2年夢見た、しまね旅(後編)

2023島根旅



後編では、旅する中で特に「島根の神話・伝承や神社・遺跡について」今回気付いたこと、感じたことを書いていく。




「出雲国風土記」の存在感



今回島根を旅する中で神社や遺跡を多く巡ったが、その中で「出雲国風土記」の存在感を非常に強く感じた。


風土記ふどきは、奈良時代に編纂された、日本各地の「国」ごとの風習や地理情報・伝承などを集めた書物だ。

当初60国以上で作られたとされる風土記はそのほとんどが歴史の中で失われてしまっていて、唯一「出雲国風土記」だけはほぼ全文が現代まで伝わっているため、これが「土地の記憶のバックアップ」となったのだろう。




土地の記憶とは……

たとえば以前、風雨来記4の「岐阜・橿森神社」にまつわる神話について書いた。
橿森神社の神様イチハヤオは、岐阜・美濃だけに伝わる神様だ。

正史である記紀では、「畿内で天寿を全うした」とされる景行天皇の兄イニシキイリヒコ。

それが岐阜では全く違い、「政争に巻き込まれ美濃の地で戦死し、それを供養するためにやってきた妻ヌノシヒメと子イチハヤオが私財を投げ打って美濃の開拓に生涯を捧げた」と伝承されている。



実際に、橿森神社周辺には弥生時代の住居遺跡や王の墓が発見されている。
だが、「美濃国風土記」は現存しないので、その伝承がいつ頃からあるものか、どれほど正確に伝えられているものなのかを客観的に判断できない。
伝言ゲームのように、人の言葉というのは伝わる内に尾ヒレはヒレついて変化していく性質があるものだ。


日本各地にそうした「正史とは展開の異なる伝承」は残されている。
そんな中で、由来を「風土記にそう書いてある!」と説得力を持って語れるのが「ほぼ完全な風土記」を今も持つ「出雲」の大きな強みで、おかげで他の神話や伝承に塗り替えられることなく、出雲各地の土地に現在でも「出雲国風土記」由来の世界観が反映され続けている。


一方で、決して風土記一辺倒ではないのも面白いところで、風土記には記載がない記紀ベースの日本神話世界観(たとえばスサノオのヤマタノオロチ退治やイザナギ・イザナミの黄泉比良坂、天孫続への国譲り……のような)も平行して反映されているため、出雲を広く旅していくと時代も経緯も様々な神話が次から次へと非連続・ごちゃ混ぜで共存する、独特なカオスさも感じられた。



このカオスさは、個人的には、沖縄で見た信仰観に近いようにも思えた。
古代からの信仰のエネルギーというか、神話のパワーが今も根強く感じられる土地だ。


国譲り話し合いの場
出雲大社の境外社・出雲井社のクナト神
井戸の神
国を造った神を祀る長浜神社。海藻を供える風習
イナダヒメの生誕地
木の俣信仰








独特な信仰世界

岐阜が「飛騨」と「美濃」の2国から成立しているように、島根は「出雲」「石見」「隠岐」の3国から成っていて、それぞれの地域で信仰形態がかなり違う。

離島である「隠岐」はともかく、「出雲」と「石見」は陸続きで明確な国境線などはない。
にもかかわらず、「神社」や「伝承」という観点で現地を旅すると、国が変わると信仰する神様や信仰の仕方が違うので、その境を感じられて面白い。



たった十日ばかり巡っただけでも実感するほど、出雲の信仰の特殊性やエピソードがたくさんあった。
個人的に特に印象的だったものをいくつか挙げてみる。



・「荒神と海蛇」
・「磐船と海岸洞窟」
・「社日塚」
・「木俣神」
・「金屋子信仰」
・「朽ちてゆく姿と神性」
・「稲荷だらけ!」
・「本殿のうしろへ。」
・「鳥居がない神社」
・「賽銭泥棒が多い」
・「失われていくもの」
・「海の向こうからの漂着物」
・「蜘蛛の巣」




