好きこそものの上手なれ?

ファンアート

※今回の記事は、風雨来記4母里ちあり編のネタバレを含みます




9月、10月、11月の三ヶ月を「画力向上期間!」に決めて「特訓」している。

日々、色々な発見、絵以外の学習にも通じるたくさんの気づきがある。
近々記録としてどこかに書き残そうと思う。




リリさんらくがき




あまりまとまっていないけれど、今回はイラストを学ぶ課程での気づきをひとつ、書き留めておく。


『絵がうまくなるために、才能はいらない』という説

最前線で活躍しているプロイラストレーターの方々は、よくこんなことを口にする。

「自分には『才能』はない。悲しくなるほど凡人だ」
「絵がうまくなるためには『特別な才能』は必要ない」


これは確かに謙遜ではなく、本人の実感のこもった真実なのだと思う。

世の中には、何も考えずに神がかった絵を描く天才や、生まれ持っての特殊な色彩感覚を持つ人一瞬見たものを完璧に記憶できる写真記憶能力者――そういう人たちももちろんいるにはいるけど、本当にごくごく少数だ。


そんな絵描き人口の0.1%にも満たない超天才は別として、大多数の人が絵が上手くなるためには、けっして「特別な才能」は必要ない。


「特別な才能」は必要ないけれど――、
「特別ではないいろんな才能」は必要になる。





10年以上趣味で絵を描いてきて、その上でこの一年間自分なりに本気で絵を学んでみて、自分自身の実感として感じるのは、

特別ではない、ありふれた才能――この言葉には「性格」や「経験」、「運」も含む――、それらの「かみ合わせ」で、絵の上達速度は大きく変わるんじゃないだろうか。


たとえば、もっとも根本的な部分で言えば、長時間机や画面に向かって描くことができる基礎体力は非常に重要な才能だ。
決めた課題に一心に集中して絵に取り組める精神力も大切。
美術解剖学や構図、色彩など覚える要素も多岐にわたるので、学習力や記憶力も必要になる。
さらには「どこをどうすればどう良い絵になるか」「自分はどういう絵が描きたいのか」「人に受け入れられる絵とは何か」というような思索や情報収集能力も。


単純に、性格も大きく影響する。
こまめに掃除する人、苦手なものや嫌なことを後回しにしたくない性格や、一度やった失敗を二度と繰り返したくない性質の人は、後回しぐせがあったり、何も考えずに何度も同じ失敗を繰り返すタイプの人(私です)よりも効率よく上達する傾向にある。


もっとシンプルに、

自分の決めたことに向かってまっすぐに努力できる才能。
効率よく自分にとって最適な学習法を見つけられる才能。

中間テストはいつも一夜漬けで山勘だよりだったのか、
計画をたてて堅実に結果を出していたのか。

試行錯誤を楽しめるひと。
失敗を怖がらないひと。

思い立ったらすぐ実行する行動力。
人があまり思いつかないことを考えつく発想力。
逆に、他の人との「あるある」を見つけられる高い共感性。

新しいことに挑戦するのがすき。
人の話を聞くのがすき。

集中すると他のことが見えなくなる。
注意散漫で色んなものに目がいく。

マイペースな性格。
嫉妬深い性格。

確固たる目標がある。
ただ描くのが好き。

自分よりうまい人の意見をスポンジのように吸収できる素直さ。
自分に必要な情報を集めるための検索力。

画力の上達だけなら数学が得意な人の方が有利かもしれない。
共感を誘う表現に関しては国語が得意な人の方が有利かも。

流行や他人の意見に敏感なのも才能ですし、最低限のコミュ力や一般常識はプロクリエイターとして成功するためには必須スキルだ。


人の数だけ得意なもの、不得意なもののかみ合わせが違って、何が自分の画力につながるか、成長に必要なのかは後にならないと分からない
持っているスキルがうまくかみ合って、あっという間に上達する人もいるけれど、何かが足りなくて、でもそれが何か分からずになかなか上達できない人が大多数だ。

あるいは、足りないものはわかっても、やるべきことが膨大すぎて、何から手をつけていいか分からず右往左往してしまったり。



以前、2022年Twitter界隈において最も有名なイラストレーターの一人であるモ誰氏が開いているイラスト講座を受講したのだが、その中で彼独自の上達理論として「目と手と脳の理論」という考え方を紹介されていた。


