今回の記事は、奈良を訪れた以下の記事からのつづきになります。
富雄丸山古墳を後にして、さあ帰ろうか、それともちょっと寄り道していこうか。
なんとなくグーグルマップを開けば、周辺に自分の興味をひくスポットがいくつかあった。
今回は折りたたみ自転車で来ていたこともあって、割と気軽に「寄り道」することに決めた。
今回歩いた&走ったルート。
一見広いようだけど、地図の左端から右端までで約10キロ。
ルート全部あわせても15~20キロ弱くらいだろうか。
(距離単位は右下)
大池
最初に訪れたのが、古墳から西へ1キロのところにある「大池」。
何も知らない状態だったけど、グーグルマップのレビューに載っていた池の写真が綺麗だったのでなんとなく立ち寄った。
池につくと、快晴から一転、突然つぶてのような雪が降り始めた。
そんな中で突然目の前に、カメラを構えた集団がずらりと並ぶ光景が飛び込んできた。
なんだなんだ?!
何かのイベントでもあるのだろうか。
狭くなった歩道で「ご迷惑おかけします」と警備員が通行人を誘導している。
彼らがカメラを向けている方向に目をやると。
お寺の塔がふたつ並んでいる。
地図によれば「薬師寺」らしい。
雪景色のお寺、綺麗だけど、これを撮るためにこんなに集まっているのだろうか。
それにしては……
誰もカメラを池に向けていないし、持ち主不在の三脚がたくさん立ち尽くしている。
場所とりだろう。
と、いうことは彼らは「今」を撮っているわけではないのだ。
大きなカメラを持つひとりのおばちゃんが「こんなに雪が降っちゃったらダメだぁ~。やむかな~」と嘆く。
のぞんでいるのは雪景色ではないのか。
では何を撮っているのか。
気になって、そのへんにいるお兄さんにたずねてみた。
「すみません、何を撮っているんですか?」
「え?」
「こんなにたくさん人が集まって、面白いものでも撮れるんですかね」
「ああ……花火!」
「花火?」
「そう、あと山焼きがね。夜になったら、若草山の、花火と山焼き」
うわ、若草山の山焼き、今日だったのか!
「山焼き」は、奈良にある有名な神社・春日大社の行事のひとつ。
大社の背後にある小高い丘、「若草山」の頂上部に火をつけて「焼く」、毎年この時期に行われるお祭りだ。
何年か前に一度訪れたことがある。
そのときは、山の上が一面火の海のように燃えさかって、100メートル以上離れた見学場所まで熱さを感じるくらいだった。
そうか……今日だったか。
若草山までの距離を調べると、大池から約7キロ。
歩いても一時間半かからないくらい。
だいたいここで、今日は夜まで奈良にいることが確定した感じだった。
雪はすぐに止んだ。
蓬莱山古墳
春日大社へ向かう道中に、実は前々から訪れたかった場所があった。
それが、蓬莱山古墳。
正式名称「垂仁天皇 菅原伏見東陵」という場所だ。
なんでここを訪れたかったかというと、今途中まで書いている「橘月子さん」を考察する上で関わりのある場所だからだ。
詳しいことはあらためてその記事で触れるが、古事記における「橘」という果実の来歴に関わるのがこの御陵の持ち主とされる垂仁天皇なのだ。
垂仁天皇は、過去の記事で書いた岐阜・伊奈波神社の祭神・五十瓊敷入彦命の父親であり、古墳に埴輪を並べるように定めた人でもあり、底抜けの愛妻家でもあり、そして不老長寿の薬を求めた王でもあった、とにかくエピソードが豊富な人物だ。
周辺には地元の有志によって、ヤマトタチバナが植えられている。
春日大社
春日大社付近までやってくると、猛烈な雪が降ってきた。
あっという間に地面が真っ白になる。
街中の池に、カワセミがいた。
岩の上で身を縮めて、雪と風を堪え忍んでいる。
スマホの写真では伝わらないが、本当に綺麗だった。
青緑色の羽根がキラキラ光って、お腹のオレンジ色とのコントラストが、白い雪の塊の中ですごく鮮やか。
なかなかこんなに近くでゆっくり見られる機会もない。
雪が降っていることも忘れて、じっくり見入ってしまった。
雪は降ったり止んだり。
こんな雪景色の春日神社というのも、なかなかレアなんじゃないだろうか。
参拝客の中、ふつうに鹿が混じっているのが「ああ、奈良だなぁ」。
