全5回予定で、自分が風雨来記4について一番書きたかったテーマ「リリと主人公の関係性」について思う存分掘り下げて書きます。
これを書ききることが、自分にとって、風雨来記4に出会ってからずっと、一番の目標でした。
今回の記事では、風雨来記4母里ちあり編の内容に深く触れます。
以下、ネタバレ注意。
「『お互いに変化し続ける』リリと主人公の関係性」について
第一回:「なぜ、リリの物語はあの選択で分岐したのか」について
「補足:成長と変化の違い」
第二回:「二人の間で起こっていた、変化の連鎖」の話
「過去作との対比で分かる、ちあり編のたったひとつの前代未聞」
第三回: 時系列でみる二人の変化(1)種蔵~國田家の芝桜
「『旅×お見合い』という革命」
「余白の考え方:ヒントは『会っていない時間』にある」
第四回: 時系列でみる二人の変化(2)下呂温泉(一周目)~種蔵
「日本の真ん中で田んぼに一番感動する彼女」の意味
「余白の考え方:テキストの外にどこまでも広がる旅の世界」
第五回: 時系列でみる二人の変化(3)下呂温泉(二周目)~橿森神社
「『面白い』が照らす、二人旅」
「母里ちあり編感想まとめ:平穏の中の最高の一枚」
第一回で語ること
- 母里ちあり編二人旅エンディングの本質を考える
- 「仕事」か「恋愛」か、ではなく「成長」か「変化」かの選択
- 一歩を踏み出すために必要だったのは、『互い』の変化を『実感』すること
- 『まだ知らないキミ』が生まれ続ける関係の面白さ
- 今回の記事で、「成長」と「変化」の要素をそれぞれわけて考える理由
- なぜ人は旅をするのか
「まさかキミがセクシーの方を選ぶなんてね」
変化する/してしまうことへの心理
性格。言動。しぐさ。考え方。趣味。好きなもの。嫌いなもの……。
一生ずっと変わらない、これが自分だ、これがなきゃ自分じゃない、と言える核。
あるいは、どうせ変えられないととっくの昔にあきらめた、自分の殻。
あなたには、自分の中に、そんな価値観はありますか。
あるとすれば、たとえばもし、誰かとの出会いがきっかけで、そこに揺らぎが生じたとき、
あなたはそれを、「変わってしまったら自分じゃなくなる。おそろしい」と不安に思うでしょうか。
それとも、「変わらないと思っていた自分が変化していくのが、面白い」と捉えるでしょうか。
あるいは両方、またはもっと別の思いを抱くでしょうか。
答えはきっと、人の数だけあるでしょう。
変わり方にもよる、その相手との関係性にもよる。
ごもっとも。
風雨来記4母里ちあり編のストーリーの核は、まさにここにあります。
二周目以降に、二度にわたって登場する「仕事か、恋愛か」の選択。
特に二度目の選択において、主人公を通してプレイヤーに対して天秤にかけられていたものは、
決して言葉通りの「仕事と恋愛」には留まりません。
今回の状況において、この選択をもう少し掘り下げるなら、
「仕事」を選択した場合
→夢と目標に密接に関わりのある好きな仕事を、これからも続ける。
好きだからこそそれを仕事(生活の糧)にすることに、迷いや苦しみはある
「恋愛」を選択した場合
=婿入り結婚。仕事を辞め、妻の家業を継ぎ、生活の安定が保証される。
好きなことを、仕事(生活の糧)ではなく、趣味や生き方として向き合える
ですが、この二択の本質は、さらにもっと先にあるものです。
自由と「成長」/共有と「変化」
前者「仕事」の選択の先には、
迷いも苦しみも自身で乗り越え、これまで歩いてきた人生を信じ貫いて、
自分の力で着実に前へ進み続ける『自由』と『成長』の道があります。
後者「恋愛」の先には、
これまで歩いてきた人生のレールを外れて何が起こるか分からない場所へ、
相棒と共に飛び込む、『共有』と『変化』の未知があります。
そして、主人公には元々、強い「軸」があります。
「バイクとテントとキャンプ用具一式あれば人生は事足りる」
「生涯旅を続けたい」
「ルポライターという仕事と、最高の一枚という夢」
こんな「軸」を持つ主人公というフィルターを通して、
「自由と成長のみち」
「共有と変化のみち」
そんな択一を迫られたとき、
「あなた(=プレイヤー)」は、どちらを「選ぶ」のか。
どちらが、「あなた」にとって、より「旅」と言えるのか。
それは、人生を旅になぞらえる今作において、プレイヤーの持つ人生観に関わる心理テスト的二択と言えます。
