■「風雨来記4」について書きます。各ストーリーの若干のネタバレ有り。
■「自分はこう考えたよ」という、個人的な感想・考察記録です。
■ 記事内で、ゲーム内のスクリーンショットを、権利元様を表記した上で引用しています。
■ 特に記載のない写真は、投稿者(ねもと)が撮影したものです。
■ 特に記載のないイラストは、投稿者(ねもと)による非公式の二次創作です。
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友人の依頼で、動画の素材用に、冬の山道を撮ってきた。
360度カメラ、まだまだ思ったような絵が撮れないけど、楽しい。
まずは、数をこなすのみ。
それから、スマホもちょうど機種変更を考えていたタイミングだったので、iPhone13Proに変えた。
ここ数年くらいいつも、安さ重視で型落ち機種ばかり選んでいたのが、今回は最初から決めて、最新機種にした。
今年は色々なところを旅するつもりなので、13Proの高いカメラ性能にとっても惹かれてしまったのだ。大きなカメラを持ち歩けないときでも、きっと活躍してくれる。
(…もしかしたら、自分の持ってる古いデジタル一眼よりも、13Proの方が良い写真撮れるかも)
むかしむかし、風雨来記1をプレイしたとき、主人公に憧れて、当時まだやっと一般向けに出始めたばかりだったデジタル一眼レフを貯金をはたいて買って、キャンプ道具揃えて、北海道行きのフェリーに乗り込んだことを思い出す。長くて短い、一ヶ月の旅。
「あの人」に近づけた気がして、嬉しかったな。
初代「風雨来記」は、確かに、自分の生き方を、大きく変えた作品だった。
そして今は、あのときと同じ、というかそれ以上の強烈な情熱が胸の中に灯っていて、次から次へと湧き上がる行きたい場所、やりたいことに、背中を押されている状態だ。
やりたいことが多すぎて、毎日毎日、時間が足りない!
自分の中に、まさかこんなにも熱があるなんて、去年の今頃は想像もしていなかった。
なぜ風雨来記4が、自分にはこんなにも響いたのか。
自分にとっての4は、あまりにも存在が大きすぎて、他の人にとっての風雨来記4がどういう評価かあまり想像できないけど、もしかしたら、1や3に比べたらそこまで強いインパクトはなかったよ、という人は少なくないかもしれない。
二人が想い合っていて、全力で努力して、それでもやむにやまれぬ事情で別れるしかない。
そんな関係性が哀しくも前向きに描かれた過去作とは、今作の恋愛の関係性は、根本的に毛色が違うのは確かだ。
どこまでも地続きな岐阜という舞台と同じ様に、三者三様、地に足のついた現実的な(そのぶんちょっと生々しい)男女の関係性が描かれている。
振り返ってみれば、風雨来記4は、あきらかに「その次」を想定した作りだったと思う。
エンディングが「路の続き」であり、目標である「最高の一枚」を手に入れないままに終わることからもそれは伺えるし、なんならユーザー向けのアンケートからも、スタッフさんの、次回作は北海道でやりたいオーラがにじみ出ていた。
岐阜という「真ん中」の舞台が選ばれたのも、制作会社がある場所だったから、という予算的な事情も大きいだろう。
きっと、風雨来記4は、スタッフさんたちにとって、風雨来記シリーズにとって、これから向かうさらなる大きな目標のための、「路の続き」なんじゃないだろうか。
風雨来記1の記事が、榊千尋の旅の「起」点で、3の旅が「承」、4の旅が「転」とするなら、次の5が「結」になるのかもしれない。
本格的に力を入れた集大成となるだろう次回作を作るためのステップ、試金石、過去から未来への路の続き、それが風雨来記4、みたいな位置づけなんじゃないだろうか。
結婚だったり転職だったりライターとしての方針転換だったりと、4の結末は、過去シリーズを鑑みても、一見、かなり型破りな内容になっていたように思う。
