■前回
前回は島根西部「石見」の探訪記だったが、後編では島根東部「出雲」の旅の模様を書き留めておこうと思う。
鉱山や火山、奇岩、渓谷、温泉など結果的に「石」がテーマになった石見とは対照的に、出雲では昨年に引き続き、主に「神話・伝承」にちなんだスポットを中心に巡った。
出雲の入り口 ――世界平(せかいだいら)
昨年の旅でも訪れた安来(やすぎ)の「世界平」に、今年も訪れた。
京都から旧山陰道――国道9号線で島根を目指した場合、ちょうどこの安来市が「島根の玄関口」になる。
片道8時間ほど、ここまではバイクでなんとか日帰り圏内でもある。
自分にとっては「今年も島根に来たぞ!」と気持ちが盛り上がる町だ。
さてそんな安来にある世界平とはどんな場所かというと……
中海(宍道湖と間違えられがち)に面した安来の市街地の背後を包むように広がる裏山「社日山」の一画にある開けた場所が「世界平」だ。
すぐ近くには、そこより一段低く町に近い丘「日本台」という展望所もある。
「世界」と「日本」。
たいそうな名前だが、手軽に素晴らしい二種類の眺望が楽しめる穴場だ。
ここはいわゆる「観光スポット」ではない。
Googleマップには載っているため、自分のようにそれを見て探訪する人はいるだろうが、現地に看板や道順案内など一切ないため初見では登り口がかなり分かりづらく、たどりつくのが難しい。
昨年の自分も初日はたどりつけず、二日目にあらためて捜索、リベンジを果たしたという経緯がある。
そのとき、すぐ近所(というか登り口のまん前)に住んでいる住人に聞いても、この展望台の存在を知らないようだった。
一方で、市内の公園でウォーキングをしている人に聞くと「あー、あそこ。知ってる知ってる」という反応で、世界平では犬の散歩をしている地元の人ともすれ違ったので、運動好きや散歩利用者にはけっこう知られているようだ。
自分が確認しただけでも5箇所以上、公園、お寺の墓地、古墳など周辺のいろいろなところで登り口を見つけたし、おそらく探せばもっとたくさんあると思う。
これだけあちこちに入り口があると言うことは、この山の利用者は多い(あるいは多かった)のだろう。
そういえばこの山の「社日山」という名前。
社日について、去年の島根旅で調べたっけ。
社日の「社」は、「土地神」のこと。
神様に関わるものをあらわす「ネ(しめすへん)」に「土」という構成どおり、これが「社」という漢字の成り立ち時の意味だったそうだ。
「日」は日の神ではなく、「日時」のこと。
つまり社日とは「土地神を祀る日」という意味だ。
春と秋に一回ずつ。春は豊作を祈願し、秋は豊作に感謝する日だ。
社日の時は、神様が土に宿っているので、畑仕事やガーデニングなど土をいじる仕事は休まなくてはならないという風習があるという。
社日信仰は紀元前10世紀の古代中国で国家行事として行われていたほど歴史の古いもので、日本の社日は、それに民間信仰である「田の神」や「産土神」などが混ざって独自に進化したものらしい。
天照大神(農業を司る)、倉稲魂命(作物を司る)、埴安媛命(土を司る)、大己貴命(作物を守る)、少彦名命(作物を守る)の五柱の神様をあわせて「社日」として祀っていることが多い。
社日は、京都では自分はこれまで見たことがない信仰形態だけど、出雲ではよく見かけた。
安来の社日山も、社日の名前が土地に残っているくらいだから、やっぱり社日信仰に関係する山だったんだろうか。
道の途中にはホウキとちりとりが常備してあって、清掃も定期的に行われているようだ。
見通しが良く、ゴミひとつなく、落ち葉も端に寄せられていてとても歩きやすい。
早朝に京都を出て、寄り道しながらここに到着したころちょうど日暮れに差し掛かっていたので、昨年はここで見ることができなかった夕焼けを見るために世界平へ登った。
木々のスキマから差し込んだ夕日が、炎のように紅く染まっていた。
写真加工したわけでもないのにここまで紅くなるのは、「光の特性」によるものだろう。
赤色は、空気中の塵や水蒸気などにぶつかりにくく、他の色よりも遠くまで届く特性を持っている。
反対に、遠くまで届きにくいのは青色だ。
光は波のように揺れ動く性質を持っていて、色によってこの波長(横幅)が違う。
赤は横に大きく動くので、空気中の微粒子にぶつかりにくく、青は動きが短いのでぶつかりやすい。
空が青色なのは、大気中の酸素や窒素など小さい粒子に青色の波長がたくさんぶつかりまくって散乱しているため。
曇りの日に空が白いのは、曇り=空気中に水分が多い=水の分子は大きいために、青に限らず全ての色が同じくらい散乱するため。(全部の色が同じだけ混じると白になる)
