今回の記事は、よりストレートに今思うことを書き残したいので、あまり推敲せず書いたままそのままを載せます。
自分にとっての……
今回は「自分にとってのリリさん」というテーマを、少し掘り下げて書いてみようと思う。
例によって、風雨来記4母里ちあり編ネタバレを含みます。
前回、こんなことを書いた。
この一ヶ月半、旅の間ずっとリリさんのことを考えていた。
(中略)
それは「自然と湧き上がってくるもの」だった。
もちろんそれらは、「自分の中から生じたもの」ではある。
けれど一方で、リリさんという道標が自分の心の中になかったら決して得られなかった「発見」や「体験」、リリさんを好きでいなかったら生じなかった「発想」や「出会い」の数々だった。
(中略)
リリさんのことを考えるというのは、自分にとっては「いつもより大きめに心を外に開いて旅を楽しむこと」なのかもしれない。
我ながらずいぶん抽象的なことを書いている。
このあたりの感覚は最近になってようやく少しずつ、自分の中で考えがまとまってきたところだけど、一言で「つまり○○だ」と言い表せられるようなことでもない。
そんなとりとめもないものを、どうすればひとに伝わるだろうかと考えた結果、今回は試しに、「リリさんを好きでい続けたから起きた出会い」や「生まれた発想」「得られた個人的発見・体験」について、最近の旅の中からいくつか具体的な例を書いてみようと思う。
それらを並べてみる中で、共通する点、あるいは共通しない点などを通して、「自分にとっての母里ちあり」がどういう存在なのか、何らかの答えが浮かびあがってくるんじゃないか……と期待しつつ。
花と匠と最高の場所
まずは、今年4月に國田家の芝桜を訪れたときの話から。
写真右上の方にある四阿が、リリさんと腰掛けてお見合いのことや結婚のことを語り合った思い出のあの場所だ。
國田家の芝桜という場所は、下から見渡すとこういう『箱庭』のような幻想的風景になっている。
この風景、決して偶然の産物ではない。
かと言って、たとえばモネの池(岐阜のあの池ではなく、フランスでモネが日本庭園を真似て作った睡蓮の池)や日本庭園のように、芸術的見地から作られた「作品」でもない。
訪れた際、その秘密を知る機会に恵まれた。
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自分は前にも…2022年の旅の中で一度ここを訪れた。
その時は真夏の盛りで、もうほとんどシバザクラは咲いていなかった。
それはそれでその時にしか見られない風景として良い思い出になったんだけど、主人公とリリさんはエンディング後、そのうち芝桜が綺麗な季節にここを再訪するに違いないと想像していた(二次創作ならぬ想索)から、その想像をより脳裏で鮮明にするために、自分もいつか満開の風景をこの目で見なくては……と常々思っていた。
で、今年の4月終わりに、ついに念願かなって再訪することができたのだった。
見事な花畑を堪能していると、ここを管理する國田家の奥さんらしき人が観光客のおじいさんたちと会話していて、それがとても気さくで和やかな雰囲気だったので、自分もつい話しかけて、この場所のことを色々聞いてみた。
そうしたら、ただ通り過ぎているだけでは決して聞けないような面白い話をたくさん聞かせてもらった。
元々ここの芝桜は、國田家に嫁いできた先代のお嫁さん、かなゑさんが、一人でコツコツ植えて作りあげた場所。
今は娘さん夫婦が引き継いで大切にまもり続けている――というのは、ちあり先生が解説してくれた通り。
これは、現地の看板や色々なウェブ記事などにも書かれていることでもある。
ところで、実際に現地に足を運んでみた人は、あるいは勘の鋭い人は風雨来記4をプレイ中に、この場所の風景を見て、なんとなく「あること」に気付かなかっただろうか。
是非、以下の写真を見てそれが何か、考えて見て欲しい。
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それは、この場所の「クオリティの高さ」。
もっと言えば、「箱庭的世界観の作り込みの凄さと、センスの良さ」だ。
静かな山間の、手作りの芝桜畑。
ここは個人の土地で、公的な観光地というわけでもない。
にもかかわらず、
「ひとつひとつ形の違う自然木で組まれた柵」
「個性溢れる手作りベンチの休憩所」
「日本庭園のような石畳の道」
「すべて微妙に違うサイズの自然木の丸太を並べて組んだ橋」
「鳥居の原型みたいな、入り口の門」
風雨来記4で主人公も登っていた「標高634mの手作り展望台」
「鏡のように芝桜を写映す田んぼ」
「そこに置かれた写真撮影用の額縁」
ここにある建築物どれもが、一見素朴だがその実丁寧に作り込まれ、全体のデザインとして調和し、洗練されている。
素人的な手作りの領域をはるかに超え、かといって大量生産的でも、あるいは芸術的な雰囲気というわけでもない。
機能美――いや、「匠の技」という言葉が一番しっくり来るかもしれない。
