全5回予定で、自分が風雨来記4について一番書きたかったテーマについて、思う存分掘り下げて書きます。
「リリと主人公の変化し続ける関係性」
これを書くことが、自分にとって、風雨来記4に出会ってからずっと、一番の目標でした。
今回の記事では、風雨来記4母里ちあり編の内容に深く触れます。
以下、ネタバレ注意。
第三回で語ること
- リリのコミュ術。特別な個性から生まれる距離感について、おさらい
- 岐阜の旅で見つかる、多様な夫婦の形について
- 主人公視点ではなく、リリ視点で考える意味について
- 余白=旅の中の「会っていない時間」が結ぶ縁
- 「これってもうお見合いみたいなものだよね」という
たったひとつの発想、思いつきが、「すべてを変えた」という話
「『お互いに変化し続ける』リリと主人公の関係性」について
第一回:「なぜ、リリの物語はあの選択で分岐したのか」について
「補足:成長と変化の違い」
第二回:「二人の間で起こっていた、変化の連鎖」の話
「過去作との対比で分かる、ちあり編のたったひとつの前代未聞」
第三回: 時系列でみる二人の変化(1)種蔵~國田家の芝桜
「『旅×お見合い』という革命」
「余白の考え方:ヒントは『会っていない時間』にある」
第四回: 時系列でみる二人の変化(2)下呂温泉(一周目)~種蔵
「日本の真ん中で田んぼに一番感動する彼女」の意味
「余白の考え方:テキストの外にどこまでも広がる旅の世界」
第五回: 時系列でみる二人の変化(3)下呂温泉(二周目)~橿森神社
「『面白い』が照らす、二人旅」
「母里ちあり編感想まとめ:平穏の中の最高の一枚」
「私とキミ、もう何度か会ってるでしょ。
これってもうお見合いみたいなものだよね?」
大前提・母里ちありのコミュ術
ちあり編の「変化」について語るときに避けては通れないのが、
リリさんの「人の顔を見分けられない個性」(相貌失認)。
彼女は先天的に人の顔の区別をつけられないため、知り合いのいない岐阜での旅において、誰かと出会ったときには、相手との会話の距離感を決めるまで、つまり、最初に二言三言、やりとりをするまでは、まずは慎重に距離を置きがちでした。
人と話すのが仕事の一部である主人公をして、「他人が踏み込んではいけないような雰囲気を纏っている」と感じるくらいに。
「ナンパならお断りなんですけど!」
「すみません、邪魔しちゃいましたか?」
「ごめんなさい、起こしちゃいましたね」
そして、一旦相手との距離を決めてしまえば、今度は「爆速で」会話を詰めてくる。
つまり、「相手の反応を引き出し、情報収集するモード」に入ってくる。
出会うたびに毎回起こる、この距離感の温度差、ギャップも彼女の大きな魅力です。
母里ちありと言えば「人なつっこい」「距離が近い」印象の方が、
強く残っている人も多いのではないでしょうか。
この「人懐っこさ」は彼女が元々持っていた性質ではなく、小学校の時に、月子ちゃんという友達の言葉に背中を押され、「開き直って」人の輪に飛び込み続けた結果、獲得した「変化」だということが終盤に語られます。
かつて引っ込み思案だったという一面を今も感じられるのが、付知峡の一件です。
主人公が目をつぶって休憩している際に、リリがやってきた時の描写。
リリが、そこにいた「眠っているらしい見知らぬ他人」を見て、大きな足音をたてないようにそっと気を遣う様は、その後の「ごめんなさい、起こしちゃいましたね」の言葉と合わせて、普段の元気溌剌な彼女とはずいぶん違った印象を受けました。
振り返ってみれば、実はけっこう、ひとに気をつかいがちなリリさん。
他人を傷つけないため、自分が傷つかないため。
誰かと出会ったとき、その相手が誰か間違えないためには、何よりまず「情報」が必要です。
視覚情報で個人を識別できない彼女は、積極的に会話することで、相手の個性に関する情報を引き出し、いち早く収集します。
つまり、一般的な人にとっての「相手の顔を一目見たら、その人が誰かわかる」行為にあたるものが、母里ちありにとっての「会話」であり、「観察」なのです。