端的に言えば、目(インプット)と手(技術・肉体)と脳(思考・学習)をバランスよく伸ばすことが効率よく成長するために重要だ、という理論。

勉強に根を詰めすぎるとついつい視野が狭くなって、同じことを延々繰り返す袋小路に陥りがちなので、たえず学習方法のバランスを見直すことが大事かもしれない。





自転車と絵と


絵の上達は、自転車に少し似ているかもしれない。
一度乗れるようになってしまえば、どうやって乗れているのか自分でもわからなくなる。
乗れない人に、どうやれば乗れるようになるのか説明するのはとても難しい。


自転車といえば、かつて自転車で日本一周をしていたとき、旅先で知り合った人が「誰にでもできることじゃないよ」とか「すごいなぁ。やりたいけど自分には到底できないなぁ」と言う風に声をかけてくれることがちょくちょくあった。

若かったこともあって当時の自分は「誰にでもできますよ」と反論していたけれど、今思えば根本的に勘違いしていたのだ。



あの当時の自分にとっては確かに、「やろうと思えば誰にでもできる」はごく当たり前の答えだった。
自転車の速度を時速15キロとして、一日7時間こげば100キロ、100日こげば1万キロだ。
「理屈の上では」自転車に乗れて、時間をかけられるなら、日本一周は誰にでもできる。


けれど誰も、そんな「理屈の上では」なんて話はしていなかったのだ。
クソガキだったあの頃の自分は、そんなこともわかっていなかった。



まず、仕事を辞めて収入なしで一人、日本一周という長期間の旅に出るという、先の見えなさにワクワクできるかどうか。
それも自転車とテント、今日どこまで行くかも無計画の野宿生活。

人家のない山奥で日が暮れたり、野生動物に襲われたり、空腹で倒れそうになったり、真冬も雪の中を走り続け、お金が尽きればアルバイトを探す。

ある程度、馬鹿・無鉄砲・考えなしという性質(見方によってはそれも才能?)がないとできない旅だったかもしれない。

家族や親類も健在だったし、自分自身の体力・健康・メンタルも十分だった。
一度も途中で辞めたいとか早く地元へ帰りたいとか思ったことはなかったから、自分ではじめたことは最後までやり通したいというこだわりは人一倍強かったと思う。


総合的にみて、たまたま、自由に無計画に、長い一人旅を満喫できる条件が偶然揃っていた。

「色々なものがかみあって」、自分は「幸運」にもそういう旅ができる、それが許される環境にあったということ。


「誰にでもできる」は、一見正論のようで、でもそうじゃない。
自分にとっての当たり前が、誰かにとっては……もしかしたら未来の自分自身にとってさえ、そうじゃないかもしれない。

そんなことに今頃になって気付いた。



キミを好きになる才能

誰かにとっての当たり前が、別の誰かにとっては当たり前じゃない。
誰かにとっての小石が、誰かにとっては乗り越えられない大きな壁。
思わぬところで隔てられて、そこから先に進めない。


「顔を見分けることなんて誰にでもできる」

そんな「他人の顔を見分ける」能力を持たないリリさん。
みんなの当たり前が、当たり前にできないリリさん。


ここではそれについては深く語らないけれど、世界的に「相貌失認」の症例が知られるようになったのはここ100年くらいの話らしい。
それ以前は存在しなかったわけじゃなく、問題になることがなかったのだろう。


人口が少なかった昔は、一人の人間が日常の中で関わる人間の数なんて限られていて、顔で区別できなくても声や背格好、匂い、雰囲気、でじゅうぶん判別できていた。

産業革命以降義務教育が出来て、国のあり方も変わって、大規模な集団生活というものが一般的になったせいで、「顔だけで他者を判別する機会が増えてしまった」

時代や場所が変われば、当たり前の当たり前のあり方も変わるということ。




冒頭の絵の話に戻る。



「『絵がうまくなるために、特別な才能はいらない』が、『特別ではない色々な才能がかみ合う必要はある』」

というのが、現在の自分のいちおうの持論だ。
あるいは、「絵をうまくなるための才能」=バフではなく、「絵をうまくなるために持っていると不利な才能」=デバフがあるのかもしれない。
他の才能のかみ合わせを妨げてしまうデバフ。