ここからはこれらについてもう少し掘り下げて書いていこう。





「荒神と海蛇(うか)」


「出雲」に入ってすぐ「なんだこれ…?!」と驚いてしまったのが、「荒神」信仰だ。
見知った神道とはまったく別の信仰形態。

道ばたの公園とも呼べない小さな広場。
木の前に、無数の串のようなものと縄がまつられていた。




神社でも祠でもない。
何なんだろうこれ。


その後も旅する中で何度も目にし、やがてある神社で説明を見つけた。
「惣荒神」と呼ばれる、地域を護ってくれる土地の神様への信仰だそうだ。








その姿は、「ワラをヘビに見立て、それを大木や石に巻き付けたもの」。
はじめて見るとものすごいインパクトだ。正直恐いくらい。





東出雲では「チイナマイト」と呼ばれる。語源はわかっていないらしい。





ヘビと言えば、出雲大社の「神在月」の神事には、その時期に稲佐の浜に打ち上がる「龍蛇様」を神として奉る儀礼がある。
この「龍蛇」は、セグロウミヘビという南国のウミヘビで、その時期に日本海の海岸に近づく習性がある。古代の人々はこれを神の到来と見なしたのだろう。



「出雲でヘビ」とくればついつい悪役である「ヤマタノオロチ」を連想してしまうが、「ヤマタノオロチ」は元々は記紀神話だけの存在で、出雲国風土記にはまったく記述がない。

むしろ、出雲においてはどこへいってもヘビは畏怖すべき神聖なもの、神様として扱われているように思えた。







荒神はスサノオの化身ともされるらしい。
記紀神話ではヘビを退治したスサノオが、出雲ではヘビと同一視されるというのは、なかなか考えさせられる。

出雲大社をはじめ、出雲地方にある「大社造」の神社で印象的な「大きなしめ縄」も、もしかしたら「大蛇」が由来……なのかもしれない。











「磐座と岐の神、海岸洞窟」


これも今回身をもって知ったことで、出雲では巨石信仰の片鱗が未だに根強く見られた。
歴史の古い神社や古墳を訪れれば、結構な頻度でその本殿裏や、背後の山上に信仰対象となっている巨岩……磐座や磐境などがあった。

おかげで毎回毎回プチ登山になったのは今となっては良い思い出だ。






島根には「そこ」にしか祀られていない、地域密着型の神様も少なくない。
地元では誰もが知る英雄(それも戦いに勝ったとかではなく、土地を開墾・開拓したという伝承が多い)という神様も。


巨石はそうした神様が「降臨した場所」だったり、あるいは「一時期を暮らした場所」だったりという風に伝承されていることが多かった。


巨石信仰は縄文時代由来のものと言う人もいれば、弥生時代以降に生まれた信仰形態と言う人もいる。
とにかく、神話につらなる時代のものであることは間違いないだろう。

それが未だに色濃く、「神社」と結びついた状態で残っている。
これがすごく面白かった。





以下の写真は、上が黄泉比良坂の「賽の神」。
下が出雲大社境外摂社「出雲井社」の「岐の神」。



賽の神・岐の神は同一視されることもある、分岐点を司る神様。
あの世とこの世の境目や、神域と日常の境目など、「空間を切り分けて悪いものを払う役割」を持っている。

日本書紀では、イザナギとイザナミの夫婦げんかの際に、イザナミが現世まで追いかけてこられないように道をふさいだ杖をクナトノサエノカミと読んで神格化している。
「来るな」が「クナト」の語源だとか。


沖縄の石敢當いしがんとう(悪霊は直進しかできないという考えから、家の入り口に石壁を建てる)にも通じるところがあるかもしれない。






また、洞窟遺跡も多い。
特に海辺では、数千年前の人々が生活した痕跡のある洞窟が大小たくさんあって、そこにもまた、神様が国を作るときに仮の宿にした……というような伝承が残っていた。





風土記の時代には島だったり、海底洞窟だったのが、干上がったり埋め立てられたりして陸続きになった例などもあった。

船に乗らないといけない場所やダイビングで見られる海底遺跡なんかも多いらしいので、これはまたの機会にじっくり体験してみたいと思う。









「社日塚」


「社日」は、自分がこれまで全く見たことのない(意識したことがなかった)信仰形態だった。


五角形の石柱の一面ごとに、正面から「天照大神」「大名持命(オオクニヌシ)」「少彦名命」「倉稲魂命(稲荷神)」「埴安姫命」の名前が刻まれている。
これを「社日」とか「社日社」と言うそうだ。





