「頭で考えるより、心で感じることが大事!」
これは、幼い頃から学校でも家でも、授業、テレビ、漫画やゲーム、映画など至る所ですり込まれた価値観だ。
今まで特に疑問に思った事はなかったけど、最近、この言葉「だけ」では、大切なことの半分だけしか語っていないというか、自分にとってとっても大事な部分が抜け落ちてしまうんじゃないかと思うようになった。
今回はそれについて、少し書いてみる。
「考えるな、感じろ」
「考えるな、感じろ」
特にスポーツや芸術、エンターテイメントなどの分野でよく聞く言葉。
理屈ではなく、感覚で素直に楽しむことが素晴らしい、的なやつだ。
旅もそうだ。
そして、このブログで語ってきた「風雨来記」というゲームもまさに、「心を素直に開いてその場所のありのままを感じる、旅の面白さ」を作中で表現し続けて来たゲームだった。
自分もこの考え方については、今もその通りだと思っている。
新しい体験や珍しい出来事、生きている中で出会う様々なイベントを素直な気持ちで受け取ることは、確かに素晴らしい心構えだ。
「感じること」は、「その瞬間」に対してのみ起きる反応。
その時その場所、その瞬間の自分にしかできない体験だ。
「考えること」は後からでもできる。
考えることに集中してしまって、その限られた一瞬を「感じ逃す」のはもったいない。
ただそれはそれとして、「頭で考えるより心で感じることが大切だ」という言葉について、単に「感じることの方が価値がある」とだけ捉えてしまうのは非常にもったいないと最近思うようになった。
風雨来記4のシステムに喩えるなら、昼間のツーリング・撮影取材が「感じること」主体な一方、夜間の記事作成は「考えること」を重視するプロセスと言えるかもしれない。
「感じる」と「考える」が、「表裏一体」だからこその面白さがある。
「感じて終わり」では、てのひらに美しい湧き水をすくっただけのようなもの。
何もしなければすぐに流れ落ちて、ひんやり心地よい感触だけを残して水は無くなってしまう。
それは、喉を潤したり、顔を洗ったり、水彩画を描いたり、あるいは植物を育てたりと、いかようにも自分の糧となったはずの水かもしれないのに、だ。
「まずその瞬間にしかできない、感じることに全力を傾ける」。
そして、「自分が感じたぶんだけ、存分に考える」。
その一連のプロセスこそが、自分にとっては人生を最高に豊かにする秘訣なんじゃないかと思っていたりするのだ。
感じたぶんだけ、考える!
絵の教本などでは、「絵を上達したいなら、よく見て、よく考えて描こう」的な言葉をよく目にする。
もちろん、「絵をただ楽しみたい」なら、思うまま感じるまま自由に描けばいい。(それを芸術というのかもしれない)
だが、「絵の上達」を目標にするならば、とにかく「見る」や「考える」を意識して描くことが重要だと言う。
「なぜそう描くのか」「なぜうまい絵は、うまく見えるのか」「なぜ、どこに、自分の心が動いたのか」。
見て感じて、考えて、手を動かす、そのプロセスをひたすら繰り返す。
これは、写真についても同じ。
今はスマホのカメラで「誰でも」簡単に美しい写真が撮れるようになったけれど、「誰もが」人の心を動かす写真を撮ることができるわけではない。
自分が何を撮りたいのか、それを撮るためにはどうすればいいのか、たくさん見て、たくさん考えて、たくさん撮る。
それを気の遠くなるほど繰り返すことで、写真は上達していく。
見るだけでも、考えるだけでも、撮るだけでもダメ、全部が大事――というのが先達の、様々な分野のすごいクリエイターの方々が口をそろえて発する心構えだ。
体を使った運動スキルならば、体に覚え込ませるために「考えるな、感じろ」的な訓練も時に正解なのかもしれないけど、絵や写真・動画や物語など、体よりも頭を使う比率が高いものに関しては、「感じる」ことと同じかそれ以上に「考える」を意識することが重要と言えるかもしれない。
そんなわけで、自分も最近は絵や写真を見てなるべく「考える」ようにしている。
心震えるものに出会ったら、素直に感動したあとで、
「自分は今、この風景の何に感動したのだろう」
「この写真になぜ、目を引かれたのだろう」
「この絵の、具体的にどこをすごいと思ったのだろう」
少し立ち止まって考える。
自分のことであっても、いつも明確な答えを見いだせるとは限らない。
必ずしも正解を見つけるのが目的ではないので、思い詰める必要はない。
気楽に、自分に対して謎解きを出すような感覚。
そうやって自分の心の動きを推理・解明するのは、存外に面白い。
「考え続けること」の強さ
そんな「考える」姿勢がもたらす効果については、自分自身の実体験によって、ある程度の説得力をもって語れると思う。