会話がやたらテンション高いのも、心を揺さぶるようなからかい方をするくせがあるのも、
彼女自身の性格によるものも勿論あるでしょうが、相手の心の壁を崩すことで、
より素の反応や、本心に近い考え(その人個人を見分けるための情報)が聞けるからという、
会話技術の側面も大きいでしょう。
そして、経緯や思惑はどうあれ、多くの人は、自分に対して興味を持ち、積極的に知ろうとしてくれる人に対して悪い気はしません。
主人公もまた、そんな「距離が近くて」「人なつこい」リリさんに、自分のこと仕事のこと、そして、これまでひとにはあまり話したことがなかった、「あの人への憧れや夢」、「旅と旅行の違い」などという自分の深い部分にある価値観まで、ついつい話してしまいます。
「私も見てみたいな」
「今はもうなくなってるんだ、そのサイト」
「でも、本当になくなってるのかな」
そしてこの何気ない会話が、リリと主人公の道が重なっていく、小さな、けれど確かな第一歩になっていきます。
性格も、好きなことや得意なことも、夢も歳も、生まれ育った場所さえ違うふたり。
旅先の岐阜で一瞬交差して、ただ離れて行くはずだった、それぞれの道。
ですが、
リリの「積極的に会話しなければ人を区別できない」個性
「故郷へ帰れば、お見合い・家を継ぐという現実が迫っている悩み」
主人公の「人と会話するのが大好きで、顔を覚えるのも得意」な個性
「最高の一枚と言う目標と、今の仕事、自分とのギャップからくる将来への迷い」
そんな、一見無関係なようなちぐはぐな要素がカチリとかみ合って、岐阜に着いたときにはお互い想像もしなかった奇想天外な「お見合い物語」へと繋がっていくのが、ちあり編の最高に面白いところです。
余白を考える~母里ちありの岐阜の旅~
岐阜に来たばかりの種蔵で、
と憤っていたリリさん。
それが、そう語ったわずか二週間後には、
「お見合いも、今はそんなに嫌じゃないかな」
と落ち着いた口調で、淡々と語ります。
まるで別人のような、価値観の大きな変化。
この二週間の間に、一体何があったかを考えてみましょう。
もちろん、要因は、ひとつだけではないかもしれません。
作中ですべてを語らず、描かない部分を残すことで、プレイヤーの想像で補完させる「旅の余白」があることも、風雨来記4の面白いところだと思います。
たとえば、リリさんがどんな旅をしていたか、というのもひとつの余白。
移動手段は電車か、レンタカーか、バスか。
どこに泊まり、どんなルートで巡って、どこを巡ったのか。
作中で明言されていないこれらが、「空白」や「謎」ではなく、「余白」と表現できるのは、描かれていないその部分が、作中の彼女のセリフの端々や行動、出会える場所の法則性(飛騨→中濃→東濃)などを通して、ちゃんと「そこにある」感じられるからです。
「キミの教えてくれたところはどこもすごくよかったよ」
「この後行くところがあるんだった!」
「最近は温泉も多いからもっと幸せ!」
岐阜を舞台に、リリさんはリリさんの旅をしていました。
ゲームシナリオ内――主人公と出会う以外の時間にも、様々な出会いがあったはずです。
この考察を具体的に語り始めるとそれだけで一本の長文記事になるので、今回は詳しくは触れませんが、ひとつ言えるのは、母里ちありは「國田家の芝桜」や「馬籠」で主人公を案内・解説してくれたように、訪れた先の土地にまつわる情報や逸話などをまめに確認し、知識だけに留まらず自分なりの思考を巡らせる女性です。
ですから、お見合いに対する彼女の意識の変化を想像するためのヒントは、作中……彼女が旅した岐阜という土地そのものにもちりばめられているかもしれません。
風雨来記4の中に登場するスポットで言うなら、たとえば、琵琶峠。
百数十年前、ここを、先頭から最後尾までの長さ50キロ、参列者総勢2万6000人という人類史上最大級の花嫁行列が通りました。
花嫁……天皇の妹である和宮と、その夫となった若き徳川将軍・家茂、ふたりの逸話は、まさに「結婚はゴールではなく夫婦としてのスタートライン」だったと言えるもの。
作中でも、主人公が一人で訪れたこの場所で、和宮が詠んだ和歌が登場します。