夕焼けが赤いのは、太陽の位置が地表に近づく(=地面に近づくほど大気が濃い)ことでほとんどの色が散乱しすぎて届かなくなり、かろうじて赤や橙、黄色だけが届くため。
今見ている木漏れ日は、木の葉のフィルターによって夕日の色のうちさらに黄色も橙色も脱落して、残った赤色だけが地面に届いた結果だ。
こういう知識は、この数年絵の勉強をしてきた中で学んだものだったりする。
どこで何が役に立つか分からないもんだ。
で、夕日を見て満足して一度降りた後、そういえば夜景も綺麗に見えるのでは?と思い立ってもう一回登ってしまった。
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安来の地名由来は、8世紀はじめの出雲国風土記にスサノオが「ここはやすきくなる(やすらぐ)」と言ったためだと記されている。
もしかしたらスサノオは、遠く島根半島まで見渡せるこの世界平に立ってそれを言ったのかもしれない。
吹き抜ける風を感じながら、ふとそんなふうに思えた。
関連があるのかないのかは分からないが、→世界平からさらに山道を奥に進んでいくと、最終的に町の反対側にある「毘売塚古墳」という遺跡に辿り着く。
この遺跡は5世紀ころの50メートル級前方後円墳で、円筒形埴輪や鉄剣、壮年男性の人骨が出土している。
いろいろと想像がふくらむ。
次訪れるときはこの「社日山縦走」にも是非挑戦してみたい。
↑安来公園と毘売塚古墳を結んで、写真の白色と緑色のちょうど境界線あたりが道になっている。
古代出雲の最高聖地 ――出雲一之宮・熊野大社
出雲の「熊野大社」は「出雲一之宮」とも呼ばれ、出雲大社よりも格上の神社とされる。
理由は、出雲大社の祭祀を司る家がもともと、熊野大社の宮司家から枝分かれした一族だったため、本家に頭が上がらない……というのが通説だ。
祀られている神様の格の問題ではなく、神を奉じる人間のお家問題によって上下関係が生まれたというのが興味深い。
現代でも、「亀太夫神事」と呼ばれる行事において、出雲大社と熊野大社の関係性が垣間見える。
「亀太夫神事」とは、「出雲大社の神職が、熊野大社が持つ『火を起こす神器』を借りるためにお土産としてお餅を持ってやってくる」「熊野大社側の係員『亀太夫』が、お餅の出来にケチをつけていびり倒す」という世にも珍しい「パワハラ」を儀式化した神事だ。
なお「毎回最後には熊野大社側がもちを受け取り、出雲大社に神器を貸す」ことで神事が完成する。
「熊野」と言うと、熊野古道で有名な和歌山の熊野三山が思い浮かぶ人も多いだろう。
紀伊半島に残る伝承によれば、紀伊へ移住してきた出雲人が故郷の熊野大社から勧請したのが紀伊熊野の発祥だと言う。
一方で元々「熊野」は「神が住む場所」を指す一般名詞であり、全く別の存在だ……という説もあるそうだ。
面白いことに、どちらの熊野にも周辺に「イザナミノミコトがここに埋葬された」という伝承が残る。
日本書紀の一書(こういう説もあるよという補足紹介)には、「イザナミが埋葬された場所は熊野の有馬村(三重県)であると言われる」という記述。
そして、古事記では「イザナミは出雲国と伯耆国の境にある比婆山に葬られた」という記述が存在する。
奈良時代にはもうすでに、イザナミの墓の場所がどこにあるか曖昧になっていたわけだ。
ちなみに、日本書紀の正史ではそもそもイザナミが亡くなる描写はなく、生存したまま、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴神を産んだとされる。
この場合、その後の歴史に齟齬や矛盾が生じてしまうし多くの重要な神様が生まれないことになってしまう※が、これには色々な事情があるのだろう。
※イザナミが亡くなったときに生まれるはずの重要な神々が誕生しないし、スサノオが出雲に降りる理由もなくなる。オオクニヌシも誕生しないし国譲りも起こらない。
たとえば、日本書紀は「国の公式歴史書」なので、天皇家の祖先にあたるイザナギとイザナミの離婚を正史とするの避けたのではないか、という説がある。
ではなぜ、「一書」という形で他の説を掲載したのか。
これは、もともと各豪族ごとにそれぞれの「祖神(イザナギ・イザナミ)神話」があったことを示唆しているのかもしれない。
当時はまだ決して中央が一強盤石の時代ではなかった。
代表である天皇家を神話の中心としつつも、有力な地方豪族たちの持つ伝承や神話も尊重しなくてはならない。
それらを統合・吸収・換骨奪胎して出来上がったのが日本神話だと考えれば、色々な「異説」があるのは当然で、そう考えると日本書紀の体裁や古事記との内容の相違にも納得がいくように思う。