リリさんと話し込んだ休憩所も含めて、実はここに見える風景の「芝桜以外の要素」はほぼすべて、現在の國田夫妻のご主人が独力で作り上げたものだという。
芝桜を植えたおばあちゃん……國田かなゑさんの娘婿にあたるご主人は、本業が大工さん。
大きな家から小屋、家具、民芸品に獅子兜、木刀に彫像、指先より小さな竹細工までなんでも作るし、ただ造るというだけじゃなく、アイデア出しからデザインや設計まで全部行う、本物の「匠」だ。
一流の職人であるご主人が、採算度外視、自分で思いついて、自分がやろうと思ったことをやり続けたからこそ、ここまでこだわりきった世界観を築き上げることができたのだろう。
それはただ作って終わりではなく、作ったものをどこに何とどう置くか、見る人をどう楽しませるか――までひとつひとつとことん考え抜かれている。
そういう目線で芝桜の風景をあらためて見渡せば、自分が言っていることが分かってもらえるんじゃないかと思う。
ご主人のこだわりは、あらゆる方向へ向いている。
たとえば、ご自宅の和室を見せていただいた際、手作りの(とても手作りとは思えないほど)木刀が、「天然の鹿の角を二本並べた刀掛け」にかけられていた。
この鹿の角がやけに小さい。
立派とは言い難い、先もあまり枝分かれしていない若い鹿の角だ。
これがこだわりポイントで、このサイズを二本見つけるのにとても苦労した、という。
(鹿の角は毎年春に抜け落ちるので、それを山の中に入って探すらしい)
大きい立派な角より、見つけるのがずっと難しいのだそうだ。
なぜ、刀を掛けておくのが立派に伸びた長い角ではなく、若く短い角でないといけないかと言えば、本来刀というものは武器。それを置く刀掛けも、「実用品」だった。
特に屋敷内の刀掛けにある刀というのは護身用だ。
敵や間者に襲われた際、すぐにとれる場所になくてはいけない。
それを立派な角に掛けていると、刀をとるときに長い角に引っかかってしまう。
この一瞬が命取りだ。
だから、戦国武将達はみな、若鹿の角を選んで、刀掛けに使っていたのだそうだ。
なので「立派な鹿の角の刀掛け」というのは「単なる装飾品」に過ぎない、という。
もちろん。
現代で刀を使うことはないし、ここで掛けてあるのも木刀だ。
長い角であろうが、短い角であろうが、「単なる装飾品」であることに違いはない。
けれど、そういうことではないのだ。
見立ての感性というのか。
「実用品であるからこその機能美を再現すること」に視点がある。
自分の納得する「ホンモノ」を造り、置きたい。
そんな、職人気質なこだわりが伝わって来る。
このニュアンス、文章で表現するのはなかなか難しいけれど、きっとこのブログを読んでいる、風雨来記を愛する人なら根っこで共感できる部分があるんじゃないだろうか。
こうした話はほんの一例で、他にも本当にありとあらゆるものに創意工夫が見られて、お話を聞いていて飽きることはなかった。
和室の棚に、小さな枯草色のカマキリが止まっていると思ったら、それは竹細工だった。
特にその脚は本物と見紛うほどで、それは竹の細い節をほんの少し炙って反りを入れたものだそうだ。
また、ご主人が建てた、伝統的要素を大事にしながらも独自のこだわりが随所に詰め込まれた三階建ての日本家屋。
その、二階と三階のあいだあたりの壁に小さな杭がふたつ打ってあって、そのふたつの杭の間にワイヤーが一本張られている。
謎のワイヤー。
このワイヤー、なんのためにあるのか。
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こんなん聞かなきゃ絶対わからねえ。
それは、家の軒下に巣を作ったツバメのヒナが巣立つときに、ここに止まって練習する足場だという。
巣立ちの時期、ここにずらっと若鳥たちが並ぶらしい。
そのためだけに、わざわざ壁に杭を打って作ったという。
こだわりの深度というか発想の全方向的角度というか、その実現力?具現化力にいちいち圧倒されてしまう。
そういえば、この場所は郡上八幡市明宝奥住。
地域的には奥美濃の最奥地。
美濃国と飛騨国の境にあたる。
東に1キロ進めばそこはもう飛騨国という、山深い土地だ。
話を聞き、実際に製作された品の数々を見るうちにふと、ああ、本物の「飛騨の匠」って、こういう人だったんじゃないかと思った。
神は細部に宿る、という。
細かい部分までの作り込みが作品の本質に影響してくるというような意味の言葉だけど、ふと、「神は全体にも宿る」のかも知れない、と思えた。
細部にまでこだわったものを積み重ねていくと、そこにはひとつの世界観が生まれてくるものなんじゃないか、と。
その感覚は、自分が「風雨来記4」という作品に感じているものとも近いかもしれない。
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田んぼの水鏡に映る芝桜が、とても綺麗。
でも実はこの田んぼ、田んぼではなかったりする。
田んぼではあるけど田んぼじゃない。