だがこれは、そもそも風雨来記のすべての物語は今から40年以上昔、一組の男女が旅の中で結ばれ、夫婦となり、家族を作り、そして死に別れたところから始まっているので、たとえば今回、結婚・夫婦という形を描いたからこそ、いつか必ずそれを失うという別れの大きさをプレイヤーがはじめて他人事ではなく我が身となって考えることができたわけで、それはまさしくゴールではなくスタートで、スタートということはいつか必ずゴールが来るということで、これは語り出すとめちゃくちゃ長く重くなるので、今回はこのへんにしておくけど、決してハッピー「エンド」ではない、あくまでも「路の途中」として不確定で有限の未来として描かれたからこそ、今作の二周目エンドは素晴らしいのだということは言っておきたい。 「やむにやまれぬ事情」…人は生きている限り、必ずいつか死ぬ。は風雨来記の根源的なテーマ。それは、主人公も、ヒロインも、あるいはプレイヤー自身だって、等しく例外じゃないのだ。
……えーと、つまり。
風雨来記4が、自分にこんなにも響いたのは、「途中」で、「真ん中」の、誤解を恐れずに言うなら、「中途半端」というテーマを真正面から描いた作品、だったからこそ、なんじゃないかと思う。
中途半端だから、そこにとどまらず、前へ進もうともがく。
そして、そこに新しいものが生まれてくる。
振り返れば新しい道になっている。
千尋とちありが見せてくれた旅。
岐阜という場所。
ふるさとのこと。
お見合いのこと。
スタートのこと。
しづとの最高に楽しい伝承と治水の旅は、自分の原点のひとつを彼女が気付かせてくれたし、
日陽とのバイク旅は、どこか懐かしく、風の轍を感じさせてくれた。
作中で描かれている悉くが、染みこむようにハマって、響いた。
たとえるなら、自分の魂が欲していた心の必須アミノ酸が、いっぱいに詰まっていたんだと思う。
未来に無い物ねだりするんじゃなく、自分の歩いてきた道を振り返れば、そこにはちゃんと確かに、時間をかけて踏みしめてきた道があることを気付かせてくれた。
シリーズは、売れ行きが好調だったなら、5、そして次へと、これからもどんどん前に進んでいくだろうし、そうあって欲しい。
もちろん応援していきたいものだけど、それはそれとして、自分にとっての特別な場所、心の分岐点、旅の起点は、ずっとこの「風雨来記4」であり続けるんじゃないかと、思っている。
それは、単にこの作品に感動したから、という単純な話じゃない。
「北海道にも、岐阜にもあるもの」
でも、
「北海道にあって、岐阜にないもの」
でもなく、
「北海道になくて、岐阜にあるもの」
その差の部分、そこにこそ、「自分」の感性の根っこ、追い求めていきたいものがある、と明確に自覚したからだ。
それが何かを一言で説明するのは難しいけれど、最初の頃に書いたこの記事を読んでもらえると、なんとなく察してもらえるかもしれない。
https://www.ryosou.com/hurusato/
隣の芝生はどこまでも青い。
だからつい、いつも自分にはないものを求めてしまいがちだけど、実は、自分には意識もせずにしていたこと、得てきたもの、ありふれている、たいしたことのないと思っていた部分が、他人にとっては「青い芝生」だったりする。
自分の芝生が実は意外と鮮やかな色をしていること。
そして、それじゃあもっとそれを育ててみたらきっと面白いんじゃないか。
そう思わせてくれたのが、母里ちありであり、ちあり編の千尋であり、岐阜という舞台だった。
だから自分はこれからもずっと、「4」のこと、リリさんのことを語っていきたいし、語っていくつもりでいる。
ずっと。ずっと。
そのためには、長生きしないとな。
旅をしたい
冒頭の話に戻るけど、カメラを新調した理由の話。
今年は、たくさん旅をしたい。
新年最初に、行きたい場所を片っ端から書き出した。
機会があれば記事にしようかとも思うけど、とにかく近いところから遠いところまで、たくさんだ。
コロナの問題もあるから、どれくらい実現できるかはわからない。
それでも、行きたい、という気持ちを言語化して、ちゃんと文字として書いて、壁に貼っておくと、すごく前向きな気持ちになれる。
たくさんの時間がとれなくても、遠くにはいけなくても。
たとえば朝、ふだんより二時間早起きすると、二時間ぶん旅ができる。
十日あれば20時間の旅だ。
いつもの通勤路、普段通らない道をあえて通って、10分遠回りすれば、十日で100分の旅。
風雨来記的に言えば、旅とは心を外に向けること。
積極的に楽しんで、何かを得ようと出かければ、きっと充実した時間を過ごせると思う。
一歩一歩。
楽しい旅を重ねていこう。
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