どこも、この五柱の神様だった。
「社日」とは古代中国由来の、春分・秋分に関わる「土地の農耕神」を祀る信仰らしい。


春に山からやってきて田に命を芽吹かせ、秋の実りを見届けて山に帰っていく。
そういう意味では、岐阜でも見た民間信仰「田の神・山の神」と根は同じなのかも知れない。




岐阜・坂折棚田の「田ノ神」



京都でも形は違うけれど、松尾大社や伏見稲荷では春に、山の神に里へ降りていただくお祭りがある。
どちらの神様も普段は山にいる、山の神様だ。

春、田植え前に神様をお神輿に乗せて里の神様になってもらい、氏子地域を巡幸することで恵みを祈願する、「地域民にとって」非常ーーーに重要で盛大な祭だ。



それぞれ松尾祭、稲荷祭という。
地域の田植え・農耕に関する祭りなので、祇園祭などに比べると観光的には知名度は低いだろう。


松尾祭の際の御旅所のひとつの様子。99%地元民。4月末。
稲荷祭の時期の、伏見稲荷御旅所。京都駅の徒歩5分のところにある。5月頭。
東寺と稲荷は、義兄弟のような複雑な関係。稲荷祭の際、神輿は東寺に立ち寄り、お坊さんの祈祷を受ける。





社日に話を戻そう。
名だたる神様が並ぶ中で、「埴安姫ハニヤスヒメ命」はちょっとマイナーかもしれない。




この神様は、イザナミが火の神を産んでもがき苦しんだときの大便から産まれたとされる女神だ。


大便から産まれた神というのはあんまりと言えばあんまりな誕生譚かもしれないけど、土は農耕をすれば必ずやせ細る。
土壌の豊かさは、洪水への治水対策とのトレードオフだ。

洪水は、大量の栄養分が定期的に運ばれてくる「大地の恵み」でもある。
土木技術が発展して洪水を防げるようになると必然的にその恵みもまた枯渇してしまう。

そうした土地で継続して安定した豊作を期待するためには、「肥料」は必須だ。

大便というのは農耕(弥生時代の幕開け)とは切っても切り離せない、「人が継続して暮らすための土壌維持」に不可欠なものだった。




隠岐諸島では鎌倉時代以前から、放牧と畑作のサイクル農法「牧畑」が営まれていた。放牧=牛の糞=肥料だ。
島に着いてガソリンスタンドで給油した際言われた。「見晴らしのいいとこは牛の糞多いから注意して」







埴安姫命の「埴」は埴輪の「埴」と同じ。
埴は「きめの細かい、黄赤色の粘土」という意味だ。


江戸時代の古事記研究の第一人者本居宣長は、「粘土を名に冠する神が大便から産まれた説話は、両者の見た目が似ているからだ」と大まじめに語っているが……この話はここまでにしておこう。


ただ、重要なこととしてほんの半世紀前、昭和40年代(1970年代)頃まではまだ都市部でも農村でも普通に「肥溜め」があって、人の糞尿を発酵させて田畑の肥料として一般的に使用していたそうだ。

「埴安姫命」は今よりずっと身近で、農家にとっては親しみのあるポピュラーな神様だったのだろう。






なお、島根では自分が見た中だけでも数十カ所の神社でこの社日社を見たけれど、この信仰の起源、そしてなぜこの五柱の神様が選ばれたのかはよく分かっていないらしい。
中国地方から四国にかけて、「縦に」広がっている信仰なのだそうだ。








「木俣神」




イナバノシロウサギの伝承で、ウサギがオオクニヌシに「ヤガミヒメはあなたを選びます」と言い、その通りになって2人は結婚したという話は有名だ。

この話には後日談があって、その後オオクニヌシはスサノオの娘であるスセリヒメを正妻にしてしまったのだけど、スセリヒメが嫉妬深かったことからヤガミヒメは実家に帰ってしまう。

その途中、ヤガミヒメは自分の子供を木の股(根本)に残していった。
この神が「木と安産を司る神」、「木俣神」だ。






出雲に入ったとたんに、あちこちの神社の摂社などで「木俣神」の名前を見るようになって、最初は何の神様かよく分からなかった。
旅の後半、出雲大社に近づく中でたまたま訪れた神社「御井神社」で上記の伝承を知った。

「根本が二股になった大木」への信仰から来た神様なのだそうだ。
おそらく、その姿形を女性の出産に見立てたのだろう。



また、「御井神社」の名前通り、「ヤガミヒメが木俣神を出産する際、産湯に使用した古代の井戸」を神格化した神社でもある。
このため、木俣神は「御井(井戸)の神」としても信仰されているそうだ。