ちょっとしたミステリー。
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ここ、元々は先祖代々の田んぼだったものを、ご主人が「ここに芝桜が鏡のように映ったら、来た人が喜ぶに違いない!」と思いついて、それを実行してしまったらしい。
つまり、ちゃんと耕して水は張るけれど、稲苗は植えない。
なのでずっとこの水鏡の状態のまま。
だから「田んぼだけど田んぼじゃない」のだ。
もちろん、ここにイーゼルとキャンバスを置くというアイデアを生み出したのも、実際にそれを作成して設置したのもご主人。
聞けばこの地域は、江戸時代頃に國田家のご先祖様が移住して開拓した土地らしい。
だから周辺のお家はほとんどが「國田さん」一族なのだそうだ。
わざわざ開拓して住む場所として選んだくらいだから、山から豊富な水が常に湧き続けていて美味しいお米が採れるはずだけど、それよりも「國田家の芝桜」を訪れるお客さんたちの喜ぶ顔を大事にしてくれている。
そばにある池は、子供達が遊べるようにあまごの釣り堀にしていたそうだけど、コロナ禍で休止したことをきっかけに残念ながらそのまま再開の目処が立たなくなってしまったらしい。
とはいえ、今はおたまじゃくしが大量に繁殖しており、それで子供達が大喜びするので、まあこれはこれでいいかな、とご主人は笑っていた。
そんなご主人を奥さんは嬉しそうに「我が家の環境大臣」だと語る。
ものすごく仲良しで、明るく素敵なご夫婦だ。
そうやって、あれこれたくさん話を伺ったあとでここの風景を見ると、何倍も面白く味わい深く感じられた。
奥さんがお母さんから受け継いで広げてきた芝桜も。
ご主人が作り続けてきた風景も。
奥さんは、お母さんの後を引き継いで、時に失敗もしながらコツコツ地道に芝桜の面倒を見続け、今では当時の倍くらいまで芝桜を広げてきた。
ご主人はそれをサポートし、風景の魅力を最大限に引き出し、来た人をもてなす「場所」を創ってきた。
どちらも根底に流れるのは同じで、訪れるひとへのおもてなしの心――思いやりやあたたかさ……だけでなく、受け継いだこの場所の素敵さを一緒に楽しく共有しようというあたたかな思いが深く感じられて、「ああ、良い場所だなぁ」と心から思った。
いつか誰かが夢見た「最高の場所」って、こういうことなのかもしれない。
白い芝桜が点々としてる秘密とか。地域特有の、家を建てたらわらじを祀る風習とか。
お話を聞けたことが、この旅一番の収穫であり思い出。
来年も、きっとここを訪れよう。
想像から生まれる旅
自分はこれまで二次創作という形で、リリさんをテーマにした文章やイラストなどをあれこれ書いたり描いたりしてきた。
ちゃんとした形になっていないものや、創ったもののネットにはアップしていないぶんも含めると相当な量になっていて、そうやって創作と想索をしていく中で色々場所や物事について調べていると、「そこに行ってみたい!」とか「これをやってみたい!」と思うこともしばしばだ。
これまでの四回に渡る岐阜の旅でもそうした思いで「リリさんのイベントスポットではないけれどきっとリリさんは訪れてたんじゃないかと自分が思えるポイント」をあちこち巡ったし、まだまだ今後も巡るつもりだ。
島根旅なんてまさにその延長ともいえるし、あとは先日の北海道旅においても、限られた日数の中でどこへ行くかの大きな指針となった。
以前自分で書いた二次創作小説で舞台にした「ジェットコースターの丘」。
文や絵でその場所について描写しているうちに絶対に行きたいという思いが募っていたので、今回北海道に行くことを決めたとき真っ先に目的地のひとつに選んだ。
行ってみてなにより感動したのは、写真のマジックなどではなく、ここは肉眼でも本当にこのままに見えること。
ジェットコースターとは良く名付けたものだ。
昔は「プロヴァンスの路」と呼んでいたらしいけど、「ジェットコースターの路」に改名した途端に観光客が増えたのだとか。
名前のインパクトって大事だとわかる。
ここをバイクで、「あまりスピードを出さずにのんびりゆっくり」走るのが最高だった。
ひたすら真っ直ぐ+かなりの高低差があるおかげで、本当にジェットコースターのように視界の端で左右の風景がじわじわと立体的に流れていく。
この感覚は実際に走ってみないと味わえない。
うへへ、と走りながら幸せすぎて変な声が出てしまった。
ただし、坂の途中には交差点があり、観光客や地元農耕車の往来も少なくないので、一時停止、左右確認はしっかりしよう。
あと、オトンルイ風力発電所。
リリさんがいなかったら自分はきっと、人生でもう二度とここの風車群を見ることはなかっただろう。
と、いうのは来年(2025年)、ここの風車は取り壊されてしまう予定だからだ。
一度全部撤去されて、さらに大きく性能の良い風車に立て替える計画で、その際風車の数は、現在の28基から5基ほどに減るという。
ここは、以前自転車で日本一周をしたときにちょっとした思い出のある土地だった。