住み慣れし 都路出でて 今日いく日 急ぐもつらき 東路の旅
住み慣れた京を離れて、政略結婚で江戸幕府へ嫁ぐ我が身を嘆いたものと言われます。
そんな彼女は、その数年後にはこんな歌を詠んでいます。
着るとても 今は甲斐なき 唐ごろも 綾も錦も君ありてこそ
夫が自分のために用意してくれていたプレゼントが、彼の訃報とともに自分の元に届いた心情をうたったもの。
どんなに豪勢な着物も、見てくれる君がいてこそのものだったのに、と。
きっかけは政略結婚だったとしても、二人は、後世まで多数の記録が残るほどに仲むつまじい夫婦でした。
側室を置かず妻一人だけを愛するという徳川家茂の生き方は、多くの子供を残すことが義務である将軍として、異例のことです。
ですが、幸福な時間は長くは続かず、家茂は戦に出かけた先で、病によって亡くなってしまいました。
未亡人となって残された和宮には皇族に籍を戻す選択もあったそうですが、徳川の人間としてみずから家のために尽力し、没後は自身のたっての望み通りに、家茂と同じ徳川の墓所に眠ることになりました。
彼女のお墓には、生前の家茂を写した一枚の写真が収められていたといいます。
そんな和宮に限らず、風雨来記4では、「夫婦」や「結婚」に関するエピソードが語られるスポットがかなり多いのです。
「夫婦」そのものが、今作のテーマのひとつなのかもしれません。
風雨来記4で出てきたスポットにちなんだ、夫婦の話 一例
「琵琶峠」和宮の花嫁行列
「岐阜駅」信長と濃姫(帰蝶)。濃姫は、美濃の姫の略称。岐阜城主斉藤道三の娘
「モネの池」モネの妻カミーユの死にまつわる逸話。画家の狂気と愛に満ちている
「白山中居神社」
キクリヒメ…山の神。白山の神。山=あの世/この世の境目を司る場所。
イザナギとイザナミの夫婦喧嘩を仲裁(調停)した神。
イザナギとイザナミ…日本最初の夫婦。生/死の象徴。
この夫婦喧嘩のとばっちりで、人類に生死の概念が生まれた
ニニギノミコトとイワナガヒメ…「永遠の夫婦」になる可能性もあった二柱
(ニニギノミコト側が、イワナガヒメの容姿を理由に婚姻を拒否した)
この神社では珍しいことに、夫婦のように仲良く一緒に祀られている
「岩村城」押しかけ婿と女城主の悲恋
「岐阜羽島駅」新幹線を通した政治家の大野夫妻像
「夜叉ヶ池」竜神に嫁入りした娘
「橿森神社」因幡の国からやってきた夫妻の、子供を神として祀る神社。
美濃で戦死した夫をとむらうために、妻子は生涯美濃の地で暮らした。
そうした由来から、家族を守る御利益がある。もちろん、安産祈願も。
「徳山ダム」アマチュアカメラマン増山たづ子氏は、
戦争に出たきりの夫がいつか帰ってきたときのために、
これからダムに沈む村の写真を撮り始めた。
ほか(風雨来記過去作からの関連エピソード)
「天文学者のひかり」夫を亡くして彼の家業の写真館を継いでいる
「相馬夫妻」駆け落ち逃避行と最高の1枚のはじまり
「芹沢夫妻」真鶴から、沖縄での家族のような日々のことが語られる
ざっと挙げましたが、細かく見るとまだまだありそうです。
これもあらためて今後、別記事にまとめまる予定です。
リリさんは、岐阜を巡る中で、こうした様々な夫婦の形に触れ、感じるものがあった……のかもしれません。
そうした「余白」も頭の隅に入れておきつつ、今回の記事のテーマは、「リリと主人公の関係性」。
ここからはふたりの関係、変化の連鎖を軸に、出会いから時系列を追って順番にまとめていきます。
変化の連鎖①~「三度」の初対面~種蔵~
岐阜の旅。
種蔵での出会いから、國田家の芝桜までの約二週間。
主人公との関わりが、リリさんにどのように影響を与えたのか。
確実に言えるのは、
種蔵での度重なる「偶然の出会い」、
そして、モネの池での「偶然の再会」、
そこでの仕事や夢に対する会話などの経緯。
これらがリリさんにとって、
「お見合いや、結婚に対する価値観が変わるくらい」の、
とても印象深い体験だった、ということです。
こう書くと、え、偶然三回会って、
そのあとモネの池で少し会話した「だけ」じゃね?