時刻は午後6時をまわり、あたりは急速に暗くなってくる。
多くの人は山焼きをみるために若草山に集まっているのだろう。
境内は、どんどん人が少なくなっていく。
春日大社は、タケミカヅチという神さまを祀る神社だ。
元々は茨城県にある鹿島神宮が本拠地で、後に有名な「藤原氏」となる中臣氏※が祀っていた氏神だった。
※中臣鎌足が死ぬ間際にその功績により「藤原」姓を賜って「藤原鎌足」になったのが藤原氏の発祥
中臣氏が畿内で権力を強めた際に、鹿島からこちらにお呼びした(神話では、神さまが奈良に来たがった)のが「春日大社」のはじまりだ。
このときに「神さまが白鹿に乗ってやってきた」という伝承があって、奈良の鹿はの白鹿の末裔とされる。
そのため「神さまの使い」として古くから大切にされてきたのだそうだ。
「鹿島立ち」という慣用語句がある。
意味は「旅に出発すること」「門出」「 旅立ち」
これは、タケミカヅチが「鹿島を発って春日へ旅した」というこの故事が由来だ。
タケミカヅチという神さまは、日本神話では特に、出雲での国譲りにおける活躍――――
最後まで国譲りに反対していたオオクニヌシの息子タケミナカタと相撲をとって勝利したというエピソードが有名だ。
古事記・日本書紀によって「日本神話」がまとめられた時期(=藤原氏全盛の奈良時代)に、藤原氏の氏神が大活躍すること。
そして、タケミカヅチ(関東由来)とタケミナカタ(縄文時代からの流れを汲む北陸~長野の豪族・諏訪の神)の関係なども合わせて考えると、色々な捉え方ができて面白い。
なお、今でも年に一度、全国の藤原氏の末裔の方々が春日大社にて一同に会する行事があるらしい。
春日大社の背後、若草山へと向かう。
若草山の山焼き
「山焼き」は言葉そのまま、本当に火をつけて、山を焼く行事だ。
写真の白い雪の部分は、燃え広がりすぎないように、麓まで火がこないように、草を刈り取った安全スペース。
そこから上の部分が、燃えさかる火の海になる。
ヤマトタケルの、草薙の剣の故事※を思わせるような光景だ。
※周囲に燃えさかる草を薙いで炎を打ち払ったことから、草薙の剣と呼ばれるようになった
開始15分前。
通常運転で乱入する鹿に、笑ってしまう。
背後を振り返れば――――
奈良盆地が一望できる。
1300年前には、そこに平城京が広がっていたのだ。
そうこうしている間に儀式は進む。
そして、大池の写真家たちが今もこの瞬間を待ち望んでいるだろう、花火が打ち上がった。
白い雪の上で、花火が鮮やかに咲く様子は、滅多に見られる光景じゃないだろう。
朝、奈良に来たときには全く意識もしていなかったひととき。
蛇行剣と盾形銅鏡のニュースを見なければ、古墳の帰りに寄り道しようと思わなければ、あの大池に立ち寄らなければ。
もっと言えば、古墳、考古学への興味が再燃したのは風雨来記4の影響だ。
なにより、前より行動的になれたこと、そしてこうやって考えたことや行った場所、撮った写真をブログにまとめるようになったのは、リリさんのおかげ。
何か一つ違えば、今日の「山焼き」のことなどつゆ知らず、明るいうちに帰宅していたはずだ。
偶然と選択がいくつも重なりあって、今日もひとつ、いつもよりちょっと新しい体験を楽しめている。
今日、ここに来られてよかった。
あらためてそう思う。
若草山に、火がつけられる。
花火が目当てだったのか、山焼きを見届けることなく、半分くらいの人達は下山していく。
これからが本番なのにもったいないと横目で見ていた。
それでも多くの人が残っていたけれど、今年はさすがに寒すぎたこと、残雪及び夕方の降雪の影響もあってか、うまく火が燃え広がらなかったようだ。
赤く燃える若草山が見られなかったのは少し残念だが、こういう年もあるだろう。
むしろ、珍しい体験を出来た、ということもできる。
また、いつか来ればいい。来よう。
【2023/01/30追記】
以前行ったときの「山焼き」の写真と動画が出てきたので、最後に載せておく。
データの日付をみると、2013年1月26日、とあった。
ずいぶん前だなおい。
五、六年前くらいだと思っていたよ……。
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