もう一年半も前になるあの日、ゲームクリアをした瞬間よりも、今の方がずっとリリさんを好きだ、という現在進行形の実体験。
「あの日の感動に対して、考えて、考えて、考え続けてきたから、今日もリリさんを全力で好きで居続けている自分がいる」のだと思う。
瞬間の感動だけで満足して、その感覚についてそれ以上考えることなく放置すれば、それは過去になっていく。
そして、日々更新されるたくさんの出来事の中に埋もれ、色あせて、何を感じたのかさえ薄らいでいってしまうのが世の常だ。
時間とは物だけじゃなく心も風化させていく。そういう性質のものなのだ。
「感じること」は「瞬間」のもの。
感じた瞬間は、すぐに慣れてしまう。
最初の感動が、ピークの状態のまま一生は続かない。
一方、「考えること」は「現在進行」していくもの。
思考し、考えを進め続ける限り、それは「過去に感じたこと」ではなく、「今考えていること」であり続ける。
そして、「考え続ける」ことで、その「考え」の中からまた新しく「感じるもの」が生まれてきたりもする。
すると、「またそれについて考える」というサイクルが生まれる。
そうやって一日と欠かさず連綿と考え続けてきたから、あの日感じた感動を失うことなく、むしろそのときよりもはるかに強く、自分の中のリリさんへの情熱が今もこうして燃え続けている。
心の中に、ワクワクが灯り続けている。
絵を描いて、写真を撮って、文章を書いて、そしてリリさんについて考え続けている。
だから、自信を持って言える。
「考えること」は「強い」。
考えることでときに迷ったり、つらく苦しい思いをすることもあるけれど、それを糧にしてもっと先へ、心の風化を乗り越えていける力が、「考えること」にはある。
そう思います。
風雨来記4の『ワクワク』ポイント
ワクワクと言えば……
日常的に考えるくせがついたおかげで、「過去に体験した感覚」についてもついつい思い出して考えてしまうことがある。
「あのとき、自分は何に感動したんだろう」
たとえば、「風雨来記4」を最初にプレイしたとき、一番最初にワクワクがピークに達したポイントはどこだろう、と考える。
ゲームが始まって、岐阜に向かってバイクで自動移動。
SAや図書館で出会いがあり、取材の準備をし、宿で記事を書く。
だんだんと、着実に期待感が盛り上がっていく。
オープニングムービーが流れて、ワクワクが大きく高まる。
次々現れる岐阜の美麗な風景に、早く走り出したくてうずうずする。
だが、ワクワクのピークは、ムービーのさらにそのあとにあったと思う――
翌朝、岐阜駅をバイクをスタートさせる。
ツーリングモードに切り替わる――広がる360度の視点。
「その瞬間」だ。
ワクワクのピーク。
バイクが進んでゆく。
景色があっという間にどんどん後ろへと流れていく。
道が先へ先へと続いている。
次にどっちのルートへ進むのか、選択に迫られる。
地図を開けば広大なマップ。
世界が「どうぞ!」と言わんばかりにいっぱいに開け、同時に広がる圧倒的な自由と選択。
道とスタミナが続く限り、行きたい方向へどこまでも行ける。
自分が。自由に選択できるのだ。
そこで旅立ちのワクワクが最高潮に達する。
旅が始まった、とまるで背中に羽根が生えたような心地になる。
さあ、どこへ行こう。
それは実際に旅をして新しい街、新しい土地を訪れたときに感じる感覚と同じもの。
自転車に乗って見知らぬ隣町まで訪れた時、あるいは免許を取ってはじめてバイクや車を運転して公道に出たときとも同種のもの。
目の前に一気に広がった新しい場所、新しいステージ。
そこをこれから自分が探索、冒険することへの、心の底から湧き上がる不安まじりの強烈な期待。
海から出て新天地を開拓し続けた「動物」という生き物の、根源的な本能のあらわれかもしれない。
新しい場所に着いたときのワクワク感をくれるゲームは、広い広い北海道を舞台にした風雨来記1から受け継がれてきたシリーズの大きな魅力だ。
(昔から慣れ親しんだRPGで言えば、ドラクエやFFで『空を移動する手段が手に入ったとき』に、近い感覚を抱いた気がする。
子供の頃に読んだ、無人島に漂着して、島を探検するような小説のワクワク感も似ている。
『いきなり』かつ『爆発的に』『未知の探索場所(世界)が広がる』と、人はワクワクしてしまうのかも……)
もし自分がこの先、絵か写真か文か、あるいは他の何かで「旅の魅力を表現」しようと思ったとき、自分が好きな、この、「世界がいきなり広がったときのワクワク感」をうまく伝えられるだろうか。
伝えられるように、なっていきたいな。
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