お見合いや結婚への印象が変わるくらいに
そこまで重大な内容はなかったんじゃないか?と
感じられる方もいるかと思います。
そういう風に思っていた頃が、自分にもありました。
これは、「プレイヤー=主人公視点」では、確かにその通りかもしれません。
ですが、「リリ視点」に立ってみると、その印象は大きく変わるのです。
ここで、今度は「リリ視点」で、物語序盤を見てみましょう。
まず、東京から島根へ帰る途中、ふらりと岐阜に立ち寄ったリリさんは、
最初の一週間の間に、故郷に似た雰囲気のある「種蔵」という場所で、
「二人」の男性と出会います。
一人は、岐阜に来てすぐに出会った青年。
旅行記を書くルポライターとかいう仕事をしていて、北海道に詳しい。
からかうといちいち反応するのが、素直でかわいい(?)。
仕事に一所懸命なのが好印象だったので、写真のモデルになってあげた。
いつでも取材に協力することを約束。…もう会うこともないんだろうけど。
会話から得られた人物像は、そんな印象。そして、
もう一人は、岐阜に来て数日後に出会った男の人。
初対面なのにちょっと馴れ馴れしかった。
ナンパかと思ったら、見ず知らずの自分の話を真剣に聞いてくれて、
ふつうに親切な人だった。
二度と会うことがない気軽さから、つい自分の身の上話を愚痴ってしまった。
「家に帰る」とは言ったけど……そのうち帰るから、嘘じゃない…はず。
相手のことを全然聞けなかったから、見分ける情報が全くない。
もし次どこかでこの人と会って話したとしても、分からないだろうな。
そして、そんな「二人」との出会いがあった、翌週。
島根へ帰るのを絶賛先延ばし中のリリさんが、
種蔵についまた立ち寄ってしまうと。
「また会ったね」
「ナンパならお断りなんですけど」
「またまた。冗談きついですよ。三回目じゃないですか」
「……三回目?」
リリさん視点では、岐阜に来てから三回会った人は「いない」はずなのです。
突然のミステリーでした。
相手の正体を会話で探る「わずらわしさ」よりも、「興味」が上回ったのでしょうか。
ふだんは再会したと分かると「用事を思い出した」とそそくさ立ち去りがちなリリさんが、
ここで、はじめて。
はじめて、足を止めます。
(つい力説してしまうのは、自分が選択を間違えてしまったことで、以降出会えなくなってしまった経験があるからです)
そして尋ねます。
「ところで、今日は何しに?」
「俺は今日も取材だよ」
「なるほど、今日も取材、ね」
仕事の話。取材。
今日「も」取材。
種蔵初日に出会った「北海道お兄さん」であることを特定。
『でも、このひととは一度しかあってなかったはず』
さらに確認。
「それで、どこまで話しましたっけ」
「仕事やめて家に帰るって聞いた」
「あー」
ここでようやく、
「北海道好きのルポライターのお兄さん」と
「見ず知らずなのに愚痴を聞いてくれた親切な人」が、
リリさんの中で『同一人物』として結びつくわけです。
注目したいのは、もう一段階深い部分、ここで起きたリリさんの価値観への影響です。
一期一会。
旅先では一度きり……のはずの出会い。
それが実は、気付かないうちに三度も会っていた、という衝撃の事実。
旅に、「みんな初対面だから、人を見分けなくてもいい気軽さ」を求めていたリリさん。
わずらわしい、あんまり嬉しくないという価値観しかなかった「旅先での再会」において、
彼女がはじめて、「再会の面白さ」を感じた出来事だったのではないでしょうか。
このエピソードが、彼女にとって、どれだけ印象的な出来事だったかは、最初の旅のエンディングからも伝わってきます。
そして、ここからが重要ですが、この「三度の初対面」は、ただ表面的な「面白さ」だけには留まりませんでした。
リリさんの価値観が変化していく上でより重要だったのは、
種蔵で交わした会話の「内容」です。
「再会だと気付かなかった」上に、「二度と会わないと思っていた」からこそ、
旅の恥はかきすての気楽さで、つい話してしまった「私」の身の上話。
これによって、
「誰も私のことを知らない、
一度会ってもまた会うことはない」
という前提から外れた、本来旅先では揃うはずのない、
「相手のことを知っている」かつ「自分のことを知っている」
という条件を満たしたひとつの関係が、そこに生まれていました。
それは、旅の精神的軽さを魅力に感じている彼女にとっては、本来、避けるべき事態。
そのはずでした。
けれど、偶然と勘違いが重なって生まれた主人公とのその関係は結果的に、「わずらわしさ」や「不安」よりも、「面白さ」や「興味」がまさったようです。
次のモネの池では名前を教え、かなり踏み込んだ夢や家族の話をし、さらにバンダナ(目印)を贈ったことで、間違える不安も大幅に減っていきます。
そうした積み重ねで、純粋に次の再会を面白がれるようになり、
『変な始まりだったけど、結果的に面白かったし知り合えてよかったかも』
『……もしかして、お見合いも、こんな感じでいいのかな?』
という発想につながったのではないでしょうか。