山に行くと、木の根もとから水が湧き出しているのを見かけることがある。
木俣神=御井の神の由来は、そんなところなのかもしれない。





井戸は三カ所存在する。
このため、木俣神は実際は三つ子の神、あるいは三兄妹だったとも言われる。








調べてみると京都でも、オオクニヌシが拓いた土地とされる亀岡盆地に、この木俣神を祀る「大井神社」があるらしい。
これは、亀岡盆地そのものが元々湖だったために、これを巨大な井戸に見立て神格化し、木俣神を勧請した経緯だと解釈されているそうだ。

島根の「御井神社」は「みいじんじゃ」と呼ぶが、京都では「おおいじんじゃ」と呼ぶ。
京都の亀岡には、「おおい」とつく地名が多い。
もしかしたら、出雲に関わる土地において木俣神への信仰は古代では今よりずっと厚かったのかもしれない。




神話の中で、国譲りを迫られた際オオクニヌシは「コトシロヌシに聞け、子供達はコトシロヌシの意見に従うだろう」と発言し、コトシロヌシは譲渡を選択、唯一不服を表明して武力で反抗したのがタケミナカタだったとされる。


オオクニヌシには数多くの妻と、その子供達がいた。

タケミナカタは越の国(北陸)のヌナカワヒメの子で、同じく国譲りの際に登場するアジスキタカヒコネやシタテルヒメは、北部九州の宗像大社・タギリヒメとオオクニヌシの子とされる。
(コトシロヌシはカムヤタテヒメの子とされるが、この女神の出自は不明)

結婚相手がやたらグローバルなのは、オオクニヌシは出雲王族そのものの象徴(世襲制)で、世代を超えて全国各地の勢力と婚姻による血縁関係的つながりを深めていった、と考えることもできる。




そんな多くの子がいるオオクニヌシだが、時系列的に第一子はヤガミヒメとの子、木俣神だ。


ヤガミヒメは稲羽八上姫とも言われ、因幡国の姫(有力豪族の娘)。
オオクニヌシはそんなヤガミヒメと結婚した直後に兄神の謀略によって命を落とし、諸々あってスサノオの元からスセリヒメを正妻に迎えて現世に復活する。
ヤガミヒメはすでに身ごもっていたものの、スセリヒメの嫉妬を畏れて、ほどなく生まれた子供を木の俣に残して実家に帰ってしまった。


だが、国譲りの際に長子である木俣神は登場しない。

これは、わざわざ意見を聞く必要もないくらい出雲と因幡の関係が近かったということなのか、それとも、全国的に力を増していった出雲の中で相対的に因幡国の影響力が低くなったということなのだろうか。


そんな木俣神(出雲と因幡の血を引く神)が、京都(丹波)に大いなる井戸をあらわす名を持つ神社で祀られているというのは、そうなるに至った経緯を想像するとなかなか興味深いものがある。
今後、是非訪れてみたいと思う。




「金屋子」



金屋子は「たたら製鉄」に縁深い、出雲独自の鍛冶神。
隻眼の女神とも言われる。

この神は少々風変わりで、嫉妬深く、女を嫌い、犬を嫌い、不浄を好むという性質から、たたら場は女人禁制にして、軒先には生き物の死骸をつるしたと言われている。


記紀にも風土記にも記載がない、おそらくたたら製鉄の発達にともなって民間から発祥した神様。
岡山に降臨したあと、奥出雲の比田に移住してきたと伝承される。

出雲では、とくにたたらが盛んだった安来や奥出雲などの地方では、いたるところに金屋子を祀る神社や祠が見られた。
出雲限定で、非常に存在感が強い神様だ。






これが同じ島根県内、出雲のとなりである石見に入ると、金屋子信仰はほとんど見なかった。
有名な「石見銀山」でも、祀られているのは金屋子ではなく、遠く岐阜の南宮大社から勧請した鉱山の神・金山彦だ。


石見銀山の佐毘売山神社。



出雲では金屋子だらけなのに、石見に入った途端にその気配がぱったりなくなるのが不思議だった。
むしろ、元々の来歴から、山陽側の岡山や兵庫の方には金屋子を祀る社があるのだとか。


余談だが、トヨタ自動車は創業時になぜか愛知に近い南宮大社の金山彦ではなく、島根の山奥からわざわざこの金屋子神を勧請して神社を建てている。
創業者が「金屋子神」を選んだ経緯は現在でも大きな謎だという。