(余談だが、日本書紀の一書にだけ登場する有名な女神が、北陸の白山に祀られるキクリヒメ。黄泉比良坂で大げんかしたイザナギとイザナミの関係を取り持ったと言われる)
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出雲の熊野大社の歴史はとても古い。
奈良時代の出雲国風土記が編纂された時点ですでに「はるか大昔からある宮」と認識されていたほどだ。
祭神は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」という神様。
意味は、イザナギの愛する子である大いなる神祖・熊野大神クシミケヌノミコトという感じだろうか。
平安時代以降の書物ではスサノオの別名といわれるようになったが、奈良時代の出雲国風土記ではあくまでもスサノオとは別の神として記録されている。
この周辺では、「神社」という形態ができる以前の信仰の名残が未だに残っているのがとても興味深い。
大昔は、周辺で最も高い山「天狗山(古くは熊野山と呼ばれていた)」という山そのものが信仰対象だったそうだ。
今でも山頂付近に巨岩が祀られていて「元宮」と呼ばれている。
今回の旅では熊野大社(里宮)とあわせて、この天狗山にある元宮に参拝するのが大きな目的だった。
元宮は普通の神社参拝と違って「がっつり登山」なので、天候や時間的タイミング(早朝に訪れることができた)にも恵まれた今回はとても幸運だったと思う。
水と、岩と、火と、人。 ――天狗山(熊野大社元宮)
天狗山の山頂からは、古代出雲の中心都市だった「意宇」がよく見渡せる。
かつてこの土地の「神様」が見た視点だろう。
天狗山からは、熊野川と呼ばれる川が流れ出ている。
その源のひとつが熊野大社元宮(磐座)の少し下にある「意宇の源」と呼ばれる谷間だ。
山頂近くにもかかわらず、キンキンに冷えた水が湧き出している。
冷たいのに、のどごしが優しい。ちょうど飲み水が尽きたところだったので、ありがたさもひとしおだった。
絶えることなく湧き出す水を見ていてふと思う。
もしかしたらこの「水源」と「磐座」のふたつがあることが、この山の信仰のルーツなのかもしれない。
思えば、ここ数年旅してきた中で、古墳時代以前からある古い神社の「元宮(元々神社があった場所)」を訪れると、「湧水」と「巨岩」がそろっていることがやけに多かった。
島根だと、出雲大社や八重垣神社、須賀神社、金屋子神社、イザナミの墓とも言われる比婆山久米神社(今は枯れてしまったがかつては湧水で有名だった)などなど、印象的な古宮はどこも「湧水」と「巨岩」があった。
岐阜でも、飛騨一之宮水無神社の元宮・位山がまさに典型的で、山頂付近に豊富な水源と、百を超える巨岩があった。
岐阜市の中心部にある稲葉山――伊奈波神社や橿森神社も「水源」と「磐座」がそろっているし、風雨来記4の金山巨石群(妙見神社)も巨石と水の組み合わせ。
今年訪れた東濃の笠置山も同じく、山頂付近なのに「水」が湧き、山中には山ほど「巨岩」が転がっていた。
京都も同じで、上賀茂・下鴨神社、貴船神社、伏見稲荷に松尾大社、木島坐天照御魂神社など、奈良時代より以前の建立とされる神社はすべて、「水源」と「磐座」が揃っている場所ばかりだ。
(そのほとんどで、未だに境内から飲用可能な湧水が湧き続けている)
出雲大社の元とも言われる丹波一之宮・出雲大神宮もまた、たくさんの巨岩群があり、その下からそのまま飲用できる清水が湧き出していた。
そして、これらの場所ではもうひとつ、大きな共通点がある。
その神社の境内もしくは周囲に、古墳時代以前、弥生時代や縄文時代の遺跡……つまり古代人の生活の痕跡があることだ。
これを、「湧水」と「磐座」に結びつけて考えれば、めちゃくちゃシンプルかつ合理的な仮説が思い浮かぶ。
「ヒト」が「定住する」ために、最初に必要になるのが水と岩だった。
命をつなぎ、外敵から守ってくれる特別な場所。
だからこそ、安心と感謝が生まれ、定住に繋がり、後に信仰が生まれていった。
そういう順番だったんじゃないだろうか。
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海外のサバイバル番組で、冒険家が裸(誇張ではなく)で無人島や雪山に放り出されたりするドキュメンタリーなどを見ていると、人が自然の中で生存するために最優先で必要になるものが「3つ」ある。
そのうちのふたつが――
「水」と「拠点」だ。
水はとにかく最優先事項。
一週間何も食べなくても人は死なないが、水分だけはそうはいかない。