同じところをくるくるくる……
ペンを回すのは以前の記事「20歳の彼女が26歳主人公をキミと呼ぶ理由」でも書いた通り、停滞・不安定・手持ちぶさたの象徴。
目標が定まらない心理のあらわれと言われます。
三度の初対面。
これを機に、彼女は「ペンを回す」ことがなくなり、ループから一歩先へ――種蔵から、次の場所へ、進み始めます。
変化の連鎖②~こころの変化が、行動に~モネの池~
リリさんの心境の変化が、
「行動」になって現れたのが、モネの池での再会。
「私の名前って言ってましたっけ?」
自ら名前を教え、呼び方も指定します。
彼女にとって、名前を伝えるという行為は、
「相手に、自分の情報を教える」と同時に、
「相手を見分けるため」の強力な手段でもあります。
話しかけてきた相手が「自分の名前を知っている人」かどうかだけで、対象は格段に狭まるのです。
宿などで知り合った人に教える事もあっただろう「母里さん」や「ちありちゃん」ではなく、最初から「リリ」というあだ名を(なかば強制的に)呼ばせたのも、より正確に主人公(岐阜を旅する中で今後もまた会うかもしれない相手)を見分けるため、という側面もあるのでしょう。
自分を見て「リリ」と呼ぶ人物、というだけで極端に絞り込めるようになります。
岐阜においては、(まさかいるとは思っていない月子さんを除けば)主人公一人だけ。
実際、後の付知峡では、「私の真名を知っているキミは…」という言葉通り、この「真名」のおかげでバンダナを付けていないルル主人公を見分けることができました。
このモネの池では、一見静かな、
けれど水面下で大きな転機が訪れます。
取材への同行。
仕事の話、夢の話。
高校時代の「あの人のサイト」との出会い、
最高の一枚というずっと追いかけてきた目標。
仕事を辞めたばかりでこれから自分がどうしたらいいか、どうしたいのか、
希望を見いだせずに迷っているリリさんにとって、
好きなことを仕事にしている主人公の話は、とても興味深かったのでしょう。
この時点では、彼女には、主人公の「仕事」の、
ポジティブな面だけが見えていました。
自分は、結婚から逃げるためが半分、漠然とした東京への憧れ半分で上京。
兄と親友は東京でうまくいったけれど、自分は失敗した。
自分にあった仕事が見つからず、なんとなくで決めるしかなかった仕事も半年たたずに辞めて、これから故郷へ帰れば、一度は逃げたはずのお見合い、結婚に向き合わざるをえない。
なぜなら自分には、それを覆すようなそれ以外の道が、
これから自分自身の目指す生き方が見つかっていないから。
だから、そんな中出会った、夢を仕事にしている主人公の姿に、
色々と……本当に色々と、思うことがあったはずです。
「私もその記事見てみたかったな」
振り返ってみれば、出会って、主人公のルポライターという仕事を知ったときから、
モデルとして協力を惜しまない姿勢も、モネの池以降は取材に同行したがるのも、もちろん、純粋に応援したい、という気持ちもあったでしょう。
同時に、主人公の仕事、そして「夢」に乗っかることで、
『ここで会った私の事も記事になる?』
自分が協力したことが記事になる、形になって残ることで――――
それによって、自分の旅――岐阜で立ち止まって、答えを先延ばししている現状に「意味」が生まれるかもしれない、そしてもしかしたら、自分自身の道を見つけるヒントにもなるかもしれない、というすがるような思いも、あったのではないでしょうか。
(だからこそ余計に「自分がプロポーズすることで、
そんな主人公から仕事を奪ってしまうかもしれない」という葛藤も強まることになり、
一歩踏み出すためのハードルがどんどん上がっていくのです)
目標があれば、きっと前へ進んでいける。
一人の青年の生き方を変えて、仕事につなげてしまったという、ウェブサイト。
それを見つけられたら、自分にとっても生きていく上でもしかしたら指針になるかもしれない。
そんな小さな期待。
種蔵での三度の「出会い」、そしてモネの池での「偶然の再会」を通して、
リリさんの中で、自分なりの「お見合い」の認識がある程度形になったのでしょう。
ここで、かなり核心的なことを聞いてきます。
それが次の2点。
・『キミは一人っ子?兄弟はいるの?』
・『キミって彼女はいるの?私とこうしてデートしてて、ドキドキしたりしない?』
見分けるための情報収集から、
お見合い、結婚を意識した情報収集への変化。
さりげないセリフですが、
婿養子希望の母里家的には、どちらも重要な確認です。
一人っ子ではない、弟だということが判明するとテンションが上がって、弟君いじりをする一方で、主人公の口から飛び出した「年の離れた妹みたい」という答えには、おおげさなほど驚愕します。
「妹?!」
リリさんは付知峡での会話から主人公を「28歳くらいだと思ってた」とのことなので、そうすると20歳の彼女との年齢差は8歳。
妹として見られることはごく自然と思えます。
にもかかわらず、あれほど驚いた理由はなんだったのでしょうか。
