと、そこにも、ここにも――
至るところに「玉抱石」がある。
不思議な光景だ。
渓流なんかに行くと、甌穴と言って、小さなくぼみに小石が入りこんで水の流れでそのくぼみをけずって丸い穴ができることがあるけれど、これはそういう感じでもなさそうだ。
まるで傘の先で、土を突いたあとのような感じの穴。
それが石の色んな面に無造作に空いている。
どうやってできたものなんだろう。
比婆山久米神社の信仰において、この玉抱石は子授かりの重要な神績なのだそうだ。
子供に恵まれない人がこの石に触れてイザナミノミコトに祈願することで、石に空いた穴から飛び出した神気がお腹の中に宿り、玉のような子供になって産まれてくる。
そんな伝承が残っている。
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出雲を旅していて疑問に思ったことがあった。
現代の出雲では、イザナギやイザナミの「存在感」は、意外と大きい。
すでに書いたようにイザナミの墓候補地が片手で数え切れないほどあるし、あの世とこの世の境目と言われる黄泉比良坂のような神話に登場する伝承地もあったり、イザナギやイザナミを主祭神としている神社もけっこう目にした。
にもかかわらず、奈良時代の書物である「出雲国風土記」ではイザナギ、イザナミの記述は非常に少ない。全体的に影が薄い。
これがなんだかチグハグに感じたのだ。
ひょっとして、出雲におけるイザナギやイザナミに関する神社や伝承は、風土記よりもあとの時代になって日本神話が浸透する中、後付けで作られたものなんだろうか。
けれど、さらによくよく調べてみると、決してすべてがそうだとも言い切れないようだ。
たとえば、出雲国風土記でイザナギは「出雲でもっとも偉い神社」に関わる神として、名前だけが示されている。
この意味を考えてみよう。
熊野のイザナギ、古志のイザナミ
「出雲で最も偉い神社」といえば、一般的には「出雲大社」が突出して有名だ。
知名度において、伊勢神宮に並ぶ日本を代表する神社のひとつ。
だが、そんな出雲大社と「同じくらいえらい」神社が、出雲にはもうひとつあることを、恥ずかしながら自分は今回の旅ではじめて知った。
「熊野大社」がそうだ。
出雲国風土記の大きな特徴のひとつに、「当時の出雲にあった神社を、大小すべて網羅している」ことがある。その数399社。
その中で、「大社」と表記されるのは出雲郡の杵築大社(現・出雲大社)と、意宇郡の熊野大社だけ。
まさに別格扱いだ。
その後の平安~鎌倉時代になっても、出雲大社(当時の名前は杵築大社)と熊野大社はどちらも「出雲国一ノ宮」、つまり「同格」に扱われていた。
ここまでは資料的な「事実」だ。
ではなぜこのような2トップ体制になっているかというと……自分が調べた限りではいくつかの説があるようだ。
面白そうな説をふたつほど挙げてみよう。
ひとつめ。
「政事」を「まつりごと」と言うように、古代では政治と祭事は一体だった。
もともと、熊野大社と杵築大社、どちらも出雲国造(大和より任命された在地の地方管理官)一族が祭祀を担当していたという。
熊野大社は国府のある意宇郡、つまり国の政治の中心地にあった大社で、出雲国造一族の本拠地でもあった。
彼らにとって、本拠地にある熊野大社は実家、距離の離れた地方にある杵築大社は赴任先――のような距離感で、元々熊野大社の祭祀の方を重要視していた。
それが時代とともに本拠地を杵築の方に遷すことになり、杵築大社の祭祀に専念するようになって現在の出雲大社に至っている。
ふたつめ。
熊野大社と出雲大社の関係は、どうも、「国譲り」に起因しているらしい。
元々の出雲王族に連なる一族の本拠地が熊野大社のある意宇(出雲国の東側)。
「国譲り」を経て出雲の管理を大和から任命された天孫族である一族の本拠地が杵築大社だった、という説だ。
両方の立場をたてるための一時的な政策として、「同格」と扱っていたのかもしれない。
時代と共に結局は後者の一族が熊野大社の祭事も司るようになっていったが、微妙な関係は後々まで継続していったようだ。
(ちなみに、出雲国風土記を編纂したのは、彼ら出雲国造一族である)
(出雲国造は、弥生時代~古墳時代に出雲に入植したと考えられる一族で、日本神話的には「アマテラスが国譲りの交渉のために出雲へ送り込んだアメノホヒ」の末裔とされる)
(アメノホヒは、アマテラスの髪飾りから生まれた男神。出雲国と大国主が気に入って、交渉を放り出して出雲に居着いた)