自分は、初代風雨来記のファンだったこともあり、風雨来記4プレイ前、
風雨来記シリーズにおいては最終的に恋愛を選ぶ道は描けない、あり得ないだろうと思っていました。
それは、そもそも風雨来記という作品が企画された背景に、それまでの「旅と恋愛」をモチーフにしたゲームにおける「ヒロインと結ばれて終わる旅」へのアンチテーゼの意味合いが強く含まれていたためです。
ヒロインと出会うための旅、ではなく、旅そのものに軸を置いた恋愛。
物語が終わっても、主人公が旅をし続ける旅ゲーム。
出会いと同じ質量の別れのある物語を描きたい。
それが風雨来記の企画コンセプトだと、初代「風雨来記」浅野監督の口から語られていました。
(参考:風雨来記オフィシャルコンプリートワークス)
ですが、動かないはずだった自分の価値観が、ちあり編の二人旅エンドを見届けたあとには、完全にひっくり返ってしまっていました。
初代からのコンセプトを丁寧に踏襲した上で、さらにその先を見せてくれた、と心から思ったためです。
(詳しいことは過去の記事で書きました。→それでもいつか必ず別れは来る)
自分の、決して変わらないと思っていた価値観の軸が変化してしまったことが非常に痛快で、
不安よりもとにかくワクワクしてしょうがなかった。
風雨来記へのイメージのみならず、自分自身の根本の部分も大きく変わりました。
本当に世界の見え方が変わった気分でした。
冒険し尽くした、開拓し尽くしたはずの「自分」という世界に、未知の新大陸が見つかったような感覚。
あるいは作中の主人公の言葉を借りるなら、「満天の星空の中に新しい星を見つけたような」感覚。
「自分の中の価値観が今まさに変わっていっている」
と言うのをリアルタイムで客観的に見ている自分、という
とても面白い体験をしました。
それは、表現をする人間として、本当に一生ものの経験でした。
リリさんを愛してます。そして、
何度も書くことですが、自分はそんな経験をくれたリリさんが大好きです。
愛してます。
そして、これははじめて書くことですが、リリさんへの好きと同じぶんだけ、ちあり編の主人公が大好きです。
自分の中には「リリさん視点」もあって、リリさん側から主人公の変化を見る、というとらえ方もしているのかもしれません。
「風雨来記には決してありえないはず」と思い込んでいた決断を、
納得のいく形で貫き通した彼に対して、心から惚れ込んでいます。
風雨来記4という作品の中でも、もっとも自分の心を打って、自分の固定概念、
価値観を変えてしまったのは、そんな主人公とリリの
「お互いに影響を与え合って」「どこまでも変わり続ける」関係性でした。
元々、この「関係性」についてこそが、このブログで一番書きたかったこと。
立ち上げた理由そのものです。
だからこそ、思いを整理し、まとめるのに時間がかかってしまったのですが、
出会って一年が近づくいまこそあらためて、原点に立ち戻って、このテーマに向き合ってみたいと思います。
「展開」はなぜ分岐したのか
まず、考えてみましょう。
リリさんが「最後の一歩」を踏み出せた理由。
最初の旅と、二周目は、「何が違った」のか。
「もう少しの勇気」はいつどこで手に入れられたのか。
他人の夢を奪う選択。人生を背負う覚悟。
どれだけ仕事を大切にしているか知った上で別の道へと手を引く、大変な決断。
その決断を選ぶために、最初の旅で出したような、「1位になったら」とか「3位以内に入れたら」とか、あるいは「オーロラの写真を撮ることができたら」というような、条件は必要ありませんでした。
勇気のもととなったのは、「実感」です。
「何を」「実感」したのか。それは、
岐阜に来る前と来た後。
出会う前と出会った後。
互いに、何度も何度も、影響を与え合ってきたこと。
自分の影響で相手が、以前ならとらなかった選択をとるようになった。
相手の影響で自分が、以前なら考えもしなかった選択をできるようになった。
自分が、相手に影響を与えて相手が変わっていく。
自分が、相手から影響を受けて変わっていく。
その繰り返しの中で、お互いの価値観も影響し合って変わっていく。
変わっていくのだから、互いのすべてを理解しきれない。
読めない。
そんな「未知」を、お互いに、尊重し合い、楽しみ合える関係であること。