以前書いた仮説(→彼女がキミと呼ぶ理由)に基づくなら、
精神的には同年代だと感じていたのかもしれません。
あるいは単純に、お見合い対象として全く見られていない、ということ自体がショックだったのでしょうか。
「すっごくカッコよくて優しくて、理想の兄さんなんだぁ……」
「私の初恋の人」
「キミにちょっと似てる」
「顔が似ているかはわからないけどね。
オーラが似てるっていうか。口調もちょっと似てるかな」
偶然とは言え、結果的にとはいえ、再会を重ねたことで、
仕草や言動、しゃべり方などに、大好きな兄と似たところを見つけて、親近感を覚えている自分がいる。
それは、「最初から距離を置いて遠ざけていたら、決して生まれなかった関係」であり、外見で「似てるかどうか」を判断できないリリにとっては「話してみて、はじめて分かる関係」。
このあたりも含めて、次の芝桜につづく、彼女の「お見合い観」の変化に繋がっていったのでしょう。
ところで、モネの池での別れ際、
リリが主人公の腕に巻いた、
お揃いの赤いバンダナ。
ふたりがはじめて「ふれあった」瞬間でもあります。
この時点では、後に彼女自身が語るように、愛のこもったロマンティックな贈り物などではなく、今後も再会するかもしれない相手をわかりやすく識別するための目印、「実用品」でした。
ですが……
「いつ再会してもいいように」
腕にそんなバンダナが巻かれていると、それが目に入るたびについなんとなく相手を思い出してしまう。相手の姿を探してしまいます。
「今日は会えないかな」「また会うことはあるかな」
1日のうち数回、もしかしたら数十回。
観光スポットや公共施設などに立ち寄るたびに、つい、なんとなく、きょろきょろと。
それが毎日続くわけです。
ある種、「吊り橋効果」に似ているのかもしれません。
このドキドキは、揺れる橋への緊張なのか、一緒にいる相手への鼓動の高ぶりなのか、判断がつかなくなるのと同じ様に。
バンダナが目に入るたびに思う「会えなくて残念だ」「なんとなく寂しい」という自分の感情ははたして、『旅の楽しい偶然』への期待からなのか、それとも相手に対する『親愛』、あるいは『恋愛感情』なのか。
・
・
・
ペアバンダナ。
それはかつて、主人公が憧れる「あの人」=初代主人公である相馬轍と、その相棒・島田光のトレードマークでもありました。
長い年月を経て、バンダナが結ぶふたつの旅。
果たしてこの不思議な縁は、単なる偶然だったのでしょうか。
余談ですが、風雨来記シリーズには、初代からマジックリアリズム要素も少なからず存在します。
(マジックリアリズム=現実の中のファンタジー的出来事)
このときのリリと主人公の間に交わされた、
『妹的立場であるものから兄的立場であるものに、無事の再会を祈願して赤い手ぬぐいを贈る』
という行為は、琉球王国に古来から伝わる、ヲナリ神信仰に通じるものです。
姉妹を持つ男性(エケリ)にとって、姉妹(ヲナリ)はその存在自体が霊的な守護神である、という信仰。
ヲナリ・エケリは、かつて風雨来記2において、真鶴Aテイラーと相馬轍が結んだ関係。
風雨来記シリーズで唯一、恋愛要素のない(魔術要素満載の)ヒロインシナリオでした。
主人公とリリが奇跡のように何度も巡り合えたのは、リリが結んだこのペアバンダナが引き寄せた「兄妹の縁」も、あったりなかったり……するのかもしれません。
(月子さんが岐阜に来なかった場合は、付知峡を最後に、二人は再会することができなくなります。
付知峡でバンダナが自然と落ちた理由=再会の力の効力が切れた=兄妹ではなく異性として意識し始めたため、だったりするのかも……?→実際、下呂温泉以降は兄に似てる、妹みたい、という話題はなくなります。
その場合、なぜ馬籠で再会できたのかというと、その日のキャンプの朝に…… 長くなるので、これもまた別の記事にします)
変化の連鎖③~「お見合い」という革命~國田家の芝桜~
リリさんにとって、再会が「あんまり嬉しくない」最たる理由は、
相手が誰か見分けるために神経を使う上、間違った場合に、
お互いにとって苦い結果となってしまうからでしょう。
失敗無く見分けられるならば気兼ねなく、
気のおけない相手との再会を喜べるはずです。
実際、芝桜の入り口では、めちゃくちゃ嬉しそうにリリさんから声をかけてきます。
だからこそ、この後の「再会はそこまで嬉しくない」で「???」。
「また会ったね、お兄さん!」と再会を喜ぶリリさんも、旅の再会を「私はあんまり嬉しくないかな」とつぶやくリリさんも、どちらも本心であるからこそのギャップに、いつもくらくらします。
普通とは違うことへの諦め。→過去記事「母里ちありはなぜ言い訳をしないのか」
これまでの出会いでは主人公の価値観に対して、いちいちポジティブに肯定してくれたリリさんとの、「はじめて感じる、価値観のずれ」でもありました。
出会いも五回目。
リリはここからより直接的に、お互いの恋愛観の話題に踏み込んできます。