トヨタの発展を考えると、「金屋子の御利益ありすぎ!」と言えるかもしれない。







「朽ちてゆく姿と神性」



朽ちたものへの信仰を、出雲特有だと感じた。

出雲に入ってすぐのころ、神社内のこま犬や神像が自然崩壊している様を目にした。
最初は「この神社は管理が行き届いていないのか…」と思っていたのだが、その後も旅を続ける中であまりに同じ様なケースが多いので、徐々に見方が変わっていった。






出雲では、神社を訪れた際に朽ちたこま犬や狐などの神像を見かける機会が他の土地よりもずっと多い。
なんなら、新しいこま犬に差し替えられているのに、元々のぼろぼろのこま犬もそのまま撤去することなく、かたわらに添えて残し続けているところが多くあった。





頭がない石像や、風化浸食され過ぎてもはや原型をとどめていない像、地面と一体化しつつある像……
一体どれくらい昔からここにたたずんでいるものなのだろう。


明らかに管理体制が整っている綺麗に整備された神社でも、こま犬や狐像などの「石像」だけにはそういう傾向があったので、これは、あえて残しているとしか思えない。






隠岐や石見では自分が見た限りそういう気配がなかったから、出雲という土地独自の信仰感から来る文化のように感じられた。
もったいないの精神……とはこれは違うと思う。



出雲は、「黄泉」や「根の国」といった、「あの世」との関連性が神話に根深い土地だ。
もしかしたら、朽ちゆくもの、壊れゆくものにも神性が宿ると考えられているのだろうか。





「風化し滅びていく姿はケガレだからそうなる前に更新する」ではなく、「苔むして崩れ、土に、自然に還っていくその姿からもまた神を感じられるのだ」と。






これはあくまで自分の主観なので、他に何か、この土地ならではの事情や理由があるのかもしれないが、ともかく事実として島根は、他の土地では「そうなるずっと前に撤去」されてしまうような、ものすごく年季の入ったこま犬や狐像たちと存分に出会えるとても興味深い土地だった。


この写真のみ石見国の佐毘賣山神社。亀さんの手水舎







2023/09/02追記
身近過ぎて連想しなかったけど、よくよく考えてみれば京都では「あえて新しいものに替えない」は「仏像」で見かけることがあった。

野外にある道ばたのお地蔵さんや観音さん?の石像がそうだ。
風化して輪郭がなくなったものや、頭がなくなったもの(いわゆる首無し地蔵)がそのまま置かれて、拝まれているのを見かけたことがある。

確かに、新品ぴかぴかのお地蔵さんよりも、百年以上たっているだろうお地蔵さんの方が尊いものを感じてしまうかも……。

一方、こま犬に関しては出雲と違って、ぼろぼろになるずっと前に、新しいものに入れ替えてしまう印象だ。


新しい方がいいとか、古いほうがいいとかは、視点によって変わるもの。
「あえて新しく替えない」という意識が向く対象というのは、その地域の文化によって違うのかもしれない。


なんというか……出雲では、こま犬などの野ざらしの石像も信仰の中の重要な位置を占めていて、だからこそおいそれと替えたり、古くなったからと処分したりできずに自然に土に還るのに任せている……ということだったりするのかな、なんて想像してしまった。





「稲荷だらけ!」




これも意外なことだったが、島根は稲荷信仰がものすごく厚い土地だ。

稲荷信仰は奈良時代の山城国(現在の京都市)が発祥地だが、島根には京都よりもはるかに多くの「稲荷神」を祀る神社があった。
それも、摂社や境内社レベルだけではなく、単独の神社として稲荷神を祀っている社がとても多いのだ。

「稲荷神社」という名前ではなくても、訪れてみてそこが稲荷神を祀る神社だった、というケースも一度や二度ではなかった。


もしかしたら島根の場合は、「稲荷」誕生よりもっと以前から、稲荷の主祭神であるウカノミタマを祀っていた神社があって、それを後から稲荷に変えたのかもしれない。
そう思うのは、ウカノミタマの兄神であるオオトシノカミを祀る大歳神社を、島根には多く見かけたからだ。
稲佐の浜から出雲大社に向かう非常に重要な道沿いにも大歳神社が建っている。

(ちなみにオオトシノカミは日本人にとって実は非常になじみ深い神様で、お正月の門松や鏡餅は元々、このオオトシノカミを迎える行事だったりする)