影響を与え合って、価値観を更新し続けられる、愉快で楽しい関係であること。
もしも大きな選択に直面しても(たとえば仕事を奪うことにつながったとしても)、お互いにその選択を決して後悔し続けることなく乗り越えて、新しい道を楽しんでいける。
そんな関係性を「お互いに実感」できてはじめて、
二人旅をスタートすることができたのだと思います。
その「未知」は、きっと、主人公が「旅」に求める「道」と同質のもの。
ED曲が「路の途中」なのもそういうことなのでしょう。
6年前、20歳の主人公
26歳の主人公
昭和や平成初期には、「年貢の納め時」とか「人生の墓場」※とか「あいつもこれで落ち着くだろう」と言われたり、
過去作においても、人生のひとつの終着点という位置づけだった「結婚」。
ちあり編では、そんな「結婚」を「スタート地点」と捉えて、むしろ「変化」の象徴にしてしまいました。
そんな風に描けたのは、ヒロインがリリであり、時代が令和であり、舞台が岐阜であり、これまでのシリーズで数々の物語を経た「4」だったから。
この中のどれかが欠けたら、きっと、こういう物語は生まれてこなかったんじゃないかと思います。
これについては、長くなるので数回に分けて、次回以降に。
作中では実に細やかに伏線が張られていて、ただ普通に読み進めているだけだとなかなか把握するのが難しい部分。
出会いから時系列にそって、二人が影響をどんな風に与え合って、どんな風に変わっていったかを順番に見ていきたいと思います。
次回につづきます
※「結婚は人生の墓場である」は、フランスの詩人ボードレールの言葉
日本では翻訳の際に誤訳されてしまい、ネガティブな自嘲として使われていますが、
原文は「遊んでないで、墓まで連れ添える生涯唯一の人と結婚しなさい」という意味だったりします。
補足:「成長」と「変化」の選択について
今回の一連の記事では、便宜上、「成長」と「変化」のふたつを区別しています。
成長 変化
本来このふたつは相反するものではなく両立し混じり合う不可分な要素なのですが、あえて分けた理由は、ちあり編のテーマや、風雨来記4のエンディングが各ストーリーごとにそれぞれ二種ずつあることの説明を分かりやすくするためです。
ちあり編での、仕事(成長)と恋愛(変化)の二択と同じく、
最初のエンディングが、特に「成長」を描いたもの。
二周目以降のエンディングが「変化」を主題に描いたもの、だと自分は思っています。
(ソロ編の場合は、成長=通常エンディング、変化=徳山エンディング)
そこで以下に、「成長」と「変化」について、
この記事内におけるひとまずの定義をまとめておきます。
■「成長」について
「キミはそのままでいい」
と、最初の旅の終わりにリリさんは言います。
「一歩一歩歩き続ければ、いつか振り返ったときに、キミだけの道になってるよ」
これはきっと、ひとつの真理でしょう。
人が、限りある一生の中、日々を満足して生きていく上で、大切な大切な考え方。
『人が生きる意味とは何か』という部分にも触れるキーワードでもあります。
昨日と同じことの繰り返しを、地道に積み重ねていく。
それによって、世の中は回っていきます。
全人類が毎日全く新しいことにだけ挑戦し続けたら、社会というものは成り立ちません。
「成長」は、積み重ねて、前へ進み続けていくこと。
それはなかば自動的でもあって、成長したくなくても、止められないという側面もある。
老化という言葉に置き換えられても本質は同じ、前へ進み続け、生き抜いてきた証です。
成長とは、後退することのない一方通行「直進の力」と言えるでしょう。
■「変化」について
一方で、「変化」、「変わること」は、これまでの道にとらわれず、
思い切って別の方向へ跳躍するようなもの。
うさぎのように跳ねたその先はもしかしたら崖になっているかもしれないし、
跳ねるのに失敗して転ぶかもしれない。足をくじくかもしれない。
前へと進み続ける「成長」と違って、どこに行くのか分からないし、安全も保証されていない。
「変化」そのものに、良いか悪いかのベクトルはありません。
安定や安心が担保されないその選択を「恐い」と感じるのも、
はたまた「ワクワクする」と感じるのも、どちらも人間の原始的な部分、根源的な感覚でしょう。