「旅と旅行の話」から、なぜ「駆け落ち逃避行」なんて言葉がリリから出てきたのでしょう。
駆け落ちに関しては、ここでの会話以外では一切触れられないので真相は不明ですが……両親や親しい人がそういう経験をしていたとか、漠然とそういう憧れを持っていたとか……何かしら理由はあるのかもしれません。
メタ的に言えば、「駆け落ち逃避行」は、風雨来記シリーズの伝統です。
主人公が目標とする「最高の一枚」も、元々は、とある夫婦の「駆け落ち逃避行」から生まれたもの。
憧れの人である相馬轍も中学生時代に、島田光と二人、北海道を目指して「駆け落ち逃避行」をしました。
風雨来記1では多くのヒロインシナリオで少なからず向き合うことになる、かなり重要なモチーフとなっています。
閑話休題。
はっきりと変化の連鎖――お互いへの影響の与え合いが形となって見え始めるのは、この辺りからです。
「私とキミ、もう何度か会ってるでしょ。
これってお見合いみたいなものだよね?」
お見合いや結婚なんてこれまで「自分ごと」として考えたこともなかった主人公が、
「自分も今、お見合いみたいなことをしている」という概念を植え付けられた瞬間。
主人公はこの会話の少し前、リリの距離感について、「会って数回、無防備すぎないか」と考えていました。
しかし、「お見合い」を引き合いに出た瞬間、「会って数回」の価値観は一転します。
なぜなら、お見合いの場合は初対面から会って10回以内、交際期間一か月程度を目安に結婚を決めるのはふつうなのです。
一回目あいさつ、二回目デート、三回目プロポーズ、という流れだって珍しくありません。
「お見合いみたいなもの」として捉えると、「会って数回」の関係が、結婚相手の判断材料としてすでに一定の価値を持っているわけです。
そして実際、ここまでの二人の会話を振り返れば、お見合いにおいて最初の数回で話す基本内容は、十分すぎるほどに網羅していました。
お見合い初期でのスムーズな話題例(主人公/リリ)
・アイスブレイク・会話はじめ(落とし物ですよ/ナンパお断りなんですけど!)
・お住まいはどこですか(東京/島根→東京→島根)
・お仕事は何をされてますか?(ルポライター/会社員半年で辞めました)
・ご趣味は?(北海道好き・最高の1枚という夢/家でやりたいことがいっぱい)
・時間についてどう思う?(余裕を持ってor時間通りで/時間厳守!)
・お互いの家族構成(両親と姉がいる/両親と兄がいる)
・結婚観(深く考えたことがなかった/夫婦としてのスタートライン)
・結婚における条件提示(この仕事一生続けたい/婿入り養子希望)
こうして書くと確かに「お見合いみたい」だ……
さらに、会っている時間や回数以上に、それ以外の大部分の時間――つまり「会っていない時間」のとらえ方も重要でしょう。
想いを巡らせ、相手について考える時間。
上述した通り、目印のバンダナを結んでいる限り、それを見るたび相手のことを考えてしまいます。
また会えるだろうか。
もう会えないんだろうか。
この、寄せては返す波のような期待と不安が、積み重なっていくうちに相手への愛着にも変わっていき、そして再会がかなったときの喜びと一緒に過ごす時間を、何倍も密度の高いものにし得るのです。
「それならさ、もし私と結婚してくださいって言ったら、キミはうんって答える?」
ここ数年恋愛からは縁遠く、
結婚なんて考えたこともなかったという主人公。
お見合いなんて、これまで別の世界の誰かの話、に過ぎませんでした。
けれどリリとの会話の中で、彼女の言葉にはやけに説得力があって、
なるほど、言われてみると一理ある、と思わされました。
彼女がこの発想に至ったのは、積極的に話さなくては相手を見分けることができない、リリさんの「個性」からくる「諦観」も少なからず影響していたと思います。
彼女は、自分の個性によって起きたすれ違いについては、言い訳を……説明を、しません。
言い訳をしないのは、言っても分かってもらえない、無駄だ、むしろ相手も自分も傷つくだけの結果に終わる、と、親友・月子さんと離れた中学以降に積み重ねた経験則によるものでしょう。
人の顔が区別できないという、かなり根底の部分で他者とは理解し合えない個性を持っているリリさんは、中学時代以降は誰に相談することもなく、自分自身でひとつひとつの問題に向き合って、答えを見つけるしかなかった。
そうした事情から、
「『私にとって納得できる結婚像』は、愛し合った恋人の『ゴール地点』じゃなく、
同じ目標を目指せる二人が、夫婦になっていくために、
一緒に居場所を作っていく『スタートライン』なのかもしれない」
『それなら、すでに何度も会って、
お互いのある程度深い身の上話もしていて、
兄さんにも似ている彼は、
結婚をスタートする相手として悪くない相手かもしれない……』
という考え方へと自然と至ったのではないでしょうか。
「リリは、結婚したいくらい俺の事が好きなの?」
「別にそんなことはないよ」
「えっ」
この、「お見合い」という概念を「旅」というテーマに組み合わせたことは、