出雲大社のある大社町内だけでも、たくさんの稲荷社が存在する。
江戸時代以降に勧請されたものが多いらしいがここは、出雲の神在祭のときに、稲佐の浜で出迎えた全国の神様が出雲大社に向かう通り道にあたる。

そこに、大量の稲荷神社が建っているというのは不思議な光景だった。
予備知識ゼロでこの光景だけを見れば、稲荷とは出雲の神だと勘違いしてしまうかもしれない。








これは自分の推察だが、出雲周辺で稲荷がこんなに人気な理由のひとつは、そもそも「稲荷神」が出雲系の神様だったから、というのがあるのかもしれない。


稲荷神とは倉稲魂(ウカノミタマ)神のことを指すと言う認識が一般的になっているが、本来、稲荷発祥の地の伏見稲荷では「ウカノミタマ」「サタヒコ」「オオミヤノメ」の三柱をあわせて「稲荷大神」としている。

これには考古学的な裏付けもある。
稲荷山の山頂付近には三つの峰があって、それぞれに上社、中社、下社の三つのお社が建っている。
そしてその下にはそれぞれ、5世紀以前の古墳が確認されているのだ。

つまり、もともと三柱の神(古代の王墓)への信仰が稲荷信仰の原点となっているわけだ。



そしてウカノミタマは、古事記ではスサノオの子(日本書紀ではスサノオの兄弟)となっている。
サタヒコもオオミヤノメも、出雲・日本海側の神だ。

(サタヒコ=サルタヒコと解釈されることが多い。
 オオミヤノメ=アメノウズメあるいはトヨウケヒメ とする説もある)


さらに、稲荷神を祀ったのは山城国風土記逸文によれば秦伊侶具という人物で、この人物もまた出雲に縁深い一族の出身(出雲系の賀茂氏と渡来人である秦氏の婚姻で生まれた家系の子孫)だ。

秦氏は、丹波国では土地の開拓をオオクニヌシ(出雲族)達と共に行ったという伝承も残っている。


なので、稲荷神に祀られている神というのは、もともと出雲と深いつながりを持った神と言える。
そう考えれば、出雲国に稲荷が多い理由も腑に落ちる。




また別の観点からも思考を巡らせることができる。
「ウカノミタマ」は「倉稲魂」と書き、つまり穀物の神の意味だとするのが一般的だ。
一方で、「ウカ」という響き自体に着目すれば、それは出雲において非常に特別な意味を持つ言葉。


出雲大社の背後にそびえる山々を、スサノオはウカの山と呼んだ。
初代出雲国造(出雲大社の宮司)も、ウカと呼ばれた。
そして出雲における重要な神「龍蛇」=海蛇のことも、ウカと呼ぶ。
現在でも出雲地域にはウカの名の付く地名が多い。
出雲大社の象徴的な大鳥居も「宇迦橋大鳥居」と言う。


出雲でお稲荷さん(ウカノミタマ)が大人気になったのは、ウカという「言葉の一致」も理由だったんじゃないだろうか。
稲荷信仰が生まれる以前から出雲にウカノミタマを祭る神社があったのだとすれば、それは「穀物うか」と「海蛇うか」のダブルミーニングだったのかもしれない。




京都の稲荷も、最初は「龍蛇」を祀っていたという説がある。

稲荷山は稲荷神社が建てられる以前、元々は龍が住む山だったという伝承が稲荷の社伝に残っていて、現在でも稲荷山には龍神像がそこかしこで見られる。

また、神の使いとしてキツネが象徴的な稲荷だが、当初はヘビを神、あるいは神の使いとしていた。

実際稲荷の古い意匠のお札にはヘビが描かれている。
倉の米をネズミから護るのはなるほど、キツネよりもヘビが適任だろう。
稲倉にヘビが住み着いてくれれば、こんなに頼もしい神様味方はいない。




出雲と稲荷、龍と蛇、このあたりの関係について掘り下げて考えるのはとても面白そうだ。
また別の機会に取り上げてみようと思う。

物理的に強そうなキツネ








「本殿のうしろへ。」

いろんな神社をそれなりに色々見てきた中で、島根の神社は「本殿の後ろ」を見せてくれるところが多いと感じた。
というかほとんどすべてと言っていいかもしれない。
むしろ「本殿の後ろまで回ってお参りするのが正規順路」みたいになっているところが少なくない。