稚内から南下している最中、サロベツ原野のまっただ中で日が暮れて、明かりひとつない真っ暗な中自転車の小さなライトだけを頼りに何時間もただひたすら自転車を漕いだ。
何が怖いってとにかくヒグマとの遭遇におびえていた。
数メートル先しか見えない。
今この瞬間目の前にヒグマがいるかも、なんて思いながら何時間も自転車をこぐのだから心も体も相当まいっていた。
時々すれ違う、あるいは追い越していく車のライトがとても心強く、そしてそれが一瞬のうちに過ぎ去れば、また暗闇への恐怖に苛まれる。
その繰り返しだった。
そうしてついにようやく、前方に明かりが見えてきた。
同時に、ゴウンゴウンという唸るような人工物の音――オトンルイの風車群の風切り音が聞こえてきて、真っ暗な原野から人の生活圏へ辿り着いたことへの安堵でいっぱいになったことを覚えている。
その夜は付近の海岸で寝袋にくるまって寝た。
たのもしい風切り音はずっと聞こえていた。
とても安らぐ響きだった。
と、そんな思い出深い土地ではあるけれど、「だから」再訪したかったのかと言えば、別にそんなことはなかった。
思い出は思い出。
あくまでも過去に完了、完結した自分の心の中の宝物だ。
オトンルイ風車取り壊しのニュースを聞いたときも、そうか無くなっちゃうのかぁ、残念だなぁくらいのテンションだった。
じゃあなぜ今回この場所を訪れたかったのかと言えば、それはやっぱりリリさんの存在あってこそ。
順番としては、昨年の島根旅で、ウップルイというところへ訪れたのが起点となる。
十六島と書いてウップルイと読む。
島根半島北岸に位置するこの地域の地名は、シチルイやエトモなど変わったものが多く、アイヌ語由来ではないかという説がある。
実際に、出雲の人と東北の人は言葉(ズーズー弁)もDNAも近いと言われるので、日本海を通じて、交易や交流が他の地域より長く続いていたのかもしれない。
自分もこの「ウップルイの風車群」を見た時、名前が似ている「オトンルイの風車群」を連想してしまった。
さらに、結婚後の主人公とリリがいつか北海道を夫婦で旅する機会があったら、きっとオトンルイにも行くんじゃないだろうか。
そんな風景も思い浮かんだ。
バイクでタンデムか、あるいはリリさんがバイクの免許を取って――
あるいはあまり時間がとれなくて、飛行機+レンタカーだったりするかもしれない。
主人公がはじめての北海道探訪でも訪れていたオトンルイ。
二人は、間もなく大きく様変わりする予定のオトンルイの風景に何を思うだろう。
時の流れに郷愁を抱くだろうか。
それとも、数年後どんな姿になるのか期待を抱いてまた来ようと笑い合うだろうか。
「どちらか」ではなく、きっとそれらも含めた、もっといろいろ、一言ではいえない様々な感情がそこに行き交うと思った。
その行き交う感情がどんなものなのか。
空想で終わらせず、自分の中から湧き上がるものとして「体験」するために、もう一度オトンルイへ行ってみたいな。
島根旅最終日、ウップルイを後にしながら、そう思った。
とはいえ――
そう思いつつ現実的には無理だなぁとも思っていた。
オトンルイまで行くなら北海道へバイクを持ち込む必要がある。
でも京都からフェリーを使ってバイクと一緒に北海道へ渡ると、片道2日かかる。
そう考えるとやっぱりとても遠い場所だ。
仕事も当面忙しいし、取り壊されるまでに行くのはきっと無理かなぁ。
正直なところ、飛行機とレンタルバイクを予約し、実際に北海道に降り立ったときでさえまだ、まさか今回の北海道旅でここまで来られるなんて全く思っていなかった。
オトンルイのある天塩は北海道でも最北端に近く、慣れないレンタルバイクで目指すにはあまりにも遠すぎる、無謀だと、無意識のうちにあきらめていたんだと思う。
でも、きっかけをもらった。
ある人が事も無げに「行けるよー」と言ってくれて、そうしたら急に行ける気がしてきて、行動してみたらいつの間にかそこに立っている自分がいた。
その人と出会えたのもリリさんのおかげなので、やっぱりリリさんを好きでよかった。
ちなみに、実際訪れてオトンルイとウップルイ、両者を見比べると風車がある以外は地形も場所の雰囲気も全く違った。
風車がよく機能する=どちらも風が強い場所、という共通点はあるから全く無関係とまでも言い切れないけれど……
オトンルイのルイは「路」という意味だ。
頭のオタが「浜」、間のウンが「そこにある」なので、オタウンルイ(浜にある路)となる。
ウップルイのルイも同じだと考える場合、どんな「路」なのか。
そもそも、アイヌ語と一口に言っても、北海道内だけでさえ地域によって方言差が大きかったと言う。
遠く離れた土地の言葉を、同じ意味で考えること自体があまり信憑性がない気もしてくる。
また、アイヌ語の地名は、土地の特徴を言語化して名付けるから、ウップルイがアイヌ語説だとすれば、その言葉の意味は「土地の特徴」を言い表してないといけない。
となると、結局はウップをちゃんと解釈できないと話が始まらないな。