(次に送り込まれたアメノワカヒコも出雲が気に入って大国主の娘である下照姫と結婚、アマテラスの逆鱗に触れる。結局武神であるタケミカヅチたちの出番となる)
このふたつの大社の関係性をあらわす面白い行事として、毎年十月に行われる鎮火祭という祭りの中の「亀太夫神事」がある。
この神事では、出雲大社の使いが熊野大社へ、「杵」と「臼」を授かるためにやってくる。
このとき出雲大社の使者が持参した「おもち」の出来映えについて、熊野側の亀太夫と呼ばれる担当者が筆舌をつくしてクレームをつけるのだ。
「色が悪い」「形が悪い」「ここにひび割れがある」「なんかぶつぶつしてる」「角が丸い」
まるでパワハラ上司とその部下のようなやりとり。
出雲大社側の使者はこの間、黙って難癖の嵐が過ぎ去るのを待つのみだそうだ。
亀太夫は言いたいことを言って満足すると、結局は餅を受け取る。
あとは、熊野大社の神職が杵と臼を使者に授けて、神事は終了という流れ。
これにちなんで出雲では『文句ばかり言って口やかましい人』のことを亀太夫と言うらしい。
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そんな、出雲大社にマウントをとれるほど「えらい」熊野大社に祀られている神様は、出雲国風土記に「伊弉奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」と記されていて、これはスサノオの別名とされている。
難解な呪文のごときお名前だが、順を追って見るとシンプルだ。
「イザナギの愛子、熊野におられるカムロノミコト」となる。
そう、イザナギの名前がここに出てくるのだ。
熊野大社の宮司家に伝わる名前ではさらに長く「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」と呼ばれている。
イザナギの愛子カムロノミコト=熊野大神=櫛御気野命=スサノオ
櫛という字があてられるのは、妻であるイナダヒメの別名が「櫛名田比売」であることととも何か関係あるのだろうか。
(ちなみに、スサノオはイナダヒメを櫛にして頭に差してオロチとの決戦に挑んだとされる。勝利のあと、櫛から人間に戻したという描写がないため、もしかしたその後もずっとそのまま……という説もある)
ともかく、「大国主を祀る出雲大社」「よりも立場が偉い熊野大社」は、スサノオを祀っているわけだ。
古事記と違って出雲国風土記では、スサノオと大国主の間に血縁関係はない。
大国主にとってスサノオは、妻であるスセリヒメの父親、つまり義父という関係だ。
義理の父子。
熊野大社と出雲大社。
そして、熊野大神のさらに親神がイザナギ。
……こうして祭神を並べて考えれば出雲大社側が、熊野大社側に頭があがらないのも納得の関係図かもしれない。
同時に、熊野大社の祭神の名前の前にわざわざ「イザナギの愛子」という冠をつけていることから、当時の出雲国においてもイザナギは「言わずと知れた非常に格の高い神」として広く認識されていたと考えて良いだろう。
ちなみに出雲国風土記におけるイザナギの記述は、この「イザナギの愛子」一箇所のみである。
それでは、イザナミの記述はどうだろうか。
イザナミも、たった一箇所だけに名前が登場する。
「神門郡古志郷」の地名由来がそれだ。
古志は出雲大社から10数キロ南方にある地域。
現在では出雲市古志町として地名が残っている。
古志郷 即属郡家。
出雲国風土記
伊弉那彌命之時、以日淵川築造池之。爾時、古志國人等到来而為堤。即宿居之所。故云古志。
イザナミノミコトの時、日淵川から人口池を造る事業があった。その時に、堤防を造るため古志の国の人達がやってきた。彼らが宿にした場所なので、古志と呼ばれている。
この短い一文が、出雲国風土記におけるイザナミへの言及のすべてだ。
内容はごくごくシンプルな地名由来。
「治水・開拓事業に際して、古志(越=北陸)から技術者を呼んだ。その時彼らが滞在した場所なので、古志と呼ぶようになった」
という感じで、そう外れてはいないだろう。
問題は冒頭、「イザナミノミコトの時」という記述。
これは「イザナミのいた時代」と解釈されることが多いようだ。
つまり、出雲国風土記が編纂された700年代初頭から見ても、大国主がいた時代よりもさらに遠い大昔を指す表現として、イザナミの名を出したのだ、と。
しかし、単に大昔を指す言葉としてなら、「イザナギの時」でもよかったのではないか。
なぜあえて「イザナミの時」という記述にしたのか。
イザナギではなく、イザナミと表現した、そこにはなにか意味があるのだろうか。