揖夜神社。本殿裏まで参拝ルートになっていて、歩道が造られている。
万九千神社。歩道で本殿裏まで案内されている。

比婆山久米神社。裏側にも芳名板が張り巡らされている。






拝殿は一見現代的なつくりなのに、その背後にものすごく立派な本殿が鎮座していてびっくりすることもしばしばで、だから島根を旅するうちに自然と、神社に訪れてお参りしたら本殿の後ろへも回れるかを確認するようになった。

場所によっては、本殿裏にもさらに重要な神社があったり、本殿の下に入ってお参りする、みたいなちょっとしたサプライズもあったりした。

嘘みたいなほんとの話だけど、とある神社の本殿裏に稲荷社があって、そこに野生の狐がいて自分を見て逃げていった。そして逃げていった先へ進んでみるとさらに祠を見つけた……なんてこともあった。


先述したように自分のこれまでの印象では、神社はふつう、本殿の後ろには回れないところが多い。
そのため、神様の住まいである「本殿」はあまり人の目に触れさせない、後ろを見せるなんてとんでもない……というのが多くの神社の考え方だと思っていた。

京都の神社も、伏見稲荷や八坂神社、岡﨑神社なんかは本殿の後ろに回れるようになっているけどそれは例外的で、本殿裏には行けない(行ってはいけない)ような構造になっている神社がほとんどだ。




ところが出雲では、天照大神やその子孫を祭神とする神社などで同様に本殿裏は立ち入り禁止になっている場合もあるものの、それ以外のほとんどの神社では「本殿裏までぐるっとまわって、神様にあいさつしましょう」と言わんばかりに、むしろ参拝が推奨されている印象だった。



美保神社 本殿裏。普通に参拝順路

美保神社の背後の山を登っていった先に見つけた謎の神社






これは、元々の設計思想にもよるかもしれない。
神社は、古代の建物のつくりを元にしていると言われる。

たとえば伊勢神宮は「神明造」と言って、古代の高床式の倉をモチーフにしていると言われる。横に長い建物だ。

一方、出雲大社をはじめとする島根で多い「大社造」は、古代の宮殿をモチーフにしていて、正方形に近く、屋内が四つの部屋に区切られている。



wikipediaより引用。左が男神の本殿。右が女神の本殿




神様の性別によって内部構造が多少違うが、入り口が右側手前。
神様の部屋は、一番奥となる。
その部屋に座した神様の向く方向は側面(男神の場合は左、女神は右)だ。


このため、出雲大社では正面の拝殿でお参りした後に、本殿左側にまわってあらためて、オオクニヌシと相対して再度お参りするというならわしがある。




そういう慣習を考えると、出雲では本殿の後ろを巡るのが参拝ルートになっているのも自然なことなのかもしれない。




なお、出雲大社では、大国主を祀る社殿の裏側にはスサノオを祀る社があって、その社の本殿のさらに裏側では、稲佐の浜から持ってきた砂を供えれば同じ量の清めの砂を授かることができる、という不思議な慣習も存在する。


出雲大社の本殿裏には、オオクニヌシを見上げるウサギがいる。

出雲大社本殿後ろの、素鵞社の本殿のさらに裏の軒下。手順を経れば清めの砂を授かることができる。




「鳥居がない神社」


出雲には、「鳥居がない神社」があった。
加毛利神社というお社で、この神社には天津神のヒコホホデミという神様(ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの子)が祀られている。


元々、この神社を建てた一族は現在の宮崎県にあたる土地から来たとされ、天孫の出産時に、あたりに群がる蟹から護ったとして「カニモリ」と呼ばれていたそうだ。
彼らは船でこの出雲の地にやってきた際に、自分達の神を祀ることにした。

天津神の神社だから、鳥居はすごく大きくしたいけれど、出雲ではオオクニヌシとの約束※がある。

(国譲りの際の約束で、出雲でもっとも高い建物としてオオクニヌシの宮殿(大社)を建てたという伝承)

ならばいっそ鳥居を無くしてしまおう、ということで鳥居のない神社として現在に至るのだそうだ。




この神社は知る人ぞ知るというか、神社好きには結構有名な神社なのだが、訪れてみるとなかなか面白い立地にある。



なぜか陸の孤島になっていて、住宅街の中にある小さな石橋を渡らないと参拝できないのだ。
最初入り口が分からなくて周囲をぐるぐるまわってしまった。


また機会をあらためて記事を書いてみたいと思う。






「賽銭泥棒が多いらしい」




島根を旅していて、複数の神社仏閣関係者から「賽銭を泥棒する不届き者が絶えない」という話を聞いた。
「だから、お賽銭をいれるときは摂社などの前にある小さな賽銭箱ではなく、なるべく、厳重に管理されている本殿の賽銭箱にまとめて欲しい」、とお願いまでされた。