この1年学んできたからこそわかることだけど、自分は本来、何十年書き続けても、絵がうまくなることはできない種類の人間だった。
もしあのままで100年描き続けていても、この1年よりも上達することはできなかったと思う。


致命的なデバフが上達を邪魔していた。
もっとも大きなものは「後回しぐせ」と「自分のやり方への固執」、そして「何にも本気になれない」だ。


これは性格、人格に根ざすものなので、自分で変えたくて変えられるものじゃない。


そもそも以前の自分にとって、絵を描くことはストレスフリーな趣味。
必死になって絵をうまくなるために学ぶ理由もなかった。

だから、苦手な勉強ややりたくないことには決して向き合わない。
向き合わなくていい、と結論付けて後回しにし続けた。

そのせいで同じ失敗を年単位でずっと繰り返す。

うまくなりたいと漠然に考えてはいるものの、積極的に情報も集めないし、試行錯誤もしないし、ただ思いついたアイデアを、思いついたままに絵にするだけ。


才能のかみ合わせによっては、数をこなすだけで自然にうまくなっていく人もいるのだろうが、自分はそうではなく、10年間、ほとんど絵の成長は止まっていた。
10年前の絵と1年前の絵を見比べて違いが分からないレベルだ。(これが本当におそろしい)


難しい手や足はかかず、いつも決まったポーズ、決まった表情、決まった角度で決まった色を使う。
新しいことに挑戦することはあっても、うまくいかなくてすぐにやめて元通り。

ずっと立ち止まって足踏みしていたようなものだった。
特に前に進む意欲も目的もないままに。





リリさんに惚れて、リリさんを描いて見たくて、絵を本気で学ぼうと決めてこの1年。

今は、時にはやりたくないこと、苦手なことでも向き合って、ひとつひとつ順番に克服するようになった。
後回しぐせが治ったわけではなく、そうしないと自分の見たいものが見られないので、必要に迫られて、だ。
リリさんをもっと好きになるために、この先ずっと、好きでい続けるために、だ。



その課程で、絵を描くのがつらくなることもある。
10年間一度も感じたことがなかった、「絵を描くのが苦しい」という感覚も、最近体験した。
スランプというものかもしれない。


芸術は爆発だ、とかつて有名な芸術家が言ったけれど、「自由な発想のままに内面を爆発させるのが芸術」だとするならば、「絵」は必ずしも芸術ではないのだ。

絵は、他者とのコミュニケーションのための言語だったり、健康のためのトレーニングだったり、あるいは自分のように、自分自身のそのときどきの思いを再確認するための日記のようなものだったり、人それぞれ、その時々にいろいろな意味を持って描くもの。


そうだからこそその目的を達成するために、ときには大変なこと、難しいことに向き合って、壁を乗り越えるべき期間がやってくることもある。
(具体的には、パースや骨格筋肉の勉強とか、補助デバイスのショートカットキーの設定とか、色彩や光の理論とかの地味で困難で効果的なステップ)

好きで描いているからこそ、それがたまらなく苦しく、あるいは面倒で遠回りなものと感じることもある。



自分がいつも前向きに勉強を続けられるのは、ただリリさんがいるからだ。
リリさんを描きたい、ずっと描いていたい、好きでい続けたいという気持ちひとつが、いつも前へ前へ背中を押してくれる。


これからも、自分はまだまだもっと成長し続けられる、と胸を張れる。
一年後の自分は今より絶対にうまくなっている。
今よりもっとリリさんをリリさんらしく描けるようになっている。

心からそう確信している。




自分が人生の中で、運と経験と個性のかみ合わせの結果見つけることができた、自分自身の最高の才能は、

『リリさんに惚れる才能』なのだ。



かみ合わせのすきまを全部埋めて、前へ向かう原動力に変えてくれた力。

全力で好きになる、夢中になる、一所懸命になる。
それは見方によっては当たり前で、けれどもしかしたらなによりも特別な才能であり、幸運かもしれない。



リリさんをこんなに好きになれて、本当によかった。


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