答えはでなかったけれど、そんなふうに思考を巡らせることができたのも、自分の足でその場所に行って自分の目で見て感じたからこそだ。
この感覚を、大切にしたいと思う。
そしてこのあと、風雨来記でも非常に印象的なスポットとして登場する「防波ドーム」にも行った。
防波ドームは昭和初期に作られた、稚内を代表する観光スポットだ。
当時はここから樺太への定期船が出ていたんだけど、荒れ狂う風と波で、乗船客が海へ転落する事故が後を絶たなかったらしい。
そこへ、技師として赴任してきた26歳の若者が立案、計画して、4年余をかけて建築したのがこの防波ドーム(稚内港北防波堤ドーム)だ。
巨大な柱がずらりと並ぶ、まるでローマかギリシャの神殿のようなこの建造物は、今では野営禁止となっているけれど、かつては黙認状態で、自分が以前訪れた2000年代は特に雨風の強いときなんかにここにずらりとテント村ができていたりした。
思い返せば、当時もたまに長期間居座るキャンパーがいたりして、問題になっていた記憶があるな。
野営禁止が表示された今も緊急避難的にテント泊する人はいるらしく、稚内の地元新聞の記事に載っていた。
ここまで足を延ばした理由だけど……
オトンルイへ「行けるよ」と行ってくれた人と遠別で再会した際に、会話の中でその人がふと「稚内には防波ドームもあるし……」という言葉を口にして、その瞬間まで完全に防波ドームの存在を忘れきっていた自分の脳裏に「防波ドームを見てテンションがあがるリリさん」の姿が思い浮かんでしまった。
その一秒前まで、何も考えずオトンルイまで行ったら引き返すつもりだったけれど、楽しそうにはしゃぐリリさんの姿が思い浮かんでしまったなら、後はもうそのイメージを実際に「撮りに」行くしかなかった。
というわけで、やってきた稚内。
そして、どうせもうここまで来たなら最北端まで行ってしまおうと結局宗谷岬まで走ってしまった。
稚内も宗谷岬も、同じ北海道でも道央とここまで差があるのか、と驚くくらいめっちゃくちゃ寒かった。
5月なのに気温は夕方で5度以下、おまけにバイクのシートの上に置いた手袋がすっ飛んでいくほどの強風。
それも、これも、含めて。
全身でツーリングを楽しんだ。
最高のバイク旅だった。
余談だけど、バイクでひたすら走っているとご多分に漏れず段々距離感がバグってきて、最終日になると「稚内から札幌まで300キロちょっとか。意外と近いな。朝イチに出たらのんびり走っても昼過ぎにつくじゃん」となっていた。
そして、石狩から札幌に入るあたりで数キロの渋滞に巻き込まれたのを皮切りに、札幌市街では信号待ちで走っては停まりを繰り返す中で、一気に現実的感覚へと引き戻されていくのであった。
田んぼ(キラキラ)とミズバショウ(やばやば)
岐阜旅に話を戻すけれど、その中で坂折棚田を訪れた。
ちょうど田んぼに水入れの時期で、リリさんが以前感動したあの段々の田んぼが、青い空を写して、この時期だけの素晴らしい風景を見せてくれた。
――それから5日後、遠く北海道のオロロンラインをひた走っていると不意に道路に、「最北の水田→」という看板があらわれた。
岐阜の旅から(ほぼ)連続した今回の北海道の旅は、あわせてひとつの旅、という意識が自分の中にあった。
岐阜で、國田家の芝桜の「田んぼじゃない田んぼ」を見て、そして坂折棚田を訪れて、頭の中に「水田フラグ」がたった結果、今自分は「最北の水田」という言葉に惹かれたのかもしれない。
そんなことを思いながら、迷うことなくウインカーを出して、そちらに進路を変えた。
案内に従って、民家の前を通って目的の水田へたどりつく。
残念ながらというか、もう数日中に水入れ予定のようだがまだ水は張られていなかった。
この状態だとぱっとみは田んぼなのか畑なのか判別がつかないが、畦があることと看板から、ここが最北の水田で間違いないだろう。
この田んぼ、実は日本最北の水田どころか、世界最北限の水田ではないかと言われているらしい。
(水を用いない陸稲や野生種などではさらに北の北緯53度付近まで確認されているものの、水稲は見られないそうだ)
お米というと新潟とか福井とか、「寒いところが米どころ」的なイメージがあるが、「稲(アジア米)」という植物はもともとかなり南方の植物だ。
インドと中国の境あたりの山岳地帯(ヒマラヤあたり)が原産地と言われていて、その後温帯や熱帯など地域ごとに変異、あるいは改良を繰り返しながらアジア全域に広がっていったと考えられている。
日本には縄文時代にはすでに到達しており、たとえば青森で3000年以上前にはすでに稲の痕跡が見つかっている。
ただし、この時の稲が陸稲なのか、水稲(水田栽培)だったのかは判明していない。
後者だった場合は縄文時代にすでに「田んぼ」の原型があったことになる。今後の研究に注目だ。
そういう来歴がある故に、稲はあまりに度を越して寒冷地になってしまうと生育がままならなくなる。
ここでポイントなのは、「冬の寒さ」は、稲の栽培に関しては直接影響しないこと。