非常に生々しく、切実な問題だ……。


なのでそれ以降、摂社や末社にお参りするとき、お賽銭はなるべく本殿の賽銭箱にまとめて入れるようになった。
それでも個人的には……やっぱりできれば、神様ごとにお賽銭を用意してお参りしたいものだ。

お賽銭を電子マネーで決済するサービスが実用化・普及すれば、状況はよくなるだろうか。







「失われていくもの」

人口減少によってか、それとも諸処の事情があってのことか。

由緒のありそうな神社であっても管理する人がいなくなってしまったケースをちらほら見かけた。
このままあと数年、数十年もたてば土に還り、森に覆われて失われてしまう、そんなお社の姿も。

色々思うところはあるけれど、今この瞬間訪れてこの目で見られたことにご縁を感じながら、記憶に焼き付けておこうと思った。


そうしてもしかしたら何十年、何百年か後にまた人が増えたときにまた神様として祀られる……なんてこともあるのかもしれない。

(これは実際歴史の中でこれまで何度も起こっていることで、平安時代に名前の記録はあるもののそれ以降所在地を失われた神社はたくさんあるが、その多くは近年になって「比定(比較・推定)」した上で復活している)

朽ちてなお、お社の周りにはたくさんのお賽銭が。
変わった形の鳥居……ではなく、上部が崩壊したまま土に還りつつある。
ブルーシートで簡易修復されたままのお社。





「海の向こうからの漂着物」

よくみると……




古代出雲の発展は、大陸との交流が大きいと言われる。
出雲に限らず、弥生時代に日本海側を中心に大きく発展したのは、稲作や鉄をはじめとした大陸の先端技術の流入によるもの。


現代でもその空気を感じられたのが、出雲大社の南西にある長浜海岸だった。
出雲国風土記で国を造ったときに土地をつなぎとめた綱とされるこの浜には、海流の関係からか海の向こうからの漂着物が非常に多く、「大陸の存在感」を感じられた。

物理的な距離はめちゃくちゃ離れてるのに、日本の漂着物より海外のそれの方が多いというのはなんだか不思議な光景だ。







通説としては、弥生時代の大陸との交流は、航海技術の問題からあくまでも航海距離の短い九州北部の対馬や壱岐島経由(魏志倭人伝にもこうした記述がある)とされているけれど、でももしかしたら、季節によってはこの海流を利用して、大陸と出雲との「直接的な交流」もごく稀にはあったのかも……、などと浜に打ち上がる遺物が想像させてくれた。


少なくとも、古代にもこうやって、大陸から色々な「物」が漂着してきたのは間違いないだろう。
たとえばその中に、船に乗って大陸を逃れた人々がいたとしてもそう不思議ではない。








「蜘蛛の巣」




今回の旅では、結構な神社好きや遺跡好きしか訪れないような、かなり特殊な神社や遺跡を多く巡ったため、いつも道を覆うように張られた蜘蛛の巣と格闘していた。
「人があまり通らない道」は、蜘蛛にとって獲物を捕らえるためにちょうど良い環境なんだろう。


もはやカメラの三脚で蜘蛛の巣を除けて進むのが日課で、それでも頭や顔にひっかかるので、あとで鏡を見たら老人のように頭が真っ白になっていることもよくあった。

蜘蛛さんにも申し訳ないので、なるべくやぶった蜘蛛の巣を他の葉っぱなどにくっつけるように心がけたけど、意味があったのかは分からない。




そうして気付いたことだけど、「夫婦一緒の蜘蛛」が多かった。
蜘蛛は大きい方がメス、小さいのがオス。
オスはメスの巣に居候しているのだそうだ。

調べてみるとこの蜘蛛はジョロウグモという種類で、夏は、オスメス一緒に暮らしていることが多いらしい。

人間が近づくと、オスメス別々な方向に逃げていく。
せっかく仲良く並んでいたのに申し訳ないな、と思いつつ。


この夏、何十、何百の蜘蛛の巣を破いたか数え切れない。
ごめんね。





・まとめ:「ワクワク!」と「幸せ!」がいっぱい!

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