まさにコロンブスのたまご、革命級の大発明だと自分は思います。
基本的に、映画にしろゲームにしろ「旅の恋愛譚」は、時間が限られているために強火力です。
どちらかあるいは両方が旅の途中という、短い期間だからこそ、強く燃え上がる情熱的な恋を描くのに向いています。
逆に、じっくり関係を深めて、「その後のお互いの長い人生や、当事者以外の人間、様々なしがらみがかかわるような決断」……たとえば「結婚」のような題材を、短い旅の中で説得力をもって描くのは難しい。
旅先恋愛の情緒<勢いが魅力>と、結婚の現実感<勢いではダメ>を両立させるシナリオ。
旅の中であえて結婚まで描くための必然性、理由付け。
そんなものは、そうそうあるはずが…………
そこにぶちこまれた概念が、「お見合い」です。
お見合い、つまり結婚を前提として会って会話を重ねる場合には、上述したように、
お見合いの初デートからプロポーズまで、「一ヶ月」はごく平均的な期間です。
会って5~10回で結婚を決める、一ヶ月以内のプロポーズも珍しくありません。
むしろ、ずるずる長い時間かけることはよくない、何ヶ月もかけてお互い決められないなら、結婚相手としては見直した方がいい、とすら言われます。
これは、お互いに「結婚を前提に」という、共通の目的意識があるため。
限られた時間を、恋愛のかけひきではなく、「この相手と結婚して、うまくやっていけるかどうか」に焦点を絞って、会話に集中することができるのです。
恋愛結婚での離婚率30%に対し、お見合い結婚での離婚率は10%。
「長く結婚生活を続けるための相手」を見極めるのに必要なのは、決して「たくさんの時間」ではありません。
「旅先で出会って一か月で結婚を決める」という、文字にすれば超展開ともいえるシナリオに、強力な説得力を付与する、革命的概念。
それが、母里ちあり編の「旅の再会もお見合いみたいなもの」論なのです。
「私の方からプロポーズしちゃうかもしれないから、心の準備だけはしておいてね」
「分かったよ。そういうことなら、俺も真剣に考えておくことにするよ」
お見合いと結婚について、リリが否定派から条件付き肯定派になるまで2週間。
「ふたりのここまでの関係もお見合いみたい」だ、とリリが言い出し、実際に結婚を視野にいれた関係になってから、結論を出すまでも2週間。
こうした期間設定も、ものすごく絶妙な構成でした。
考えるための時間。
相手のことを知るための時間。
お互いに影響を与え合って、変わっていくための時間。
もし、たとえば、リリがお見合いについて向き合うのをあと一週間でも先延ばしにしていたら。
婿入り養子などの情報を、後出ししていたら。
何の前提もなく、エンディングで突然、主人公に対してプロポーズしたら。
考え、変化し、答えを出すための時間が足りない主人公が、「仕事」よりも「リリ」を選ぶことはなかったでしょう。
それほどまでに「お見合い(結婚を前提にした関係)」という概念は、ちあり編の根幹に、深く根ざしているのです。
世に「恋愛もの」の物語は溢れていますが、「お見合いもの」は圧倒的に少ない。
旅物語となればなおさらに。
ちあり編はそうした恋愛ものの<情熱・勢い>と、お見合いの<説得力・現実感>をいいとこどりし、「一か月の短い旅」というシチュエーションを踏襲した上で「人生もひとつの長い旅」というシリーズテーマに新しい解答を出してしまった、ほんとうに見事な作品だと思います。
さて。
ここでの会話には、二周目以降限定のエンディング分岐条件として、もし、仮に、リリが結婚を申し込んできたら「受ける(=恋愛)」か、「断る(=仕事)」か、という選択があります。
この選択は「変化」というテーマを考える上で、非常に象徴的な分岐となります。
仕事→『なんとなく、キミは仕事を理由に断る気がする』
恋愛→『なんとなく、キミは押せばオッケーしてくれる気がする』
ここで、主人公が最初から「恋愛」にプライオリティを置いた場合、この後どんな選択をとろうと、リリは決してプロポーズには「踏み出せません」。
(筆者は、これに気付くまでに実時間で50時間以上かかりました)
押せばオッケーしてくれる気がする、と主人公の内心を見透かしたにもかかわらず、最後の一歩を踏み出せないのはなぜか。
これは考えればすごくシンプルな理由。
主人公から、大好きな仕事を奪う覚悟を決めるために必要だったのは、
「OKしてくれるかどうか」
ではなく、前回の記事で書いたように、
「お互いに影響を与え合って、変わっていける実感(双方がもっと幸せになれる根拠)」
だったのでしょう。
「本当に読めないコだな」
この場所での会話を機に、あるいはもっと前からだったかもしれませんが、主人公もまた、リリさんのポジティブで、時にあきれるような言動に、大きく影響を受け始めます。
そして次の出会い、下呂温泉での「決定的な新しい選択」に繋がるわけです。
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