理由は単純、稲は「春に田植えをして、秋に刈り取る」作物だからだ。
つまり大事なのは、「春から夏にかけての気温」。
これがある閾値を超えて低いと、稲の生育は極端に悪くなってしまう。
具体的には、花(稲穂)は咲いても、米が実らないというようなことが起こる。
人間の場合、赤ちゃんはお母さんのお腹の中でだいたい十月十日、十ヶ月を目安に過ごし、産まれてくる。
これは人間が、外気温で体温を左右されない「恒温動物」であるためだ。
お母さんの体温は、もちろん体調や赤ちゃんの成長過程で変動することはあるけれど、それでもある一定の範囲内で常に保たれている。
赤ちゃんは体内で、栄養だけでなく、成長するために必要な「温度」もお母さんからもらっているわけだ。
一方、植物の場合は多くの場合、外気温に大きく影響を受ける。
暑さに関しては葉から水分を多く蒸発させたり、寒さに対しても花や根に発熱機構を備えてある程度対処する種もいるようだが、それにも限界がある。
なので、「花が咲いて」「種が実り」「成熟する」までには単純な日数ではなく、外気の「積算温度」が目安として重要になってくる。
計算はシンプルだ。
たとえば、仮に外気温平均10度の日が一ヶ月続けば、積算温度が300度。
外気温平均30度の日が一ヶ月続けば、積算温度900度となる。
毎日の平均気温を足していけばいいわけだ。
一般的な水稲は、地域や最高気温にもよるけれど、だいたい田植えから稲穂(花)が出来るまでが積算1500度~2000度が必要になるらしい。
そして稲穂ができてから収穫まで、さらに積算1000度前後が目安だそうだ。
合計約2500~3000度。
これが足りなければ何ヶ月待とうと米は実らない。
北陸や東北などの寒冷地では、積算温度が足りなくなりがちの環境でも昔から、なんとか実った稲穂からとった種籾を増やし、強いもの同士を掛け合わせながら長い時間をかけて耐冷性の高い(必要積算温度が少ない)品種が生み出されてきた。
その代表格があの「コシヒカリ」だ。
それにも限度があって、北海道の中でも最北に近い遠別は、北陸や東北など本州の寒冷地と比べても圧倒的に気温が低い。
単純計算で、もう雪の降り始める10月になってやっと積算2500度に届くかどうかというところだ。
そう考えると、この場所で栽培されているのは、「最北の土地に特化した特別な品種」ということになるはず。
……看板にはもち米生産地、と書いてあるけれど栽培されている品種までは書いていない。
一体なんというお米なんだろう。
気になる。
ふと、すぐそばのお家の前で、一人のおばさんが洗濯物を干しているのが見えた。
もし、主人公とリリさんが北海道を旅する中でここを訪れたとしたら――この状況ならきっと声をかけるだろうな。
答えが聞けるかもしれないチャンスが目の前にあるなら、疑問を放っておくことはしないはずだ。
よし、自分もここは勇気を出して聞いてみよう。
つとめて元気よくあいさつして話しかけると、おばさんはちょっとびっくりした顔をしつつも不審がることもなくこころよく色々教えてくれた。
(田んぼを見学しに来る人はけっこういるけど、声をかけてくることはほとんどないらしい)
このおばさんのお家が、「最北の水田」の持ち主なのだそうだ。
ここに水田を拓いたのは数十年前、おばさんの旦那さんの代で、今は息子さんが家を継いで、田んぼを管理している。
あたり一帯はこのお家の敷地内で、ご厚意で観光客のために最北の水田までの道を解放してくれているのだ。
本題のお米の品種についてたずねてみると、すべて「白鳥もち」というもち米なのだという。
白鳥。
名前からしていかにも北海道らしく、白鳥のように真っ白のお米のイメージが浮かぶ。
しかもおもち。
美味しそうだ。
残念ながら、「最北端のお米」は基本的に自家消費用で販売はしておらず、最寄りで「白鳥もち」が手に入る場所は農協が出荷している近隣の道の駅が確実だとか。
ただ、一口に「白鳥もち」と言ってもその中でも改良種などがあったりして、単一ではないのだそうだ。
ここの白鳥もちは、最北端仕様の「特に耐冷性に秀でたもの」なのだろう。
ところで、米には大きくわけて「もち米」と「うるち米」の二種類がある。
「うるち米」とは、もち米ではない米――いわゆる「普通のお米」のことだ。
うるち米は、平安時代の書物にはすでに言葉が残っていて、当時は「粳稲(うるしね)」と呼んでいた。
「うるし(うるち)」がとれる「いね」だから、「うるしね」。
もち米は「糯稲(もちいね)」だ。
そんな古くから使われてきた「粳(うるち)」はどういう意味なのかというと、実ははっきりと分かっていない。
ただ、イネの発祥地に近い古代インドの文献で、米のことをサンスクリット語で「ヴリヒ」と記述されているので、この言葉が米とともに日本へ伝わったのだ、という説がそこそこ有力とされているようだ。
この説に基づくなら、「うるち」自体が「米」という意味だと言うことになる。
さらっと固めの米が「うるち」。
もっちり粘る米が「もち」。