「生でそのまま飲める綺麗な水が湧くところ」は、今日を生きるための第一条件になる。
そして明日へ生きるために必要になるのが、拠点。
当面の基地だ。
日中の日差しを遮り、雨風をしのげて、外敵からも身を守れる。
夜、安心して睡眠をとれる場所。
これに適するのが「洞窟」……あるいは、「巨岩・巨石」だ。
洞窟そのものや、大きな岩が重なり合って洞窟のようになっていれば最高だが、そうでなくても巨岩ひとつあれば十分。
特別な道具もいらない。
岩陰に木の幹や枝を立てかけて葉で覆い、石で重しをし、床を枯れ葉などで整えれば、上等な簡易住居となる。
磐座はよく「神社より以前、神様がそこに宿る依り代」として信仰されていた、と解説されていることが多い。
ただ最近自分は、それは時代が進んでいく中で信仰が発展・洗練されて「再解釈された結果」であって、もう一段奥に本質があるんじゃないか……と考えるようになった。
最初から「大きい岩に自然の神秘や神の力を見出して畏敬の念を抱き、信仰対象とした」のではなく、もっとシンプルに、住居として「使える岩(雨風や外敵から守ってくれる場所)」という「即時利益」……「実用性」への「感謝」「愛着」「思い入れ」が本質だったんじゃないだろうか。
「そういうもの」を感じるのは現代でもそう難しくない。
寒く冷え込む日にあたたかな日差しに包まれたり、釣った魚を自分で調理して食べたり、山に登って喉が渇いているときに冷たい水場に出会ったりしたときに感じるのと同じ、ごく自然にこみあげてくる喜び。ありがたさ。
そこが「信仰」の原点だったんじゃないだろうか。
とすれば……
岩屋はあくまでも簡易住居。
生活が安定し、家を建て、世代を重ねていく中で、岩に住むという発想自体がなくなってしまったことで、なぜ岩を大切に信仰しているのかの理由を忘れてしまい、「神様の宿り場所」という概念だけが残った結果が磐座なのかもしれない。
つまり、磐座とは、「かつてご先祖が暮らしていた場所」。
だからこそ、水場とひも付いている。
ここでいうご先祖というのは単純な血縁に限らず、指導者だったり、他所から技術や文化を持って移り住んできた開拓者だったりもしただろう。
それが後々「神様」と呼ばれるようになっていった。
……論拠なんてない、ただの想像だけど。
全部が全部の古宮がそうではないにしろ、古代にそういう経緯で発祥した神社は少なくないんじゃないだろうか。
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さて、人が自然の中で生存するために最優先で必要になるものが3つある、と書いた。
ひとつは水。ひとつは拠点。
最後のひとつはといえば、「火」だ。
季節や地域によっては、水以上の最優先事項にもなる要素。
人だけが意図的に「起こす」ことができる化学現象。
ヒトの営みを象徴するものといえるだろう。
火は体をあたためてくれるのはもちろん、濡れたものを乾かす力を持ち、夜を照らし、野生動物を遠ざけ、調理によって消化の良い食事を生み出すこともできる。
水、拠点、火。
この「三種の神器」が揃ってはじめて生活基盤が確立でき、食料、衣服、道具……とさらに生活環境を整えていけるわけだ。
熊野大社の神「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」は、「火の発祥の神」と伝えられている。
「日本火出初之社」。
そう、「日本で火起こしをはじめて行った神さま」だとされているのだ。
古事記におけるイザナミの死因は「火の神カグツチ」を産んだことによる焼死で、これに怒り狂ったイザナギによってカグツチは斬り殺されてしまった。
一方、熊野大社の神は同じ「火の神」にもかかわらず、「いざなぎのひまなこ」=「いざなぎがとてもかわいがった子」と称されているのがなんとも対象的に思える。
とにかく遠いむかし。
縄文時代か、旧石器時代か。
この日本で、いちばん最初に道具を使って火を起こしたヒトを祀る神社。
亀太夫神事で、出雲大社の神職が熊野大社にわざわざ火を起こす道具を借りに来るのも納得だ。
燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)。
要するに「板」と「棒」を使った、原始的な摩擦熱で発火させる道具だが、それは遠い昔、確かに「我々の神々」が使っていた「神器」なのだ。
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神話までの距離 ――意宇川
ところで、意宇の源から流れ出した沢水は少し下流で他の流れと合流して、「熊野川」となる。