これは、『なぜ、人は旅をするのか』という問いに行き着くキーワードでもあります。
人類は、その誕生から今まで何万年も、
群れを作って集団生活を営むことを前提とした社会性生物です。
なので、生きるための三大欲求<食欲・睡眠欲・性欲>といった個体の欲求よりも、
社会生物としての本能から来る欲求のほうがはるかに強いと言われます。
原始社会では、「群れの中での自分の価値を他者から認められる」ことではじめて、
自分の生活が保障されて、個体としての欲求を満たすことができるからです。
SNS時代によく言われる「承認欲求」も、社会的な生存欲求のあらわれ。
生物としての人間の、生きるための本能です。
脳の仕組み的には、「丘を三つ越えた先でマンモスの群れを見つけて群れの役にたった」と「TikTokで100万バズった」の間に区別はないのだとか。
力が強い、走るのが速い、道具作りがうまい、コミュニケーションが得意、あるいは、
木の実が多い場所や、安全な場所を誰よりも知っている――
スマホをつい触ってしまうのも、人の評価や考え方を気にしてしまうのも、「最新の情報」を獲物に見立てたいわば「狩猟採集」行為のあらわれ。
SNSにおける「いいね」「フォロー/フォロワー」あるいは「炎上問題」などは、群れからの承認を数値化、可視化したものとも言えるでしょう。
とはいえ、風雨来記4で主人公が語っているように、混同は禁物。
人間の脳は無意識レベルでネットとリアルの区別をつけられないので、理性で意識的に、ネットというものに対応し、自分なりのつきあい方を見つけていくことが大切ですね。
『なぜ、人は旅をするのか』
登山家や冒険家のように、自分の命の危険をかけてでも、未知の場所、未踏の場所を目指す。
そんな生き方にこそ、最大限の生きる実感を得る人種がいます。
旅も、本質は同じかもしれません。
人類は、その誕生からずっと、旅をし続けました。
食べるものを探して、天敵のいない、住みやすい環境を探して。
生きるために。
そしてあっという間に、世界中に生息域を拡げました。
これは、日々の積み重ね、前へ前へ進む、種としての「成長」とも言えるでしょう。
一方で、安住の土地を得てもなお、そのうちの何人かは必ず、そこに満足できなくて、
また未知の旅に出てしまう。
「変化」を求め続けてしまう。
もっと良い場所があるかもしれない。
もっと美味しい食べものや、面白い風景、あるいは、人との出会いがあるかもしれない。
あるいは、特に理由はないけどただひとところにとどまれない、ワクワクし続けたい、という本能的な欲求から。
あの山の向こうが見たい。
あの海の向こうに何があるか知りたい。
「ここではないどこかに行きたい」
旅をここではないどこかに行くこと、と捉えるなら、
それはヒトに限らず、あらゆる生物の進化というテーマにも繋がるかもしれません。
陸上生物の祖先が、ヒレを脚に変えて、住み慣れた海から、陸という新しい世界への旅を始めたように。
一方で、進化の過渡期で足を止めたシーラカンスや、何億年も姿や生活を変えていないサメのような生物もいるし、
地上へ出て永い時を経て、再び海を目指したクジラのような存在もいる。
生物には、生きている限り、「変わらないでいようとするエネルギー」と、
「変わろうとするエネルギー」、両方があるのでしょう。
この両者のバランスは、「旅行と旅の違い」にもあらわれているように思います。
予定があることで成り立つ旅行は、ある意味中間のバランスで、
予定がないことに意味を見いだす旅は、後者に天秤が傾いているのかもしれません。
自分は、「風雨来記4」という作品全体のメインテーマは「変わること」だと思っています。
諸行無常、変わらないでいようと思っていても変わってしまうものだ、というのは
以前の記事にも書いた通りです。
そんな人生において、前へ前へひたすら自分だけの道を貫くのか。
それとも、自分自身も知らなかったような、未知の道へと思い切って飛び込むのか。
どちらが正解ということのない二つの軸を提示した上で、
道を選ぶのはあくまでもプレイヤーに委ねられているように思えるのです。
選択を通して、プレイヤーに問いかけているのではないでしょうか。
「あなた自身にとって旅とは何ですか」と。
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