そんな「もち米」と「うるち米」、実は遺伝子的にほとんど同じものだったりする。
もち米には野生種が存在しない。
つまりもち米は、うるち米から人類が生み出した種なのだ。
生み出したといっても、うるち米の中で時折現れるもちもちしたやつを選んで、残して、翌年植えて……を気の遠くなる程繰り返したという地道なものだ。
現代の分類では、米の中でも「アミロペクチンという、もちもちとした粘り成分」が100%含まれるものを「もち米」という。(うるち米は、アミロペクチン80%)
このもちもち性質は劣性遺伝なので、近くで育てているうるち米の花粉がつくと、できたもち米の実の4分の3は粘りのないうるち米になってしまう。
混ぜて育てるとどんどんもちもちしなくなってしまう、この性質は人類史で稲作が始まって間もない頃から体感的に知られていたようで、もち米の特産地では、もち米は他の田んぼと隔離して作られ続けて来た。
そうすることで、良質の「おもち」を確保することができるわけだ。
この最北端の田んぼも、そういう場所なのだろう。
……なんだか、こんな風に「もち」「もち」「もち」「もち」と口に出していると、リリさんが微妙な顔をしそうだな。
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おばさんの話では、最北端の田んぼの田植えは、今年は5月19日予定だそうだ。
ちょうど今が、その前準備で水入れ(田んぼに水を張る作業)の時期。
ほんの数日前、岐阜の坂折棚田が水入れまっただ中だったけれど、遠く北に離れたここでも、ほとんど同じタイミングで水入れしているのが少し意外だった。
こうした「気づき」も、今回の一連の旅ならではの成果かもしれないな。
あとほんの少し時期がずれていたら、水を張った最北の水田や、田植えの風景を見ることが出来ていたかも……なんて思う。
残念というより、また季節を変えて、訪れてみたいというのが素直な気持ちだった。
もう、北海道は遠い場所じゃない。
来たくなればいつだって、(仕事を2日ほど休んで、旅費とレンタルバイク代あわせて五万円ほど工面すれば!)自分はこうやってここに来られるのだ。
また来よう。
少し離れたところにある田んぼでちょうど、水入れが始まっていた。
ここも、先ほどと同じお家の田んぼなのだろうか。
とすると、ここにももう二週間ほどで白鳥もちの稲が一面に植えられるわけだ。
ふと、田んぼのそばを見て「あれ?」と立ち止まる。
気になるものがあった。
これって……もしかして、ミズバショウ?
田んぼの横に普通に生えているけど……
北海道のミズバショウはやたら大きいというのは、風雨来記1で轍さんが語っていてすごく印象的だった。
これがほんとにミズバショウだとしたら、ここは湿地帯ではないけど、最近まで雪があったらしいから土の中はほどよく湿っているのかもしれない。
うわー、なんかものすごく面白い発見をした気がする。
ミズバショウだけなら、北海道ではそう珍しくないかもしれない。
でも、ここでは「最北の水田」とセットなのだ。
田んぼのそばに雑草として、ミズバショウが生えている。
こんな風景、存在したこともなかった!
寒冷地植物のミズバショウと、温暖域由来の稲。
自然界ではあり得ないはずの組み合わせ。
今よりほんの少し時期をずらせば、そんな両者が並んで育つ様子を写真に納めることもできるかもしれない。
田んぼとミズバショウのコラボレーションを見たら、きっとリリさんは面白がって喜ぶだろう。
良い顔で笑う彼女が目に浮かぶ。
それを見た主人公は、きっと良い写真を撮って、そして良い記事を書くに違いない。
読んだ人たちはどんな反応をするだろうか。
月子さんはやっぱり一番最初にコメントするんだろうか。
あの姉弟は今も見てくれているかな。
社畜Sは転職して旅してるかもな。
そんな一連の想像が連鎖的に心によぎって、楽しい気持ちでいっぱいになった。
リリさんと田んぼ
リリさんと田んぼ。
田んぼとリリさん。
これは、風雨来記4の作中で、シナリオテーマとしてはっきりと「明言」されているわけじゃない。
あくまでも自分にとって、風雨来記4をプレイしていく中で、リリさんと田んぼのイメージが深く結びついたという話だ。
岐阜の旅の中で、リリさんと出会った場所には、付知峡と下呂温泉を除いていつも田んぼがあった。
種蔵での最初の「出会い」は、田んぼのそば。
「別れ」も、同じ田んぼだった。
モネの池の横にも田んぼが広がっていたし、國田家の芝桜でも、馬籠宿でも見渡す風景の中に田んぼがあった。
そして坂折棚田。
最後は旅立ちの場所、橿森神社。
橿森神社周辺は現在、オフィス街及び住宅地になっていて田んぼは見られない。
でもこの場所、今でこそビルの立ち並ぶ市街地だけど、かつては美濃の稲作の中心地で一面の田んぼだった。
その歴史は古く、今から2000年も昔、弥生時代の頃からだ。
この町内では弥生時代の住居跡がたくさん確認されており、橿森の裏山には当時の王の墓も発見されている。