この写真は熊野川の途中にある「髢が滝」で、「滝の裏」どころか「滝の下」に潜り込めてしまう、冒険心くすぐりまくる滝。
熊野川は少し下流でさらに「意宇川」になって熊野大社の前を通り過ぎ、山代郷の南(出雲国の中心部だったところ)を抱くように回り込んで中海に注ぐ。
意宇川沿いに、古代出雲国において重要な施設(国府や国分寺など)が多いのは偶然ではないだろう。
↑意宇川の流れ
今は、人の住むところに神社があるのが当たり前だけど、大昔はそうではなく、人の住むところと神の住むところははっきりと分けられていた。
この名残が「境内」――鳥居や縄で分け隔てられた向こうは神域――という概念だ。
古代出雲では、熊野大社の神は里から見える一番高い山「天狗山」に座し、人々は里で、山から流れてくる恵みである意宇川のほとりに都市を築いていた。
なお、1300年前の出雲国風土記にも、意宇川について以下のように記載されている。
意宇川 源出郡家正南一十八里熊野山 北流 入々海。〔有年魚 伊久比。〕
群家(役所)から真南18里の熊野山を源とし、北に流れ、海に至る。アユとウグイがいる。
※現在の意宇川にはもうアユはいなくなってしまっている…ウグイは今もいる
出雲国風土記について調べるほど、令和の現代の人間からの「神話の時代への距離」と、奈良時代の人々からの「神話の時代への距離」は、実はほとんど変わらないんじゃないかと思えてしまう。
現代人からすれば、奈良時代は「神話」時代である古墳時代と隣り合わせの時代だからついつい近いものととらえてしまうけれど、少なくとも出雲国風土記を書き記し、まとめた人は「神話の時代をすでにはるか遠い昔のこと」だととらえて、自分たちの時代をそこから遠く離れた「現代」ととらえている。
それが強く感じられるのが川や山、生息動物などの地理情報だ。
上の意宇川の記述のように、当たり前のことが、当たり前のこととして淡々と、具体的に記されている。
神や妖怪に関する伝承と、地理・観光情報をはっきりと切り分け、書き分けているのだ。
後者に関しては多少情報を更新、補足(オオカミが絶滅していることとか)すれば、そのまま現代でもガイドブックとして使えるくらいに「現実的・写実的」な内容になっている。
また機会があれば場をあらためて、出雲国風土記についても掘り下げてみたい。
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ところで、熊野大社を訪れて、ちょっと残念だったことがあった。
こんな看板があるということは、これが必要となるくらいの状況だったということだろう。
今はゴミの類が見当たらないのが幸いだったけれど、由緒正しい神社にこうした注意書きが必要になってしまうのはとても残念に思った。
また、それとは少しちがうけれど、こんな看板もあった。
旧社地(以前熊野大社の社殿が建っていた場所。現在でも熊野大社の敷地)に置かれたこの立て看板には、
「銀杏は自由にお採り戴いて結構ですが近所のご迷惑になりますのでこの場での処理は絶対にご遠慮下さい」
とある。
「銀杏の処理」というのは、やったことがある人は知っているだろうが「ものすごい悪臭を放つ皮肉と、可食部分である種を取り分ける」作業。
つまり、不要な果肉(悪臭の塊)をここで取り除いた上放置して、可食部だけ持ち帰る人がいたということだ。
銀杏の悪臭の主成分は、人間の皮脂などに含まれていて体臭の元にもなる「エナント酸」と、人間の嘔吐物にも含まれている腐臭「酪酸」。
悪魔が考えたのかと思うような、悪臭のハイブリッドだ。
それは、ご近所からすればたまったものではなかっただろう。
銀杏の香りは、ヒトに限らずほ乳類が本能的に忌避する匂いとされる。
銀杏からすれば「ほ乳類は食うな!」という意志表示なのかもしれない。
だが、かつてはこの臭いを好んでいた生物がいたらしい。
銀杏は一億数千年前に誕生した「生きた化石」と言われる。
当時地上を支配していたのは……「恐竜」。
そう、恐竜だけに好んで食べられるように進化した結果が銀杏の悪臭――というのが現在の通説なのだそうだ。
じゃあ恐竜がいなくなった今は、と言えば、基本的にはほとんどの生物に見向きもされないために、自然下ではもはや絶滅寸前。
一度は野生絶滅したと考えられていた時期もあるほどで、20世紀になって中国で「野生種の銀杏が再発見」されたことで訂正されたという経緯がある。
一方で、今から千年くらい前の人類が「皮肉」にも、「臭い皮肉を我慢して取り除き、種の中身を加熱して食べれば美味しい」上に「秋には色づいて綺麗なので街路樹にぴったり」なことに気づいて世界各地で植えまくったおかげで、植樹された栽培銀杏は人の生活圏ではありふれた存在となっている。