たとえば、当時の認識では「イザナギの時」と「イザナミの時」は違う時代だったりするのかもしれない。
神話の中では、イザナギとイザナミは黄泉比良坂で喧嘩別れし、別居を始めた。
離婚ではなく別居とするのは、ここから新しい共同作業が始まるからだ。
イザナミは毎日1000人の人の命を奪い、イザナギは1500人の赤子に生を与える。
夫婦で人の生死を司ることによって、人の世が成り立っている。
イザナギが仕事を果たさなくなればこの世は地獄だが、イザナミが同様に黄泉の仕事を放棄したら……
誰一人永遠に肉体的には死なない世界。
千年でも。一億年でも。
たとえ心が壊れても。自分が自分でなくなっても、ただ無限に生き続ける。
それはもしかしたら地獄よりもはるかに恐ろしい天国かもしれない。
だからこそ、イザナギとイザナミの仲たがいは、生物としての本質そのものをあらわしてもいるんじゃないだろうか。
そうしてイザナギは出雲を去って、淡海の多賀へおさまった。
これは、近江国の多賀大社説と、淡路島の伊弉諾神宮説がある。
淡海(近江)も淡路も、考古学的な見地からヤマトにとって奈良以前の本拠地、あるいは重要拠点のひとつと考えられている。
一方イザナミは、そのまま葬られた場所である出雲と伯耆の境の地下に「黄泉の神」として留まった形になる。
黄泉国は現代的な「天国」とは違い、「黄泉比良坂を通らなくてはいけない」という条件はあるものの生身のまま往き来が可能な世界だ。
見ようによっては「イザナミは出雲の神となった」ようにも見える。
これは、後の時代でスサノオが大国主と出会ったときに、出雲の地下世界「根の堅州国」のことを「妣國(亡き母の国)」と呼んだことからも伺える。
(根の国や黄泉の国は、地下ではなく海の向こうの世界とする説もある)
であればイザナミは、風土記編纂時の出雲の人々にとって「出雲の神」として扱われていた可能性がある。
だからこそ、イザナギを差し置いて「イザナミの時」という表現になったと考えられないだろうか。
もっとも、これはこれで「川を改良して人工池を造る治水事業を行うために、遠方の友好国である古志から人材を派遣してもらった」と言う描写から、イザナミのいた時代(=世界創造の時代)にしてはやけに人間の土木技術が進んでいたことになってしまう。
これが、「イザナミの時」ではなく「オオナモチ(大国主)の時」だったら開拓時代として何の違和感もないのに、なぜ「イザナミの時」と表現したのか。
もしかして、「イザナミの時」には根本的にもっと別の意味があったりするのかもしれない。
たとえばだが、風土記には記載しなかったけど「イザナミのその後」を描いた伝承が出雲にあって、その時代のことを指している……とか。
こういう気になる細部の説明が欠けているところは出雲国風土記の不親切なところで、「島根」の由来なんかはもっとすごい勢いで説明を投げている。
「島根と名付けた由来は、国引きをした神がその名を与えたから島根なのである」
出雲国風土記 嶋根郡の条
説明になってねえ。
ともかく詳細はどうあれ、733年出雲国風土記完成時点の出雲国で、「イザナギの愛子」とか「イザナミノミコトの時」という表現が、一定の共通認識として「使えた」「通じていた」ことは確かだろう。
であれば、同じ時代に字をあてられた「母理」の「母」もまた、こうした共通認識「雲伯に葬られたイザナミの伝承」から来た字と考えるのも、ありなんじゃないだろうか。
長江山へ
比婆山久米神社・里宮で御朱印をいただくと、号が「熊野神社」となっていたが、これは和歌山の熊野信仰(神仏習合)が流行した影響で、近世になって改名していためらしい。
さて、下山した頃には空が薄曇り、日も傾き始めていた。
比婆山を後にして、ここからはさらに南へ。
母里郷を巡る旅も、いよいよ終盤だ。
母理郷について
出雲国風土記 意宇郡条
天下をお造りになった大神である大穴持命(=大国主)が、越の八口(今の新潟県)の平定から帰ってきた際に、この土地にある長江山においでになってこう言った。
「自分が国作りをして治めてきた国は、天孫へとお任せすることにする。
ただ、八雲立つ出雲の国だけは、自分がおさまる土地として、青く木の茂った山を垣の如くめぐらせて、玉の如く大切に愛でて守り続けよう」
だから、文理と呼ぶのである。(726年に字を母理と改めた)
神話の時代の大国主の「旅」の終着点、そして母里という地名が生まれた場所、「長江山」を目指す。
次回につづく。
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