また、稲葉山(現在の金華山)を中心に、地名にも「イナバ」がついている。
イナバの地名は、「因幡国」由来の人達(伊奈波神社の祭神や橿森神社の祭神)が稲作開拓に関わったためとされる他、「稲場」、つまり収穫された稲を納める場があったことを示すとも考えられる。
美濃には「ニニギノミコトが天孫降臨の際、稲穂で雲海を払った際に、飛んだ稲穂が稲葉山になった」という民話も残っているそうだ。
誰がどうしたという実像はともかく、橿森神社がある場所がかつて、多くの人々が田んぼに囲まれて暮らした場所だったことは確かだろう。
ここから見渡す風景は、きっと一面に広がる田んぼだった。
もしかしたら当時のひとたちにとってのそれは、今の自分達が感じる「原風景」ではなく、未来への期待と不安に満ちた「最先端の風景」だったかもしれない。
そんな風に「田んぼ」というキーワードを絡めて「想索」していると、リリさんとの岐阜の旅をしめくくる場所として、自分にとって橿森神社はこれ以上ないほど面白く、象徴的な場所だなぁと思えてくるのだ。
自分は、田んぼの風景はもともと好きだったけど、特別に意識したことはなかった。
それにはっきりと気づけた、意識できるようになったのはリリさんの影響だ。
それはこのブログを立ち上げた当初の記事でも書いた通りに。
「好き」を意識できるようになるのは、当たり前のことじゃない。
身近なことほど「気付く」のは、難しい。
「大切なものは失ってはじめて気付く」なんて言葉が言い古されているくらいには、それは世の中のひとつの真理だろう。
自分はリリさんと出会ってからのこの3年、気付いたことを忘れず、意識して、日々の感動として現在進行形で大切にしてきたつもりだ。
そうして、前へ進み続けてきた上で、今回の旅がある。
まさか、北海道でまで自分の旅が「田んぼ」と結びつくなんて、思ってもみなかった。
ああ。
突き詰めて考えると、リリさんが田んぼの風景を好きじゃなかったら、自分は今日の風景を決して見つけられなかった。
こんなに自分を楽しく、面白くさせてくれる想像が湧いてくることもなかった。
今回に限らず、リリさんと出会ってからずっと、旅に出るといつもこうだった。
想像の中でリリさんを追いかけることでふとしたときにこうやって、旅が何倍も楽しく、面白いものになっていく。
そのたびに、あぁ、大好きだなぁと思う。
リリさんのことが、大好きだなぁ。
そして、その「好き」は決して内面でおさめることなく、「行動につなげていってこそ」生きる想いだとも分かっている。
前向きに、心を開いて旅するからこそ、「好き」がたくさんの新たな発見や発想、出会いと引き合わせてくれる。
旅を通じて、楽しくて愉快な出来事を次々に持ち込んできてくれる。
時には、興味もなかった、存在すら知らなかった、そんな新しい旅、新しい世界へと導いてくれたりもする。
それは、「表現すること(創作だけでなく想索も含めて)」を自分の人生の根幹、生きる意味だと考えている自分のような人間にとっては、なにより得がたい贈り物だ。
リリさんと道標
ここまで書いておいてなんだけど、それさえも、自分がリリさんを好きな理由のほんの一側面にしか過ぎない。
それだけのはずがない。
いくら言葉を尽くしても語りきれないくらい大きな存在だからこそ、ずっと現在進行形でリリさんを好きでい続けているんだろう。
もちろん、ずっとそんな風にいられる保障はない。
遠い未来のことは断定はできない。
けれど、ひとつ言えることがある。
人間は基本的に「慣れるもの」だから、「最初のワクワク感」というのは長続きしないものだけど、それでも自分は今日までリリさんを好きだと言う感情に「慣れる」ことなく歩き続けてこられた。
ずっと尽きることなく、今この瞬間も、リリさんについて考えるとワクワクドキドキが溢れてくる。
これは間違いなく、確かな事実だ。
そしてそれは決して、何となく過ごしてきた結果手に入れたものじゃない。
そうなれるように、そういられるように、1日と欠かさずリリさんについて考えて、考えて、創意工夫をこらして、文を書き、絵を描いて、時に迷い、時に旅に出て、また考えて、考えて、ひたすら考えて、そうやって意識して毎日を積み重ねてきた。
そうやってきたからこそ、最近はもう、ある日突然この気持ちが失われてしまうんじゃないか、熱意が消えてしまうんじゃないかと言う不安を抱くことはほとんどない。
だからと言って、無根拠に安心することもない。
これまでやってきたように、昨日の自分から受け取った今日のリリさんへの想いを、明日の自分へ届け続けていく。
想索と創作。
こうやって、文章や、絵や写真、いろいろなかたちの表現を通して。
考えて、学んで、あるいは、旅を通して。
自分の道を一歩ずつ、一歩ずつ、一歩ずつ、積み重ねていく。
日々の一歩を見失わなければ、きっと、長く長く、愉快で楽しい道は続いていく。
そう本気で、信じているから。
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