銀杏からすれば「対象外」だったはずのヒトの関係。
今や、ツンデレヒロインと鈍感主人公のような(そうか?)ちょっと不思議な共生関係と言えるかもしれない。
温泉タイムスリップ ――玉造温泉
「温泉が多いと幸せ!」なちありさんを意識して?、今回の旅では去年より多めに温泉を巡った。
昨年の記事でも書いたけれど、島根は温泉がとても多い。
環境省がデータとして公開している「温泉の数」でみれば全国的にみてそれほど多くはないはずなのに、実際に島根を旅すると、どこへ行っても「○○温泉」という看板が次から次へと現れるために「温泉だらけ」という認識になってしまう。
それもそのはずで、ふつう、「温泉地」というのは固まって存在することが多い。
たとえば、静岡は島根よりもはるかに温泉数が多い温泉県だが、「箱根」「熱海」という限定的なエリアに県内の九割以上の温泉が集中している。
そのため、県内を目的無く走っていて不意に温泉に出くわすようなことはほとんどない。
島根はそうではなくて、小規模な温泉スポットが県内の至るところに点在するために数キロ走れば別の温泉地、さらに数キロ走ればまた次の温泉地という感じに、次から次へと趣きも泉質も全く違う温泉が登場するのが面白いところなのだ。
全都道府県を巡ってきた中で、島根と鳥取の温泉密度(温泉との出くわし頻度)は別格だと思う。他でこれに匹敵するのは大分県くらいだろう。
ゆくゆくはひたすら温泉を巡るだけの旅もしてみたいところだが、今回の旅では、津和野温泉、塩ヶ原鉱泉、木部谷温泉、匹見温泉――
そしてラストに、玉造温泉を訪れた。
1300年前の出雲国風土記に、玉造温泉の情報が書かれている。
次の様な感じだ。
ここの川のほとりには湯が湧いていて、男も女も老人も若者も大勢が集まって、道を行き交い、あるいは水辺を歩き、あたりには市が立ち、宴のようににぎやかに湯を楽しんでいる。
一度入ればたちまち容姿端麗となり、万病がことごとく治ってしまう。これまで効き目がなかったことが無いそうだ。
このことから、土地の人々からは「神の湯」と呼ばれている。
湯を楽しむ気持ち。
それは1300年前も今も同じらしい。
効き目がすごい温泉を直球で「この湯は神」と呼んでしまうのも、「この温泉何でも治る」とつい大げさに言ってしまうのも、現代人と何ら変わらない感性に思える。
「これまで効き目がなかったことが無い」――いやいやさすがにそれは言い過ぎだろって、風土記をまとめた人(ヒロシマさん)もまとめながらツッコんだはずだ。
ツッコミつつも、いやまあそう言いたくなるくらい良い湯なんだな、と苦笑しながらわざわざ紙面を割いてこの「温泉記事」を挿入したに違いない。
朝七時に到着。
早朝から入浴できる施設があったのでまずは湯を楽しんだ後、周辺を散策した。
悪い湯ではなかったけれど、大きなビルの最上階が浴場になっている施設だったので、情緒という面では物足りなかった。
どうしようかな。
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現在の玉造には源泉がいくつかあるようだが、風土記の時代に湧いていた湯そのものは今はもうないのかもしれない。
ただ、川辺で興味深い湯を見つけた。
魅力的なことに、源泉掛け流し(自然に湧いて出たそのまま)らしい……が。
これでもかと言うくらい注意喚起された足湯。
温泉の湯温の部分は表示が取り外されている。
おそるおそる足をつけてみた。
その瞬間、引っ込めた。
うん、無理。
これは温泉と言うより「熱湯」だ。
温泉たまごができる湯温。
足は一秒たりとつけていられないので、手を一瞬ぱしゃぱしゃして、軽く腕や顔をぬぐうにとどめた。
それだけでも、お肌がもっちりすべすべになって、成分の濃さに感動した。
さすが「神の湯」。
少し川上の方に進むとまた別の足湯があって、そこはなんとか足をつけられるくらいの温度だった。
ああ、幸せ。
棚田のミニコースター ――忌部の水郷
北海道に、「ジェットコースターの路」という場所があった。
いくつもの丘を登ったり下ったりしつつどこまでもひたすらストレートの道が続くという絶景スポット。
ここはそれに比べると規模はミニサイズだけれど、ノスタルジックな棚田の間をゆっくりと弧を描きながら道が続いているのでバイクで走っていても楽しく、見応えもある景観だと思う。
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かたわらには田んぼアートもあって、毎年干支にちなんだデザインが披露されるらしい。
今年はタツノオトシゴ……かな?
かんなびぬ ――山代郷・茶臼山
「出雲」と「京都」の関係は、切っても切り離せない。
正確には、「古代出雲」と「古代京都」の話だ。
京都の前身が「平安京」だというのは日本人にとっては常識だろう。
京都の観光PRでもよく「1200年の歴史が云々」とアピールされるけど、じゃあ平安京ができるさらに以前の京都盆地の歴史となると、ほとんど知られていないと思う。
文字情報がほとんど残っていないので当然だが、それでも考古学発見や寺社の伝承などから分かっていることもある。
弥生時代後期から古墳時代にかけての一時期、「出雲」を名乗る人々が盆地内で大きな影響力を持っていた時期があったようだ。
「出雲」は、狭義には「出雲国(現在の島根県東部)」を指すことが多いけれど、奈良時代以前には全国の至るところに「出雲」があった。
出雲国由来の人々(出雲氏とか出雲族と言われる人々)が、「開拓」のために全国に散らばっていたからだ。これが「オオクニヌシの開拓神話」の元ネタかもしれない。
能登半島や飛騨の古川国府盆地、三重の志摩国など、その痕跡は様々な土地の神社や伝承に残っているけれど、中でも奈良の三輪山はその代表格だ。
大和最高の聖地・大神神社のある三輪山は、元々は出雲の「かんなび(神の座す場)」だったために、現在でも出雲の神「オオモノヌシ」が祀られている。
同じように京都盆地もまた、出雲の人々が初期の開拓に関わっていた。
歴史上残っている、京都のいちばん古い呼び方は「山代(やましろ)」という。
7世紀には、「平城京から見て奈良山の後ろにある国」という意味で「山背(やましろ)」の字があてられ「山背国」となった。
のち、平安時代には山河が低く連なる地形から「山城」という字に変化している。
そもそもの「山代」の字はどこから来たのかはよく分かっていない。
「山代」は「やまたい」と読めるから邪馬台国はここにあったのでは――という説もあるそうだが、自分としてはそれよりも、京都盆地とつながり深い出雲に同じ字、同じ読みの「山代」がある点に注目している。
京都にやってきた出雲の一族(出雲氏)は、元々古代出雲の都市「意宇」が出身地だったと言う。
意宇の中心地(国府所在地)は、山代(やましろ)郷だ。
出雲国風土記によれば、大穴持(大国主)の子供の「山代日子命」がいたから山代と名付けられたとある。
京都の「山代」の由来は、もともとは出雲の「山代」だったとは考えられないだろうか。
出雲の山代から来た人達による開拓地いわば「ニュー山代」。
それが、京都盆地全体を指す「国の名前」として使われるようになっていった……のでは?
あるいは全く逆の可能性も考えられる。
実は京都盆地の方が先に「山代」と呼ばれていて、京都盆地(やましろ)の出雲から本国の出雲へ戻った人物が「山代日子命」だったとか。
この場合、出雲の山代の名称は京都盆地由来ということになる。
どちらにしても、「山代」という言葉がどこから来たのかは不明だ。
そんな想像(妄想)をさらに深めるべく、毎回島根に行くたびに少しずつ、山代郷周辺のスポットを巡ることに決めている。
「神名樋野」は出雲国風土記に記載のある低山。
山代郷の中心にして、ランドマーク。
標高171メートルだが、田んぼのただ中の単独山なので眺望はばつぐんだ。
「神名樋山」ではなく、「神名樋野」と呼ばれていたのは、古代では、「山」と「野(丘・小山)」は別物として扱われていたのだろうか。
現在は「茶臼山」と呼ばれている。
そういえば、風雨来記4のDLCにも愛知の茶臼山が登場していた。
「茶臼山」という名前の山は、全国に200箇所以上あるそうだ。
この名前の山は、室町時代ころまでは皆無だったようだ。
「茶臼」という道具(抹茶を挽くときに使う)自体が一般的ではなかったからだ。
戦国時代に武将達の間で自分達の地域の山を「茶臼山」に改名するのがブームになったことが、現在の茶臼山乱立の原因らしい。
「○○富士」みたいなものだろうが、元の名前のままの方が歴史や地域性を感じられて良いのになと思う。
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ここ茶臼山近辺は、山代郷の中心部である上、出雲国の中央政庁である出雲国府があった場所でもあるため、遺跡や古社の密度が高すぎて、とにかく時間がいくらあってもたりないほどだ。
この地域に関しては、バイクよりも自転車の方が巡るのに向いているだろうな。
山の麓には巨大な古墳がふたつ並んでいた。
周囲には他にも、中~大規模な墳墓が集中している。
その形式は出雲独自の部分が多く、それらを調べることで出雲国風土記にさえ記載されていない出雲の謎が見え隠れしたり(たとえば「考古学的にみると古代出雲は東西で王朝が別っぽい」のに「出雲国風土記にはそうした記述が一切ない謎」など)、一旦興味を抱いて調べ始めるときりがないくらい奥が深い。
ここに簡単に書ききれるものではないので、また機会をあらためて記事にしてみようと思う。
ファインダーあるいは額縁の向こうとこちら ――足立美術館
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「足立美術館がすごい」という話はいろいろなところで聞いていた。
20年以上連続で日本庭園日本一と評価されている※場所らしい。
(※米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」による庭園ランキング)
それまで、外国人に一番人気の日本庭園といえば京都のどこかなのかなとなんとなく思っていたので、それが島根にあると聞いてびっくりしたことを覚えている。
とにかく素晴らしい庭園らしい。
昨年も、自分が島根を旅したことを話した人から「足立美術館は行ったの?」と何度も聞かれたくらい、近年知名度を上げている場所のようだ。
今や島根県において、出雲大社の次くらいの有名スポットなのかもしれない。
とはいえ、これまで自分は日本庭園そのものにとりたてて興味を覚えなかったため、今回の島根旅でも当初は足立美術館に立ち寄る予定はなかった。
心変わりしたのは島根に来てからだ。
前回触れたように、大麻山神社で元庭師として日本庭園を造っていた神主さんから話を聞けたこと、また津和野の旧堀氏庭園でも期せずして日本庭園に触れるにあたって興味が膨らみ、旅が終わる頃にはいつのまにか「この旅の締めくくりは足立美術館にしよう」と気持ちが盛り上がっていた。
これも旅の縁の面白さだろう。
そんなわけで、閉館まであと一時間という結構タイトなスケジュールながら、今回の旅の最終スポット・安来の足立美術館へと辿り着いたのだった。
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日本庭園という言葉で自分が勝手に想像していた、壁に囲まれた「ミニマムなお庭」とは全然違い、めちゃくちゃ開放的な景観。
というかどこまでが庭でどこからがそうじゃないのか、ぱっと見分かる様でわからない。
まるで別の惑星の風景のような不思議な世界。
ただ美しく整っているというだけじゃなくて、風景の縮尺のズレで脳が錯覚して刺激される、トリックアートのような面白さもあって「ワクワク」した。
この日は夏の夕暮れの風景だったが、季節や時間帯、天候などで無限の顔を見せるのがこの庭園の魅力なのだそうだ。
「足立美術館がすごい」という話を聞くとき、必ずと言っていいほど「管理する庭師さんたちの仕事がすごい」のだと聞かされたっけ。
こんなに広い庭園を365日丹精込めて毎日完璧に手入れ、管理しているらしい。
そうでないとこの奇跡のような景観は維持できず、あっという間にほころび、破綻してしまうのだそうだ。
だからこその「21年連続日本一」なんだな……
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ここの日本庭園がすばらしいのは、庭園の美しさに感動した上で日本画を鑑賞することでより深く絵を味わって貰いたいという明確な目的があることや、「庭園もまた一幅の絵画である」というような、創設者の美術への強烈なこだわりが根底にあり、今も忠実に受け継がれているのも大きな理由だ。
自分が個人的にいちばん興味をひかれたのは、この美術館の創設者の美術にかける情熱の部分。
今でこそ「日本一」と名高い日本庭園を擁することで年間50万人近いひとが訪れる足立美術館だが、当初は来館者数がかんばしくなく、創設者の足立氏は人を待つつらさを十年以上味わったという。
72歳のとき、美術好きが高じて素人だったにもかかわらず一年半で名画の模写を200点以上描いたというエピソードもまた印象深い。
一種異常なまでの、芸術に対するコスト度外視のホンモノの情熱があったからこそ、世界一と呼ばれる庭園として結実したんだなぁと思わされた。
今回は詳しく触れないが、庭だけじゃなく美術品も良かった。
ここの収蔵品は日本画が中心で、自分にとっては普段見慣れないものではあったけれど、抽象的なものよりも風景や自然物を描いたものが多かったので、知識のないなりに新鮮で面白かった。
中心となっている展示は横山大観コレクションで、日本庭園と並ぶこの美術館の柱となっている。
そもそも、足立美術館の日本庭園には「横山大観の作品世界を庭園として再現・表現する」という構想が含まれており、きっても切り離せない関係なのだそうだ。
美術品は撮影禁止だが、庭園は撮影オーケーということだった(ただし三脚はNG)ので、心に触れる景色と出会うたび写真を撮った。
窓枠がまるで「額縁」、あるいはカメラの「ファインダー」のようだ。
四角に切り取られるだけで全然違った印象になる。
想像力が刺激されてすごくおもしろい。
閉館間際で他に人がいないこともあって、ついつい立ち止まって風景を切り取るのに夢中になってしまった。
大満足。
旅の最後にここへ訪れて本当によかった。
今回得た興味は、今後の自分の旅でもいろいろな方向へ広がっていきそうだ。
まずは京都へ帰ったら日本庭園ランキング2位、「桂離宮」に行ってみよう。
自転車で10分の近所にあって仕事でしょっちゅう前を通るくらい身近にも関わらず、生まれてからたった一度も行ったことがないのだ。
思わぬところで、島根の旅が京都へつながった。
(なお、3位はふたたび島根の「皆美館」という旅館)
2024島根旅を終えて
今年の夏の島根旅はここまで。
とはいえ、書ききれないことはまだまだ山のようにある。
キャンプスタイルを大幅に変えたこと。
今年はテントをあまり使わず、コットで野営することが多かったこととか。
去年と違ってバイクウェアを使用して旅をした感想。
メッシュジャケットとメッシュグローブは、長距離の移動時には疲労軽減に大きく繋がった。
旅の間で食べたものや、調理したもの。
道中巡り会ったたくさんの「湧水」のレビュー。
そうしたことも書きとめたいところだが、書き始めるといつも、どこまでも長くなってしまう。
今回はここまでで切り上げておこう。
次の島根旅は、去年も今年もまだほとんど巡っていない松江近辺が中心の旅になるかな。
他にも、古墳関係はあまり探訪できていないし、島根半島にはとてもきれいな海岸がたくさんあるとも聞く。
美味しいものも食べたい。
宍道湖の夕日も見たい。
まだまだ行きたいところがたくさんある。
きっとまた、島根を旅しよう。
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